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2014年01月30日

『フルトヴェングラーを追って』平林直哉(青弓社)

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「フルトヴェングラーの真の音を求めて」

 著者の名前は、Grand Slamのフルトヴェングラーの復刻盤CDで知っていたが、改めて本書(平林直哉著『フルトヴェングラーを追って』青弓社、2014年)を読んで、フルトヴェングラーのCDを観賞するときに留意すべきことをたくさん学んだ。そのなかでも特に要注意の点を三つにまとめてみよう。


 ①レコード業界ではLPから音を採ることを「板起こし」というが、モノラルLPの時代は各社、各レーベルがそれぞれ独自の周波数特性でLPをカッティングしており、統一した規格はなかった。世界的にほぼすべてのメーカーがRIAA方式という統一規格を採用するのは1960年代初頭から半ば頃だったという(同書、47ページ参照)。ということは、古いLPをRIAA方式で再生してもよい音が出るとは限らない(あるいは悪化するかもしれない)ということなのだ。
 フルトヴェングラーの録音は、言うまでもなく、SP時代からモノラルLP時代にまたがっているので、録音日時がいつでどんな規格を採用したかを特定しなければ、「板起こし」は成功しない。著者は、もし古いLPの音質について書いた文章があったら、「どの周波数特性で聴いたのか」がちゃんと記してあるか確かめてほしいとアドバイスしている(同書、50ページ)。フルトヴェングラーのLPやCDの音質が多様な理由の一端もここにあったのだ。なかには、ちゃんとしたレーベルのCDでも、原盤に編集を加えた混合盤で売られていたものもあったというから驚きである。


 ②私も学生時代からフルトヴェングラーのLPやCDをたくさん聴いてきたが、数年前手に入れたドイツ・アウディーテ盤(AU-21403)の音の良さには驚いたものである。著者によれば、これはRIAS放送局所蔵の音源を、「それまで一度も使用されたことがなかった76センチ/毎秒のテープのオリジナル・マスターを使用しての復刻盤」だったという(同書、112ページ)。以前出ていたCDは、実は、作業用のマスター(2トラック19センチ、あるいは4トラック19センチなのかは不明)からのダビングだったらしい。
 著者は、「アウディーテ盤の出現によって、ロココ、チェトラなどのレーベルから出ていたものは、個人的な思い出が染みついているといった感傷的な理由以外では、ほとんどもっている意味がなくなった」とさえ言っている(同書、112ページ)。
 音響のプロは言うことが細かい。ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲は、このアウディーテ盤が「完全版」であると断言する。なぜなら、このアウディーテ盤によって、冒頭の部分にトロンボーンかコントラバスのフライングがあることが発覚したからである。フルトヴェングラーの指揮はわかりにくいので、アインザッツが揃っていないLPやCDはほかにもあるが、ドイツ・グラモフォンから出ているLPにその部分が消えているのは、RIAS放送の担当者がこのフライングをカットしたテープを提供したか、ドイツ・グラモフォンの技術者がその部分をカットしたか、どちらかではないかと推測される(同書、114ページ参照)。


 ③では、みずからもフルトヴェングラーの復刻盤CDを製作するようになった経緯はどんなものだったのか。私も持っているが、ベートーヴェンの英雄交響曲(演奏はウィーン・フィル、1944年12月19日録音)のCD(GS-2005)は素晴らしい音で甦っている。マニアの間では「ウラニアのエロイカ」として知られる、アメリカ・ウラニア盤(URLP-7095)からの復刻である。
 著者は吉井新太郎氏から借りてこのLPを聴いたらしいが、「軽くてややハイ上がりな音質ではあるが、既存の復刻盤にはない力強さと輝かしさがあった」という(同書、141ページ)。そこで、このLPから復刻してみようという気になった。再生周波数特性はNAB方式だったが、ピッチを決めるのに苦労したという。というのは、このLPは第1楽章と第2楽章が片面に詰め込まれていたので、裏の第3・4楽章と音質がかなり違って聴こえるからだ。そこで、ボーナス・トラックとして、ピッチ未調整の第1楽章だけを付けることによって、オリジナルのピッチが非常に高いことがわかるように配慮したという。
 例を挙げていけばきりがないので、詳しくは本書を参照してほしいが、プロの情熱には恐るべきものがある。


