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2014年02月15日

『徳川慶喜』家近良樹(吉川弘文館)

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「”捉え難き”最後の将軍」

 徳川慶喜(1837-1913)という江戸幕府「最後の将軍」は、日本史上あまり人気のある人物ではない。鳥羽伏見戦争のあと、江戸に「逃げ帰った」とみえる彼の行動がマイナスのイメージを創り出すのに大いに関係していることは確かだが、本書(家近良樹著『徳川慶喜』吉川弘文館、2014年)の著者によれば、それどころか、慶喜には「ヒール」(悪役)のイメージを抱く者も少なくないという(同書、7ページ参照)。
 慶喜が聡明で薩長にとって侮りがたい政治家であったことは間違いないが、著者のいう「スッキリとは捉えられない彼の複雑な性格と行動」が慶喜の評価を難しくしているのだろう。そのような制約はあるが、本書全体を読むと、明治維新前夜の慶喜の言動を、勝った側の薩長ではなく、負けた当事者側からの視点でみることがある程度可能になるはずだ。


 慶応2年7月20日、第14代将軍(徳川家茂)が大坂城で脚気衝心のために死去した。そのあと、慶喜はひとまず徳川宗家の相続だけは了承した(その結果、将軍空位期が四か月以上続く)が、なぜか、家茂に代わって自ら長州へ出陣することを表明した。皆に訝しがられた決意表明だが、著者は、この段階での慶喜の行動を、「対長州戦を中止すれば、幕府と朝廷のメンツがともに潰れるとの思いが、将軍の死を口実に事態を収拾する方途を慶喜に選ばせなかった」と理解している(同書、135ページ)。朝議は混乱したが、孝明天皇がそれを支持したので、8月8日に参内した慶喜に対して「節刀」が与えられた。これで慶喜が近日中に京都を発して広島に出征することが決まった。
 ところが、8月12日、慶喜は出陣を突然中止することを表明した。前日、老中の板倉勝静から聞かされた情勢(九州諸藩兵が対長州戦から離脱し、小笠原長行が小倉を去ったという情報)を受けての決断だったというが、これがいわゆる慶喜の「変説」問題と呼ばれるものである。朝幕の両方から批判が続出したが、なかでも、会桑(会津藩と桑名藩)を大混乱に陥れたことが大きな失策だったのではないか。著者によれば、桑名藩は渋々ながらも慶喜に従ったが、会津藩は藩主の抑えが利かず家臣団が慶喜の新方針に激昂したという(同書、141ページ)。結局、元治元年の禁門の変のあとから続いてきた一会桑による京都支配が終焉し、一桑と会に分裂したのである。
 慶喜の「原理原則に固執するのではなく、状況の変化によって対応を変える器用さ」(同書、142ページ)がプラスに働くこともあるだろうが、この場合は、マイナスに作用したとしか思えない。もともと傍流から出た慶喜は幕府内で人気がなかった。むしろ「反感」をもたれていたと言ってもよいかもしれない。だが、逆にみれば、慶喜の「変説」がもたらした政治的空白は、薩摩藩内の反幕派には好都合だった。大久保利通は、薩摩藩内の有志と一部公卿の連合を成立させるべく早速動き出した。大久保は慶喜の将軍職就任を何よりも恐れていたが、結果的に、この段階での大久保の「策謀」は不発に終わった。なぜなら、家茂の忌み明け(10月10日)直後の10月16日、孝明天皇の「断然」たる「叡慮」をもって、慶喜が参内し、「大樹のごとき」扱いを受けたからである(同書、149ページ参照)。孝明天皇は、一時慶喜の「変説」に怒ったが、将軍空位期に孝明天皇の慶喜への依存が逆に深まったという指摘が興味深い(同書、162ページ参照)。その後、12月5日、慶喜は将軍宣下を受け、正式に第15代将軍に就任する。


