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2005年10月12日

『思想のケミストリー』大澤真幸(紀伊國屋書店)

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[劇評家の作業日誌](9)

 わたしはこれまで同時代の思想家の発言に注目してきた。なかでも社会学者、大澤真幸の著作には幾度もうならされた経験がある。彼特有の原理的思考によって対象の本質が鮮やかに浮かび上るとき、わたしは上質の舞台を見ている興奮と同様のものを感じるのだ。言うなれば「思想の劇」。彼の新著『思想のケミストリー』でもその思考は相変わらず刺激的だった。本書は、彼が日本近・現代の作家や思想家を論じた初めての著作で、長年書き蓄められた論稿を編集したものである。
 この本でまず注目したいのは「まえがき」の「哲学と文学を横断すること」と副題が付された文である。大澤氏は「実際には、日本の近代史において、思想の中心的担い手は、哲学者や、その他のアカデミシャンよりも、文学者や文芸批評家だった。すなわち、日本の近代にあっては、特定の分野の専門知の範囲を越えて、一般の公衆に思想を供給したり、彼らの知を刺激してきたのは、主に文学者や文芸批評家だったのではないか。」(6頁)と明解に言い切る。自身も含めて哲学・社会学者らは、「思想」に対して本質的な影響を与えてこなかった。その理由として、日本の哲学者や思想家は、西洋の哲学や思想を研究し日本語にしてきただけであって、自前の言葉で「思想」を語ってこなかったと言うのだ。 ここではまず文学、文芸批評の優位が確認される。  だがその事態が急変したのは1990年代であると氏は言う。  「九〇年代以降、われわれは、新たな困難に直面している。今度は、文芸批評が、その思想的な力を失いつつあるのだ。(略)柄谷行人が述べているように、近代文学が、要するに小説が、今や終わりを迎えつつあるからだろう。」(14頁)  「近代文学の終わり」とはどういう事態を言うのだろうか。その理由としてあげられているのは「『内面的な個人』が、資本主義の現代的展開の中では、過去のものになろうとしている。」(14頁)ことにある。従来あった「純文学」は失効し、「芸術」は壊滅した。これを敷衍していけば、演劇や美術、音楽も同様の問いの前に立たされていることになる。  ここで考えるべきは、「芸術」にとって代わるべきカテゴリーとしての「サブカルチャ ー」の存在である。「サブカルチャー」がはっきり力を持ってくるのは1980年代であり、もっと遡れば60年代にその萌芽はあった。しかし「サブカル」といったジャルゴンとして用いられ、メインカルチャーに対するオルタナティヴであった時から、メインとの関係が切れて(というよりメインカルチャー自身が地滑りを起こした。)、重要な商品=アイテムになり替わってから、明らかに事態は一変した。  こうした状況下で、社会学者・大澤真幸は思想の提言者として、文学者(文芸批評家)に代わって、自分が思想を担うと宣言した。すなわち「哲学に原点を置いて、文芸批評や文学へと進出するのである。」(19頁)  大澤自身、「哲学や社会学を起点としながら文芸批評の方向へと論を拡大してきた」ことを事後的に知る。それを彼は「特異性から普遍性へ」と語るのだが、ここには違和感がある。そもそも「普遍性」を基盤としたのが学問であり「近代」であるなら、それが疑われたのがポストモダン以降であり、近代の崩壊過程だろう。だとしたら、「普遍性」にたどり着かない(着けない)ことこそが目指されるべきであり、その消失点こそが現代芸術の目指すべき地点ではないのか。いやこういう言い方をすると、原因—結果(目的)という近代の論法に与してしまう。とすれば、目指す地点にたどり着いた瞬間に、そこは消失点だったという「反転」——しばしば大澤氏が用いる論法だ−−に茫然と立ち尽くすのみであろう。  本書で一貫して言われているのは、この消失点に突如出現してくる「他者」であろう。それは外部から来るのではなく、複雑な論理を駆使しながら、不意に内部から出来(しゅったい)するのである。最終的には「私という他者」に遭遇して慄然とするのが、ドラマのクライマックスに仕立てあげられる。その意味では、同工異曲の芝居を各章ごとに上演し、同じ結末にたどり着くという構成をとっている。しかしこれをマンネリズムと呼ぶべきではない。むしろわたしは、毎度違う具(素材)を使いながら、絶妙なレシピ(文体)を駆使して、大澤家の食卓に招かれることを楽しみにしているのである。もし同じ結末にたどり着くことを否定してしまったならば、唐十郎の劇が毎回紅テントの幕が上がって、外景と劇の虚構が衝突し、火花を散らすドラマトゥルギーを一回限りに封じてしまうことになる。あるいは別役実の劇が毎回似たような手つきのなかで、関係のメカニズムが微細な綻びを見せることを封印してしまいかねない。最終的に観客という他者に投げ出すこと、そこに劇のいっさいがある。  わたしは大澤の思考の根底には演劇的なるものがあるのではないかと考える。すなわち対立と葛藤の無限の変奏である。以前いとうせいこうの『ゴドーは待たれながら』(太田出版)の解説で、彼はベケット=ゴドー論をものしている。わたしが今まで読んだ最高のゴドー論の一つだ。そして今著でも、決めの場面で『ゴドー』を登場させ、オイディプスやギリシア悲劇への言及がなされる。  例えば柄谷行人論で、オイディプスの予言・予知に言及している。オイディプスはスフィンクスの謎を解いたにも拘らず、結局自分の運命を知ることはなかった。そればかりか自分を知ることはついに自分を破滅に追いやってしまった。いわば知とは破綻(悲劇)と紙一重である。この論法はやがてこうした図式に導かれるだろう。「形式化は、十分に徹底されれば、必ず、その極点において挫折し、自己否定へと導かれる。」あるいは「体系は、無根拠であるばかりでなく、自身の基礎を、自ら切り崩そうとしている」(54〜55頁)といったように。二つの対立物はやがて対立自体が解消され、一つの場面に溶融され、第三の場所を醸成する。その思考のダイナミズムはまるで劇そのものに思われる。  本書で扱われている思想家は、例えば吉本隆明なら「関係の絶対性」から「ポストモダニズム」へ、竹内好では「方法としてのアジア」から「ナショナリズム」、埴谷雄高では「自同律の不快」から「虚体」へと、いずれもキーワードを編目状に駆使しながら論は手際よく運ばれる。  そのなかで村上春樹の『アンダーグラウンド』を論じた一文−−「社会の内部にはらまれるアンダーグラウンド(盲点)とは、外的とも内的とも判別しがたいこの他者に他なるまい。」(215頁)−−では具体的な症例から内部の空虚を言い当てている。すでに大澤は95年に起こった2つの事件−−阪神大震災と地下鉄サリン事件−−を結び付けて論じている(『虚構と現実の果て』ちくま新書、1996)が、その発展系がここにある。『身体の比較社会学』という大著をものした少壮の思想家が、現実に起こった事件を分析するとき、彼のなかでは原理的思考−−演劇的思考−−と明敏な文明史観が加味されて独特の思考空間を描き出していく。異質な他者と出会い、そこでの慄きや恐れを通して、自分の内部のある空虚を覗きこむとき、自他未分化な第三の空間が出現する。「ケミストリー」という化学反応はそうした素材と方法の結合を含意したものなのだろう。

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