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2007年10月22日

『華より幽へ-観世榮夫自伝』 観世榮夫[著] 北川登園[構成] (白水社)

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[劇評家の作業日誌](31)

6月8日に亡くなった観世榮夫氏の“死”は、なんとも痛ましいものだった。彼は5月2日に自ら運転する自家用車で事故を起こし、長年行動をともにした敏腕プロデューサー、荻原達子さんを死に追いやってしまったのだ。それから一ヵ月余、彼はまるで後を追うようにして死地に赴いた。死因は大腸癌だったが、この間、彼はいったいどんな思いで過ごしてきたのだろう。後悔や失意など、その心中は察してあまりある。

その観世榮夫氏の自伝が刊行された。氏から話を聞き、本にまとめた元読売新聞の演劇記者・北川登園氏はあとがきで、こう言っている。

私がまとめた原稿は事故車の車内にあり、八王子署が保管していたらしい。・・・おそらく、お二人は仕事先の長野県で原稿を点検されていたのではないか。・・・もっと語りたいこともおありだろうと思うと、それが残念でならない。(212頁)

北川氏の無念さもよく分かる。巻末には荻原氏による詳細な「年譜」が付されているから、この本はまさに二人の遺著=遺書になってしまった。

能楽界の第一人者、観世榮夫氏の人生は、波瀾万丈だった。「ぼくの履歴を見れば分かる通り、ぼくは一か所に安住したことがない」(194頁)と語るように、名門観世三兄弟の次兄として生まれた彼は、能の革新者であった兄寿夫の模範的な振舞いに比べて、対照的に奔放の限りを尽くした。氏は現代演劇やオペラの演出、映画やテレビに出演するなどさまざまな領域に挑戦し、一人のアーティストとして生きてきた。彼は22歳で身体メソッドを究めたいとして喜多流に転籍し、31歳の時、能楽界から脱退した。惰性的に習慣化していく身体のありように疑問を持った彼は、他流仕合いすることで、能の方法を科学的に考えてみたいという問題意識から出たものだ。だが家元制度など旧態依然たる能楽界から、彼は事実上、破門されたも同然だった。彼の中では、能楽界を否定したわけではなく、能に「演出」という概念を持ち込むための修業であり、いつか帰還することは念頭にあった。むしろその勉強を能楽界に還元したいと考えていたのだ。それが実現するのは50を過ぎてからだったが、その時、病床にあった兄の尽力は並々ならぬものがあったという。

しかしこの20年間の榮夫氏の活動はすこぶる面白い。とくに現代演劇との関わりは、一つの演劇史が書けるほどだ。59年に結成された「青年芸術劇場」(略称・青芸)はちょうど新劇とアングラをつなぐ役割を果たした。元々は米倉斉加年、岡村春彦、常田富士雄ら民芸・水品研究所の研究生が集まったものだが、ここに福田善之と観世榮夫が加わることで、まるで別様の集団になった。当時の福田は新進気鋭の劇作家であり、彼が矢継ぎ早に発表する新作戯曲は、60年代前半の演劇界を圧倒的にリードする。研究生として若き日の唐十郎や佐藤信も在籍した。それは1920年代の築地小劇場に比肩する人材の宝庫でもあったろう。だが榮夫氏は「劇団にいるのは五年がサイクルで、集中していられるのは五年が限度だと思っている」(103頁)と述べているように、本当に劇団は5年余りで解散した。

その後、今度は佐藤信に誘われて、1966年に「自由劇場」の創設に最長老として参加している。が、これもまた5年で身を退いている。この「自由劇場」もまた小劇場運動の草分け的存在であり、後の「黒テント」への重要なつなぎの役割を演じている。若手の中に混じって、能の世界から越境してきた彼は、不思議なポジションを持っていたように思われる。ちょうど世阿弥が「離見の見」といって、演じる主体を外側から批評的に対象化することを説いたように、彼の存在は若い活動家たちに別の視点を与えたのではないだろうか。60年代後半の「演劇革命」の前史として、この二つの劇団と関わりを持ったことは、それ自体貴重な経験であり、彼は徐々に「演出家」の目を養っていったに違いない。

