« 『リッカルド・ムーティ自伝』リッカルド・ムーティ(音楽之友社) | メイン | 『アメリカ遊学記』都留重人(岩波書店) »

2013年12月13日

『足利尊氏と関東』清水克行(吉川弘文館)

足利尊氏と関東 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「歴代足利一族への招待」

 京都に住んでいる者にとっては、足利将軍家は身近な存在だが、本書(清水克行著『足利尊氏と関東』吉川弘文館、2013年)は、書名にもかかわらず、全体として足利尊氏のみならずその歴代一族への最良の案内の一つに仕上がっている(「尊氏」となる前は「高氏」とすべきだが、煩雑さを避けるために「尊氏」で統一する)。

 そもそも、私たちは尊氏を足利家の嫡男としてみることに慣れているが、尊氏の父貞氏は金沢顕時(北条一族中の名族)の娘との間にできた高義という嫡男がいた。足利氏の当主は代々北条一族の女性を正室に迎えていたので、高義が21歳の若さで早世しなければ尊氏が家督を継ぐこともなかったはずである(尊氏の母は上杉清子だが、上杉家は足利家の家臣筋の家なので、貞氏の側室であったと著者は指摘している)。その証拠に、足利家の嫡男は「三郎」を名乗る決まりになっていたにもかかわらず、尊氏の元服の際の通称名は「又太郎」なのである。著者は、このような「家督相続者としては微妙な地位」(同書、25ページ)が若き日の尊氏の人格形成に影響を与えたに違いないとみている。尊氏の「躁鬱」的な性格(「異常な血統」と呼ぶ意見もあるようだが)もこれと関係があるかもしれないが、この点は、のちにまた触れることにしよう。
 尊氏は、「嫡男」となってから、やはり北条一族の赤橋氏から正室(赤橋登子)を迎えているが、実は、「嫡男」となる前に足利家の庶流、可子基氏の娘との間に竹若という男子をもうけていた。だが、正室の子でない以上、嫡男とはなりえなかった(のちに不幸な最期を遂げる)。また、『太平記』によれば、尊氏は「越前ノ局」との間に後に直冬を名乗る男子をもうけているが、父に冷遇された直冬が長じて室町幕府をたびたび脅かすようになるとは予想もしなかっただろう。

 尊氏が後醍醐天皇の綸旨を受け、篠村八幡宮で鎌倉幕府への叛旗を翻したあとの展開はよく知られているからここでは触れないが、尊氏という人物の性格はなかなか捉え難い。著者は、例えば、夢窓疎石の『梅松論』に拠って「戦場ではまったく死を恐れない一方、家臣の実績に対しては手放しで喜びを表現する」(同書、43ページ)という一面を指摘しているが、それは裏を返せば「すべてにおいて無頓着」(同書、44ページ)という性格にもつながると同時に指摘している。
 後醍醐天皇に対する態度も、尊氏の複雑で二面的な性格を反映していると思われる。尊氏は後醍醐天皇を尊敬し、敵対しようと思ったことは一度もないが、客観情勢がそれを許さなくなったとき、いつも苦渋の選択を迫られている。例えば、後醍醐天皇の許しを得ぬまま京から鎌倉へ向かい、中先代の乱を鎮圧したほどの胆力がありながら、弟の直義に押される形で鎌倉に留まり、幕府再興のような動きを見せたことで天皇の怒りを招くと、とたんに政務をすべて直義に任せて鎌倉の浄光明寺に引き籠ってしまったのだ(同書、52-55ページ参照)。
 のちの直義と執事の高師直との対立、北朝と南朝の対立なども、尊氏の優柔不断な性格が招いたと言われても仕方がない面があるように思われる。それゆえ、著者は、尊氏が一連の内部抗争の「最後の勝者」となれたのは、彼になにか「高度な政治戦略」があったからではないと述べている。「それはあくまで結果論からの類推であって、少々尊氏を買いかぶりすぎているのではないだろうか。これまでの尊氏の言動をみてみても、彼にそのような深謀遠慮があったとは思えない。むしろ、彼は師直と直義のあいだに挟まれて無定見に振り回されているという印象がつよい。彼にもう少し毅然とした態度があったならば、この戦乱は避けられる性格のものだったようにすら思われる」と(同書、83ページ)。
 尊氏は地蔵菩薩を素朴に信仰しており、彼が描いた地蔵菩薩像がいくつも残されているが、彼に地蔵信仰を植えつけたのは母清子であったという。著者は、地蔵菩薩が「小児の成長を守る慈愛に満ちた仏」であるとともに、「地獄のなかで苦しむ衆生を教え導き、その苦しみを代りに受容する菩薩」であることを踏まえて、次のように言っているが、それが真理を突いているのではないかと思う。

「鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇を京都から追い、血を分けた弟や我が子と死闘を演じる尊氏の生涯こそは、この世に地獄を再現したかのような時間だった。そうした修羅の道を歩む尊氏にとって、地蔵菩薩は、彼に心のやすらぎを与えてくれる唯一の存在だったのかもしれない。」(同書、92ページ)


 さて、最後に、足利一族の「異常な血統」と呼ばれる問題に戻ろう。著者は歴史家だから、歴史家が「精神分析」を安易におこなうことには慎重な態度をとっている。歴代の足利家当主のなかで「発狂」の微証のあるのは尊氏の父貞氏のみであり、それ以外は確たる証拠はないと(同書、133-134ページ参照)。ただ、それにもかかわらず、「不可解な言動」の背後を探ることには意味があるだろう。
 例えば、足利義兼が「わたしの子孫には、しばらく我が霊がとりついて正気を失うことがあるだろう」という遺言を残したとか、足利泰氏が幕府の許可を得ず勝手に出家してしまったとか、尊氏の祖父家時が源義家の不思議な置文(「七代目の孫にわたしは生まれ変わり天下を取る」)通りに天下を取れないのを嘆き、「わたしの命を縮めて、そのかわりに三代のうちに天下を取らせてください」と祈念して切腹したとか、そのような類のものである。著者はそのひとつひとつを検討しているが、いずれも当時の足利家の当主が執権として鎌倉幕府の実権を握る北条氏が絡む権力闘争から家を守るための言動であったと解釈しているようだ。傍証が足りないといわれても、歴史家としては、正攻法の解釈だ。
 ただ、今川了俊の『難太平記』にあるような「足利神話」がなぜ普及していったのかという疑問は残る。著者は、そこにはある種の「作為」があったと考えているようだ。いまでこそ私たちは足利将軍家という呼び方に慣れているが、足利一族のなかには自分の家のほうが兄筋の家柄であるというプライドを隠さない者がいたという(例えば、仁木・細川・畠山・桃井・吉良・今井・斯波・渋川など)。斯波氏や吉良氏は、鎌倉時代は足利を名字としていたくらいだから、そういう者も確かにいたはずだ。それゆえ、著者は、足利嫡流家が源氏の棟梁としてふさわしいことを正当化するには「足利神話」が必要だったのだと読み解いている。核心となる部分を引用してみよう。

「情緒の不安定さというのは、社会生活を送るうえではマイナス要素となるが、古代社会のシャーマンの役割などを連想してもらえればわかるように、前近代社会においては、それがある種の霊性として受容されることがありえた。『難太平記』では、人々のなかにすでに噂として知れわたっていた足利当主の精神的な不安定さを、始祖義兼以来、源氏の棟梁に刻印された聖痕とすることで、足利嫡流家を他家とは異なる特殊な霊性をもった血筋と位置づけようとしたのではないだろうか。」(同書、141ページ)

 そして、著者は、その「神話」の出どころは尊氏・直義兄弟ではないかと推測するのだが、あくまで「推測」の域を出ていない。しかし、きわめて興味深い解釈である。足利一族に関心のある歴史好きには楽しい読み物だ。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/5589