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2015年08月30日

『世界史の中の日本国憲法』佐藤幸治(左右社)

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「立憲主義の本質は政治に対する法的統制である」

 本書(佐藤幸治著『世界史の中の日本国憲法』左右社、2015年)のメッセージは、一言でいえば、上のタイトル「立憲主義の本質は政治に対する法的統制である」ということに尽きる。集団的自衛権の行使を容認する安倍内閣の閣議決定以来、日本国憲法への関心が近年これほど高まった時期はないように思われるが、本書は、憲法学の大家である佐藤幸治氏が、2015年6月6日、東京大学でおこなわれたシンポジウム「立憲主義の危機」(「立憲デモクラシーの会」主催)における講演用原稿に手を入れて急遽出版された、いわば警世の書である。
 テーマは、「立憲主義に関する人類の長い格闘の歴史を踏まえながら、終戦70年を迎えて今われわれ日本国民がおかれている状況の中で、「日本国憲法」をどう考えるべきか」という壮大なものである(同書、006ページ)。著者は、書名に違うことなく、古典的立憲主義から近代立憲主義への流れを、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツの例を豊富に挙げながら説き進めるが、つねに念頭に置いているのは次のような視点である。すなわち、

「人類が恣意的支配を避けようと自覚し、それぞれの時代環境において試行錯誤を重ねながら真剣に取り組んできた歴史的経験から、現在われわれが重要なものとして何を汲み取らなければならないか」

ということである(同書、031-032ページ)。

 この関連で留意すべきは、第二次世界大戦中ファシズムによって立憲主義が骨抜きにされた日独伊の三国が「人権」観念の再生復活をどのように再構築していくのかという課題を突きつけられたという指摘である(同書、054-055ページ)。もっとも、著者によれば、人間が生まれながらに一定の権利を当然有するという人権(自然権)概念は、19世紀になると、権利は人間の定める法の被造物であり、国家なしに法は存在しないという「法実証主義的法観念・権利観念」の挑戦を受け、そのような状態が20世紀半ばまで続いていたのだが(アメリカもまた、人種差別問題への取り組みを通じて「人権」観念の再生復活という問題の解決を迫られたという指摘も重要である。同書、055ページ参照)、日本国憲法に関していうと、「基本的人権」なるものがすでにあるという考えは11条に、その根拠は97条に、そしてその内実は13条に示されているという(同書、060-061ページ)。
 少しでも歴史に関心のある読者なら、明治憲法やワイマール憲法が、「政府の安定性・活動力の確保」や「権力の行き過ぎ・暴走に対する抑制」の両面で欠陥をもっていたという指摘(同書、059ページ)に異論はないだろうが、戦後各国が立法・行政に対する統制を含めて「司法権」を著しく強化していくプロセスまでは一般には知られていないので、とても参考になる。

 講演の記録だけに文章も論旨も明快なので、本書を通読して、「国家の繁栄の持続にとって、法の支配、人間(個人)の尊厳という普遍的価値を含む憲法(立憲主義)の保持がいかに重要であるか」(同書、085ページ)という著者の主張を捉え損なうひとは稀だろう。だが、逆にいえば、一見「当たり前」に思えることを改めて詳述しなければならないほど、立憲主義が今まさに脅威にさらされている証左かもしれない。


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2015年08月23日

『天才を生んだ孤独な少年期 ダ・ヴィンチからジョブズまで』熊谷高幸(新曜社)

天才を生んだ孤独な少年期 ダ・ヴィンチからジョブズまで →紀伊國屋ウェブストアで購入

「天才と孤独」

 本書(熊谷高幸著『天才を生んだ孤独な少年期―ダ・ヴィンチからジョブズまで』新曜社、2015年)の存在を知ったのは地元紙の読書面に短い紹介が出ていたからだが、「天才と孤独」というテーマには惹きつけられる。著者は自閉症の研究に長年従事している専門家なので、この問題の解明にも心理学的なアプローチを採用している。

