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2013年12月31日

『黒田官兵衛』小和田哲男(平凡社)

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「軍師の実像」

 2014年のNHK大河ドラマは、豊臣秀吉の軍師をつとめた黒田官兵衛が主人公だという。街の書店には、すでに官兵衛関連の本がたくさん並んでいる。そのなかで、本書(小和田哲男著『黒田官兵衛』平凡社新書、2013年)を選んだのは、比較的短時間に官兵衛が生きた時代とその人物についての知識を時系列でわかりやすく叙述しているからである。著者は日本中世史が専門で、大河ドラマの時代考証をつとめるなど、高名な歴史家だが、絶好のタイミングで歴史物を書き下ろす才能は貴重なものである。

 歴史を語る場合、一次資料のように信頼度の比較的高いものと、そうではないものを区別する作業が必要だが、前者だけではわからないことは、ほかの資料を基に「推測」することも場合によっては役に立つ。本書を読むと、この区別をつねに明確にしながら書き進めているのがよくわかる。
 例えば、本能寺の変の第一報は俗説では明智光秀の密使が陣所を間違えて秀吉の家臣に捕まってしまったので、秀吉が毛利方よりも早くその情報を得たということになっている。その密書は『別本川角太閤記』に収められているが、文面が当時のものとは違う偽文書なので、歴史ドラマならともかく、それを信用するのは危険である(同書、94ページ参照)。
 ただ、光秀が越後の上杉景勝にも密使を送っている事実が明らかにされているので、毛利陣所にも密使を送った「可能性」はある。その密使が秀吉の探索網に引っかかり、密書を取り上げられたと考えることはあり得るだろう。しかし、これも「かもしれない」という言い方しかできないし、著者もそのように表現している。
 そもそも戦国時代は嘘の情報を意図的に流して敵方を攪乱させる手法はよく用いられたものだが、秀吉が本能寺の変を事実であると確信したのはどの時点なのか。著者は、『黒田家譜』(江戸時代、筑前福岡藩主となった黒田家が儒学者の貝原益軒に編纂させた文書)の記述に基づいて、信長の側近だった長谷川宗仁からの書状からだったと考えるのが自然であるという書き方をしている。
 また、本能寺の変の第一報が届いたとき、容易に立ち直れそうになかった秀吉を官兵衛が励ました話も有名だが、近世初頭に書かれた逸話集には、「信長殿の死はめでたい」(『明良洪範』)とか、「めでたい。博打を打ちなさい」(『川角太閤記』)とか、秀吉をけしかけたような言葉が出てくる。だが、著者は、これも『黒田家譜』にあるように、「信長公の御事ハ、とかく言語を絶し候。御愁傷尤至極に存候。さても此世中ハ畢竟貴公天下の権柄を取給ふべきとこそ存じ候へ」という表現が事実に近かったのではないかと言っている(同書、96-97ページ参照)。
 だが、比較的信頼度の高い『黒田家譜』にも限界はある。例えば、官兵衛は天正11年(1583)頃、高山右近の勧めでキリスト教に入信したといわれているが、その事実は『黒田家譜』では抹消されている。家譜が編纂されたのは、江戸時代のキリシタン禁制が徹底していた頃だったので、その事実は都合が悪かったのである。家譜にも限界はある(同書、116ページ参照)。


