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2017年04月03日

『演奏と時代 指揮者篇』吉井亜彦(春秋社)

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「指揮者を通じて「演奏と時代」を考える」

 本書(吉井亜彦著『演奏と時代:指揮者篇』春秋社、2017年)は、最近の音楽評論のなかで最も共感しながら読んだ一冊である。音楽評論家としての吉井亜彦氏の仕事は学生時代から読んできたので、いまさら紹介するまでもないだろう。時代の流行に左右されず、決してぶれない批評を書き続けた貴重な存在である。

 20世紀の名指揮者といわれる人たちは、程度の差はあれ、「専制君主」のようにオーケストラを統率するタイプが圧倒的に多かった。カラヤンが「帝王」と呼ばれたことはよく知られているが、著者が取り上げているジョージ・セルもフリッツ・ライナーも同じくらい「独裁型」の指揮者だった。だが、今日では、指揮者がオーケストラを一方的に「支配」しているような例はなくなり、これも程度の差はあれ、オーケストラのメンバーが指揮者とともに重要な意思決定に「参加」しているというか、より「民主的」な組織運営がなされるようになっている。ところが、今日の演奏芸術が古い時代よりも向上しているのかといえばそうではなく、むしろセルやライナーが「独裁型」の指揮者であった時代のほうが優れた演奏を数多くレコードやCDの形で後世に遺している。悩ましい問題である。

 「『和を以って貴しとなす』というのは、いつ、いかなる場合においても大切な考え方、態度だと思うけれど、こと我々人間の創造行為である『芸術』にあっては必ずしも万能であるとはいい難い。『和』とはおよそ縁も由縁もないような芸術家、あるいはその作品に心を強く奪われるような経験は、恐らくだれもがしているはずである(いうまでもなく、『和』と縁のあるものに感動することも普通にあることだ)。」(本書、35ページ)

 もちろん、だから昔に返れというわけではないが、それでも著者は敢えて、「オーケストラはどうあるべきなのか、音楽のもつパワーとはどれだけのものがあるのか、人間の貴重な創造行為である『芸術』の意味とは何なのかを、もう一度あらためて考えてみたいと強く思うのである」と言っている(本書、38ページ)。とここまで書いてきて、私は、吉井氏が昔読んだ音楽雑誌でマゼールの初期の録音に好意的な評価をしていたのを思い出した。私も初期のマゼール(とくに、ベルリン放送交響楽団を振ったバッハやモーツァルトやヘンデルなど)が結構好きだったので、よく覚えている。本書にもマゼールが登場するが、吉井氏が書いていることを読んで考え込んでしまった。
 マゼールは「神童」として出発し、ウィーン国立歌劇場総監督の地位まで順調に出世してきたが、「ポスト・カラヤン」の大本命だったにもかかわらず、ベルリン・フィルの音楽監督の地位をアバドにさらわれてしまったところから、「ボタンの掛け違い」が生じた。吉井氏は、マゼールが「優等生」というよりは「勇猛果敢」な表現意欲で次々にレコードをつくっていた若い頃の仕事ぶりを高く評価するという意味で音楽評論家の中ではむしろ「少数派」だったように思うが、それだけに、ベルリン・フィルにふられた後の彼が、いくつかの重要なポストを歴任しながらも、まっとうに「成熟」できずに終わったことを遺憾に思っているようである。少し厳しい評価かもしれない。私は、ウィーンに移る前のクリーヴランド管弦楽団やフランス国立管弦楽団との仕事もよく聴いていたが、多少抑制されているとはいえ、随所に「マゼール節」が登場するのを楽しみにしていた。だが、最近、ベルリン放送交響楽団時代のドヴォルザーク(交響曲第9番、いわゆる「新世界」交響曲)を聴く機会があって、吉井氏が「50年代、60年代のヨーロッパ時代の彼の音楽にあった内的緊張感の強さ、大胆なまでの表現力などからすると、何か今ひとつ及ばないところがあるように思えないではない」(本書、47ページ)というのも的外れではないように思えてきた。「ボタンの掛け違い」をしてしまったマゼール論を読んだのは初めてである。

