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2016年11月06日

『空のささやき 鳥のうた』きしもとタロー(雲水舎)

空のささやき 鳥のうた →紀伊國屋ウェブストアで購入

「『音楽する』とはどういうことなのか」

 音楽家で文章が書ける人は少ないが、この本(正確にはCDブックだが)、『空のささやき 鳥のうた』(雲水舎、2013年)の著者、きしもとタローさんは例外だ。しかも、ただ「文章がうまい」というのではなく、現代の資本主義社会にどっぷり浸かっている私たちには耳の痛い文章が次から次へと綴られている。私はとくに経済学を専門にしているので、きしもとさんの言いたいことが市場経済至上主義批判にもなっていることはすぐにわかる。だが、きしもとさんの矛先は、世間でふつうに「音楽家」とか「芸術家」とか呼ばれている人たちの「音楽する」姿勢にも向けられているので、問題はそう単純ではない。

 きしもとさんがふだん演奏しているのは主に各種の笛やギターだが、子どもの頃、百貨店の邦楽器ショップにあった尺八を吹いてみて笛に関心をもったとき、それを自分で作ってみようと思ったのが面白い。「自分の楽器を自分で作る」という発想は、良家の子女が高価な楽器を親に買ってもらって有名な音楽家のレッスンを受けるという英才教育とは出発点が全く違う。手作りには難しいような楽器ではなかったという幸運もあるが、現代は何でも出来合いのものを簡単に買えるので、「音楽する」環境が手作りから始まったという経験は、きしもとさんのその後の人生に大きな影響を与えたに違いない。「人々の手が届きやすい所に置いておこうとする社会は、『文化が今尚、人々の近くにある社会』なのではないだろうか」(本書152ページ)という言葉は言い得て妙である。

 私にも音楽家の知り合いはごく少数いるが、きしもとさんのようにものの根源から考えようとする、まるで哲学者のような文章を書く人は一人もいない。参考文献が挙げていないので、ふだん考えていることを綴っているに違いないが、「全ての現象は、目の前の世界がいつも『それ以上』であることを、知らせている」(本書112ページ)という見出しを見たときは、これから一体どういう展開が待っているのかと身構えてしまった。だが、書いてある内容は突拍子もないことではなく、自然を愛し、飾り気のないものに囲まれたきしもとさんなら書きそうなことだった。

 「笛という楽器も、小さな管である。人間が笛を吹く時、人間と笛という二つの管がつながり、それまで見えなかった空気、見えなかった息が、音色やメロディーとなって放たれる。笛と人間が一つの『通り道』となって、駆け巡る空気をその内に通し、あちらとこちらの世界をつないでいる。見えない空気を音として鳴らすことで、その瞬間、(たとえ意識していなくとも)人間は見えないもの・・・形のないエネルギーとつながっている。」(本書113ページ)

 なるほど。きしもとさんが、本書全体を通して、「共鳴する」ことの大切さを強調している理由ものみこめてきた。しかし、きしもとさんは同時に、現代では、この「共鳴する」ことが往々にして妨害されているという危機感も表明している。「科学だろうが思想だろうが主義だろうが何だろうが、『特定範囲の、ものの観方』の中に、この世界の全てのピースが揃っている訳ではなく、全てのピースがそこに揃っているかのように思い込むのは、幻想でしかない」(本書110ページ)と。私たち学者や研究者は、例えばマルクスやケインズの思想を通して現代資本主義について語ることがあるが、そういう行為自体がものの観方の多様性を狭める可能性があることにややもすれば無頓着になりがちだ。いや、気づいてはいるのだが、いつの間にか、そういう落とし穴にはまっているというべきか。

 きしもとさんは、もちろん経済学者ではないが、「商品になると、皆が共有する『貨幣という物差し』でその価値が測れるので、その価値はより認識しやすく、受け入れやすく共有しやすくなる」(本書119ページ)とか、「『最も効果的で効率よく、力を持つ道具』・・・その代表格が貨幣である。『何かを得るための道具・手段に変貌させられるもの』・・・その代表格は、人間そのものと、社会における関わりだ」(本書123ページ)とか、マルクスの物神崇拝論やケインズの貨幣経済論などを読んだことがあるのかなと想像したくなる。だが、きしもとさんは、そういう「型」にはめようとする理解の仕方が間違っているのだときっと反論するだろう。

 私たちはふつう音楽をCDやレコードの形で聴くわけだが、最近は、録音技術が向上しているので、ときに驚くほど精妙にミックスされた音に出会うことがある。きしもとさんは、予想されるように、「最初からある程度加工することを前提として録音されている」現状にも不満を漏らしている(本書200ページ)。「加工の過程で失われる人間味・生命感」(本書201ページ)という文章を読んだとき、私は別の哲学者の名前が浮かんできた。「直観」の哲学者アンリ・ベルクソンである。ベルクソンは、対象を認識する方法は二つ(一つは「対象の周囲をまわる」方法、もう一つは「対象の内部へ入り込む」方法)あるが、前者が「相対」のうちにとどまる認識なのに対して、後者は「絶対」に到達する認識だと説いた。前者の方法は「分析」、後者の方法は「直観」と呼ばれているが、「分析」をいくら洗練させても物事の本質は捉えられない。哲学的直観のみが本質を捉え得るというのだ。
 きしもとさんは、そんな難しいことを書いているわけではないと言うかもしれない。だが、私には、言いたいことはそれほど違わないように思える。

 昔、クラシック音楽界の「帝王」カラヤンの商業主義を批判したチェリビダッケというルーマニア出身の指揮者がいた。カラヤンへの好き嫌いは別として、音楽家以外の事業家ともいうべきカラヤンの一面がそのように批判される隙があったことは確かである。きしもとさんも、「音楽家」と呼ばれていながら、音楽業界への奉仕に専念している人たちが世の中に多いことを嘆いているが、チェリビダッケが「変わり者」と呼ばれたように、きしもとさんもそうなのだろうか。

 本書は決して書評しやすい本ではない。一つの文章から多様に展開が重ねられるので、簡単にまとめにくい。それでも、本書の後ろのほうまで読み進めると、「音楽するということ」は何かという文章が登場し、光明が差し込んできた。きしもとさんは、次のように言っている。

 「では『音楽をする』とは、どういうことなのか。僕はそれは、『生き方自体を音楽的にする』ということではないかと思っている。暮らしの中の経験を全て、『音楽の経験と、同じように経験できる』ようになった時に、その人は『音楽をしている』と言えるのではないだろうか。歌を歌っていない時でも、楽器を奏でていない時でも、音楽を耳にしていない時でも、常に『音楽を経験しているかのような状態にあること』を、『音楽する』というのではないだろうか。それは言い方を変えれば、音楽のように暮らす・音楽のように生きる・音楽そのものになる・・・ということである。たとえ話や空想などではなく、人間には『実際、そういう生き方ができる』のだと、僕は思っている。」(本書285ページ)

 きしもとさんのような音楽家が京北の地に居を構え、京都を中心に活動しているというのは心強いことである。


本書の発行所 雲水舎
京都市右京区京北井戸町丸山132
電話 075-853-0232

きしもとタローさんのホームページ
http://taro.co.jp/


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