 官兵衛は、秀吉が「天下人」になるまでの戦い(三木城の戦い、鳥取城攻め、賤ヶ岳の戦い、四国攻め、九州攻めなど)において「軍師」としての才能を十二分に発揮したが、逆に見て、秀吉が官兵衛不在のときは苦戦しているのが興味深い。例えば、本能寺の変のあとの弔い合戦で光秀を破ったからといって、秀吉がすぐに天下人になれたわけではない。中国大返しをしたあと、実は、毛利氏との境界画定交渉が難航し、官兵衛がその任に当たっていたため、秀吉は官兵衛不在のまま小牧・長久手の戦いに臨むことになった。幸い、「戦闘」では徳川家康に煮え湯を飲まれたが、織田信雄との「単独講和」を結び、「戦略」的には勝利を収めることができた。だが、官兵衛がいたら、池田恒興の「暴走」を防いだかもしれない。
 官兵衛は、44歳のとき家督を長政に譲っている。しかし、秀吉は官兵衛の一般的な意味での「隠居」を許したわけではない。44歳で家督を譲るのは、「人間五十年」の時代には決して早くはなかったが、巷に流布されている俗説(秀吉が自分が死んだあと天下を取るのは、徳川でも前田その他でもなく官兵衛だといったという作り話)ほどではなくとも、自分が秀吉に警戒されていることは鋭い嗅覚で察知していたに違いない。『黒田家譜』には、次のように書かれているという(わかりやすいように、著者の現代語訳を引用する。同書、155ページ)。

「官兵衛が早くに録を譲り、官職を捨てたのは、利益をむさぼろうとする気持ちが薄く、物ごとにとらわれないだけでなく、秀吉が官兵衛のもつ大志と、武略をおそれていることに気がつき、また、秀吉のまわりの家臣たちにも官兵衛の功名英才ぶりを妬む者がいるのを知り、そしられるのを逃れるためで、これは身を保つ立派なことである。」


 官兵衛は、「黒田如水教諭」という遺訓を遺しているが、そのなかで注目すべきは、「神の罰や、主君の罰よりも、臣下百姓の罰の方が恐ろしい」という趣旨の文章があることである(同書、195ページ参照)。また、「上に立つ者として、威、すなわち威厳は必要だが、ただ怖いだけの威厳ではだめで、家臣の諫言を受けいれる度量が必要なこと」も述べられているという(同書、196ページ)。
 信頼に足る歴史資料を尊重しつつ、それだけでは歴史の真相に迫れない部分はその他の資料のなかで蓋然性が最も高いものを採用し補完していく。著者の他の多くの著作と同じように、本書もそのような方法論で叙述された啓蒙書だということがわかるだろう。官兵衛の「軍師」というよりも「人物」そのものに関心のある読者にも参考になるだろう。


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2013年12月24日

『アメリカ遊学記』都留重人(岩波書店)

アメリカ遊学記 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「在りし日のアメリカ遊学記」

 都留重人(1912-2006)が1950年に書いた『アメリカ遊学記』(岩波新書)がアンコール復刊された。今となっては古いところもあるかもしれないが、約11年間に及ぶアメリカ滞在記は、20世紀前半のアメリカを知るには貴重な記録ともいえる。

 都留がアメリカ留学に旅立ったのは1931年9月だったが、当初はウィスコンシン州の片田舎アプルトンに滞在し、ローレンス・カレッジにて2年間学んだ。アメリカに留学したのは、旧制八高の反帝同盟事件にかかわって除籍になり、日本でそれ以上の高等教育を受けることができなくなったからである。「当初は」と言ったのは、いずれドイツに渡って学びたいという気持が強かったからだが、それはもろもろの事情(ヒトラーの台頭にみられる欧州情勢の悪化など)で不可能になったので、「図らずも」11年間もアメリカで学ぶことになった。
 当時ローレンス・カレッジにはハリー・ホワイトやボーバーのような経済学者もいたが、その頃の都留は、どちらかといえば、哲学と心理学を担当していたフリーズ氏、そしてフリーズ氏の推薦で参加したウィスコンシン大学の夏期大学で「論理学」のセミナールを担当したマックス・オットー教授から多くを学んだようである。オットー教授は、「理想を現実のなかから見出し而して現実を理想に近づけることに役立つのでなければ哲学には意味がない」(同書、35ページ)という立場をとっていた哲学者だったが、いかにもプラグマティズムの伝統のあるアメリカで生まれそうな哲学者である。
 2年後、都留はローレンス・カレッジからハーヴァード大学に移ることになるが、あるところで、東部の名門大学と田舎の大学の違いを、大洋航路の客席のなかの一等と二等になぞらえながら説明している。その意味は、一等船客が「一流の著名人や金持や栄華ごのみの人たち」が多く、その雰囲気は"gilded silliness and dull ponderosity"(サンタヤナの『最後のピューリタン』の言葉)ともいうべきものであるのに対して、二等船客は「飾らず又てらわぬ親しさがおのずから身についていて、はるかに人間らしい交わりができる」ということのようだ(同書、19ページ)。つまり、アメリカの大学は「多様性」をもっているのだが、都留はそれを身をもって体験したわけである。


