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2016年02月19日

『ジャズとエロス――ヴァイオリニストの音楽レシピ』牧山純子(PHP研究所)

ジャズとエロス――ヴァイオリニストの音楽レシピ →紀伊國屋ウェブストアで購入

「第一線の演奏家によるジャズ音楽入門」

 刺激的なタイトルだ(牧山純子著『ジャズとエロス――ヴァイオリニストの音楽レシピ』PHP新書、2016年)。ジャズ・ヴァイオリニストの牧山純子さんが本を書くとどうなるのかといろいろ想像していたが、まさか「ジャズとエロス」というテーマが出てくるとは想定外だった。もっとも、クラシック音楽なら「ワーグナーとエロス」のようなテーマは容易に思いつくし、研究文献もたくさんあるが(注1)、牧山さんの場合は、クラシックからジャズへと転向したときに初めて「エロス」を意識したという。ただし、ここで「エロス」とは、「生きる力」「生きる喜び」のような意味で使われていることに留意しなければならない。彼女は次のように言っている。

 「クラシックを弾いていたときの私は、音楽(クラシック)にエロスを感じることはありませんでした。指揮者の指示どおり、楽譜どおり、間違わないように演奏する・・・・・決まったことを、決まったとおりに弾くことが絶対だと思っていたのです。
 しかしジャズに出会った私は、そのときのシチュエーション、お客さま、一緒にステージに立つ共演者で、毎回違った演奏になります。まさに一期一会。ジャズの醍醐味であるアドリブ(即興演奏)、アレンジ、そしてオリジナリティのある音で自分を表現していいんだ! と感じるようになりました。ジャズを演奏しているとき、私は生きている実感を味わい、自分がそこに存在していると思えるようになったのです。ジャズは私にとって、エロスそのものなのです。」(同書、72-73ページ)


 勉強熱心な牧山さんは、ギリシャ神話で「愛の神」を意味する「エロス」と、「死の神」を意味する「タナトス」を対比したり、フロイトの本能二元論などをひもといたりしているが、彼女がクラシックからジャズに転向して初めて「エロス」を感じたのは、小さい頃からクラシックこそが音楽の王道のような日本の音楽教育を受けていたという環境の影響も大きいのではないだろうか。というのは、本書には、小澤征爾さんの「今後、クラシックやジャズというジャンルの壁はなくなる」という言葉が引用されており帯にも使われているのだが、以前、小澤さんがカラヤンとともに「先生」と呼ぶバーンスタインの本を取り上げたとき、アメリカ音楽はクラシックとジャズの「融合」から生まれてきたと主張されていたからである(注2)。オーストリアのザルツブルクで生まれたカラヤンには決して言えないことである。そして、ドイツ=オーストリア系の音楽の伝統が重く受けとめられてきたわが国でも、クラシックとジャズの間の壁がなくなるとは容易に言えないような環境があったのではないだろうか。

 ジャズ・ヴァイオリニストとしての牧山純子さんの魅力については、長年のファンのほうがよく知っているし、その上、本書には多才な松尾貴史さんとの対談が収録されているので、私自身が付け加える言葉はない。だが、私もクラシックを長年愛好してきたので、ひとつだけとくに印象に残っていることを記しておこう。京都の安楽寺でライブがおこなわれたときのこと、彼女はアンコールに”Smile”をヴァイオリンだけで弾いた。確かにチャップリンの有名な「スマイル」だった。しかし、ところどころ継ぎ目に、バッハがヴァイオリンのために書いた無伴奏曲が聴こえてくる。目を閉じて聴いていた私は、一瞬、先日聴いたアリーナさん(アリーナ・イブラギモヴァ、ロシア生まれの若手ヴァイオリニスト)と重なった。いや、これは牧山純子さんのライブのはずだ。そう思って目を開けると、やはり「スマイル」が流れていた。その瞬間、クラシックとジャズの間の「壁」などはどうでもよい些細なことのように思えた。

 本書には、牧山純子さんの修学時代からプロのジャズ・ヴァイオリニストとして活動するようになるまでの年月が詳しく書かれているし、ライブではちょっと語ることはあっても活字では読めなかったオリジナル曲の解説なども披露されていて興味尽きない。例えば、”Mistral”といえば彼女の代表曲のひとつだが、自分では次のように解説している。


 「旅先で偶然出会った二人、ひび割れそうに乾ききって疲弊した日常から抜け出す鍵を見つけた喜びに燃え上がり、オアシスに飛び込むかのように心と身体をぶつけ合う。でもこれは夢物語。やがて夢は覚め、穏やかな日常に新たな光と安らぎをもたらす・・・・・。」(同書、93ページ)


 これは「エロス」というよりは「ロマンス」、まるでリチャード・リンクレイター監督の三部作『ビフォア・サンライズ』『ビフォア・サンセット』『ビフォア・ミッドナイト』のような映画の世界だ。だが、言葉の綾などは、ここではどうでもよい。要は、現役のジャズ・ヴァイオリニストとしての牧山純子さんが、ジャズやオリジナル曲についてどのように考えているかが重要なのだ。批評家が書いたジャズ入門とは違った、演奏家によるジャズ音楽入門として一読をすすめたい。


1 例えば、楽劇「トリスタンとイゾルデ」を題材にした研究論文のように。
http://www.jstor.org/stable/823612?seq=1#page_scan_tab_contents
 哲学者が書いた本では、キルケゴールの『ドン・ジョヴァンニ――音楽的エロスについて』浅井真男訳(白水uブックス、2006年)が興味深い。
2 http://booklog.kinokuniya.co.jp/nei/archives/2013/09/01/


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