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2015年09月24日

『宇沢弘文のメッセージ』大塚信一(集英社)

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「編集者のみた宇沢弘文」

 著者は岩波書店の元社長で、長い間、同社の著作物の編集に携わってきたが、とくに経済学者の中では世界的な数理経済学者だった宇沢弘文(1928-2014)と懇意にしてきたひとである。宇沢氏の主要著作はほとんど岩波書店から出版されているが、本書(大塚信一著『宇沢弘文のメッセージ』集英社新書、2015年)によれば、なんとその九割の編集や企画にかかわってきたというから驚きである(同書、10ページ)。書き手と編集者の間の関係は微妙で、編集者が替わると下手をすれば書き手の「生産力」が急に落ちる場合もあるが、宇沢氏の膨大な著作群をみれば、著者と宇沢氏の間のパートナーシップは長年きわめて良好だったといえるだろう。

 宇沢氏の人柄と学問については、ご自身の書いた『経済と人間の旅』(日本経済新聞出版、2014年)という本があり、これを読めばおおよそ宇沢経済学のメッセージがわかるが、編集者のサイドからみた宇沢弘文は、長年、編集者として付き合ってきた著者にしか書けないものである。とりわけ、宇沢氏の名著『自動車の社会的費用』(岩波新書、1974年)の企画・編集を担当したことが、著者に鮮烈なイメージを植え付けた。数理経済学者としてアメリカの学界で高く評価されながら、ベトナム戦争を境に新古典派経済学に疑問を感じるようになっていた宇沢氏と最初に面会したとき、この本の企画の話が宇沢氏のほうから出たというのは初めて知ったが、高度成長時代の日本で「外部不経済」としての自動車の社会的費用を問題にしようとする経済学者はごく少数派だった。自動車工業会や、経済成長主義を信奉していた政治家や官僚たちの受けがよくなかったことは十分に想像できるが、その本の出版は、宇沢氏の水俣病問題や地球環境問題などへの取り組みにもつながる重要な意味をもっていた。だが、鋭い著者は、こんなことも指摘している。「宇沢の考えを徹底するなら、それは宇沢がよって立つ近代経済学そのものを根底からゆるがしかねない」と(同書、62ページ)。

 たしかに、「社会的共通資本」を軸にした環境経済学や公共経済学の構想、ジョーン・ロビンソンという左派ケインジアンとの親交から生まれたケインズ経済学の独自の解釈、制度主義の創設者ソースタイン・ヴェブレンの再評価、「不均衡動学」の構想など、新古典派の枠組みにおさまりきらない宇沢氏の経済理論は、編集者としての著者の目にも魅力的に映ったに違いない。私たちも、これらの分野における宇沢氏の著作から多くを学んだ。だが、宇沢氏が新古典派から離れ、「人間が真に豊かに生きることができる条件を、経済学者として具体的に探究する試み」(同書、196ページ)を追究すればするほど、「ノーベル経済学賞」の栄冠も遠ざかっていったことは事実である。「経世済民」の学問としての経済学は、本来、宇沢氏の後期の仕事と深くかかわっているはずだが、それが学界での評価と必ずしも調和していないのは残念なことである。

 それにしても、長年、編集者として付き合いのあった経済学者の人柄や学問を一冊の本にしてしまう著者の力量も賞賛すべきだろう。岩波書店を退職してからの著者の仕事は、これで何冊目になるのだろうか。同社には学者として立派に通用した歴史家がいたのを知っているが、現在でもその方に劣らぬ教養人が少なくない。そのトップに立っていた著者がこのような本を書くのも、老舗の伝統を受け継いでいるからかもしれない。


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2015年09月09日

『心理学で文学を読む 困難を乗り越える力を育む』山岸明子(新曜社)

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「心理学と文学の協同」

 本書(山岸明子著『心理学で文学を読む―困難を乗り越える力を育む』新曜社、2015年)のまえがきは、心理学と文学の協同を示唆する興味深い文章から始まっている。
 「優れた文学作品は人間性や人間の心理についての深い洞察に満ちており、そのことが読者を惹きつけ、読みつがれる大きな要因になっていると考えられる。小説はフィクションであるし、作家は心理学者ではないが、心理学とは異なった形での人間性理解のエキスパートによって書かれていると思われる。エキスパートによる小説の記述や展開は、心理学理論に即しているのだろうか。異なっていることもあるだろうし、あるいは心理学理論に先んじている場合もあるかもしれない。」(同書、iページ)