 ところで、ペリー来航以来「開国」をめぐっては朝幕、そして雄藩の間には実に様々な動きがあったのだが、著者は、「変説」前頃から、慶喜が「全面的な開国体制への移行」を指向し、有力諸侯を含めた話し合いで国是を決定する政体を構想するようになったと主張している(その場合の「主役」はあくまで慶喜である)。慶喜政権の基礎が脆弱だったので(彼は本来江戸城にいなければできない政務を一切せず、京坂のみで政務をとった「特異」な将軍だった)、朝廷との協調関係や、雄藩との友好関係の樹立なくして政権を維持することができなかった。もはや幕府の権威はそこまで衰退していたのである。
 そんなとき、孝明天皇が崩御した(12月25日)。少年の皇子の即位は、慶喜にとって有利にも不利にも作用する可能性があったが、結果的には、周知のとおり、主導権は薩長によって握られてしまう。その過程には複雑な動きがあったので簡単にはまとめにくいが、著者が指摘している次の二点は決して見過ごしてはならないように思われる。「薩摩側は、①有力者(なかでも島津久光)の上洛を待たずに兵庫開港の勅許を幕府が単独で奏請したこと、②慶喜が各国代表との会見のために下坂するにあたって、朝廷にはその目的を将軍の代替りを告知するためだと告げながら、内実は兵庫開港についての談判をめざしたものであったことを問題視し、慶喜に反発した」と(同書、183ページ)。これによって、小松帯刀(薩摩藩家老)と原市之進(慶喜側近)の個人的な信頼関係でようやく保たれていた幕薩間の協調関係も崩れたのだ。


 大政奉還から王政復古への流れ、そして明治時代の慶喜については、著者の『その後の慶喜』(講談社選書メチエ、2005年)に詳しいが、そのなかでも注目すべきは、王政復古のクーデターの計画があることを三日前(慶応3年12月6日)、越前藩(松平春嶽)に知らされていながら、慶喜がそれを潰そうとして行動しなかったことである(同書、222ページ参照)。たしかに、クーデターそのものは、武力による討幕を目的とするものではなく(もしそうなら徳川御三家の尾張藩や親藩の越前藩が参加しているのは不自然である)、「朝幕双方における旧体制の廃止(摂関制と幕府制の廃止)と新政権(王政復古政府)の発足」を迅速に進めるために決行された(同書、221ページ参照)。
 しかし、慶喜がその計画を摂政や会津藩に知らせれば内乱が発生し、外国勢力による国政への介入を招くのを恐れたとか、クーデター後に自分も要職に就けるという期待を抱いていたとかいう「推測」(著者は「憶測の域を出ない」とことわっているが)は、もっと文献的な証拠がないものだろうか。その後の慶喜の行動(例えば、御所への出兵を主張する幕臣や会桑両藩士たちを抑え、彼らを引き連れて大坂に下ったこと)は、そのような懸念をもっていたからこそだと著者が主張しているだけに状況証拠だけではやはり物足りない。
 もっとも、著者は、そのような慶喜の判断が甘かったことは十分に承知している。「戦略」的には敗北に直結したと評しているし、なによりも天皇を奪われたことは「致命的なミス」であったと述べている(同書、225ページ)。のちの展開を知っている私たちの目からその場の判断の是非を論じることには慎重でなければならないが、こんなところにも、慶喜の複雑で捉え難い性格を垣間見ることができるのではないだろうか。

 あとひとつ、慶喜が「民衆」を意識したことがなかったという指摘は、高貴な生まれのひとにはよくあることとはいえ、きわめて興味深かった。文久期から慶応期にかけて、民衆は貨幣改鋳その他の原因による物価高騰に悩まされていたが、慶喜がこのような問題に向き合った形跡がないと(同書、136ページ参照)。慶喜の不人気の理由の一つもこの辺にあるかもしれない。


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2014年02月06日

『グローバル・スーパーリッチ 超格差の時代』クリスティア・フリーランド(早川書房)

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「”プルトクラート文化”とは何か」

 経済格差について書かれた本は多いが、本書(クリスティア・フリーランド著『グローバル・スーパーリッチ~超格差の時代』中島由華訳、早川書房、2013年)は、「フィナンシャル・タイムズ」の「ベストブック・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたベストセラーの翻訳である。経済学者やエコノミストなら、最近、この問題に関してスティグリッツやクルーグマンのような高名な経済学者が時折「格差」を批判する論説を発表していることを知っているだろうが(注1)、本書の特徴は、「経済分析」というよりは、格差を生んだ「文化」について多くを語っているところにあると言えよう。


