« 日本文学(小説/詩/戯曲/エッセイ等) | メイン | 生きかた/人生 »

2014年03月20日

『戦国史を歩んだ道』小和田哲男(ミネルヴァ書房)

戦国史を歩んだ道 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「幼き日の城・武将・合戦好きから歴史の世界へ」

 ミネルヴァ書房の自伝シリーズに高名な歴史家の一冊が加わった(小和田哲男『戦国史を歩いた道』ミネルヴァ書房、2014年)。著者は現在放映中のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の時代考証も担当しているが、本書を読むと、幼き頃の微笑ましいエピソードから現在に至るまで、著者がどのような道を歩んできたのか、丁寧に書かれているのがわかる。

 著者は小学校の頃から「城」「武将」「合戦」に関心を持っていたが、ところが、大学に入った頃(1962年)は戦国史研究は低調で、「城」「武将」「合戦」は趣味の世界だと思われていたらしい。だが、高校時代から歴史部を創設したり古文書講座に通ったりしていた著者は、戦国史研究への夢をどうしても捨てきれなかった。早稲田大学学生歴史学研究会(中世史部会)、全国組織の歴史学研究会(日本中世史部会)などに所属し、そこで出会った先輩や先生などから史料や古文書の読み方を教わったり、現地調査にも積極的に参加したりと、次第に歴史の面白さを発見していく。大学生時代に全国の城をめぐる旅にしばしば出かけたのは、とくに楽しい思い出になっているようだ(同書、38-41ページ参照)。
 卒業論文は「城下町成立過程の研究―今川家臣団の分析を中心に」(400字詰原稿用紙629枚の力作で小野梓記念学術賞を受賞)、修士論文は「浅井氏領国における兵農分離の様相」(400字詰原稿用紙200枚程度)というテーマを選んだ著者は、博士課程からは後北条氏の研究に力を入れるようになっていく。折よく「後北条氏研究会」もスタートした。著者によれば、「理論的なことは、歴史学研究会中世史部会および民衆史研究会でカバーし、具体的な文献調査の方法論などはこの後北条氏研究会で学んだ」という(同書、82ページ)。


 静岡大学に職を得てからの著者の様々な活躍(著作、講演、テレビ出演など)については改めて詳述する必要はないだろうが、本書を読んでとくに印象的だった三点を以下に紹介しておきたい。

①今川館跡保存運動をおこしたこと―1980年代の初め、今川館跡と思われる遺構を壊し、その上に美術館を建てるという動きが出たとき、それに反対するのが戦国城郭の研究者の使命であると立ち上がり、紆余曲折はあったものの、最終的に今川氏遺構を守ることに成功したこと(同書、111-114ページ)。このようにまとめると簡単なようだが、数々の圧力や嫌がらせに屈しなかった著者の勇気には頭が下がる。

②時代考証の内幕―著者はNHK大河ドラマの時代考証をいくつか担当しているが、「時代考証」とはいっても、その助言がドラマに活かされるとは限らず、むしろそうではない場合のほうが多いこと(同書、136-150ページ参照)。「江―姫たちの戦国」では、小谷城跡から焼けた痕跡は見つかっていないので(記録とも一致)、小谷城に火をかけないようにと助言したにもかかわらず、出来上がったドラマの場面では小谷城が大々的に燃えていた! 「落城」シーンだからチーフディレクターから「少しだけでも火をつけさせてくれ」という趣旨の電話はもらっていたが、ぎりぎりの妥協として「少しなら」と答えたものの、結果は「大々的に燃えていた」のである(同書、145ページ)。ショックだったらしい。
 しかし、時代考証の仕事が無駄だったかといえばそうでもなく、脚本に出てくる台詞をチェックするという重要な役割があったことを教えてくれる。例えば、「功名が辻」では、山内一豊が妻の千代に啖呵を切るシーンに「わしは絶対家族を守る」という台詞が出てきたが、「絶対」という言葉は当時はなく、「家族」という言葉も当時は使われていないと物言いをつけたという(同書、140ページ)。

③敗者・弱者へのまなざしの重要性―歴史は勝者によって書かれるので、敗者や弱者の視点が見落とされやすい。ずいぶん前、著者のような専門家でも、『信長公記』のような信頼度の高い史料に信長の負け戦のことが書かれていないことを、谷口克広氏(信長研究家)に教えられたという。それゆえ、戦国史を「英雄史観」だけで描くのは危険であり、敗者や弱者や民衆の視点からも眺める必要を痛感したと。著者が好んで明智光秀や石田三成などを語りたがるのはそのためだろう。


 著者の研究スタンスは、基本的に一次史料は大事にするが、それ以外にも「聞き取り調査で得た伝承などの類」も必要に応じて取り込んでいこうというものである(同書、172ページ)。長年「歩く歴史学」を実践してきた著者は、各地の伝承などに歴史の真相を読むヒントを得てきたのだろう。著者が「史料の行間を読む」とか「史料の裏を読む」と表現していることは、たぶんそのような研究スタンスから出てきたものだろう。すべてを紹介できるスペースがないのが残念だが、一読してとても面白い自伝に仕上がっていると思う。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

2014年02月15日

『徳川慶喜』家近良樹(吉川弘文館)

徳川慶喜 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「”捉え難き”最後の将軍」

 徳川慶喜(1837-1913)という江戸幕府「最後の将軍」は、日本史上あまり人気のある人物ではない。鳥羽伏見戦争のあと、江戸に「逃げ帰った」とみえる彼の行動がマイナスのイメージを創り出すのに大いに関係していることは確かだが、本書(家近良樹著『徳川慶喜』吉川弘文館、2014年)の著者によれば、それどころか、慶喜には「ヒール」(悪役)のイメージを抱く者も少なくないという(同書、7ページ参照)。
 慶喜が聡明で薩長にとって侮りがたい政治家であったことは間違いないが、著者のいう「スッキリとは捉えられない彼の複雑な性格と行動」が慶喜の評価を難しくしているのだろう。そのような制約はあるが、本書全体を読むと、明治維新前夜の慶喜の言動を、勝った側の薩長ではなく、負けた当事者側からの視点でみることがある程度可能になるはずだ。


 慶応2年7月20日、第14代将軍(徳川家茂)が大坂城で脚気衝心のために死去した。そのあと、慶喜はひとまず徳川宗家の相続だけは了承した(その結果、将軍空位期が四か月以上続く)が、なぜか、家茂に代わって自ら長州へ出陣することを表明した。皆に訝しがられた決意表明だが、著者は、この段階での慶喜の行動を、「対長州戦を中止すれば、幕府と朝廷のメンツがともに潰れるとの思いが、将軍の死を口実に事態を収拾する方途を慶喜に選ばせなかった」と理解している(同書、135ページ)。朝議は混乱したが、孝明天皇がそれを支持したので、8月8日に参内した慶喜に対して「節刀」が与えられた。これで慶喜が近日中に京都を発して広島に出征することが決まった。
 ところが、8月12日、慶喜は出陣を突然中止することを表明した。前日、老中の板倉勝静から聞かされた情勢(九州諸藩兵が対長州戦から離脱し、小笠原長行が小倉を去ったという情報)を受けての決断だったというが、これがいわゆる慶喜の「変説」問題と呼ばれるものである。朝幕の両方から批判が続出したが、なかでも、会桑(会津藩と桑名藩)を大混乱に陥れたことが大きな失策だったのではないか。著者によれば、桑名藩は渋々ながらも慶喜に従ったが、会津藩は藩主の抑えが利かず家臣団が慶喜の新方針に激昂したという(同書、141ページ)。結局、元治元年の禁門の変のあとから続いてきた一会桑による京都支配が終焉し、一桑と会に分裂したのである。
 慶喜の「原理原則に固執するのではなく、状況の変化によって対応を変える器用さ」(同書、142ページ)がプラスに働くこともあるだろうが、この場合は、マイナスに作用したとしか思えない。もともと傍流から出た慶喜は幕府内で人気がなかった。むしろ「反感」をもたれていたと言ってもよいかもしれない。だが、逆にみれば、慶喜の「変説」がもたらした政治的空白は、薩摩藩内の反幕派には好都合だった。大久保利通は、薩摩藩内の有志と一部公卿の連合を成立させるべく早速動き出した。大久保は慶喜の将軍職就任を何よりも恐れていたが、結果的に、この段階での大久保の「策謀」は不発に終わった。なぜなら、家茂の忌み明け(10月10日)直後の10月16日、孝明天皇の「断然」たる「叡慮」をもって、慶喜が参内し、「大樹のごとき」扱いを受けたからである(同書、149ページ参照)。孝明天皇は、一時慶喜の「変説」に怒ったが、将軍空位期に孝明天皇の慶喜への依存が逆に深まったという指摘が興味深い(同書、162ページ参照)。その後、12月5日、慶喜は将軍宣下を受け、正式に第15代将軍に就任する。


