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2005年06月28日

『チェーホフ』(岩波新書)

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[劇評家の作業日誌](5)

チェーホフの魅力とは何だろうか? 日本人の読者に幅広く親しまれ、現在でも多くの上演が行なわれているチェーホフとはいったい何者か。昨年が没後百年に当たり、チェーホフ関連の書籍が数多く出版されたが、なかでも暮れも押し迫った頃に出された本書は屈指の読み物になっている。

 ところで昨年の舞台のなかで出色だったのは、ロシア・マールイ劇団の『かもめ』だった。この舞台は円形の舞台を3つのパーツに区切り、それが回転することで、隣り合った場面が一連なりで見えてきたことだ。登場人物間の意識の流れが舞台空間の仕掛けでこんなにも巧みに表わされた舞台をわたしは知らない。チェーホフの言葉はロシア人俳優たちの神経の襞にまで浸みわたり、チェーホフ劇の醍醐味が皮膚感覚として伝わってきた。ここで本書の『かもめ』についての記述を読んでみよう。(160〜166頁)

 この『かもめ』はよく言われるように、シェイクスピアの『ハムレット』を下敷きにしている。トレープレフとアルカージナの母子関係はそのままハムレットと母ガートルードと相似形であり、母の恋人トリゴーリンという作家は父を殺し現王に収まっている叔父のクローディアスに相当する。さらに、劇中にしばしば引用される『ハムレット』のもじりは、両者を否応なく意識させるのである。

 『ハムレット』の発端は先王ハムレットの亡霊の言葉だった。一種の予言としてハムレットの行動を方向付けた。ならば『かもめ』ではそれはどう扱われているか。それは作家トリゴーリンがしきりに手帳に書きつける創作メモである。女優志願のニーナに向って彼はこう言う。

 「ほんの短篇の題材です。湖のほとりに、ちょうどあなたのような若い娘が、子供の時から住んでいる。かもめのように湖が好きで、かもめのように幸福で自由だ。ところが、ふとやってきた男が、その娘を見て、退屈まぎれに、娘を破滅させてしまう。ほら、このかもめのように。」(本書165頁)

 アポロンの神託に拘束されたオイディプス王は、この「言葉」−−おまえは父親を殺し、母と結婚するだろう−−から逃れるための行動が、結果として最悪の事態を招いた。ハムレットが亡霊の「言葉」を実証するために、劇中劇まで仕組んだ。同様に『かもめ』もまた「言葉」−−この場合は創作メモ−−によって登場人物たちは破滅の道へ転落していく。

 『かもめ』と『ハムレット』をつなぐのは、第一幕で野心に燃えたトレープレフが「新しい形式」を求めて、母親を中心とする旧弊的な芝居人に挑む実験的な舞台シーンだろう。『ハムレット』にも劇中劇があるが、いずれも演劇によって演劇を批評する、あるいは演劇を批判することを「形式」化している。浦氏がこの作品を「メタ演劇」と言うのも、そのあたりのことを指している。

 両者の比較で見落とせないのは、ハムレットが絶対的な主人公、すなわち彼の目を通して劇世界が展開されていくのに対し、『かもめ』のトレープレフはそうではないという指摘だ。それを著者は「主人公の解体」というフレーズで語っている。「ここに登場する人物は、特定の視点から眺められるのではなく、さまざまな視線の交錯のなかでながめられる。つまり「中心」が成立しない。」(163頁)

 ハムレットは「中心」だったが、トレープレフは「不在の中心」なのだ。近代劇(戯曲)を解体し、「現代劇(戯曲)」を開始したと言われるチェーホフの独自性はここにある。著者はこう言っている。「己を主張せず、ひたすら自己を消去する−−これがチェーホフの姿勢だった。」(「はしがき」より)

 自己を消去すれば必然的に「対話」も破壊される。語るべきなにものも持たないからである。「一見『対話』が成立しているようでいて、その話は微妙にすれちがう。ひょっとして対話自体が成立していないのではないか。『三人姉妹』(1901)はその見本のような作品だ。」(179頁)

 あるいはこういう記述もある。「一見にぎやかなチェーホフのダイアローグはむしろ、人びとの孤独や孤立、通い合うことのないこころを際立たせる。」(182頁)

 誤解や言い間違い、対話の亀裂や空隙−−20世紀後半に出現する「不条理劇」の先駆的断片がすでに半世紀前のチェーホフに兆していたことは驚くべきことである。チェーホフが「喜劇」というジャンルにこだわり、後年、彼の劇のドタバタ性が指摘されるようになったのも、「二十世紀の不条理演劇を予告していた」からである。