 ハーヴァード大学では、「ソクラテス的方法」による教育で有名だったタウシッグ教授の晩年の授業で「価値と分配の理論」を学び、タウシッグ引退後はシュンペーター教授を中心に集まった有能な研究者や大学院生たち(レオンチェフ、スウィージー、サムエルソン、トリファン、等々)と切磋琢磨する日々が続いたが、1930年代のハーヴァードは、よくいわれるように、「黄金時代」であったと思う(注1)。都留は、とくに1935年から38年頃の時期、ハーヴァード大学が経済学研究の「メッカ」であったというふうに表現している(同書、51ページ)。
 古き良き時代のハーヴァードの「寄宿舎」(アダムス・ハウス)の思い出も興味深い。当時の日本と比較すればはるかに立派な設備によき研究環境と、「贅沢」という言葉がこれほど当てはまるものはない。都留の回想も、いつの間にか熱を帯びてくる。

「物的な設備はともかくとして、何よりも私がアダムス・ハウスについて楽しく懐古することは、数多くの先生と多数の学生とが、それぞれに専門を異にしながら、お互いに入りみだれて、毎日の食事やさまざまの社交的な機会をとおし、あるいは人間としてあるいは学徒として、あるいはスポーツマンとして、たえまない接触の機会をもちつつ勉強ができたということである。ハーヴァードにおける、批判的な精神、広い視野、学問への刺激、人間としての訓練など、このようにして育てられてきたものだと思う。」(同書、69-70ページ)

 ケインズの『一般理論』が出版されてからは、ハーヴァードでは、リッタウアー・センターの行政大学院でおこなわれたハンセン教授の「財政政策セミナール」がケインズ経済学研究の拠点となっていくが、若い研究者や大学院生の間でケインズ熱が高まったのには、『一般理論』刊行以前にロバート・ブライスというカナダ人がイギリスのケンブリッジで学んだケインズの新理論のエッセンスをすでにもち込んでいたからである。
 財政政策セミナーでは、研究者や大学院生ばかりでなく、連邦政府で働く官僚たちも加わって議論が展開されたが、そのようなことが可能であったのは、ルーズヴェルト大統領が旗印とした「ニューディル」の理論的基礎を補強するための作業に関心を持つ官僚たちがいたからだろう(「ニューディール=ケインズ政策」とは決して言えないが、その時期に理論と実践の間の「切磋琢磨」あるいは「緊張関係」に関心が高まったのは間違いない)。
 都留はそのような光景を目の当たりにしたわけだが、そのような理論と実践の間の相互交渉を高く評価する一方で、「学問の進歩がこのような形で推し進められうるものであろうか」という不安も吐露している。「極端な表現すれば、レパトワをもっている興行師を舞台につれ出してくるという建前になりがちであった」と(同書、86ページ)。のちの都留は現実に役立つ経済学という視点を誰よりも高く評価しただけに意外でもあるが、もしかしたら、日本にいたときから学んでいたマルクス主義の影響がそのような懐疑的意見となって現れたのかもしれない。のちに大きな影響を受けるシュンペーター教授について、「しいて云えば、私は教授のマルクスにたいするおおらかな態度にひかれてもいた」と書いていることにも注目したい(同書、103ページ)。