 1970年代、アメリカでは上位1%の年収は国民所得の10%を占めるに過ぎなかった。ところが、35年後には、昔の「金ぴか時代」のように国民所得の三分の一を占めるようになった。それを象徴する数字を、ロバート・ライシュ(クリントン政権の労働長官をつとめた)が挙げている。2005年、ビル・ゲイツの財産は465億ドル、ウォーレン・バフェットの財産は440億ドルに達したが、他方でアメリカ国民の所得の低い40%(1億2000万人)の財産を全部合わせても約950億ドルだったと(同書、20ページ参照)。
 今日の「スーパーリッチ」は、決して怠け者ではなく、世界を飛び回るほど多忙な生活を送っている点で昔の金持ちとは異なるが、所得上位0.01%の年収が1000万ドルを超える人々(本書では「プルトクラート」と呼ばれている)でさえ、給与所得と事業所得のほうがその他よりも多いという(同書、97ページ参照)。
 しかも、グローバル化が進んだ現在、プルトクラートにとっては、自分の出身国のことよりは世界で何が起こっていることのほうが関心事である。著者は、あるプルトクラートから次のように言われたという。「あなたがいうような人たちは、自分をまず世界市民だと考える。これは比較的新しい現象だ。彼らは、もちろん自分の国を愛し、育った土地を愛し、母親を愛する――一方で、自分を世界市民だと考える。だから、世界で何かよくないことが起きれば、それを気にかける」と(同書、96ページ)。
 「世界市民」であること自体が問題なのではないが、アメリカのスーパーエリートが「政治的民主主義」を少数派の特権を守るために利用する術に長けているという実態がある(ノースウェスタン大学の政治学者ジェフリー・ウィンタースの説)。著者は、「0.1%の反撃」が功を奏して、いまや次のようになったという。

「第一次世界大戦の支出のために、所得税率はたいへん高く設定され、1918年には最高となる77%にのぼった。21世紀に入るころには、高所得者への所得課税の実効税率はその三分の一にまで下がっていた。驚いたことに、高所得者の所得税率が下がったのに対して、所得がもっとも低い者の所得税率は上がっていた。・・・・・所得上位1%の人びとの場合、高所得になるほど実効税率が下がるのだ。2009年の年収に対して支払った所得税の割合は、所得上位1%が23%以上、上位0.1%が21%余りだった。さらに、最上位の400人に関しては17%に満たなかった。プルトクラートにとっては重要な収入源だが、所得が低いほど重要度が低下するキャピタルゲインへの課税率は、2012年にはちょうど15%だった。」(同書、123-124ページ)


 先進国ばかりでなく新興国でもプルトクラートが台頭しているという実態も紹介されているが、より注目すべきは、彼らがミドルクラスの窮状に対して「責任」があるとは少しも考えていないことではなかろうか。著者は、あるプライベート・エクイティ・ファンドの投資家がインドのアウトソーシング企業を買収したことが話題になったとき、次のように言われたらしい。「以前は、コネティカット大学で文学士号をとった人材に年俸12万ドルで補助業務をさせていた。だが現在、博士号を持ったインド人に年俸6万ドルで同じ業務を任せているが、彼らはうちで働けることをたいへん喜んでいる」と(同書、349ページ)。まさに「世界市民」の思考法である。
 だが、著者の懸念は別のところにある。それは、「社会の不平等が大きくなるほど社会移動は少なくなる」という「グレート・ギャッツビー曲線」(アラン・クルーガーの命名)が当てはまる社会になりつつあるということだ(同書、405ページ参照)。現代のプルトクラートは「労働する金持ち」だが、彼らが自分の財産を子孫に譲れば、「不労所得者のエリート」が生まれる。「特権が世代から世代へ受け継がれるとき、そのプロセスはあまり人目につくことなく漸進的かつ累進的に進んでいく。だが、包括的な社会秩序と経済秩序が収奪的なものに変わるメカニズムと同じく、もっと見た目にはわかりやすいセッラータよりも影響力は大きいかもしれない」と(同書、405ページ)。


 本書は、最初に述べたように、「経済分析」の本ではないので、そのような内容を期待して手にしたひとには受け容れられないかもしれない。しかし、著者の筆力は、「プルトクラート文化」の実態を豊富な具体例を交えて生き生きと描くことに見事に成功している。「フィナンシャル・タイムズ」の「ベストブック・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたのも肯ける。


1 例えば、ごく最近のクルーグマンの文章を参照のこと。
http://www.nytimes.com/2014/01/27/opinion/krugman-paranoia-of-the-plutocrats.html?partner=rssnyt&emc=rss&_r=0


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