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2006年10月23日

『東京大学「80年代地下文化論」講義』宮沢章夫(白夜書房)

思想としての全共闘世代 →bookwebで購入

[劇評家の作業日誌](20)

1980年代は「オタク」と「バブル」で括られようとしている。「80年代はスカだった」とは雑誌「宝島」の80年代特集のキャッチコピーだが、いずれも80年代をネガティヴに語る口調で共通している。軽薄な文化が都市の表面を席捲し、浮かれた気分を撒き散らし、90年代になって不況感が増すと一挙にこれらの潮は引いていったとする論調だ。こうした論調は実際にこの時代を経験しなかった若い世代が語ることが多い。まるでこの時代を忌まわしいものとして葬り去るかのように。だが果たしてそうだろうか。そんなに80年代はつまらぬ時代だったのか。

実際にこの時代に活動を開始し、それなりに貴重な時間を過ごしてきた者にとって、こうした総括は受け容れがたい。そんな一人に宮沢章夫がいる。彼は放送作家として80年代に登場し、笑いを追求する「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成した。いとうせいこう、大竹まこと、きたろう、竹中直人ら、今では功なり名を遂げた才能たちと新しい笑いや今までやられたことのない演劇をめざしたのだ。このユニットは89年に人気絶頂のまま解散し、各々それぞれのフィールドに散っていった。90年以降、宮沢氏は現在の「遊園地再生事業団」で活動を再開している。

ところで、わたしはこの時代の宮沢らの舞台をほとんど見ていない。小劇場のメインストリームから外れていた彼らの活動がわたしの視野に入ってこなかったからだ。出自においてずいぶん距離感があるものの、80年代に「ラジカリズム」を追求することにおいて、彼もわたしも共通していた。宮沢氏とわたしは2歳違いだが、そこで何が違っていたのかを中心に考えてみたい。

宮沢氏にとっては80年代論の始まりは、82年、原宿にできたクラブ「ピテカントロプス・エレクトス」からである。いわゆる「クラブカルチャー」の始まりだ。彼はここで音楽業界の「プロデューサー」桑原茂一をキーパーソンとし、この当時流行った「スネークマン・ショー」というラジオ番組を紹介している。伊武雅人、小林克也らによる音楽と語りでコントに近いノリで展開されたものだ。宮沢氏はこうした小さな発火点からさまざまな人脈が発生し、若い無名の者たちが共通の感覚を持ちながら、やがて90年代以降の文化や芸術の先端シーンを形成していくというのだ。その中心にいるのが坂本龍一とYMOである。

この時代の空気を伝えるものとして、大友克洋の「アキラ」、糸井重里のコピー「おいしい生活」、ビックリハウスといったリトルマガジン、浅田彰、中沢新一らのニューアカの登場。つまり、新しい知と文化・芸術シーンがつながってきたのだ。例えば、「エレクトス」で、「ヨゼフ・ボイス、ナム・ジュン・パイク、細野晴臣、坂本龍一、立花ハジメっていうメンバーでパフォーマンスをやったこと、まかりまちがえば美術史に残るようなイベントが、あんなとこで行われちゃったわけでしょ。それもハイ・カルチュアもポップ・カルチュアも区別なくね。」(335頁)という浅田の言葉を紹介している。それは全共闘世代による「闘争」とも、60年安保世代の「革命」とも違った、80年代独自の色があった。その特徴を一言で集約すると、「サブカルチャー」になるのではないか。したがって、本書のタイトルにある「地下文化」とは、60年代の「アンダーグラウンド」というより、むしろ「サブカルチャー」というべきだろう。こうして「トーキョー」と「80年代文化」は結びつくのだ。