 この文章を読み始めたとき、私はケインズの愛弟子で経済成長理論の開拓者であったイギリスの経済学者ロイ・ハロッドの言葉を思い浮かべていた。彼は、晩年の著書『社会科学とは何か』清水幾太郎訳(岩波新書、1975年)のなかで、社会関係の分析の基礎が人間の感情の性質を理解することであり、そして人間性の深い知識を学ぶ題材が優れた文学作品にあることを強調していた。晩年のハロッドは、ケインズと同様に、経済学を「モラル・サイエンス」のひとつとして捉えていたので、社会科学の基礎が人間性の理解を離れてはあり得ないと考えたとしても不思議はないが、経済学が自然科学のように高度に数理化した現在では、「異端」の説となってしまった。だが、もともと、経済学は、アダム・スミスの時代、「道徳哲学」(モラル・フィロソフィー)からわかれてきた歴史があり、ハロッドもイギリスの「伝統」を改めて強調し直しただけかもしれない。経済学が文学とつながるのなら、人間の心理に迫ろうとする心理学が文学と深い縁があっても何の不思議もないだろう。

 さて、著者の専門は発達心理学だが、あとがきによれば、「作家の直観と洞察」が発達心理学の知見と一致することに気づき、本書の構想をあたためてきたという。取り上げられている文学作品の大半は、村上春樹、小川洋子、大江健三郎、遠藤周作、夏目漱石、森鴎外、モンゴメリなど著名なものばかりであり、その点では、心理学では古くから重要なテーマ(「不適応に陥った者の治療・回復」)を考察するにはよき題材になると思われるが、そればかりでなく、最近の「レジリエンス」(精神的回復力)の研究から得られる知見との比較検討も豊富に紹介されている。
 小説を読んでいるときはあまり気に留めなかったが、小川洋子の『博士の愛した数式』における「博士」と「ルート」との交流は、E.H.エリクソンの言葉では、二つの世代間で「相互性」(厳密な定義は心理学者にゆだねる)が成立したケースと見なせるという(同書、51ページ)。また、村上春樹の『海辺のカフカ』に登場する、健全な発達を阻害されてきたカフカ少年が、危機的状況に曝されながらも、「情緒的および実際的に支えてくれる人」の温かい支援や、「母親の過去」の事情を理解するまでの人間的成長、そして「自我の強さ」をもっていたことが危機を乗り越えていく大きな要因になったことが描かれていた(同書、21ページ)。これは発達心理学の知見とほぼ一致する。

 具体例を挙げていくと切りがないが、日本人として気になるのは、各国の国語教科書で取り上げられる文学作品を比較検討すると、例えば、「アメリカでは、創意工夫しチャレンジしながら生きていこうとする主人公」がしばしば登場するのに対して、日本人が好むのは「深刻で内向き、求道的・自己犠牲的で優しい『ごんぎつね』」だという研究を紹介しているところである(同書、123ページ)。教材の選択に国民性があらわれるのはよく理解できるが、昨今よく語られる「道徳の教科化」のように、もし上から日本文化の「伝統」なるものを押しつけられるようなことがあるとしたら、やや不安である。
 日本の国語教科書の中に見られるのは四つの「罪悪感」(同書、105ページ参照)のうちの二つ(「他者を傷つけたことに焦点はある罪悪感」「相互作用をもつ他者と自分にもたらされる結果の不均衡に由来する罪悪感」、同書132ページ)だという指摘も見逃せない。著者は、「それは日本人に多く見られる罪悪感であるが、教科書の定番でその問題を描くことによって、大人たちは次世代にそのような罪悪感をもつことを期待していると考えられる」(同書、132ページ)と言っているが、国語教科書による「道徳教育」なるものがどのような方向に進むのか、さらに検討していく必要があるのではないだろうか。示唆に富む好著である。


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