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2007年05月11日

『何も起こりはしなかった』ハロルド・ピンター[著]喜志哲雄[編訳](集英社新書)

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[劇評家の作業日誌](25)

「知識人」という言葉にマイナスイメージが付与されるようになったのはいつからだろうか。口先だけで行動しない、言葉は華麗だが実質を伴わない――こういう非難は、多くの知識人たちが、本来もっているはずの行動力を失ない、「知」の特権に安住してしまった結果、生じたものだろう。

2005年に「ノーベル文学賞」を受賞し、今なお現役の劇作家であるハロルド・ピンターには、さしづめこの「知識人」という言葉を献上してみたくなる。もちろん、それは「知識人」の復権という意味を込めて。この本は、彼の講演原稿をまとめた発言集であるが、それはまさに言葉を激烈に発する「発言」集にふさわしいものだ。

ピンターについては、昨年トリノで開かれた「国際演劇評論家協会(AICT)」世界大会で、「ヨーロッパ演劇賞」の授賞式に出席した時のことを、英文学者野田学氏が報告している(「シアターアーツ」27号<2006夏号>)。それによれば、2002年に自身の食道癌を公表し、ノーベル賞の授賞式は出席できず、講演スピーチは映像で配信されたと言う。だから野田氏は、トリノにピンター氏が病気をおしてやってきたことを驚きと感動でもって迎えたのである。

劇作家ハロルド・ピンターは「不条理」の作家として日本では知られてきた。ベケット、イヨネスコ、アラバールといった戦後を代表する劇作家の登場によって、それまでの劇世界は一変し、心理や合理的精神では説明のつかない「不条理」が劇作を覆うようになった。ヨーロッパ中を「不条理」が席捲するなか、英語圏でもっとも重要な不条理の劇作家がピンターだったのである。

本書を読んで、彼が現代世界の理不尽な事柄に向けて激しい怒りを発していることを知って、なかば驚かざるをえなかった。彼は芸術家として作品を発表するのみならず、きわめて政治的にも振る舞っていたからである。それは「行動する知識人」という言葉を彷彿させるものであった。劇作家のなかには、東西ベルリンの崩壊のさい、その早すぎる統一に向かってさまざまな発言を繰り出したハイナー・ミュラーのような存在もいた。しかし彼は例外的存在であって、芸術家は現実の政治に発言すべきでないという風潮は案外根強く残っている。芸術と現実(政治)は別物であり、表現でのみメッセージを表明すべきだということなのだろう。

だが現代の世界はそんな悠長なことを言っていられないほど深刻ではないか。例えば、ピンターは「自由」についてこう発言している。

長い間、我々は自由な国で暮らしていると思いこんできたから、この考え方を本格的に吟味することはきわめて困難になってしまった。種々の基本的自由に対する全面的な侵害が、現在この国(イギリス――引用者)では進行しているのだ。それは非常に広範囲にわたる、また深刻で実に悪質なものなのである。(49頁)

そしてこの四十年間にわたる根本原因をピンターはこう跡付ける。「知性と意志の敗北を意味している」と。

この講演は1989年に行なわれているから、四十年前とはすなわち戦後まもなくの頃である。現代社会が混乱し、低迷している根本原因は、最終的に人間の知性の後退、文化の敗北に行き着く。それがピンターの基本認識だ。

本書では、とくにアメリカについての具体的な批判が目につく。「世界情勢を見つめる」と題する第二章では、戦後のアメリカによる他国への恐るべき侵攻が語られる。ニクラグア、グアテマラ、チリなどの中南米に、アメリカが関わった内政干渉は枚挙の暇がない。

アメリカは昔から、有効的な独裁政権とは非常に仲良くしてきたのです。(略)ハイチやチリやグアテマラやパラグアイの独裁政権をアメリカは熱烈に歓迎してきましたし、アルゼンチンやウルグアイやブラジルの軍事独裁政権は、権力を濫用していた長い年月を通じて、アメリカが進んで全面的な支持を与えてくれるのを期待することができたのです。(65~66頁)

後の文章でイラク侵攻についても語られるが、ラテンアメリカに関してのニュースは案外知られてこなかったのではないか。ピンターは返す刀で、自国イギリスにも峻厳な批判も加えている。

この国は偉大な盟友と肩を並べているふりをしていますが、その実、それは鞭打たれている犬にほかならないのです。わが国の政府がアメリカ合衆国に対して蔑むべき屈従を 示す結果として、国民の品位と気力と名誉は傷つけられています。(124頁)

世界はメディアの発達によって小さくなり、世界中の出来事が遍く知られるようになった、と言われるが、実はメディアが巨大になった分、肝腎なことに目を塞がれている逆転現象も起こっている。どこかで事件が起こると、それがセンセーショナルであればあるほど、大きな見出しで報じられる。だが無名の者の小さな善行や馴染みの薄い小国の悲劇はめったに報じられない。それは報道価値が乏しいからである。かくして、メディアが作り出す価値基準によってニュースは選別され、排除されていく。そこで排除された記事は、それが起こらなかったことと同義なのだ。

本書のタイトルとなった「何も起こりはしなかった」(ちなみにこの本は編訳者の手になるもので、同名の本が出版されているわけでない)は、1996年に『ガーディアン』紙に発表された「そんなことは起こっていない」を元にしていると思われる。アメリカの数々の暴挙、虐殺に対してくだされる国連決議を、まるでそんなことはなかったかのように、無視し続けるアメリカの態度を皮肉ったものだ。

これに関して、興味深いエピソードも収録されている。劇評家マイケル・ビリントンとの対話で、「イギリスでは、ノーベル賞授賞講演は衛星放送では同時刻に放映され、『ガーディアン』には講演の全文が掲載されました。しかし、私の知る限り、それはBBCテレビではほとんど採りあげられませんでした。これには驚きました。」というビリントン氏の言葉に対して、「ほとんど採りあげられなかったのではありません。BBC、講演を徹底的に無視しました。そんなことは起こらなかったのです。」

ここでも「何も起こりはしなかった」が繰り返されている。ピンターの対応は絶妙である。決して感情的にならず、あくまで劇の対話のように、ユーモアとアイロニーを手放さない。それがために、かえってBBCの愚挙が鮮明になってくるのだ。あくまで「表現」を通しているから、その研ぎ澄まされた言葉は読者のなかに通り一遍でない感情を巻きおこす。

劇作家らしく、ピンターの言葉は直接的でない。必ずユーモアとシニカルな目をたたえて、事態を見据えている。彼は政治的問題を「政治」で解決できないことを知っている。そこで前述した「知性」や「言葉」の問題が出てくるのだ。

冒頭で「知識人」について言及した。「知」という脆く切ないものを武器に巨大な力に抗していくことは、「蟷螂の斧」ようなものだ。力には力を、それが世界の常識になっているとすれば、あえてそれを外す知恵が求められている。「何も起こりはしなかった」ことに対して、いやこんなことが起こっていると指し示すことは、言葉である。演劇という行為は、小さな場所で起こったことを、言葉と身体で「再現」することだ。グルーバル化されたがゆえに見えなくされてきたものを、もう一回、人間の目に見えるようにさし返していくことが、演劇という営みなのだ。それは遅く、持ち運びにくいメディアであるがゆえに、かえって使い勝手のある武器となり、道具となりうるのではないだろうか。

ハロルド・ピンターの言葉にはその手がかりが刻まれている。

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