 では、カラヤンの後継者としてベルリン・フィルを率いるようになったアバドへの評価はどうなのか。アバドの録音では、彼が比較的若い頃、ロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団を振ったモーツァルトやマーラーなどを好んで聴いていたが、吉井氏のアバド評価は、もちろん「優等生」なのだけれども「特徴がない」という厳しいものである。いや、晩年の演奏でルツェルン祝祭管弦楽団を振ったマーラーやブルックナーなどは素晴らしかったではないかと反論したくもなってくるが、ベルリン・フィルとの仕事でアバドでなければ決して満足できないものがあるかといえば、それは正直心もとない。吉井氏は彼も「成熟」しそこなった指揮者だというのである(本書、64ページ)。
 それとは正反対に、時とともに「成熟」していった指揮者として、吉井氏はハイティンクの名前を挙げている。ハイティンクのレコードやCDはたくさんあったので、私もそれなりに多く聴いてきているが、正直、心から感動した演奏はなかった。だが、若い頃から現在に至るまでの録音(彼はカラヤンと同じように同じ曲を何度もときにはオーケストラをかえて録音している)を聴き込んだ上で、吉井氏は、「スター街道では少しばかり遅れをとっていたハイティンクだが、成熟という点においては長い時間をかける亀のような進み方によって、いつしか二人(マゼールとアバドのことーー引用者)を抜き去っていったのである」と言っている(本書、68ページ)。
 もちろん、吉井氏は、「成熟」したからよいとか、「成熟」しなかったから悪いとか、決してそんなことは言っていない。むしろ吉井氏の好みは、初期のマゼーのような「アクの強い」音楽づくりのほうにあるはずだ。だが、「地味ながらも、長い時間をかけてじっくりと事を成していくという、まさにビルドゥングスロマンの本来あるべきかたちを地で行ったようなハイティンクの音楽活動に対し、ぼくは大いなる敬意を表したいと心から思うのである」という(本書、69ページ)。この文章も、ハイティンクがベルリン・フィルを振ったマーラーの録音(とくに、第3番と第7番)を聴く前であったら肯けなかったが、それを聴いた今となってはある程度理解できる。昔のコンセルトヘボウ管弦楽団とのマーラーは、あまり特徴のない演奏だった。

 本書には、他にもジュリーニ、チェリビダッケ、小澤征爾など有名な指揮者がたくさん登場しているが、私は、吉井氏とは違って「成熟」したとか、優秀だけれども「マンネリ」だとか、そんなことはあまり意識せずに聴いてきた。自分の耳で聴いてよかったら「満足」、いまひとつだったら「残念」と思ってきたくらいである。吉井氏のように長年演奏を聴いているとこんな聴き方もあるのかと感心した。だが、本書の書評としては、上に書いたことだけでは十分ではない。朝比奈隆が登場するときが来たようだ。

 朝比奈隆は、わが国が誇る指揮者の一人であり、とくに初期からブルックナーの交響曲の演奏に情熱を傾けたことでつとに有名である。たまたま行ったことがあるコンサートでも、熱狂的なファン(それも多くは若者たち)がいるのを発見した。吉井氏も、そのような朝比奈の「熱狂的な」ファンの存在には驚きを隠せなかったようだ。そして、それを、価値観が多様化した今日における「家父長」的なものへのノスタルジーとして捉えているのが秀逸である。

 「朝比奈隆のつくり出した音楽、その指揮姿は、今日ではすでに記憶の中にしか存在しなくなってしまったような『家父長』への遥かなノスタルジーでもあったのだ。その言葉に対し我々が多くを負っていることを、その場に居合わせた人の多くは朝比奈隆の音楽と彼の指揮姿から聴取、看取したのであろう。『家父長』などという厄介な言葉が、たんなるイデオロギー的な側面を大きく超えようとした一瞬でもあった。」(本書、212−213ページ)

 言われてみれば、あの堂々たる体格と無骨な指揮ぶりは「家父長」の名に値するものであった。本書を読むまで、「家父長」という言葉遣いを忘れていた。

 さて、本当は最初に指摘するべきだったかもしれないが、本書を貫いているのは、一つの「危機意識」であった。それは、インターネットを初めとする情報通信技術の発達によって、音楽が「レディーメイドの厖大な量の情報」として現れるようになり、かつて各人が一人で自立する形で向き合ってきたものではなくなりつつあるという危機感である。これを指揮者論として展開したのが本書だとも言えるが、吉井氏もまだ時代の行き着く先が不透明なのであくまで試論であるとことわっている。だが、「試論」とはいえ、上に書いてきたように吉井氏の主張は明快である。音楽評論であると同時に、指揮者を通じて「演奏と時代」を浮き彫りにした好著である。


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