 著者が手がけた数々の復刻盤は、もちろん、情報を提供してくれたドイツの友人や、優れた解説を書いてくれたアメリカの研究家などの協力があってこそ製作できたものだが、本書は復刻の話ばかりでなく、フルトヴェングラーの墓参りを含むドイツ滞在記や、各国のフルトヴェングラー協会の活動など、フルトヴェングラーのファンには興味深い内容がたくさん含まれている。ご自分の所有しているフルトヴェングラーのLPやCDの音質に関して何か疑問点のある方々は、ぜひ本書を読んでみてほしい。


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2014年01月16日

『自由論』J・S・ミル(光文社)

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「改めて「自由」を考える」

 J.S.ミル(1806-73)の『自由論』(1859年)の新訳が出ている(斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、2012年)。後期に一年生向けの少人数ゼミを担当したので、ミルを取り上げることにした。翻訳は数種類あるので、どれを選ぶかは学生の自由に任せていた。私はほとんど原文を読んでいたが、ときどきこの新訳に目を通したところ、全体的に改行を増やし、読みやすくなっていると思った。「自由」とは何か-これは古くて新しい問題である。

 ミルは経済学者というよりも19世紀を代表するイギリスの偉大な知識人といったほうがふさわしいが、ゼミで読んでいた時期がたまたま特定国家秘密保護法案の審議と重なっていたので、『自由論』を読んでいても、「多数の専制」という問題を論じているところがとくに気にかかった。
 ミルの「自由」についての基本的な見解は、よく知られているように、19世紀中頃という時代を反映して「国家からの自由」という意味での「消極的自由」が中心である。

「自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害したりしないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由である。人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分の自分で守る権利がある。
 人が良いと思う生き方をほかの人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認めあうほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。」(同書、36-37ページ)

 しかし、国家による権力の行使を制限するという考え方は、多数派が権力を掌握し、その他に自分たちの意志を押しつけようとする場合にも当てはまる。

「・・・・・人民の意志というのは、じっさいには人民のもっとも多数の部分の意志、あるいは、もっともアクティブな部分の意志を意味する。多数派とは、自分たちを多数派として認めさせることに成功したひとびとである。それゆえに、人民は人民の一部を抑圧したいと欲するかもしれないので、それにたいする警戒が、ほかのあらゆる権力乱用への警戒と同様に、やはり必要なのである。したがって、権力の保持者が定期的に社会に、すなわち社会内の最強のグループに説明責任をはたすようになっても、個人にたいする政府の権力を制限することは、その重要性を少しも失わない。」(同書、18ページ)

 だが、「多数の専制」から身を守るのはそれほど簡単ではない。なぜなら、多数派の思想や感情が、知らず知らず、「行動の規範」としてその他の人々の思想や感情を抑圧する危険性があるからだ。ミルがとくに憂慮するのもこの点である。それゆえ、ミルは、「社会の慣習と調和しない個性の発展を阻害し、できればそういう個性の形成そのものを妨げようとする傾向、あらゆるひとびとの性格をむりやり社会の規範的な型どおりにしたがる傾向、それにたいする防御が必要である」と言っている(同書、20ページ)。
 

 『自由論』は、経済思想史の立場からは、いわゆる「自由経済」の原則を確立し、その例外となる分野はどこにあるのかという読み方をするのがふつうだし、ミルも、「自由経済」の考え方が、「本書で主張してきた個人の自由の原理と、根拠は異なるけれども、根拠の堅固さの点ではひとしい」と言っている(同書、231ページ)。詳細は、ミルの『経済学原理』(1848年)をひもとく必要があるが、「個人の自由の原理」が「政治」と「経済」を貫いていることは間違いない。だが、『自由論』は経済思想プロパーの本ではないし、全体的に思想一般の自由の問題のほうが大きく扱われているのは当然のことである(注1)。
 

 本書を読み返して改めて興味深く思えたのは、ミルが、「多数の専制」(ミルはところによって「世論の専制」という言葉も使っているが)のなかでは「変わった人」がいることがきわめて重要なのだと繰り返し主張していることである。