 都留はハーヴァードで博士号をとり、大学で講師をつとめるようになったが、そこへ日米開戦という大事件が勃発した。「敵国民」がどのような目にあうのか内心不安であったに違いないが、意外にも、ハーヴァードにおける研究生活には何の支障もなかったと書かれている(同書、129ページ参照)。都留は、1942年6月には交換船で日本に帰国することになるが、それ以降の話は「アメリカ遊学」とは関係はないので、ごく簡単な記述があるのみである(本書の出版が1950年だったことを想起せよ)。もっと関心のある読者は、都留が晩年に書いた回想録を参照してほしい(注2)。

1 いまは電子書籍でしか利用できないが、拙著『「ケインズ革命」の群像』(中公新書、1991年)を参照のこと。
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-9910448483
2 都留重人『いくつもの岐路を回顧して―都留重人自伝』(岩波書店、2001年)


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2013年12月13日

『足利尊氏と関東』清水克行(吉川弘文館)

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「歴代足利一族への招待」

 京都に住んでいる者にとっては、足利将軍家は身近な存在だが、本書(清水克行著『足利尊氏と関東』吉川弘文館、2013年)は、書名にもかかわらず、全体として足利尊氏のみならずその歴代一族への最良の案内の一つに仕上がっている(「尊氏」となる前は「高氏」とすべきだが、煩雑さを避けるために「尊氏」で統一する)。

 そもそも、私たちは尊氏を足利家の嫡男としてみることに慣れているが、尊氏の父貞氏は金沢顕時(北条一族中の名族)の娘との間にできた高義という嫡男がいた。足利氏の当主は代々北条一族の女性を正室に迎えていたので、高義が21歳の若さで早世しなければ尊氏が家督を継ぐこともなかったはずである(尊氏の母は上杉清子だが、上杉家は足利家の家臣筋の家なので、貞氏の側室であったと著者は指摘している)。その証拠に、足利家の嫡男は「三郎」を名乗る決まりになっていたにもかかわらず、尊氏の元服の際の通称名は「又太郎」なのである。著者は、このような「家督相続者としては微妙な地位」(同書、25ページ)が若き日の尊氏の人格形成に影響を与えたに違いないとみている。尊氏の「躁鬱」的な性格(「異常な血統」と呼ぶ意見もあるようだが)もこれと関係があるかもしれないが、この点は、のちにまた触れることにしよう。
 尊氏は、「嫡男」となってから、やはり北条一族の赤橋氏から正室(赤橋登子)を迎えているが、実は、「嫡男」となる前に足利家の庶流、可子基氏の娘との間に竹若という男子をもうけていた。だが、正室の子でない以上、嫡男とはなりえなかった(のちに不幸な最期を遂げる)。また、『太平記』によれば、尊氏は「越前ノ局」との間に後に直冬を名乗る男子をもうけているが、父に冷遇された直冬が長じて室町幕府をたびたび脅かすようになるとは予想もしなかっただろう。