 ところで、ペリー来航以来「開国」をめぐっては朝幕、そして雄藩の間には実に様々な動きがあったのだが、著者は、「変説」前頃から、慶喜が「全面的な開国体制への移行」を指向し、有力諸侯を含めた話し合いで国是を決定する政体を構想するようになったと主張している(その場合の「主役」はあくまで慶喜である)。慶喜政権の基礎が脆弱だったので(彼は本来江戸城にいなければできない政務を一切せず、京坂のみで政務をとった「特異」な将軍だった)、朝廷との協調関係や、雄藩との友好関係の樹立なくして政権を維持することができなかった。もはや幕府の権威はそこまで衰退していたのである。
 そんなとき、孝明天皇が崩御した(12月25日)。少年の皇子の即位は、慶喜にとって有利にも不利にも作用する可能性があったが、結果的には、周知のとおり、主導権は薩長によって握られてしまう。その過程には複雑な動きがあったので簡単にはまとめにくいが、著者が指摘している次の二点は決して見過ごしてはならないように思われる。「薩摩側は、①有力者(なかでも島津久光)の上洛を待たずに兵庫開港の勅許を幕府が単独で奏請したこと、②慶喜が各国代表との会見のために下坂するにあたって、朝廷にはその目的を将軍の代替りを告知するためだと告げながら、内実は兵庫開港についての談判をめざしたものであったことを問題視し、慶喜に反発した」と(同書、183ページ)。これによって、小松帯刀(薩摩藩家老)と原市之進(慶喜側近)の個人的な信頼関係でようやく保たれていた幕薩間の協調関係も崩れたのだ。


 大政奉還から王政復古への流れ、そして明治時代の慶喜については、著者の『その後の慶喜』(講談社選書メチエ、2005年)に詳しいが、そのなかでも注目すべきは、王政復古のクーデターの計画があることを三日前(慶応3年12月6日)、越前藩(松平春嶽)に知らされていながら、慶喜がそれを潰そうとして行動しなかったことである(同書、222ページ参照)。たしかに、クーデターそのものは、武力による討幕を目的とするものではなく(もしそうなら徳川御三家の尾張藩や親藩の越前藩が参加しているのは不自然である)、「朝幕双方における旧体制の廃止(摂関制と幕府制の廃止)と新政権(王政復古政府)の発足」を迅速に進めるために決行された(同書、221ページ参照)。
 しかし、慶喜がその計画を摂政や会津藩に知らせれば内乱が発生し、外国勢力による国政への介入を招くのを恐れたとか、クーデター後に自分も要職に就けるという期待を抱いていたとかいう「推測」(著者は「憶測の域を出ない」とことわっているが)は、もっと文献的な証拠がないものだろうか。その後の慶喜の行動(例えば、御所への出兵を主張する幕臣や会桑両藩士たちを抑え、彼らを引き連れて大坂に下ったこと)は、そのような懸念をもっていたからこそだと著者が主張しているだけに状況証拠だけではやはり物足りない。
 もっとも、著者は、そのような慶喜の判断が甘かったことは十分に承知している。「戦略」的には敗北に直結したと評しているし、なによりも天皇を奪われたことは「致命的なミス」であったと述べている(同書、225ページ)。のちの展開を知っている私たちの目からその場の判断の是非を論じることには慎重でなければならないが、こんなところにも、慶喜の複雑で捉え難い性格を垣間見ることができるのではないだろうか。

 あとひとつ、慶喜が「民衆」を意識したことがなかったという指摘は、高貴な生まれのひとにはよくあることとはいえ、きわめて興味深かった。文久期から慶応期にかけて、民衆は貨幣改鋳その他の原因による物価高騰に悩まされていたが、慶喜がこのような問題に向き合った形跡がないと(同書、136ページ参照)。慶喜の不人気の理由の一つもこの辺にあるかもしれない。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年12月31日

『黒田官兵衛』小和田哲男(平凡社)

黒田官兵衛 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「軍師の実像」

 2014年のNHK大河ドラマは、豊臣秀吉の軍師をつとめた黒田官兵衛が主人公だという。街の書店には、すでに官兵衛関連の本がたくさん並んでいる。そのなかで、本書(小和田哲男著『黒田官兵衛』平凡社新書、2013年)を選んだのは、比較的短時間に官兵衛が生きた時代とその人物についての知識を時系列でわかりやすく叙述しているからである。著者は日本中世史が専門で、大河ドラマの時代考証をつとめるなど、高名な歴史家だが、絶好のタイミングで歴史物を書き下ろす才能は貴重なものである。

 歴史を語る場合、一次資料のように信頼度の比較的高いものと、そうではないものを区別する作業が必要だが、前者だけではわからないことは、ほかの資料を基に「推測」することも場合によっては役に立つ。本書を読むと、この区別をつねに明確にしながら書き進めているのがよくわかる。
 例えば、本能寺の変の第一報は俗説では明智光秀の密使が陣所を間違えて秀吉の家臣に捕まってしまったので、秀吉が毛利方よりも早くその情報を得たということになっている。その密書は『別本川角太閤記』に収められているが、文面が当時のものとは違う偽文書なので、歴史ドラマならともかく、それを信用するのは危険である(同書、94ページ参照)。
 ただ、光秀が越後の上杉景勝にも密使を送っている事実が明らかにされているので、毛利陣所にも密使を送った「可能性」はある。その密使が秀吉の探索網に引っかかり、密書を取り上げられたと考えることはあり得るだろう。しかし、これも「かもしれない」という言い方しかできないし、著者もそのように表現している。
 そもそも戦国時代は嘘の情報を意図的に流して敵方を攪乱させる手法はよく用いられたものだが、秀吉が本能寺の変を事実であると確信したのはどの時点なのか。著者は、『黒田家譜』(江戸時代、筑前福岡藩主となった黒田家が儒学者の貝原益軒に編纂させた文書)の記述に基づいて、信長の側近だった長谷川宗仁からの書状からだったと考えるのが自然であるという書き方をしている。
 また、本能寺の変の第一報が届いたとき、容易に立ち直れそうになかった秀吉を官兵衛が励ました話も有名だが、近世初頭に書かれた逸話集には、「信長殿の死はめでたい」(『明良洪範』)とか、「めでたい。博打を打ちなさい」(『川角太閤記』)とか、秀吉をけしかけたような言葉が出てくる。だが、著者は、これも『黒田家譜』にあるように、「信長公の御事ハ、とかく言語を絶し候。御愁傷尤至極に存候。さても此世中ハ畢竟貴公天下の権柄を取給ふべきとこそ存じ候へ」という表現が事実に近かったのではないかと言っている(同書、96-97ページ参照)。
 だが、比較的信頼度の高い『黒田家譜』にも限界はある。例えば、官兵衛は天正11年(1583)頃、高山右近の勧めでキリスト教に入信したといわれているが、その事実は『黒田家譜』では抹消されている。家譜が編纂されたのは、江戸時代のキリシタン禁制が徹底していた頃だったので、その事実は都合が悪かったのである。家譜にも限界はある(同書、116ページ参照)。


 官兵衛は、秀吉が「天下人」になるまでの戦い(三木城の戦い、鳥取城攻め、賤ヶ岳の戦い、四国攻め、九州攻めなど)において「軍師」としての才能を十二分に発揮したが、逆に見て、秀吉が官兵衛不在のときは苦戦しているのが興味深い。例えば、本能寺の変のあとの弔い合戦で光秀を破ったからといって、秀吉がすぐに天下人になれたわけではない。中国大返しをしたあと、実は、毛利氏との境界画定交渉が難航し、官兵衛がその任に当たっていたため、秀吉は官兵衛不在のまま小牧・長久手の戦いに臨むことになった。幸い、「戦闘」では徳川家康に煮え湯を飲まれたが、織田信雄との「単独講和」を結び、「戦略」的には勝利を収めることができた。だが、官兵衛がいたら、池田恒興の「暴走」を防いだかもしれない。
 官兵衛は、44歳のとき家督を長政に譲っている。しかし、秀吉は官兵衛の一般的な意味での「隠居」を許したわけではない。44歳で家督を譲るのは、「人間五十年」の時代には決して早くはなかったが、巷に流布されている俗説(秀吉が自分が死んだあと天下を取るのは、徳川でも前田その他でもなく官兵衛だといったという作り話)ほどではなくとも、自分が秀吉に警戒されていることは鋭い嗅覚で察知していたに違いない。『黒田家譜』には、次のように書かれているという(わかりやすいように、著者の現代語訳を引用する。同書、155ページ)。

「官兵衛が早くに録を譲り、官職を捨てたのは、利益をむさぼろうとする気持ちが薄く、物ごとにとらわれないだけでなく、秀吉が官兵衛のもつ大志と、武略をおそれていることに気がつき、また、秀吉のまわりの家臣たちにも官兵衛の功名英才ぶりを妬む者がいるのを知り、そしられるのを逃れるためで、これは身を保つ立派なことである。」


