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2006年03月20日

『なにもかもなくしてみる 』太田 省吾(五柳書院)

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「劇評家の作業日誌(13)」

 今回は昨年から読み進めていた本書をとりあげよう。
  太田省吾氏は、1960年代以降の現代演劇を代表する劇作家・演出家であり、77年に発表された出世作『小町風伝』以来、「沈黙劇」で知られる前衛的な演劇人である。この演劇エッセイ集は、随想というより、著者自らが言うように「試論」ともいうべき性格を帯びている。
   太田氏は一貫して「実験的な演劇」を追求してきたが、エッセイはその実験を理論的に考察するものである。この文章のスタイルをとることは、<私>性から出発することを原則とし、いわば身辺雑記風に書き始め、身近にある小さな発端から、次第に演劇や芸術の核心に迫る道筋をたどる。彼は60年代に演劇を開始したアングラ・小劇場の同世代人と同様に、自らの舞台を率先して言葉にし理論化してきた。新しい演劇の探求は、そのまま未知なる領域への踏査であり、演劇の新しい形式の発明だった。そのために、自らの演劇の“新しさ”を他者=読者に向けて論として構築する必要があったのだ。したがって、彼の何冊もの演劇論集は、アングラ世代の闘いの痕跡とも言えよう。
   では彼は何に対して闘ってきたのか。大きな壁として立ち塞がっていたのは、近代演劇としての新劇である。明治以降、日本近代は西洋文化の輸入とともに歩んできた。その背景には、言葉=文学に閉じこめられた演劇を身体の側に奪回しようとする問題意識があり、それはそのまま「近代批判」の有効な切り口となった。太田氏は本書でその先に新たな展開軸を見出そうとしている。
   本書は2本を除けば、概ね90年代半ば以降に書かれたものである。つまりこれを読めば、彼がこの10年間に演劇を通して何を考えてきたのかを知ることができる。それを一言で要約するならば、思考のパラダイムの大転換というところに集約されるのではないか。
   例えば、著者が繰り返し述べているのは、あるテーゼに対して反を唱えたところで所詮、同じ盆の上での議論に過ぎず、その外に出ない限り、有効な議論にならないという思考の枠組みである。「そこでは、<正−反>、<規範−反規範>の対立のどちらかの立場をとるかということによってしか語れない思考枠自体が、近代以降の社会を制圧している<体制>であり、<反><反規範>は、その体制の形成者の一人であるにすぎない」(110頁)。
   わたしなりに噛み砕いて言えば、戦後社会は自民党と社会党の二大政党の対立によって展開されてきたように思われるが、実はこれは持ちつ持たれつの共犯関係であり、保守政党の体制を本来批判するはずの革新勢力が本当の意味でその役割を果たせず、むしろ補完していたという構図に似ている。社会党が一時的にせよ政権をとった1994年に二大政党政治は終焉を迎えるが、それと同時に、思考においても大転換が開始されたのだ。95年に阪神大震災と地下鉄サリン事件が起こったことは決して偶然ではない。この二つの事件は戦後社会の空洞をもろに露呈させた事件として知られているからである。
   太田氏の論考は、この95年以降の有力な思考のパラダイムを探すことに集約される。その思考スタイルとは、従来の見方や自明とされている枠組みに対して目を凝らすことで、その内側から自明性を壊していくという手法である。簡単に言えば、思考モデルの引っ繰り返しであり、発想の転換、図と地の反転とも言えるだろう。
   太田氏は自らの演劇論の骨子について「テンポの遅さ」と「沈黙」を挙げている。両者とも今日の情報化社会においては、負の価値を与えられたものである。合理性を追求し、雄弁に事象を語ろうとする時代の支配的価値観には、太田氏の手法はいかにもまどろっこしく映る。だが彼の主張は、一般に通用している価値観にショックを与え、逆転を狙っているわけではない。もしそうだとすると、沈黙劇は饒舌で濃密な劇からほっと一息つく 「癒し」にしかならないだろう。つまり、ある支配的な価値に対する従属的な価値を補強しているに過ぎなくなるのだ。かつての60年代の文化論で言えば、中心と周縁の位置関係に置き換えられる。周縁的な営みが、枯渇した中心を活性化することで、やがて中心に取って代わるという構図である。
   だが太田氏は、「遅い」ことそれ自体で価値を持てないか。あるいは「沈黙」もまた饒舌に対する反語でなく、それ自体に独自の価値を付与できないか、それを肯定的に語る文脈を探すことが彼の中心的なテーマなのだ。その時、彼は中心的・支配的価値観の方が 「狭く」、そこから排除されたものの方が宇宙論的には「広い」と考える。この思考の布置の逆転にこそ太田氏の思考の原点がある。
   例えば、人間の生命はたかだか百年を超えない程度のものであり、「人生の全体には意味がないが、一瞬一瞬には意味がある」といったジャンケレヴィッチの言葉がしばしば引用されるが、一瞬のなかに無限や永遠の相を見ようとする視点は、かえって広い領野に人を連れ出す。考えてみれば、社会的価値とは近代の思考の産物であり、生命や存在の物語はもっと大きな時間軸を射程している。ここにも思考の布置が逆転されているのである。
   太田氏の言説は演劇というフィールドに留まらない広さがある。それは今日の芸術全般に当てはまる事柄であり、芸術全体が陥っているアポリアに演劇の側から明確な視点を提示してみせたと言えるだろう。
   では演劇の特性とは何だろう。彼は、「演劇とは消えていくもの、その脆さに出会うということ」に至高の価値を置く。それは儚く脆いものであるがゆえに、その出会いの一瞬が実に得難いのであり、充実した時間をほんの束の間味わうことができるのだ。もう一つ、彼がこだわるのは、身体性である。亡き能評論家・戸井田道三氏は自分で演じることはしなかったが、見るときに「身体をつかった目」を持っていることに信頼を置いた。演劇というライブの表現はやっかいなことに、そこにいる人物のウソがたちどころに見破られてしまう。そのさいの基準は唯一つ、その俳優がきちんとした<身体>をもって行為しているか否かに尽きる。観客は俳優の呼吸やその波動に敏感に反応し、そこでのまやかしを見逃さない。こうした熾烈な現場で日々演劇はとり行なわれるのである。
   このように、本書は著者が舞台のなかに<宇宙>を見ていくことで展開されていく。だが太田氏に明確な回答があるわけではない。あくまで世界や宇宙への仮説を述べているに過ぎない。だから「試論という<エッセイ>」なのだ。それは絶えず読者に向けて「問い」として開き、成否が検証される。多くの文章が疑問形をとって投げ掛けられているのはその表われだ。そして彼の最後の「問い」は「人はどういうことをしないでいゐれないだろう(か)」という宮澤賢治の言葉にたどり着く。「何をなすべきか」という能動ではなく、すべての行為を引算していって何が残るのか。その受動性こそ人間存在の本質なのだ、というのが太田氏の持論である。その究極の「問い」が最後の章に置かれていることに深い含蓄がある。
 

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