オペラの演出や映像での俳優としての経験、これら多岐にわたる活動を通じて、彼が終始変わらぬ関心を抱き続けていたのは、「伝統」についてであろう。つねにその問題に直面せざるをえなかったのが、能の家に生まれた彼の宿命だったと言ってもいい。能は江戸時代まで武家の式楽として徳川幕府や大名の保護下にあった。だが明治維新後、彼らの特権は剥脱され、以後、家の存続、能というジャンルの存亡など、危機の連続であった。慶応幼稚舎から中等普通部、さらに東京音楽学校(現・東京芸大)へ進学するものの、その時期は戦争下にあり、能楽堂の大半が焼失し、「自分たちが継承してきた能を絶やしてはならない」(33頁)という思いは人一倍強かった。そんななかから家に安住してはならないといった独立独歩の精神が養われていったのだろう。他流派との交流はその延長線上にあった。「伝承や伝統が断絶して、危機感が生まれたときのほうが、伝統をより意識するようになり、伝承や伝統が生き生きと蘇生するような気がする」(55頁)が彼の信条だったのではないか。

1953年、「華の会」を兄寿夫、末弟静夫の三人で発足し、1987年には「幽の会」を創設している。能界の決め事ではなく、やりたいことをやるためには、自ら企画し、上演母体をつくらねばならない。そこで追求してきたのは、「現代の古典劇」というものではなかったか。木下順二作『子午線の祀り』(79年初演)の共同演出は、その集大成ともいうべき仕事である。もともと能の演出方法を考えるために、スタニスラフスキーやブレヒトの方法を学びたいと思って新劇との付き合いを始めた彼は、一つの頂点を極めた。現代を直接素材にした「現代能は可能か」という問いも、彼だからこそ言えたことだろう。だから新作能を発表する免疫学者・多田富雄に賛辞を送るのである。彼は「新作能は能舞台でないところで、上演するようにしたほうが得策だと思う」(155頁)とまで言うのである。

実際にギリシアや東独に行き、ジャン=ルイ・バローやグロトフスキーと出会い、ベケットやミュラーの戯曲に挑んだ。「冥の会」を結成して古典と現代の結合もはかった。大野一雄と共演した岡本章演出の『無』も忘れがたい。残念ながらわたしは生前の彼の能の舞台にあまり立ち会っていないので、論評は差し控えるが、次の一文には能を演じる者の精髄がうかがえて感銘を受けた。

『姥捨』は二〇〇四(平成十六)年十月に初めて演じた。ぼくの喜寿を祝っての、銕仙会特別公演であった。ぼくは純粋に月に憧れて、棄てられた恨みを全部超えたら、この曲をやりたいと思っていた。それぐらいの気持ちがないと、三老女の秘曲の一つは舞えないと考えていた。(195~6頁)

この本を読み進めながら、わたしは改めて、兄寿夫の『心より心に伝ふる花』を想起していた。兄の書に対して、弟榮夫は『華より幽へ』を唱えた。世阿弥の『花伝書』を兄が受け継いだとしたら、弟は華=花から「幽」へ一歩踏み込んだのだ。そう、「幽心」の「幽」である。

兄との絶えざる葛藤がなかったといえば嘘になろう。彼は幼少の時、つねに一歩、前へ行く兄の後ろ姿を見て育った。ある時、祖父は彼と末弟の静夫に向かって、こう言ったという。「寿夫には跡継ぎになってもらわねばならないが、君たちはほかのことをやってもいい」(23頁)と。2歳上の兄の「偉大さ」を感じ取っていたものの、この宣言は彼にとってもショックであったことは否めない。失意の中で、さて自分は何をするか。もちろん表立って反発したわけではなかったが、芸能の「家」に生まれた者の宿命として、彼の生き方が決定されたことは間違いない。彼がまだ十三歳、中学生になったばかりの頃だった。

晩年の榮夫氏は現代劇の舞台にもよく出演していた。なかには、なんでこんな舞台に、と思わぬものもなくはなかったが、これだけ幅広いレパートリーを受け入れられる役者は他にいなかったろう。「一か所に安住しなかった」彼の面目躍如たるものがあった。

芸術論として、『心より心に伝ふる花』に比べると、『華より幽へ』はまだ十分語り尽くしたとは言いがたい。彼へのインタビューは「舞台芸術」という雑誌でも何回か行なわれていたが、これも未完で終わってしまった。能は死者の蘇りの劇であるとすれば、彼にもう一度現世に戻ってもらい、語り残したことを語り切って欲しいと願わざるをえない。

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