 こうした演劇論と同様に興味深いのは、チェーホフの人物評である。医者という職業の傍ら、作家生活を続けたチェーホフはなによりも職業的な作家とは違った場所で芸術に取り組んでいた。小説であろうが、戯曲であろうが、彼にとって、肩肘張った作家−−ドストエフスキーやトルストイなど19世紀の大作家たち−−とは別に「ユーモア」と「短篇小説」を得意としていたのだ。のみならず、劇場文化という場所は、彼にとっての娯楽、楽しみに他ならなかった。チェーホフが使ったあまりにも有名なレトリック−−「医学は正妻、文学は愛人」(1888年、スヴォーリンへの手紙)は彼の姿勢がよくうかがえる。そのことを通じて、チェーホフは「既成の文学を壊すことしかなかった」(4頁)のである。

 チェーホフは無類の皮肉屋である。「ほとんど『否定』でしか語りえないのだ」(91頁)もまた彼の真髄をついている。そして劇中に出てくる「退屈さ」。個人的なことを言えば、わたしは中学生の頃、初めてチェーホフを手にとった。しかしとても読み進められなかった。その理由を今から分析すれば、行動しないで議論ばかりしている登場人物たち、しかもその議論も、益体のない、もったいぶった、まさに「余計者」たちの話に、とてもついて行けなかったからである。そのことの意味や意義を理解するのに、わたしは年数を数えるしかなかったし、演劇史的にいえば、ベケットの登場を待たねばならなかったのである。しかしこの「余計者」は案外、現在の若者たちにしっくりくる存在かもしれない。「才能と能力がありながらそれを生かせず、社会に背を向け、斜に構えてしか物事を見ることができなくなった人物」(18頁)とはまさに現代のフリーターのそれではないか。
そんな連想を許容するのも本書の広がりだろう。

 チェーホフは非情である。人間をありのままに見つめ、それを皮肉をこめて描いた。そして安易に救いを書かなかった。その「ありのまま」が結果として、未来を先どってしまったのだ。「これまで自明とされてきたもの、当たり前と見えたものの意味が突如崩壊する。」(107頁)その結果、「いちばん身近な『私』すら失われてしまう」のだ。

 中心が喪失した現代劇の先駆としてチェーホフが19世紀を跨ぎ、20世紀演劇を方向づけた。このチェーホフ的世界は21世紀の今日も十分アクチュアルなのである。

2005年06月07日

『三島由紀夫が死んだ日』中条省平(実業之日本社)

三島由紀夫が死んだ日
→三島由紀夫が死んだ日
続・三島由紀夫が死んだ日
→続・三島由紀夫が死んだ日

[劇評家の作業日誌](4)

三島由紀夫が割腹自殺して35年になる。また今年は生誕80年に当たり、もし彼が存命なら、どんな老大家になっていただろうかと思うと、その早すぎる自死が惜しまれる。

だがそんな思いはさておき、時代はすでに三島の与り知らぬ地点にまで突き進んでしまった。そして、彼の死の意味を考えるこんな本までが出版されるようになったのだ。

70年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地に私兵「楯の会」4人と乗り込んだ三島は、東部方面総監室を占拠し、そのバルコニーから自衛隊員にクーデターを呼び掛け、その声が怒号と野次にかき消されると、総監室に戻って割腹し、刎頚されたというのが事にあらましだ。だがなぜ芸術家として絶頂期ともいえるこの時に自ら命を絶たねばならなかったのか。最後の小説を用意周到に書き終え、すべてに決着をつけて市ヶ谷に乗り込んだというのはあまりに出来すぎのシナリオではないか。まるでその自己劇化に陶酔しているかのような浪漫主義的な自死ではあるまいか。

彼はすでに日本の未来の底知れぬ虚妄を知っていた。三島はこう言っている。
 「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」 (「果てし得てゑない約束−−私の中の二十五年−−」)

有名な三島の一文だ。以後の日本は商品主義に陥り、芸術的頽廃は火を見るより明らかであることを見越していた。文明批評家としての三島は、この日本がとうてい生きるに価しないことを予知していたのだろう。だがそれだけで、人は生を断ち切れるだろうか。三島の「死」にはあまりにも謎が多い。芸術の死か政治の死か。死という甘美なエロスに誘惑されたのか。

この難問に向けて八人の論者が当時の自らの体験を重ねて論考したのが本書である。小島千加子、瀬戸内寂聴、篠田正浩、森山大道、猪瀬直樹、呉智英、鹿島茂、そして編者の中条省平の各氏だ。

この「事件」が論評しにくいのは、例えば文芸批評家の磯田光一の次の言葉に集約されている。
「三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知の上での決断によるかぎり、三島氏はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。」