 官兵衛は、「黒田如水教諭」という遺訓を遺しているが、そのなかで注目すべきは、「神の罰や、主君の罰よりも、臣下百姓の罰の方が恐ろしい」という趣旨の文章があることである(同書、195ページ参照)。また、「上に立つ者として、威、すなわち威厳は必要だが、ただ怖いだけの威厳ではだめで、家臣の諫言を受けいれる度量が必要なこと」も述べられているという(同書、196ページ)。
 信頼に足る歴史資料を尊重しつつ、それだけでは歴史の真相に迫れない部分はその他の資料のなかで蓋然性が最も高いものを採用し補完していく。著者の他の多くの著作と同じように、本書もそのような方法論で叙述された啓蒙書だということがわかるだろう。官兵衛の「軍師」というよりも「人物」そのものに関心のある読者にも参考になるだろう。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年12月13日

『足利尊氏と関東』清水克行(吉川弘文館)

足利尊氏と関東 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「歴代足利一族への招待」

 京都に住んでいる者にとっては、足利将軍家は身近な存在だが、本書(清水克行著『足利尊氏と関東』吉川弘文館、2013年)は、書名にもかかわらず、全体として足利尊氏のみならずその歴代一族への最良の案内の一つに仕上がっている(「尊氏」となる前は「高氏」とすべきだが、煩雑さを避けるために「尊氏」で統一する)。

 そもそも、私たちは尊氏を足利家の嫡男としてみることに慣れているが、尊氏の父貞氏は金沢顕時(北条一族中の名族)の娘との間にできた高義という嫡男がいた。足利氏の当主は代々北条一族の女性を正室に迎えていたので、高義が21歳の若さで早世しなければ尊氏が家督を継ぐこともなかったはずである(尊氏の母は上杉清子だが、上杉家は足利家の家臣筋の家なので、貞氏の側室であったと著者は指摘している)。その証拠に、足利家の嫡男は「三郎」を名乗る決まりになっていたにもかかわらず、尊氏の元服の際の通称名は「又太郎」なのである。著者は、このような「家督相続者としては微妙な地位」(同書、25ページ)が若き日の尊氏の人格形成に影響を与えたに違いないとみている。尊氏の「躁鬱」的な性格(「異常な血統」と呼ぶ意見もあるようだが)もこれと関係があるかもしれないが、この点は、のちにまた触れることにしよう。
 尊氏は、「嫡男」となってから、やはり北条一族の赤橋氏から正室(赤橋登子)を迎えているが、実は、「嫡男」となる前に足利家の庶流、可子基氏の娘との間に竹若という男子をもうけていた。だが、正室の子でない以上、嫡男とはなりえなかった(のちに不幸な最期を遂げる)。また、『太平記』によれば、尊氏は「越前ノ局」との間に後に直冬を名乗る男子をもうけているが、父に冷遇された直冬が長じて室町幕府をたびたび脅かすようになるとは予想もしなかっただろう。

 尊氏が後醍醐天皇の綸旨を受け、篠村八幡宮で鎌倉幕府への叛旗を翻したあとの展開はよく知られているからここでは触れないが、尊氏という人物の性格はなかなか捉え難い。著者は、例えば、夢窓疎石の『梅松論』に拠って「戦場ではまったく死を恐れない一方、家臣の実績に対しては手放しで喜びを表現する」(同書、43ページ)という一面を指摘しているが、それは裏を返せば「すべてにおいて無頓着」(同書、44ページ)という性格にもつながると同時に指摘している。
 後醍醐天皇に対する態度も、尊氏の複雑で二面的な性格を反映していると思われる。尊氏は後醍醐天皇を尊敬し、敵対しようと思ったことは一度もないが、客観情勢がそれを許さなくなったとき、いつも苦渋の選択を迫られている。例えば、後醍醐天皇の許しを得ぬまま京から鎌倉へ向かい、中先代の乱を鎮圧したほどの胆力がありながら、弟の直義に押される形で鎌倉に留まり、幕府再興のような動きを見せたことで天皇の怒りを招くと、とたんに政務をすべて直義に任せて鎌倉の浄光明寺に引き籠ってしまったのだ(同書、52-55ページ参照)。
 のちの直義と執事の高師直との対立、北朝と南朝の対立なども、尊氏の優柔不断な性格が招いたと言われても仕方がない面があるように思われる。それゆえ、著者は、尊氏が一連の内部抗争の「最後の勝者」となれたのは、彼になにか「高度な政治戦略」があったからではないと述べている。「それはあくまで結果論からの類推であって、少々尊氏を買いかぶりすぎているのではないだろうか。これまでの尊氏の言動をみてみても、彼にそのような深謀遠慮があったとは思えない。むしろ、彼は師直と直義のあいだに挟まれて無定見に振り回されているという印象がつよい。彼にもう少し毅然とした態度があったならば、この戦乱は避けられる性格のものだったようにすら思われる」と(同書、83ページ)。
 尊氏は地蔵菩薩を素朴に信仰しており、彼が描いた地蔵菩薩像がいくつも残されているが、彼に地蔵信仰を植えつけたのは母清子であったという。著者は、地蔵菩薩が「小児の成長を守る慈愛に満ちた仏」であるとともに、「地獄のなかで苦しむ衆生を教え導き、その苦しみを代りに受容する菩薩」であることを踏まえて、次のように言っているが、それが真理を突いているのではないかと思う。

「鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇を京都から追い、血を分けた弟や我が子と死闘を演じる尊氏の生涯こそは、この世に地獄を再現したかのような時間だった。そうした修羅の道を歩む尊氏にとって、地蔵菩薩は、彼に心のやすらぎを与えてくれる唯一の存在だったのかもしれない。」(同書、92ページ)


 さて、最後に、足利一族の「異常な血統」と呼ばれる問題に戻ろう。著者は歴史家だから、歴史家が「精神分析」を安易におこなうことには慎重な態度をとっている。歴代の足利家当主のなかで「発狂」の微証のあるのは尊氏の父貞氏のみであり、それ以外は確たる証拠はないと(同書、133-134ページ参照)。ただ、それにもかかわらず、「不可解な言動」の背後を探ることには意味があるだろう。
 例えば、足利義兼が「わたしの子孫には、しばらく我が霊がとりついて正気を失うことがあるだろう」という遺言を残したとか、足利泰氏が幕府の許可を得ず勝手に出家してしまったとか、尊氏の祖父家時が源義家の不思議な置文(「七代目の孫にわたしは生まれ変わり天下を取る」)通りに天下を取れないのを嘆き、「わたしの命を縮めて、そのかわりに三代のうちに天下を取らせてください」と祈念して切腹したとか、そのような類のものである。著者はそのひとつひとつを検討しているが、いずれも当時の足利家の当主が執権として鎌倉幕府の実権を握る北条氏が絡む権力闘争から家を守るための言動であったと解釈しているようだ。傍証が足りないといわれても、歴史家としては、正攻法の解釈だ。
 ただ、今川了俊の『難太平記』にあるような「足利神話」がなぜ普及していったのかという疑問は残る。著者は、そこにはある種の「作為」があったと考えているようだ。いまでこそ私たちは足利将軍家という呼び方に慣れているが、足利一族のなかには自分の家のほうが兄筋の家柄であるというプライドを隠さない者がいたという(例えば、仁木・細川・畠山・桃井・吉良・今井・斯波・渋川など)。斯波氏や吉良氏は、鎌倉時代は足利を名字としていたくらいだから、そういう者も確かにいたはずだ。それゆえ、著者は、足利嫡流家が源氏の棟梁としてふさわしいことを正当化するには「足利神話」が必要だったのだと読み解いている。核心となる部分を引用してみよう。

「情緒の不安定さというのは、社会生活を送るうえではマイナス要素となるが、古代社会のシャーマンの役割などを連想してもらえればわかるように、前近代社会においては、それがある種の霊性として受容されることがありえた。『難太平記』では、人々のなかにすでに噂として知れわたっていた足利当主の精神的な不安定さを、始祖義兼以来、源氏の棟梁に刻印された聖痕とすることで、足利嫡流家を他家とは異なる特殊な霊性をもった血筋と位置づけようとしたのではないだろうか。」(同書、141ページ)

 そして、著者は、その「神話」の出どころは尊氏・直義兄弟ではないかと推測するのだが、あくまで「推測」の域を出ていない。しかし、きわめて興味深い解釈である。足利一族に関心のある歴史好きには楽しい読み物だ。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年10月31日

『反逆する華族 「消えた歴史」を掘り起こす』浅見雅男(平凡社)

反逆する華族 「消えた歴史」を掘り起こす →紀伊國屋ウェブストアで購入

「”赤化華族”とは何だったのか」

 著者は、すでに戦前の華族について何冊も本を書いており、私もその一冊はかつてある新聞で取り上げたことがあるが、本書(浅見雅男著『反逆する華族―「消えた昭和史」を掘り起こす』平凡社新書、2013年)は、「赤化華族」に的を絞り、皇室の「藩屏」といわれた彼らがなぜ戦前には非合法だった共産党の運動に身を投じたかを再考し、「消えた昭和史」を掘り起こそうとする興味深い試みである。