「世論の専制は、変わった人を非難するものだ。だから、まさしく、この専制を打ち破るためには、われわれはなるべく変わった人になるのが望ましい。性格の強い人がたくさんいた時代や地域には、変わった人もたくさんいた。そして一般的に、社会に変わった人がどれほどいるかは、その社会で、ずば抜けた才能、優れた頭脳、立派な勇気がどれほど見出されるかにも比例してきた。したがって、現在、あえて変わった人になろうとする者がきわめて少ないことこそ、この時代のもっとも危うい点なのである。」(同書、163ページ)

 「変わった人」が非難される社会は、人々が個性の発揮に不寛容になる社会につながる恐れが十分ある。そのように個性が抹殺され「画一化」が進んだ社会こそ、ミルが最も嫌悪した社会であった。遺憾なことに、現在、ミルの危惧がいまだに切実に感じられるようになっているが、本書のようにわかりやすい新訳がタイムリーに出ているので、一度手にとってみられることをすすめたい。


1 経済思想史家によるミル入門としては、杉原四郎『J.S.ミルと現代』(岩波新書、1980年)という好著があったが、現在では品切れである。


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2014年01月11日

『ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き』オットー・ビーバ イングリード・フックス(集英社)

ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き →紀伊國屋ウェブストアで購入

「ウィーン楽友協会の200年」

 ウィーン楽友協会といえば、その合唱団を20世紀の名指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンがベートーヴェンの第9などの名曲の録音に起用したことが思い浮かぶが、本書(オットー・ビーバ、イングリード・フックス『ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き』集英社新書ヴィジュアル版、2013年)は、同協会が1812年の創設以来200年の歴史を誇る組織であることを丁寧に解説した好著である。

 1812年11月29日、ウィーン近郊のアスペルンの人々を助けるための慈善演奏会が開かれた。その3年前、ナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍がヨーロッパ中に侵攻していたが、そのフランス軍をオーストリア軍がアスペルンにて迎え撃ち、勝利を収めた。だが、勝利はしたものの、アスペルンの住人たちは戦火によって被災し、まだ助けを必要としていた。そこで、アスペルンの被災者たちを支援する大規模な慈善演奏会が開かれることになったのである。
 この演奏会にはおよそ600人の演奏者が参加していたが、この多分に愛国的な発想に基づく演奏会の開催が楽友協会の創設へとつながっていく。皇帝フランツ一世の弟ルドルフ大公が楽友協会の名誉総裁を引き受けたことも幸いしたが、1814年、有名なウィーン会議にて演奏会を開いてほしいと依頼されたことも、さらにこの協会の認知度を高めた。
 楽友協会の会員には、三つのタイプ(「上演会員」「支援会員」「名誉会員」)があった。上演会員は協会主催の演奏会でオーケストラや室内楽のメンバーとして登場する会員であったが、協会の創設以前からウィーンではディレッタントの集まった音楽愛好協会の活動があったので、プロの作曲家シューベルトが上演会員に加わろうとしたときひと悶着があった。この問題は、結局、「作曲」と「演奏」は別という理由で解決されたが、もともと「ディレッタント」とは「優れた芸術的才能を具えながらも、芸術を愛するがゆえにあえてそれを生業としなかった人々」のことを指しており、「当時は肯定的で称賛のこもった言葉」だったことを押さえておきたい(同書、14-15ページ)。


 その後、楽友協会の活動は「演奏会」「資料館」「音楽院」を三本柱として展開されていくが、その頃の活動の拠点は1831年にオープンした楽友協会の初代会館(これは「旧会館」と呼ばれるが、現在は残っていない)であった。だが、1848年にヨーロッパ中に革命の嵐が吹き荒れ、楽友協会の活動もウィーンの三月革命以降10年間ほどすっかり沈滞した。
 ようやく1857年になってチェルニーの財産が協会に遺贈されたのをきっかけとして、再出発することができるようになった。さらに皇帝フランツ=ヨーゼフの好意によって「新会館」のための土地が寄贈された。新会館の設計はデンマーク出身のテオフィル・ハンゼンが担当し、1870年1月5日、皇帝臨席の下、竣工式が行われた。新会館、大ホール、小ホール(現ブラームス・ザール)が備わった立派な建物であった。
 現在、日本でも有名なウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、楽友協会会館の大ホールを借りて予約定期演奏会を開いているが、著者たちは読者が混乱しないように、「ウィーン・フィル主催の予約定期演奏会と、ウィーン楽友協会が主催しウィーン・フィルが登場する演奏会」とは全く別だとことわっている(同書、35ページ)。
 協会専属のオーケストラの歩みは少々複雑である。19世紀後半、ヨハン・ヘルベックが楽友協会芸術監督だった時代、オーケストラの組織改革が断行され、1900年、プロの「ウィーン演奏協会管弦楽団」が創設されたが、そのオーケストラのメンバーになれなかったディレッタントたちのためには、「楽友協会オーケストラ部」と「楽友協会合唱部」が設立された。二つとも今日まで活動を続けているアマチュアの団体だが(後者がカラヤンがよくレコーディングに起用した「楽友協会合唱団」)、肝心の演奏協会管弦楽団のほうは、第一次世界大戦後、ウィーン交響楽団として生まれ変わっている(同書、90ページ参照)。序にいうと、音楽院も1909年に財政難のため国に譲渡された。


