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2017年05月15日

『足利尊氏』森茂暁(株式会社 KADOKAWA)

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「優柔不断?の武将 足利尊氏」

 足利尊氏は、日本史のなかで最も関心のある武将のひとりである。稀にみるリーダーシップとか人間業とは思えない戦上手とか、そんな観点からは別の武将の名前がすぐに思い浮かぶが、私が尊氏に関心があるのは、彼が南北朝時代という二つの朝廷が対立しあうという特異な時代をつくりながら、後醍醐天皇を畏敬する心だけは生涯持ち続けるという傍目には矛盾するかのような二つの顔を併せ持っていたからだ。それでいて自分では少しも矛盾しているとは思わなかった不思議な武将であった。

 本書(森茂暁著『足利尊氏』角川選書、2017年)の著者は、すでに同じシリーズで『足利直義』(角川選書)を著しているので、併読すれば、足利兄弟の政治・軍事上の役割分担をより詳しく知ることができる。本書にも、尊氏が発給した文書(袖版下文、御版御教書、寄進状)と、直義が発給した文書(下知状、下文、軍勢催促状、感状、御祈御教書、寄進状など)を比較して、尊氏の文書が勲功の武士への恩賞地の給付、守護職の補任、所領の預け置きなどに関係したものに集中しているのに対して、直義の文書は所領の安堵、軍勢催促状、寺社に対する祈祷要請に関係したものが大部分だという基本的な違いがあることが指摘されている。これは、「二頭政治」と呼ばれたように、尊氏が軍事面、直義が政務面を担当するという役割分担から生まれた違いだが、その思想的背景は、著者によれば、直義の「仏教思想に基礎をおいた政治思想」にあった(本書161ページ)。まだ中世の御代だから、戦乱で亡くなった多くの名もなき者の怨霊を鎮魂し、正しい政治をおこなおうという意図は確かにあっただろう。全国への安国寺・利生塔設置という大事業は、尊氏の支援を受けた直義主導の政策であったと。

 これほど仲のよかった兄弟が、それぞれの側近たちの思惑や利害の対立も複雑に絡まって観応の擾乱に至るというのが何ともやるせないが、尊氏派(より直接的には高師直派)と直義派との対立の芽は、それ以前の佐々木高貞の出走事件や土岐頼遠の濫妨狼藉事件にあったという(本書171-172ページ)。だが、このような擾乱は、尊氏が当初から征夷大将軍として全権を掌握していていれば起こりえなかったとも言える。尊氏には、たとえその意図はなかったとしても、自らの行動がどのような影響を及ぼすのか、深謀遠慮が足りなかったといわれても仕方がない。そういえば、もっと前にも、後醍醐天皇の許しを得ずに鎌倉に下り、中先代の乱を鎮圧した時点で、建武政権とはきっぱりと手を切らねばならないはずなのに、後醍醐天皇への畏敬の念が災いし、なかなか土壇場まで決断できなかった。よきタイミングで決断できなかった「優柔不断」な性格が、観応の擾乱そして結局は直義の殺害という悲劇を招いたと言ってもよいかもしれない。

 直義は憎くて殺したわけではない。後醍醐天皇にも不満があって背いたわけではない。すべてそれ以外の選択肢がない状況で決断せざるを得なかったのだ、と尊氏が思っていたとしたら、この人は本質的に政治家には向いていなかったのではないだろうか。それとも、直義を排除したあと、晩年の尊氏は二代目の義詮への権力移譲をなんとか実現してしまうのだから、強運の持ち主だったというべきなのだろうか。

 著者は、尊氏は決して「逆賊」ではないと結論づけている。同感である。文書にみる限り、尊氏は後醍醐天皇を決して「追討」や「誅伐」の対象にしたことがないどころか、政治的・軍事的に対立するようになってからも畏敬の念を捨てたことがないし、なくなってからも追慕し続けた。まことに不思議な武将である。本書の後ろのほうに尊氏の和歌が一首紹介されているが、それこそまさに「優柔不断」の武将たる尊氏を象徴するような歌ではないだろうか(238ページ)。

    いそぢまでまよひきにけるはかなさよ
    ただかりそめの草のいほりに



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2017年05月07日

『僕は奇跡なんかじゃなかった ヘルベルト・フォン・カラヤン その伝説と実像』カール・レーブル(音楽之友社)

僕は奇跡なんかじゃなかった ヘルベルト・フォン・カラヤン その伝説と実像 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「カラヤンの孤独」