 本書に登場するのは、石田栄一郎(男爵家の長男)、大河内信威(子爵家の長男)、学習院グループ、岩倉靖子(公爵家の三女)などだが、現代の若者には、当時ふつうの人たちよりははるかに恵まれた境遇に育った彼らがなぜ共産党の活動に身を投じたのか、理解に苦しむに違いない。しかし、まさに恵まれた境遇に生まれたからこそ、あるいは、著者の言葉を借りれば、「自分ではどうしようもない『出自』への罪悪感」(同書、52ページ)を抱いていたがゆえに、彼らは左傾化していったのである。
 もちろん、彼らの共産党への関与や、逮捕された後の取り調べや裁判の過程での「改悛の情」(「転向」といってもよいが)には温度差がある。いったん有罪(実刑)となりながらも、控訴して執行猶予という比較的軽い判決を言い渡された華族がいる一方で、石田栄一郎のように上告せずに服役したケースもあるというように。逮捕された後いとも簡単に転向表明した華族もいるが、意志の固い人物であればあるほど、獄中で冷静に考える時間を与えられて、自分たちを利用したに過ぎなかった党や運動関係者に幻滅し、彼らとは袂を分かつ道を選んだ華族もいた。石田はまさに後者の典型であった。
 石田は獄中で猛勉強し、後に民俗学や文化人類学への道を歩むことになるが、彼が本当に「転向」したかどうかは微妙な問題である。だが、転向者が戦後の共産党によって厳しく糾弾されることになったとき、石田の脳裏にはどのような思いがよぎっただろうか。――マルクス主義の理論的な矛盾や共産党の非合法活動の内実には幻滅した。しかし、マルクス主義に代わるものは見つからない。そこで、以前から関心を持っていた民俗学の方へ行くことにした。それは現実からの逃避であったかもしれない。いろいろな思いがよぎったに違いない。著者は、「彼が自分は転向していないと内心で叫びながら、それを公言できないという屈託をかかえていたことである。これこそが最も「逃避」したい「現実」であろう」(同書、83ページ)と述べているが、言い得て妙である。


 大河内信威は、一時は熱心に非合法活動にのめりこみ、『日本資本主義発達史講座』に収録された論文「労働者の状態及び労働者運動史」(400字詰原稿用紙で300枚ほどの大作)を執筆したほどの理論家でもあったが、最終的には、「転向」のおかげで執行猶予を勝ち取った例である。だが、著者によれば、大河内の場合も、本当に転向したかどうかは微妙だという。大河内は、のちに理研グループの持ち株会社の取締役にもなったが、三戸信人の回想によれば、左翼活動の前歴者を密かにかばっていたという(同書、108-109ページ参照)。
 戦後は、陶磁器の観賞や研究に打ち込み、その分野での専門家として有名になったが、『歴史科学体系25 労働運動史』(昭和56年刊)に前に触れた論文の一部を再録することは認めている。彼の心の内は本当はわからない。

 
 本書で「学習院グループ」と呼ばれている八条隆正(旧公家)と森俊成(旧大名)の二人は、裁判が始まる前には転向を表明していたが、森は実刑判決を不服として控訴(その結果、控訴審では執行猶予)、八条は実刑に服するというように立場が分かれた。八条は「優秀転向者」となったが、森が控訴審で執行猶予がついた背景には、天皇の意向が働いていたという。天皇の「寛大な御心」は、内大臣秘書官長で宗秩寮総裁を兼ねていた木戸幸一に伝えられたが、著者によれば、その後の動きをみると、天皇の内意が働いていたと考えるほか説明がつきにくいという。

「かくして森の控訴審を除いては学習院関係者による共産党事件は一段落した。森の二審判決が執行猶予つきとなったことに天皇の意向が反映していたかどうかは分からないが、その半年後にくだされた大河内信威の二審判決がやはり執行猶予付きの軽いものだったことも考え合わせると、司法部が宮内省のおこなった処分内容から天皇の心情を以心伝心で察し、方針を転換した可能性ものこるだろう。しかし、真相はおそらく永遠に謎である。」(同書、147ページ)


 最後に登場する岩倉靖子の場合は、どうしても筆が重くなる。彼女はキリスト教の信仰を捨てて運動に身を投じたほど意志が固く、あらゆる懐柔策にもめげずに容易に転向表明はしなかった。ところが、自分を運動に導き、若くして亡くなった従姉妹(上村春子)の夫・横田雄俊が簡単に転向表明したことに大変な衝撃を受けた。その後、彼女も「転向」したことになっているが、心の内は複雑だったに違いない。
 その頃、赤化華族問題とは別に不良華族問題という「醜聞」があり、世間は彼らに厳しく新聞も彼らへの厳重な処分を予想していた。この予想は天皇の寛大な御心によって見事に外れてしまうが、靖子はそんなことは露知らず、赤化華族問題にも厳正な処分がなされると信じてしまった。兄や公爵家は無事でいられるのだろうか。彼女の心は極端なペシミズムへと向かっていく。――自分が自殺すれば、宮内省や世間は岩倉家を同情の目で見てくれるのではあるまいかと。そして、昭和8年12月21日午後、まさに「不良華族事件」関係者への処分が決まる日、彼女は頸動脈を切って自らの命を絶った。
 靖子は、獄中にあって転向する前頃から再び聖書をひもとくようになっていたが、遺書には、次のように記されていたという。

「生きていることは、凡て悪結果を結びます。これ程悪いことはないと知りながら、この態度をとることを御許し下さいませ。皆様に対する感謝とお詫とは云い尽せません。愛に満ちたと願ってもこの身が自由になりません。唯心の思いを皆様に捧げることをおくみとり下さいませ。全てを神様に御まかせして、私の魂だけは、御心に依って善いようになし給うと信じます。説明も出来ぬこの心持を善い方に解釈して下さいませ。」(同書、198-199ページ)

 悲劇の生涯である。もう一度言うが、現代の若者は、このように「思想」に殉じて短い生涯を閉じた女性がいたことをほとんど理解できないだろう。「消えた歴史」を掘り起こす意味もわからないかもしれない。だが、それもまた、ほんの一部とはいえ、私たち日本人が歩んできた歴史なのである。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年10月03日

『シャルル・ドゴール 民主主義の中のリーダーシップへの苦闘』渡邊啓貴(慶應義塾大学出版会)

シャルル・ドゴール 民主主義の中のリーダーシップへの苦闘 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「フランスの「偉大さ」を演出した権力者の生涯」

 シャルル・ドゴール(1890-1970)のバランスのとれた評伝(渡邊啓貴著『シャルル・ドゴール』慶應義塾大学出版会、2013年)が出版された。ドゴールは、「救国の英雄」や政党政治を嫌った権力者としてイメージされることが少なくないが、政治家の評価というのは、それほど単純にはいかないものだ。死後40年以上の時間が経って、ようやく日本語でも水準の高い評伝が読めるようになったことを喜びたい。

 ドゴールを語るとき、しばしば引用される言葉があるという。

「生涯を通じて私は、フランスについてあるひとつの考えを抱いてきた。理性と同じく感覚的にその考えが私に宿るのである。私の心にある感情的なものが自然とフランスを思い起こさせるのである。それは、あたかも御伽噺に出てくる王女のようであったり、際立った例外的な宿命に捧げられたかのごとき壁にかかったフレスコ画のマドンナのようでもある。・・・・・要するに、私の考えるところ、フランスは偉大さを失ってしまってはフランスではありえないのである。」(同書、196-197ページ)

 いかにもドゴールが発しそうな言葉だが、彼の生涯の中で幾度も生じた「危機」に際してそれを実践したところが凡人とは違っている。
 例えば、第二次世界大戦中、アメリカやイギリスのような強大国を前にして風前の灯であった「自由フランス」を率いていたとき、何度も挫折を味わったが(アメリカのローズヴェルト大統領がなかなか彼を信用しなかったことが一番大きな要因だが)、ノルマンディー上陸作戦の成功からパリ解放に至るまでの間、戦後構想がフランスを除外した四か国で進められようとする動きに抵抗し、フランスが平和と世界秩序の維持に不可欠な役割を果たし得ることを粘り強く主張し続けた。戦後フランスが国連の常任理事国の一角を占めたのは、彼の努力に負うところが大きい。
 また、アルジェリア独立をめぐって内戦の危機が発生したとき、ドゴールは「強いフランスの再生」のために強大な行政権力に支えられた新しい政治体制の樹立を第一優先した。彼は、かねてより、第二次世界大戦の混乱を招いたのは、第三共和制の下での多党分立の不安定な政党政治であったという固い信念を持っていたのである。いまから振り返ると意外に思えるが、フランス革命以後もっとも長く続いたのは第三共和制であり、行政権力の強大な政治体制は例外に過ぎなかった。著者は、「その意味ではドゴールはフランス政治史上最も偉大な政治体制の生みの親となった政治家であったといっても過言ではない」と述べている(同書、162ページ)。