ではこの時期の演劇シーンはどうだったか。アングラ・小劇場が「運動」として打ち切られ、それにとって代わったのが若者=小劇場だった。「ぴあ」という情報誌が隆盛をきわめ、すべてを等価に並べてしまう情報化社会が歴史の凸凹を無化し、横一線に平準化していった。その中から野田秀樹や鴻上尚史という若者演劇の寵児を生み、シモキタ(下北沢)が若者の街として発展した。TVドラマにもなったが、貧しくとも夢を持った若者が集まる街として。希望に満ちた街と時代の遭遇だ。
だが宮沢氏の活動は、こうした流れとつながらなかった。むしろ小劇場のメインストリームから断絶した別の流れを形成したのだ。彼自身、80年代演劇は嫌いだったと言っている。それは「熱さ」を志向する若者たちが「かっこわるい」と彼の目に映ったからだ。「80年代演劇のあの騒々しさがどうしても耐えられなかった」(403頁)。
その断絶から、90年代が始まったといってもいい。すなわち、松尾スズキと大人計画、ケラリーノ・サンドロヴィッチとNYLON100℃(旧健康)らが90年代後半に急速に擡頭してくる。これらサブカル演劇の人気者たちの淵源には、宮沢章夫がいたのだ。

こうしてみると、「地下文化」をアンダーグラウンドとするか、サブカルチャーとするかによって大きな隔たりがあることが了解できよう。前者の流れが「終わり」、後者の流れが「始まる」のが80年代のある時期。つまりアングラとすれ違うように、サブカルが登場したのだ。わたしがようやく宮沢氏に出会うようになったのは90年代末だった。では、この分岐は何を意味するのか。

ここで80年代に現象したものを拾い出してみよう。一つは、西武資本などによる企業の果たした役割について。80年代後半に、西武=セゾン財団は小劇場に助成制度を導入し、メセナの役割を果たした。だが90年代に入ると、文化振興基金など国家による助成制度が始まり、とって代わられていった。六本木ヒルズに象徴されるIT企業がメセナにいっさい興味を示さない対比も考えてみる価値がある。また80年代のニューアカはやがて雲散霧消し、朝日ジャーナルに連載され話題を呼んだ「若者たちの神々」は「新人類」に席を譲り、やがてオタクが時代の波に乗った。70年代まであった企業戦略への反発は、これら新世代によっていつしか消え去り、いかに企業とつながるかを腐心する者たちも出てきた。アングラはカウンターカルチャーだったが、いつのまにか対抗軸を失って、サブカルチャー(下位文化)となり、やがて単なる「サブカル」となった。政治性を脱色し無害化したカルチャーは、やがて資本主義と結びついていく。今やポップな消費材としてもっとも有力な商品となったのがサブカルだ。演劇もまた商品化社会のなかに柔らかく包みこまれていくのが90年代である。助成金をもらうことが国家のヒモ付きになることだといった当初あった痛痒はきれいさっぱり拭われてしまったのだ。こうしたことの萌芽はほとんど80年代に胚胎していた。

再び、演劇での評価に戻ろう。やはりこの種のものは、表現論が根底にないと、ジャーナリスティックな整理にしかならず、思想や知に踏みこめないからである。宮沢氏はその達成の一つとして、青年団の平田オリザの「現代口語演劇」を挙げている。それが自明化し保守化してくると、それを批判的に乗り超えていくチェルフィッチュに活路を見出す。果たしてそうか。 宮沢氏はサブカル演劇に「可能性」を見ているのかどうか、定かではないが、「資本主義に対するゆるやかな対抗」(409頁)になりえているかを基準に、「批評性」を発動させる意識があるか否かを表現者に求めていることは重要だ。一見、資本にとりこまれているかに見えるこれらサブカル演劇がどのような「可能性」の萌芽があるのか。それが平田やチェルフィッチュの岡田利規なのか。わたしと意見が岐れるのはこの点である。

本書は『「おたく」の精神史 - 一九八〇年代論』(講談社現代新書、2004年)を併読することをお薦めする。なぜなら、80年代を「おたく」もしくは「オタク」というキーワードで解読した大塚英志を別の切り口から読み解けないかとして試みたのが、本書だからである。

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