つまり三島はあらゆる反応、反響をすべて折り込み済みで行為に到ったのであり、あらゆる批評はすべて想定内だからである。したがって、その批評の枠を超える批評以外に三島の呪縛、掌からはみ出ることはできない。逆に言えば、批評という創造行為に対する挑戦が三島由紀夫によって企まれたのである。

では批評は三島の問いにどう答えただろうか。

写真家の森山大道は自身の体験を振り返りながら、「新宿騒乱」の69年前後、「誰が本当の敵なのかわからなくなっているという時代」に「薄ら寒い恐怖」を感じた自らの体験を三島事件に重ねている。彼はそれを「自分自身の輪郭すらぼやけていく」と言った。そして彼は三島の不在の70年代を「失うことばかりの十年間になってしまったのだ」と概括するのである。森山はその後、10年間の空白を経て、「絶望を抱えたまま写真を撮り続けていく森山大道という病」を演じ続けるが、同様のことを「三島由紀夫という病」にかぶせている。自身の身を削りながら三島に迫ろうとした批評だ。

評論家の呉智英は、三島の割腹を「本気」の証しと認めた上で、彼の行為は「『本気』の時代が終わりつつあることを証明しようとしたのではないか」と述べる。三島の自衛隊員にクーデターを使唆する演説も、マイクやスピーカーの状態が悪いこともあってか、まったくの不発に終わった。つまり彼は演出家としては三流でしかなかったということだ。三島の読みも甘かった。だいいち部外者である三島に、いかに有名人であろうと昼休みの休憩時間に強制的に集合させられ、説教を聞かされる義務など彼らには職務上ないのである。呉はこう言って締め括る。「『本気』の志、『本気』のロマンより、実効性にある 『実務』こそ人を幸福にする。英雄が待ち望まれる時代は不幸な時代である。思想や哲学や純文学が尊敬を集める時代も不幸な時代である。一九七〇年以降、日本は不幸な時代に別れを告げた」。彼は「本気」のロマン主義よりシニカルなリアリズムを称揚する。

だが、呉の読みは1995年に「歪んだ醜怪な『本気』が出現した」ことによって破られた。言うまでもなくオウム事件である。三島もまたオウムの出現によってパロディにされてしまったのである。三島が生きてきたら、この事態をどう受けとめたのか。わたしならずとも聞いてみたい気にさせられる。

フランス文学者の鹿島茂は三島事件をこう位置づける。
「三島由紀夫事件こそは、昭和二十年(1945年)の敗戦によって始まった日本の『青春時代』の『終わりの始まり』を告げる重大事件だったのである。事実、これを契機に日本社会は成熟期に入ることになるが、やがて二十年続いた壮年時代もバブル崩壊で終止符が打たれ、1990年以降は、ひたすら老いという坂道を転がって、今や老年期を迎えようとしているのである。」
老いを極度に恐れた三島の心情を時代や歴史過程の「若さ」の終焉と重ねたところが秀逸である。

ところで、この1970年とはどういう年だったのか。3月に大阪万博が開催され、同じ月に「よど号」ハイジャック事件が起った。6月には第2次反安保闘争があり、そして秋も深まった頃、三島事件が突発的に起こったのだ。上記の事件は見事に現在につながっている。日本の戦後復興の象徴であり、近代化の達成を告知したのが1964年の東京五輪だとしたら、万博は繁栄への扉を開けるものであった。今年の「愛・地球博」が繁栄の幕を閉じるものであるとしても、この35年の推移は二つの万博のプロセスで確かめられる。ハイジャック事件はその後に判明した「拉致事件」につながる導線となった。それが白日の下にさらされるには実に30年以上も要したとはいえ、日朝関係の重要な結節点になったことは忘れることはできない。反安保闘争も、過激派によるハイジャック事件もその後に続く左翼・革新運動の衰退の「始まり」であったことは疑いないだろう。

つまりこの年は、一大転換点になった年なのである。 政治的な時代が終わり、経済が幅をきかせはじめた世の中で、文化や芸術に命をかけた三島由紀夫は、当然のことながらこの時代に生きる場がなくなっていた。中条省平はこんな文章でそれを総括してみせた。

「一九七〇年は日本人の近代精神史における分水嶺だったのでしょう。この年が分水嶺であることを痛切に意識した日本人は、三島由紀夫を除いてほかにほとんどいなかったといっても差し支えありません。」 

現在への予言者だった三島由紀夫はその結末を見ずして他界した。もしかしたら、「見るべきものは見た」と彼は思ったのだろうか。依然としてわたしたちは三島の絶望の深さのなかに佇んでいるのである。

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