 ドゴールが生み出した第五共和制憲法に定められた大統領の権限は誠に強大である。具体的にみると、例えば、次のようなものである(同書、163ページ参照)。

 1 国民も議会も大統領を解任することは制度上できない。
 2 大統領は議会の制約を受けず政府を自己に従属させることができる(任期は7年、2001年に5年に短縮)。
 3 首相任命権
 4 一定の内容の法律案を議会の審議にかけず直接国民投票にかけることができる。
 5 総選挙から1年後であれば理由を示さずに国民議会を解散することができる。
 6 緊急措置発動権

 大統領にこのように強大な権限をもたせた第五共和制が現在まで続いており、国民の多くがそれを支持しているのも注目すべきだが、しかし、ドゴールも民意をどのように掌握するかにはずいぶんと苦闘した跡がある。著者は、それを「試行錯誤の歴史」(同書、353ページ)であったと表現している。そういえば、晩年、1968年の5月革命を乗り切りながらも、翌年、周囲の反対を押し切って上院と地方行政制度の改革案を国民投票にかけるという行動に出たが(結果は否決)、これなどは民意を見損なった失敗の例かもしれない。


 外交面では、冷戦時代、西側の盟主アメリカに対する不遜な態度で知られたが、それを大多数のフランス人が支持していたのも事実である。自前の核抑止力へのこだわり、NATOの軍事機構からの離脱、対ソ等距離外交、独仏連帯を基礎にしたヨーロッパ統合の推進なども、そこから自然に導かれる。だが、現実には、フランスにはアメリカに対抗できるほどの政治力も軍事力もない。それにもかかわらず、フランスの「偉大さ」を演出するのが、政治家としてのドゴールの真骨頂であったという著者の見解は正しいと思う。

「ドゴール外交は単なるナショナリズムでもなければ、がちがちに計算しつくされた国益主義外交でもない。それはフランスという国家の威信を高めるための巧みな「演出力」そのものであり、リアリズムに裏づけられていたのである。それを語らずしてドゴール外交はありえなかった。国力に支えられた正しい意味での説得力はなかった。そして多々独断的な論法は人々を不快にした。しかしそこには意思を伴った「する外交」の姿勢が明瞭であった。それは状況対応的な消極的な「なる外交」ではなかった。それは日本外交に最も欠落している点である。国家の行動の演出手段としての外交という理解は私たちには希薄である。そのことはまた「見識」と「意思の力」の問題でもあった。「何をするか」という問いに対してはビジョンが必要であるし、やりとげるという決意があって初めて政策提案には意味があるからである。」(同書、201ページ)

 だが、国民がつねに「ドゴール」を求めるかといえば、事実はもちろんそうではない。著者も、「ドゴールがその真骨頂を発揮するのはフランスが国難に遭遇したときであり、ドゴールの政治活動は常に煽られた危機感の中で高揚したのである」と言っている(同書、356ページ)。ただし、私たちの抱くドゴールのイメージと違って、彼は無私のひとであり、遺言書にも国葬や勲章などを辞退する旨が認められていた(フランス政府の希望で、家族による地味な葬儀とは別に、国葬が執り行われたが)。「政治的戦略と策謀はすべて国家のためであるが、自分自身は高潔であろうとした孤高の人の姿がそこにあった。かつて「追放された王様」と呼ばれた所以である」(同書、355ページ)という著者の言葉が言い得て妙である。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年08月12日

『捕虜が働くとき―第一次世界大戦・総力戦の狭間で』大津留厚(人文書院)

捕虜が働くとき―第一次世界大戦・総力戦の狭間で →紀伊國屋ウェブストアで購入

「総力戦の狭間で「働く捕虜」」

 本書(大津留厚著『捕虜が働くとき―第一次世界大戦・総力戦の狭間で』人文書院、2013年)は、従来ほとんど取り上げられなかった第一次世界大戦中の「働く捕虜」たちの実態を詳細に紹介した好著である。第一次世界大戦を「総力戦」として捉える見方は大戦中からあったが、著者によれば、その言葉は、ドイツの軍人エーリッヒ・ルーデンドルフによる同名の著書(1935年)の刊行以来、次第に定着するようになったという。私たち日本人は、とかく第二次世界大戦に関心が向かいがちだが、ヨーロッパでは、多くの証言があるように、「青天の霹靂」のごとく勃発した第一次世界大戦の衝撃が大きかった。しかし、大戦の推移やその後のパリ講和会議などについてある程度知っていても、大戦中に捕虜になった人たちが「労働」に駆り出された事情についてはほとんど知らないといってもよいほどだ。本書は、その穴を埋める貴重な研究である。

 1907年のハーグ陸戦条約第4条には捕虜の人道的な処遇について、第6条には捕虜の労働に関しての規定がある。その内容は、かいつまんでいうと、将校を除いて兵士に労働をさせることはできるが、戦争に直接かかわる業務や過度な労働を課してはならないというものであった(同書、10ページ参照)。しかし、当初の予想に反して大戦が長引き、オーストリア=ハンガリーの場合、大戦中200万の自国兵士を捕虜として失うと同時にほぼ同数の200万の敵国兵士を捕虜として収容せざるを得なくなると、その規定は「原則」ではあっても実情はそれからかなり離れたものになっていく。敵対したロシアは、同じ捕虜でも、スラヴ系兵士を優遇し、ドイツ系やハンガリー系などを少し厳しく扱っていたが、しかし、これもあくまで「原則」に過ぎなかった。著者は次のように言っている。

「つまりオーストリア=ハンガリーは200万強の働き盛りの男性が捕虜となって労働市場から姿を消し、その代りに200万人弱の働き盛りの男性を捕虜として抱え込むことになった。失われた労働力の補完だけではなく、200万人近い捕虜を扶養するためにもいかに捕虜を労働力として利用するかはオーストリア=ハンガリーにとっては重要な課題となった。しかしそれはオーストリア=ハンガリーだけのことではなかった。」(同書、64-65ページ)

 当初想定してなかった事態に直面し、オーストリア=ハンガリー陸軍省は捕虜兵を雇用するに当たっての指針を改訂し(1915年8月10日)、雇用者と軍との負担の分担を明確にした。しかし、働く環境が劣悪なものであることに変わりはなく、1917年には捕虜兵労働部隊の監査が行われることになったという。


 捕虜兵労働部隊は、どんな労働を課せられていたのだろうか。著者は、オーストリア=ハンガリーの第11軍団の後方任務に就いた捕虜兵労働部隊を例に挙げているが、そこでは、例えば道路建設、ロープウェーの建設、パン焼きなどが挙げられている。ロープウェーの建設は「戦闘に関係する業務」の可能性が高いが(つまりハーグ陸戦条約違反)、オーストリア=ハンガリー軍は捕虜兵にそこまでの配慮をする余裕がなかったという(同書、84ページ参照)。捕虜兵を警備する人員も足りなかったので、監視の目をすり抜けて逃亡する捕虜兵も後を絶たなかった。さらに、捕虜兵と地域住民との「交際」という問題もあった。とくに、軍は、現地の女性と捕虜兵との「交際」によって感染症が増えることを警戒していたらしい。だが、著者は次のように述べている。「捕虜の労働力は交戦国に欠かせないものとなり、捕虜の集団は細分化されて雇用された。そのため捕虜が現地の人びとと親密な関係を築く可能性は高かった。感染症の蔓延などの負の側面には軍も神経を尖らせたが、警備に大きな勢力を割く余裕もなく、厳しい監査が行われたとは考えにくい」と(同書、94-95ページ)。
 大戦の長期化とともに食糧事情も悪化していったが、1917年後半には、不満を抱いた捕虜兵の逃亡が増加し、それに対応しなければならない警備兵も疲弊していった。監視を担当する立場にある監視委員も、自らの職務に耐え切れずに辞任を申し出るほどであったという(同書、101ページ参照)。


 ロシアの捕虜となったが幸い早期に帰国できたオーストリア=ハンガリー軍の兵士たちは、まだシベリアに残されている仲間たちの安否を案じていたが、まもなく捕虜としての自分たちの経験を風化させないために機関誌『プレニ』を発行し、そのスローガンに「苦悩があって初めて光がある、光があって初めて愛がある」という言葉を掲げた(同書、122ページ参照)。のちに捕虜に関する新たなジュネーヴ条約が締結されるが(ジュネーヴ条約は何度も改訂されているので、第一次世界大戦後であれば1929年の改定を指すと思われる)、なんとナチ政権のドイツががオーストリアを併合したあとの『プレニ』には、そのスローガンと並んでナチスのハーケンクロイツが付されることになったという。旧捕虜兵の経験が第二次世界大戦中の捕虜の扱いに必ずしも活かされなかっただけに、表紙にハーケンクロイツを付した機関誌をみると複雑な思いを抱かざるを得ない(同書、123ページの表紙を参照のこと)。


 本書には、日本で捕虜になったドイツ人やオーストリア人などの興味深い記述もあるが、中心はオーストリア=ハンガリーに置かれている。著者によれば、この十年間で、第一次世界大戦の捕虜研究は急速に進んだという。来年(2014年)は、第一次世界大戦の勃発から100年という節目の年に当たるが、この機会に、第二次世界大戦の研究に比べて地味な印象のあったこの分野での研究が飛躍的に高まることを期待したい。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年07月01日