 著者は、天才の人生期を「第一期 天才的な仕事を始める前の少年期」「第二期 天才的な仕事の形成期」「第三期 天才的な仕事が世に認められてから」の三期に分けているが(同書、3ページ)、「共有」の世界に依存している通常の人と違って、「非共有」の世界を生み出そうとする天才と少年期の孤独とは深い関係があるというのが、著者の基本的な立場である。
 ふつうの子供は大人の庇護を受けながら共有世界のなかで生きる術を学ぶが、本書に登場するような天才たち(ダ・ヴィンチ、ニュートン、夏目漱石など)のなかには、両親の愛情に恵まれず、自らの力で独自の世界観を築き上げなければなかった者が少なくない。もちろん、天才たちも完全な「孤立無援」というわけではなく、然るべきときに然るべき支援者が登場しているものだが、孤独の中で「固有の心の成長」を遂げ、非共有の世界を切り開いた。
 ところで、著者が自閉症の専門家であることは前に触れたが、自閉症者は主に非共有の世界に生きている人々である。だが、著者によれば、共有世界から断絶している自閉症者と違って、天才は非共有の世界を築きながらも共有世界との接触を失っているわけではない。ところが、自閉症者は驚異的なカレンダー記憶で優れた認知世界をつくることはあり得るが、彼らがカレンダーの仕組み自体を自分で創造したのではないと(同書、9-10ページ)。

 著者は、次に、自閉症者よりは通常人寄りだが、アスペルガー症候群とADHD(注意欠陥多動性障害)の人々も基本的な特性が自閉症者と類似していることに注目する(最近の診断基準では、「自閉症スペクトラム」という名称で括られるようになった)。彼らは「心の理論」によれば「人の心を読もうとしない」がゆえに人と人との認知の共有部分を作りにくい。本書に取り上げられている天才たちのなかも、いろいろな証言や資料を参照すると、アスペルガー症候群の「近辺」にいたと推察される者がいるが(ダ・ヴィンチやジョブズなど)、天才は「非共有世界で生み出した成果を共有世界へと返していく」ので、「非共有世界に止まることなく、共有世界とのズレを小さくしていく努力をしていた」という(同書、17ページ)。
 自閉症スペクトラムと脳の特性との関係(「システム」を求める傾向のある男性脳のほうが「共感」を求める傾向のある女性脳よりも自閉症を生みやすいこと)も知られるようになったが、「システム志向」と「共感性」のあいだのバランスはなかなか微妙で、そのバランスが崩れるとなんらかの障害が生じやすい(同書、18-19ページ)。
 著者はさらに自閉症やADHDの人々と感覚過敏との関係にも触れているが、天才たちのなかにも明らかに感覚過敏であったと推察される者が少なくない(靴下をはかず、シャツの袖口を切り取っていたアインシュタインの例のように)。だが、感覚過敏も優れた絵画や音楽の才能につながる一方で、不快な感覚や体験が予期不安を生み出し、物事の全体的な関係を見失う場合もある(同書、21ページ)。「つまり、天才とは際どい均衡の上に成り立っているといえるだろう」という著者の言葉には説得力がある(同書、22ページ)。

 本書に登場するダ・ヴィンチ、ニュートン、エジソン、夏目漱石、アインシュタイン、ジョブズたちは、いずれも「天才」の名に恥じない人たちばかりだが、著者は、最後のまとめの章で具体例から得られた天才の特性を六つにまとめている(同書、185-186ページ)。

「1 孤独な少年期を送る。 2 自閉症スペクトラムやADHDなどに通じる心理特性をもつ。 3 同化が調整よりも優位な認知の特性をもつ。 4 学校教育との相性が悪い。 5 支援者が現れ助けられる。 6 外側からの視点をもつ。」

 「最高の思考は孤独の中で生まれる」(エジソン)とか、「ハングリーであれ。愚かであれ!」(ジョブズ)とかいう言葉は、すべての場合に天才につながるとは限らないが、天才たちが「外側からの視点」をもち、「広い視野」のなかで「イメージを自由に遊ばせることによって創造物を生みだした」という著者の指摘は当たっているのではないだろうか(同書、193ページ)。もちろん、私の専門分野(経済学)でいうと、天才たちも過去や現代の伝統的思考から全く断絶して「革新」を成し遂げたとは言い難いが、「正統」や「伝統」から一歩踏み出して新たな道を切り開くには、著者がいうような「外側の視点」が必要なことに異論はない。興味深い天才論である。


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