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2016年07月09日

『クロイツァーの肖像 日本の音楽界を育てたピアニスト』萩谷由喜子(ヤマハミュージックメディア)

クロイツァーの肖像 日本の音楽界を育てたピアニスト →紀伊國屋ウェブストアで購入

「二つの祖国を追われ、日本に永住した名ピアニストの生涯」

 ロシア生まれの名ピアニスト、レオニード・クロイツァー(1884-1953)は、ロシア革命のあとベルリンへ逃れベルリン高等音楽院のピアノ科教授として後進を育てたが、ドイツでナチスが台頭してくると、紆余曲折はあるにせよ、日本に永住し、ピアニストや指揮者として活躍するとともに東京音楽学校でたくさんの優れたピアニストを養成した。こう書いてしまうと簡潔に過ぎるが、いまのクラシック音楽ファンがどれほどクロイツァーの演奏記録をレコードやCDで聴いているのか、よくわからない。私自身もたくさん聴いているとは言い難い。だが、今年はクロイツァー夫人となった織本豊子(1916-90)の生誕100年に当たっているので、満を持して萩谷由喜子さんがクロイツァーの評伝をまとめることになったらしい。一読すると、クロイツァーの重要な足跡をほぼすべて知ることができる。

 第一に、ベルリン時代に日本の音楽界の要人たち(高折宮次、近衛秀麿、笈田光吉など)との交流を通じて日本との絆を深めていったこと。これがなかったら、クロイツァーが日本に永住する道は開けなかっただろう。もちろん、ベルリン時代は多忙に過ぎてピアノ科教授として赴任することはなかったが、第一回目の来日(1931年)が大成功に終わったのは、彼らの努力に負うところ大である。

 第二に、1930年代、ユダヤ人であったがゆえにドイツで公職を追われ、日本に永住するようになった事情は比較的よく知られているが、日本での当初の待遇が必ずしもよかったわけではなく(東京音楽学校での最初のポストは「講師」であった)、戦時中もユダヤ人音楽家であるがゆえに理不尽な差別待遇(日本女子大学での軟禁生活)を受けたことなどは知らなかった。新響の指揮者として来日したヨーゼフ・ローゼンシュトックとの微妙な関係もよくある話ではあるが、クロイツァーのピアニストや指揮者としての活動を制限したかのような行動は、同じ音楽家としての器の違いを感じてしまうほどだ。萩谷氏はこう嘆いている。

 「音楽家の世界は想像以上に狭隘で、競争、嫉妬、反目、排斥はめずらしいことではないが、せっかく日本に国際級のピアニストを抱えながら、この間、新響がクロイツァーを招かなかったのは何とももったいないことではなかったろうか。」(141ページ)

 第三に、これも本書で初めて知ったが、あれほど期待されて日本に招かれたにもかかわらず、日本におけるクロイツァーの演奏会への批評がやがて「新即物主義」(楽譜に忠実を基本とし、過度な表現を嫌う傾向)の影響であまり好意的ではなくなったことである。なにやらドイツの大指揮者フルトヴェングラーが新即物主義の批評家に批判された話に似ている。萩谷氏は、「そもそも、楽譜を踏まえた上で演奏に自己の解釈の花を咲かせてこそ演奏家である。主観を排した解釈という概念自体、矛盾そのものではなかろうか」(207ページ)と述べ、クロイツァー批判に加担した当時の批評家たちを、「わが国批評界の汚点」であったと断罪している。穏健な萩谷氏にしては、厳しい表現である。

 戦後、クロイツァーが国立音楽大学に「技術最高指導者」というポストで迎えられたのはせめてもの救いであり、教え子の織本豊子を伴侶に得たことも慶賀に堪えなかったが、過労がたたってあまり長生きできなかったことは、日本の音楽界の発展のためには残念というほかない。

 上野の東京藝術大学構内にあるクロイツァー記念碑には、次のような言葉が刻まれているという(305ページ、ドイツ語原文は割愛する)。

 「音楽は魂で感じとられるもの 音楽を理解するだけでは充分ではない」

 本書は、優れた評伝であるにもかかわらず、なぜか主要紙での書評には恵まれなかった。新聞社では「新刊」とは「三か月以内」の本を指すらしいので、遅まきながら、ここに紹介する次第である。


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