『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎柴瀾』千野文哉(人文書院)

「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎柴瀾 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「龍馬「船中八策」の謎に挑む」

 坂本龍馬は幕末維新史のなかで最も人気の高い人物のひとりと言ってもよいだろう。司馬遼太郎の歴史小説『竜馬がゆく』(1963-66年)が龍馬人気の定着に大きく貢献したことも今日では周知の事実だが、本書(千野文哉『「坂本龍馬」の誕生』人文書院、2013年)は、龍馬の名前とともに語られる「船中八策」がどのように形成されてきたか、利用できる限りの資料を渉猟して解明しようとした話題作である。

 NHK大河ドラマ『龍馬伝』(2010年)の冒頭に土佐の新聞記者、坂崎柴瀾という人物が登場したが、柴瀾は本書でも鍵となる役割を演じる。どういう意味かといえば、「船中八策」として知られる文書を坂本龍馬作として世の中に紹介し、それを普及させたのが他ならぬ柴瀾の作品「汗血千里の駒」であったからだ。論証のプロセスはかなり複雑なので、詳細は本書を読んでもらうしかないのだが、先に著者の結論を紹介しておくほうが理解しやすいだろう。

「①「船中八策」のテキストは、明治二十九年刊の弘松宣枝『阪本龍馬』に掲載された「建議案十一箇条」を、坂崎柴瀾が一つ書き・八箇条の形式に整理し、それを最終的に明治四十年刊、宮内省『殉難録稿 坂本直柔』が採録することで「史実」として扱われることになった。
 ②「船中八策」の名称は、慶応三年六月十五日に土佐の藩論が大政奉還策で確定した、という説から逆算する形で夕顔丸船中の協議が注目され、その協議の成果物を表す「記号」として、維新史料編纂会の中で使用されていた。」(同書、94-95ページ)

 歴史家が史料を扱うには慎重にも慎重を期さなければならないのが現代の常識だが、柴瀾の活躍していた頃は、必ずしもこの常識は当てはまらないどころか、まだ確立さえしていなかった。しかも、「船中八策」のなかに、慶応三年の時点で一般的に使われていなかった用語が複数存在するとなれば、その文書の史料的価値についての疑問はさらに深まるだろう。
 もっとも、「船中八策」とよく似ているものに「新政府綱領八策」という文書があり、これは明確な日付・署名がある歴とした龍馬の自筆文書である。著者の立場は、基本的に龍馬の国家構想はこの文書を基づいて評価すべきだというものだが、「船中八策」と比較して、重要な相違がある。すなわち、「大政奉還」の条文がないのである。大政奉還は龍馬でなくとも他に唱えるひとが少なからずいたらしいのだが、著者は、そもそも、龍馬が紋切り型の「大政奉還論者」であったこと自体を疑っている。

「これまでの龍馬本の多くは、龍馬=大政奉還論者=平和革命論者、という前提条件を当然のことのように設定し、龍馬の武断的言動は大政奉還拒絶という最悪の事態に備えた『保険』であり、決して彼の本意ではないのだと説明してきた。
 確かに『保険』ではあるのだが、・・・・・・龍馬にとってはむしろ拒絶後の武力展開こそが想定されるシナリオであり、龍馬は明らかに土佐の武力行使勢力の一翼を担う存在だったのである。」(同書、43ページ)

 龍馬は脱藩浪士であり、「世界の海援隊でもやりたい」という自由人のイメージで彼をみてきたひとにとっては、この主張は受け容れがたいだろう。しかし、著者は、浩瀚な文献渉猟を通じて、龍馬が薩長土の少なくとも対等の関係を維持することを重視していたこと、それゆえ、薩長芸三藩の出兵協定を知ったとき、龍馬が土佐が薩長の後塵を拝さないように出兵に向けて尽力したことを明らかにしている。「筆者は最後まで龍馬は『土佐山内家家来・坂本龍馬』であったと考えている。龍馬は土佐を捨てた、あるいは土佐に捉われない自由人であった、というイメージをお持ちの方が圧倒的に多いと思うが、筆者はそれを採らない」と(同書、283ページ)。確かに、「数年間東西に奔走し屡々故人に遇て路人の如くす。人誰か父母の国を思ハざらんや」(土佐山内家・溝渕廣之丞に宛てた書簡より、慶応二年十一月)という言葉には、龍馬の望郷の念が表れているといえそうだ(同書、283ページ)。


 ところで、本書は先ほど名前の出た坂崎柴瀾という人物についても詳しい経歴を紹介しているが、ここでは、複雑さを避けるために、彼が板垣退助の政治的立場に近く、『土陽新聞』という自由党系の新聞の記者をしていたこと、そして、板垣がフランスから持ち帰った「政治小説」という手法を借りて、龍馬を描いたという事実のみを再確認しておきたい。著者はいう。「柴瀾はただの娯楽作品や評伝を書いたのではない。龍馬は自由党のプロパガンダに利用できる人物として柴瀾によって『発見』されたのである」と(同書、121ページ)。
 もちろん、柴瀾に公正を期すためにも、彼が次第に「史料に語らせる」というスタンスをより重視するようになり、それがのちの維新史家としての坂崎柴瀾の誕生につながったことを追記しなければならないが、少なくとも「汗血千里の駒」という作品が厳密な意味での史書ではないことは間違いない(注1)。
 著者は、司馬遼太郎の歴史小説に対しても類似の見解を提示している。

「よく知られているように、司馬龍馬は昭和三十年代後半、高度経済成長期の日本の価値観を体現したキャラクターである。入れ札で選ばれた大統領が下女の給金を心配する国家を作ろうとする『民主主義者』龍馬。経済を重視し海外雄飛を志向する『ビジネスマン』龍馬。そして何よりも無血革命を成し遂げようとする『平和主義者』龍馬。
 司馬のビーズの選び方、そして糸通しが絶妙なために、司馬の物語は戦後の日本人の記憶を支配し、我々に龍馬はこのような人だった、と信じ込ませてしまったのだ。」(同書、10ページ)

 著者は、本書の執筆に三年半の時間がかかったという。しかも、現在は、通信制の大学院で歴史を学びつつあるとはいえ、東京のテレビ局に勤務する多忙な人だ。いかに内容が龍馬ファンを怒らせるようなものを含んでいたとしても、龍馬が本当に好きでなければ、このような本は書けないだろう。その正直な思いは、本書の「おわりに」の中に明瞭に表れている。

「本書は龍馬ファンからすると看過出来ない論旨が並んだはずだ。「船中八策」はなかった、龍馬は西郷を一喝しなかった、龍馬は新政府に入る積りだった、等々。龍馬ファンの一番琴線に触れるエピソードばかりだ。折角最後まで読んでいただいたのに申し訳ない。人にこんな話をすると必ず言われるのが「本当にお前は龍馬が好きなのか」という一言だ。もちろん大好きに決まってます。好きだからこそ龍馬の本当の姿が知りたいし、アカデミズムの中にも龍馬を置きたいのだ。」(同書、284ページ)


 本書には、龍馬についての従来のイメージを覆すような発見が随所にみられるので、それだけでも楽しい読み物に仕上がっているが、龍馬関係の史料の解読はひとつではないので、本書のテーゼをめぐって活発な論争につながればさらによいと思う。著者もそれを期待しているに違いない。その意味で、本書は龍馬ファンの必読書である。


1 幕末維新史には関係ないが、ついでに紹介しておく。薩摩に滞在していた龍馬とおりょうが二人で霧島登山に出かけたことはよく知られているが、柴瀾の作品では、おりょうが書生を連れて登山し、天の逆鉾をひとりで抜いたことになっている。本書によれば、柴瀾は実は「急進的な女権拡張論者」で、おりょうをその模範例として描くことによって女権拡大を図ろうとしたのだという(同書、177-181ページ参照)。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年06月07日

『愛国心』清水幾太郎(筑摩書房)

愛国心 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「民主主義による愛国心の合理化は可能か」

 本書(清水幾太郎著『愛国心』ちくま学芸文庫、2013年)は、1950年に出版された岩波新書の文庫化である。復刊の経緯は知らない。著者の清水幾太郎(1907-88)は、当時「岩波文化人」として最も人気のあった論客のひとりであり、本書もその頃の著者の立場を反映した内容となっている。もちろん、同じ主題について晩年に書いていたら別の本になっていただろうが、著者の思想遍歴については優れた研究(竹内洋『メディアと知識人』中央公論新社、2012年)があるので、ここでは触れない。むしろ本書を読む意義は、私たちが「愛国心」という言葉で表現してきた思想の起源・変遷・未来についての簡潔で要領を得た知識を得ることにあると思う。