 好き嫌いは別として、クラシック音楽のファンでカラヤンの指揮する曲を聴いたことがないひとはほとんどいないだろう。もっとも、現代の人気指揮者ドゥダメルの影響でクラシック音楽を聴き始めた若い人もいるかもしれないが、カラヤンほど名の通った指揮者はそういるものではない。
 巷にはカラヤン本は多いが、ほとんどは親カラヤンか、反カラヤンのどちらかの立場で書かれている。その分類でいえば、本書(カール・レーブル『僕は奇跡なんかじゃなかった ヘルベルト・フォン・カラヤン――その伝説と実像』関根裕子訳、音楽之友社、2017年)は前者に属するといえるが、決してカラヤン礼賛にばかり傾いているのではない。むしろ比較的近いところにいなければわからなかったことを書いてくれたのは貴重だと考えたほうがよい。

 カラヤンは、頭角を現し始めた頃、フルトヴェングラーに嫉妬されベルリン・フィルから干されたと書いてある本は多いし、事実そうだったかもしれない。初期にはトスカニーニ流のザッハリヒな(新即物主義的)演奏を好んでいたともよく言われていたので、カラヤンはフルトヴェングラーの対極に位置すると思われがちだった。だが、カラヤンを長く聴いた人なら、彼の演奏スタイルが時間とともに微妙に変化していったのに気づくに違いない。本書の著者も、本人の口からそれを言わせたかったのだろう。ようやく1988年に本人から次のような言葉を引きだすのに成功した。

 「僕はフルトヴェングラーのロマンティックなファンタジーと、トスカニーニの完璧さを結びつけたかった。この二人は一見両極端だけど、そこから僕は何かを生み出したかったのさ。」(本書55ページ)

 具体的にどの曲の演奏を指すのか何も触れられていないが、それを想像するのもファンの楽しみのひとつだろう。

 カラヤンほど高名な指揮者になると、ちょっとした欠点でも大袈裟に語られやすい。本書にも、彼と作品の解釈その他で対立したオペラ歌手が数名出てくる(ビルギット・ニルソンやルネ・コロなど)。とくに後者は解釈のことでカラヤンと「議論」がしたかったのだと言っていたらしい。現代ならたぶん指揮者と歌手の間でそのような関係も成り立つのだろうが、カラヤンの時代は、「解釈」について全責任を負うのは指揮者以外にはいないと思われていたのではないだろうか。少なくともカラヤンはそう考えていたから、「上意下達」のような形式になったわけだ。別に珍しい現象ではない。
 半面、カラヤンの功績のほうは、数行でスルーされやすい。だが、ウィーンでのオペラ上演を原語でおこなうように徹底したこと(これはいまでは「世界標準」となっている)、もともとコンサートのためのオーケストラだったベルリン・フィルを起用してオペラの上演もできるようにしたこと、等々は、カラヤンがリーダーシップをとらなければできなかったか、もっと遅れていただろう。

 カラヤンは何でも暗譜で、しかも目を瞑って指揮したので、よく「カッコつけすぎ」だと揶揄されたが、彼がいうには、「大きな長所があるからだ。作品の精神に触れるためには作品に集中して取り組まなければならない。暗譜による指揮というのは記憶力によるものではない。あれこれ考えず、もっとも内奥にある何かを再現するということだ」と(本書148ページ)。

 かつてはクラシック音楽界の「帝王」と呼ばれたカラヤンも、歳とともに肉体は衰え、手術した回数も数知れない状態だったが、その上、ザビーネ・マイヤー事件その他いろいろな原因が重なって、最晩年は長年率いたベルリン・フィルとも決裂した。内心は寂しかったのではないか。カラヤンの運転手をつとめた人はいう。「彼が驕慢に見えたのは、メディアの前だけです。プライベートでは、全く違う人間でした」と(本書162ページ)。また、執事をつとめたイタリア人はいう。「彼には二つの人格があったのです――偉大な音楽家としての人格と、その背後にいる一人の人間としての人格です」と(本書163ページ)。
 真相はじかに彼に触れたひとでなければおそらくわからないだろう。だが、著者が、「実際のカラヤンはシンプルな人間に見えた」というのは、当たっているのではないか(本書164ページ)。死後の埋葬も近親者のみのシンプルなものだった。

 「最後の安息の地は、生前の彼からは想像もできないほどつつましいものとなった。」(本書177ページ)

 「帝王」というのは、いつの時代にも孤独なものだ。
 


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