 楽友協会は、ナチス・ドイツによるオーストリア併合(1938年3月12日)によって最大の危機を迎える。「楽友協会」の名前だけは存続したものの、組織は有名無実化し、ベルリンに本部のあるナチスに完全に牛耳られることになった。楽友協会に保管されていた古い楽器のコレクションも、強制的にウィーン美術史美術館に移し替えられた。資料館を国立図書館に統合しようという計画もあったが、幸いにして、第二次世界大戦でナチス・ドイツが敗れたので難を免れた。だが、戦争末期、楽友協会の南側が砲撃され、大きな損傷を被った。大ホールの中にも砲弾が飛び込んだが、不発弾だったため大ホールの崩壊は避けられたという(同書、39-40ページ参照)。
 戦後の復興の歩みを読んでいくと、フルトヴェングラーとカラヤンという二人の巨匠の名前と彼らの間の微妙な関係(というより「確執」というべきか)が露呈されるが、そのことは本筋とは関係がない(注1)。要するに、楽友協会の「演奏監督」をつとめていたフルトヴェングラーが多忙に過ぎて協会の仕事に多くの時間を割くことができなかったので、カラヤンが手を差し伸べてくれたのだが、両者の間の人間関係が必ずしもうまくいっていなかったので、1950年のバッハ・フェスティヴァルで誰が『ロ短調ミサ曲』を指揮するかなどでいざこざがあったらしい(結局は、カラヤンが指揮した)。
 カラヤンは、フルトヴェングラー辞任後の楽友協会演奏監督の後任におさまり、さらには「終身演奏監督」というポストの座も射止めた。その後、カラヤンは、周知のように、フルトヴェングラー亡き後のベルリン・フィルの音楽監督やウィーン国立歌劇場の総監督にも就任し、「帝王」と呼ばれるようになるが、ウィーン国立歌劇場と一時「絶縁」してからも、楽友協会とは良好な関係を保ち続けた。著者たちは、次のように言っている。

「カラヤンは二度とウィーンに戻ってこないのではないかという憶測も立ちましたが、ウィーン国立歌劇場と楽友協会とはまったく別の組織ということで、彼は楽友協会演奏監督のポストについては終生大切にし、協会合唱部との共演も頻繁におこなってゆきました。なおカラヤンの死後、楽友協会の演奏監督となった人はまだ一人もいません。それほどまでに彼は、余人を以て代えがたい存在だったのです。」(同書、97-98ページ)

 楽友協会は、2004年、会館の地下に新たに四つ目のホールを造った。クラシック音楽ばかりでなく、現代音楽やジャズの上演、音楽と文学のコラボレーションなど、新機軸の企画にも取り組んでいる。創立200周年(2012年11月29日)には、ニコラウス・アーノンクール指揮による演奏会(ヘンデル作曲、モーツアルト編曲による『ティモテウス あるいは音楽の力』、200年前と同じ曲目)がおこなわれた。
 楽友協会の創立から200年にわたる歴史には、ブラームス、ブルックナー、マーラーなどの作曲家や当時の有名指揮者などがたくさん登場する。楽友協会の歴史、そしてウィーンの音楽界に関心のある読者には楽しい読み物となるだろう(注2)。


1 二人の間の関係に関心のある読者は、中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書、2007年)を参照のこと。
2 ウィーン楽友協会の公式ホームページを以下に記しておく。
http://www.musikverein.at/


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