 著者は、愛国心の歴史を、未開社会の「エスノセントリズム」(民族中心思想)から、古代(ギリシャの都市国家のような「祖国」への愛情と奉仕)と中世(特殊な発達を遂げた各集団への忠誠という意味での愛国心)を経て、近代社会における民主主義によるその合理化への過程として捉えている。
 このようにまとめると簡単なようだが、もちろん、現実の流れはもっと複雑である。例えば、未開社会の「人間の原始的非合理性」は、近代社会では消滅しているのかといえば、もちろん、そうではない。著者はいう。「一般に社会生活のうちに危機が生ずる時、今まで隠れていた原始的傾向は突如として姿を現す。追いつめられた人間は、一方、合理的工夫をすると同時に、他方、混乱の極、原始的傾向のままに動こうとする」と(同書、059-060ページ)。その直後にファシズムへの言及があるが、1950年刊行の本だから、「ついこの前」の歴史的な事実について語っているのである。

 本書の中でとくに興味深いのは、フランス革命前後のフランス人が「愛国心」という言葉を「自由主義的精神の持主」の意味で使っていたという指摘である。「国民」という言葉も「自由主義的精神の所有者の全体」の意味であり、「祖国」も「この精神の所有者の住む土地」の意味であったと(同書、099ページ参照)。それゆえ、現代からみると、滑稽なことが起こっていた。

「当時の保守派は自ら愛国者と名乗らぬように気を配り、進歩派は自ら愛国者と称しただけでなく、保守派からも愛国者と呼ばれていた。・・・・・この用語法は、フランス革命の国際的意義に相応しく、やがて他のヨーロッパ諸国にも波及した。1787年、オランダの共和主義者たちは『祖国と自由のために』という旗印を掲げ、彼らは自ら愛国者と号した。オランダ史は当時の運動を『愛国者革命』と呼んでいる。ロシアでは、士官が愛国者と呼ばれただけでアレキサンドル一世の不興を蒙り、コーカサスへ送られるに十分な資格となった。」(099-100ページ、ただしオランダ語を含んだ部分は削った)

 だが、もちろん、著者にとって最も関心があったのは、近代の愛国心と民主主義との関係だろう。前に触れたような「民主主義による愛国心の合理化」への期待は、ここで展開される。

「もし今日の愛国心が多少とも近代の文明人に相応しいものであるとすれば、近代の民主主義がこのエスノセントリズムに合理化を施して、その原始的な棘を抜き取っているためである。この傲慢、偏狭、残忍を除去ないし緩和しているためである。交通機関やジャーナリズムの発達もみだりに軽視すべきではなかろうが、しかし最も肝要な問題は民主主義にある。万一にも民主主義という要素を欠くならば、たとい飛行機が日常の交通機関になろうとも、テレヴィジョンがジャーナリズムの手段になろうとも、吾々の愛国心は未開社会の先祖と同じレヴェルに立つエスノセントリズムであるのほかはない。吾々の愛国心は昔ながらの傲慢、偏狭、残忍を特質とするのほかはない。」(同書、101-102ページ。ただし、一部の漢字はひらがなに置き換えた)

 当時の著者にとっては、「民主主義」という言葉は、「寛容の精神」「経験の尊重」「平等の拡大と充実」という言葉と結びついていたのだろう。著者は、それらが簡単に実現されたとは決して言っていない。むしろ困難に立ち向かいながら徐々に実現されてきたといってもよいが、それでも、著者は、民主主義に固有の「平和的方法」に期待をかけているように思われる。「野生的な力は、これを抑圧している機構が崩れれば、自然に流れ出す。だがこれを平和的に、即ち寛容な方法で処理するには、永い間の経験が要る。努力が要る。反省が要る。この経験、努力、反省を現に持っているところに、また持とうと企てるところに、偉大な個人及び偉大な民族の証拠がある。自然の野生的な力のままに押し流されるところに、未開人そっくりの憐れな個人、憐れな民族の証拠があるのである」と(同書、114ページ)

 だが、この国で「愛国心」という言葉を聞くと、著者は「ついこの前」の歴史的な事実を思い浮かべるのだろう。「日本の場合、愛国心は専ら天皇への愛情と奉仕とであった。愛情というような人間的な表現さえ不適当であった。天皇に対する絶対的な崇拝及び尊敬が吾々の愛国心の内容であった。それは人間的なものであるよりは、神秘的なものであった」と(同書、128ページ)。つまり、明治以来の日本の愛国心は、民主主義による合理化の過程を経ていなかったのだ。ここにわが国固有の問題が潜んでいると言いたいのだろう。「民主主義」に大きな期待をかけ、そこから戦後日本の明るい未来を描きたい著者の意図は十分に伝わるものの、随所に、それを不気味に脅かす「エスノセントリズム」の残照への言及が顔を出す。

「人間は超個人的集団の懐に抱かれたいという原始的欲求を有し、自己の反省と責任とにおいて生きるという重荷に堪えられぬ時がある。平穏の日なら別であるが、苦難と危機とが迫って来る時、人間はこの重荷を投げ出して、巨大な集団に身を託し、上からの命令のままに動きたいと思い始める。この集団を自己の膨張したものと感じ、この命令を良心及び判断の代用品として感ずる。元来、人間の精神にはこのような傾斜がある。」(同書、152-153ページ)

 それにもかかわらず、著者は、愛国心と結びついていた戦争が問題解決の方法としての意義を次第に失いつつある最近の傾向に望みを託している。もちろん、現代からみれば、楽観主義的であったと言われても仕方があるまい。だが、留意すべきは、著者が「平和」とは単なる現状維持ではなく、「問題解決の方法」なのだと力説していることである。

「真に平和と呼ぶべきは、他の場合に戦争を通じて処理された、その問題を平和的に解決する方法のうちに横たわっている。暴力を避け、現状に潜む困難を除去し、充足を妨げられていた欲求に満足を与えること、それが真の平和というものである。平和とは、平和的方法によって現状を打開することである。方法としての平和とは、前に述べた如く、民主主義に固有な方法を指すものにほかならない。あくまで平和的方法に頼りながら、しかも平等の拡大と充実とを実現して行くところに、民主主義の発展があるのである。」(同書、184-185ページ)


 本書は、初めに述べたように、戦後まもなく著者が「岩波文化人」として論壇における輝ける星であった頃の作品である。晩年の思想は、本書の立場とは異なるだろう。だが、全体を通読して、「愛国心」という言葉で語られてきた思想やイデオロギーなどを整理するには格好の読み物となっていると思う。もともと「岩波新書」として出版された本が「ちくま学芸文庫」として甦った理由はわからない。「学芸」というよりは「ちくま文庫」に収録されても不思議ではない内容だからである。もしそれが「学芸」とふつうの「文庫」の間の垣根がなくなったことを意味するのなら、喜んでよいのかどうか迷ってしまうが。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年05月13日

『ヴォルガのドイツ人女性アンナ―世界大戦・革命・飢餓・国外脱出』鈴木健夫(彩流社)

ヴォルガのドイツ人女性アンナ―世界大戦・革命・飢餓・国外脱出 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「ヴォルガ・ドイツ人女性の苦難の物語」

 本書(鈴木健夫著『ヴォルガのドイツ人女性アンナ--世界大戦・革命・飢餓・国外脱出』彩流社、2013年)の主人公アンナ・ヤウク(1889-1974)は、ロシア・ヴォルガ地方のドイツ人移民の富裕な農家に生まれた女性である。彼女は、苦難の末にドイツへ脱出し、のちにドイツ語で『ヴォルガ・ドイツ人の運命―ボリシェヴィズムに破壊された故郷の滅亡を生き延びたひとりの在外ドイツ人の体験』(1937年)と題する手記を筆名(アンナ・ヤネッケ)で出版したが、本書はその手記をもとにヴォルガ・ドイツ人が歴史的にどのような運命を背負って生きてきたかを紹介しながら、「20世紀の人類の歴史にあって忘れてはならない現実の一端」(同書、11ページ)を映し出そうとした好著である。

 ヴォルガ地方へのドイツ人移民は、エカチェリーナ一世(1684-1727)の時代、彼らの進歩的な農業の経営と技術を採り入れるという目的で政策的に進められた。当時のヨーロッパのほとんどの国はエカチェリーナの入植誘致政策には敵対的な態度を示したが、西南ドイツの小さな領邦や帝国都市などのように国民の国外移住への禁止や規制の緩かったところでは、ロシアに新天地を求めようとする動きが出てきた。著者によれば、「長年の戦争による荒廃、兵役、圧政、飢餓、貧困、人口増加による土地不足、宗教上の不寛容などが、移住の要因となっていた。『ロシアでは自分たちと同じドイツ生まれの、美しい若い女帝が誘ってくれている』と受け取られた」という(同書、18ページ)。
 こうして、1764年以降、ドイツ西部の中央部(ヘッセンなど)から南部(ヴュルテンベルク、バーデンなど)にかけての地域を中心にロシア移住への大きな流れが生まれた。ヴォルガ地方への入植者は、短い期間(1767年から68年)に2万3千人から2万9千人にものぼったが、入植は南ロシアや黒海沿岸などの方面にも活発となり、アレクサンドル二世(1818-81)の時代の1858年には、ロシア国内のドイツ人の人口は84万3百人(総人口の1.1%)に達したという。
 アレクサンドル二世は、クリミア戦争の敗北後、「上からの改革」を強力に推し進めた皇帝として知られるが、ドイツ人移民に対しても従来の法的特権や特別行政を廃止し、兵役を課すなど、「ロシア帝国の臣民」になることを求めた。さらに、アレクサンドル三世(1845-94)の時代には、国内の非ロシア民族に対する徹底したロシア化政策が推進されるようになり、ドイツ人入植者にもロシア語が強要された。19世紀末にはロシア国内のドイツ人は177万人余に達していたというから、決して少なくない人数である。


 アンナ・ヤウクは、1889年、ヴォルガ河からかなり東に奥まったところにあるオーバードルフ村(ロシア名はクプツォヴォ)の豊かな農民の家に生まれた。時代の流れとともに土地利用制度の変化はあったが(ロシア的な共同体的土地利用から西欧的な土地利用秩序への移行)、アンナの父親は耕地と牧草地を合わせて300エーカーを所有し、さらに近くの国有地を12年契約で賃貸しながら大規模な農業経営を営んでいたというから、彼女はいわゆる「クラーク」(富農)と呼ばれる家に生まれたことになる(だが、のちのロシア革命後、クラークは追放の対象となる)。
 だが、1905年9月20日、突然の悲運がアンナを襲った。アンナの村では結婚式で新郎新婦を祝うために大空に向けて銃を発射する習慣があったが、アンナの兄ハインリッヒが発射したはずの銃がなぜか発火しなかった。兄は一度地上に向けて撃ってからやり直すようにという隣人のアドバイスに従おうとしたところ、その銃弾が庭のリンゴをもいでいたアンナの左脚に命中してしまったのである。重傷であった。アンナは、結局、左脚を切断することで命を取り留めた。それからアンナは義足での生活を余儀なくされるのである。
 左脚を失っても、アンナには夢があった。小さい頃から裁縫が得意だったので、その仕事で独り立ちしたいという夢である。両親は当初反対だったが、ヴォルガ左岸の町に住む義兄の説得もあって、その町の裁縫学校で学ぶことができた。そして、1911年、22歳で自分の裁縫学校を開くまでになる。アンナの夢は膨らみ、いつかサラトフにドイツ人家政学校を開設したいとまで思うようになった。


 ところが、1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。この戦争でドイツはロシアの敵国となり、ロシア在住のドイツ人も敵国人の扱いを受けた。しかも、若者は「ロシア軍兵士」として母国ドイツとの戦争に駆り出されたというから、二重の苦しみを味わされたことになる。アンナの兄たちも戦場へと駆り出された。
 著者によれば、大戦勃発後、ゴレムィキン首相は、「われわれはドイツ帝国に対してだけでなくドイツ人に対して戦争を遂行するのだ」と通告し、ニコライ二世(1868-1918)の勅令(1915年2月2日)に基づいて、「ドイツとの国境に近いロシア西部・南部に居住していたドイツ人に対して、強制的な財産没収、知識人(牧師、教師、法律家など)の逮捕、ヴォルガ地方・ウラル地方・シベリアへの追放が行われた」という(同書、42ページ)。ロシア西部から全体で50万人が追放されたという数字も残っている。
 しかし、ヴォルガ・ドイツ人も安泰ではなく、彼らのシベリアへの強制移住も着々と準備されつつあった。強制移住の決定は、ヴォルガ・ドイツ人を絶望に陥れた。アンナの手記には次のような文章が綴られているという。引用してみよう。

「ある日曜日、牧師たちは説教壇から、長いこと準備され今や公表された追放令を読み上げた。各家族は、衣類と必要な家具以外は一頭の家畜のみを持って行くことが許され、家と屋敷は国家の所有となる。これは残酷な仕打ちである。はじめすべての人びとは無言で跪き、祈った。しかし、つぎには絶望感が広がった。『なにゆえに私たちの祖先はこの地にやってきたのか。なにゆえにドイツに留まってくれなかったのか』。出発の日はまだ決められていなかったが、毎日、それを覚悟しなければならなかった。」(同書、43-44ページ)

 ところが、この強制移住計画が実行に移されることはなかった。なぜなら、まもなくペトログラート(旧サンクト・ペテルブルク)に二月革命(1917年)が起こり、ロマノフ王朝が崩壊したからである。だが、その後、十月革命によって、レーニンを指導者とするヴォリシェヴィキが権力を掌握し、社会主義の建設へと進み始めた。そして、今度は富裕者からの財産没収が始まったのである。ヴォルガ・ドイツ人地域も例外ではない。もちろん、革命や社会主義建設はすべて順調に進んだのではない。1921年の春頃までは、内戦(つまり、赤軍と白軍の戦い)が各地で続き、混乱がやまなかった。だが、アンナは、赤軍による略奪行為を決して忘れなかった。手記にはこうある。

「『略奪されたものを略奪せよ』というレーニンのスローガンによる財産没収は貧しい人びとの正気を失わせた。赤軍兵は、いまや突然主人となり、すべてが自分たちのものだと考え、略奪した。烏合の衆が商店や家に駆け込み、主人を脅迫することが日常茶飯事となった。人びとは、通りに投げ出された略奪品を奪い合った。かつてアンナの家で洗濯婦として真面目に働いていた女性もこの狂気にとらわれ、窓に掛けてあった衣類をひったくり、叫んだ。『いまや金持ちの衣服で私の身体を包んでみるのだ』と。」(同書、53ページ)


 財産没収が大きな痛手であったことはいうまでもないが、内戦のあと、日照り続きのために凶作となり、恐るべき飢餓がやって来た。その上、伝染病(とくにチフス)も蔓延するようになった。ロシア全体で何百万もの人が死んだにもかかわらず、「新政府は市民の生活は放置し、新しいイデオロギーの浸透こそを最大の課題とした」とアンナの目には映った(同書、64ページ)。
 なんとかせねばならない。アンナは、なんと、このまま餓死するよりはドイツへ脱出(もちろん不法に国境を越えるのである)しようという危険を伴う冒険を選択する。これは苦難の道であった。詳細は本書に譲るが、1921年10月25日に家族に別れを告げてから、なんとかフランクフルトに到着(1922年4月28日)するまで約半年もかかっている。三名の連れがいたとはいえ、義足で森の中を徒歩で国境を越えるというのがどれほど大変か、想像に難くない。しかも、ポーランドに入国できたとホッとしたのもつかの間、宿を貸してくれた家の主人が「厄介なことにならないように」警察に通報したので、突然二人の警官がやって来た(同書、77ページ)。
 その後は、各地の刑務所や収容所を転々としたが、その間、食事は乏しくシラミが出るような不衛生な部屋のなかに拘留されたので、途中で病死しても不思議ではなかっただろう。実際、同行のひとりはチフスにかかり、もう少しで死ぬところだった。もしアンナたちのためにドイツ入国に必要な書類が届かなければ、どうなっていかはわからない。アンナたちを支援したのは、ドイツにいるヴォルガ・ドイツ人や、大戦中アンナの家で世話していたドイツ人捕虜などだが、彼らはまさに「救いの神」であったと言えよう。

「やがて列車はポーランドからドイツへの国境に向かった。アンナは、窓からの景色を食い入るように眺めた。畑は豊かで、よく耕されており、なんとすばらしいことかと思った。ロシアでは1918年以来土地は十分に耕されないままであり、ヴォルガ地方からミンスクまではそのような寂しい風景が続いていた。同行してきていた看護婦が叫んだ。『いまドイツの国境を越えています』。車内には喜びの歌声がわきおこった。」(同書、88ページ)


 アンナたちがドイツに脱出したあと、ソ連ではスターリンによる農業集団化と工業化政策が急ピッチで推進されたが、1930年代のはじめ、ソ連は再び大飢饉に見舞われた。アンナの両親も兄妹も飢餓に苦しみ、財産を没収された両親はまもなく亡くなった。アンナは、飢えに苦しむ兄妹のためにドイツから何度も送金したが、「私たちはまだ生きています」という返書を受け取るたびに暗い気持になった。
 アンナがその後ドイツでどのような生活を送ったのか、手記から詳細は分からないという。しかし、著者は次のようにいう。「ともあれ、アンナの、そして彼女の家族の悲劇は、ロシアの富裕者『クラーク』すべての悲劇であったとも言えよう。このことを自覚するアンナのボリシェヴィキ批判は手厳しい」と(同書、107ページ)。もちろん、「クラーク」として生まれたひとりの女性の手記だけをもとに共産主義体制を糾弾することはできないだろう。だが、アンナの生涯は、著者もいうように、「第一次世界大戦、ロシア社会主義革命、内戦、大飢餓、農業集団化、そして再び大飢饉という、激動の時代を映す貴重な証言となっている」ことは確かである(同書、109-110ページ)。
 歴史の大きな流れを鳥瞰する仕事も大切だが、アンナの手記に描かれたようなミクロの視点も忘れてはならない。本書はそのことを語りかけているように思われる。


→紀伊國屋ウェブストアで購入