 尊氏が後醍醐天皇の綸旨を受け、篠村八幡宮で鎌倉幕府への叛旗を翻したあとの展開はよく知られているからここでは触れないが、尊氏という人物の性格はなかなか捉え難い。著者は、例えば、夢窓疎石の『梅松論』に拠って「戦場ではまったく死を恐れない一方、家臣の実績に対しては手放しで喜びを表現する」(同書、43ページ)という一面を指摘しているが、それは裏を返せば「すべてにおいて無頓着」(同書、44ページ)という性格にもつながると同時に指摘している。
 後醍醐天皇に対する態度も、尊氏の複雑で二面的な性格を反映していると思われる。尊氏は後醍醐天皇を尊敬し、敵対しようと思ったことは一度もないが、客観情勢がそれを許さなくなったとき、いつも苦渋の選択を迫られている。例えば、後醍醐天皇の許しを得ぬまま京から鎌倉へ向かい、中先代の乱を鎮圧したほどの胆力がありながら、弟の直義に押される形で鎌倉に留まり、幕府再興のような動きを見せたことで天皇の怒りを招くと、とたんに政務をすべて直義に任せて鎌倉の浄光明寺に引き籠ってしまったのだ(同書、52-55ページ参照)。
 のちの直義と執事の高師直との対立、北朝と南朝の対立なども、尊氏の優柔不断な性格が招いたと言われても仕方がない面があるように思われる。それゆえ、著者は、尊氏が一連の内部抗争の「最後の勝者」となれたのは、彼になにか「高度な政治戦略」があったからではないと述べている。「それはあくまで結果論からの類推であって、少々尊氏を買いかぶりすぎているのではないだろうか。これまでの尊氏の言動をみてみても、彼にそのような深謀遠慮があったとは思えない。むしろ、彼は師直と直義のあいだに挟まれて無定見に振り回されているという印象がつよい。彼にもう少し毅然とした態度があったならば、この戦乱は避けられる性格のものだったようにすら思われる」と(同書、83ページ)。
 尊氏は地蔵菩薩を素朴に信仰しており、彼が描いた地蔵菩薩像がいくつも残されているが、彼に地蔵信仰を植えつけたのは母清子であったという。著者は、地蔵菩薩が「小児の成長を守る慈愛に満ちた仏」であるとともに、「地獄のなかで苦しむ衆生を教え導き、その苦しみを代りに受容する菩薩」であることを踏まえて、次のように言っているが、それが真理を突いているのではないかと思う。

「鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇を京都から追い、血を分けた弟や我が子と死闘を演じる尊氏の生涯こそは、この世に地獄を再現したかのような時間だった。そうした修羅の道を歩む尊氏にとって、地蔵菩薩は、彼に心のやすらぎを与えてくれる唯一の存在だったのかもしれない。」(同書、92ページ)


 さて、最後に、足利一族の「異常な血統」と呼ばれる問題に戻ろう。著者は歴史家だから、歴史家が「精神分析」を安易におこなうことには慎重な態度をとっている。歴代の足利家当主のなかで「発狂」の微証のあるのは尊氏の父貞氏のみであり、それ以外は確たる証拠はないと(同書、133-134ページ参照)。ただ、それにもかかわらず、「不可解な言動」の背後を探ることには意味があるだろう。
 例えば、足利義兼が「わたしの子孫には、しばらく我が霊がとりついて正気を失うことがあるだろう」という遺言を残したとか、足利泰氏が幕府の許可を得ず勝手に出家してしまったとか、尊氏の祖父家時が源義家の不思議な置文(「七代目の孫にわたしは生まれ変わり天下を取る」)通りに天下を取れないのを嘆き、「わたしの命を縮めて、そのかわりに三代のうちに天下を取らせてください」と祈念して切腹したとか、そのような類のものである。著者はそのひとつひとつを検討しているが、いずれも当時の足利家の当主が執権として鎌倉幕府の実権を握る北条氏が絡む権力闘争から家を守るための言動であったと解釈しているようだ。傍証が足りないといわれても、歴史家としては、正攻法の解釈だ。
 ただ、今川了俊の『難太平記』にあるような「足利神話」がなぜ普及していったのかという疑問は残る。著者は、そこにはある種の「作為」があったと考えているようだ。いまでこそ私たちは足利将軍家という呼び方に慣れているが、足利一族のなかには自分の家のほうが兄筋の家柄であるというプライドを隠さない者がいたという(例えば、仁木・細川・畠山・桃井・吉良・今井・斯波・渋川など)。斯波氏や吉良氏は、鎌倉時代は足利を名字としていたくらいだから、そういう者も確かにいたはずだ。それゆえ、著者は、足利嫡流家が源氏の棟梁としてふさわしいことを正当化するには「足利神話」が必要だったのだと読み解いている。核心となる部分を引用してみよう。

「情緒の不安定さというのは、社会生活を送るうえではマイナス要素となるが、古代社会のシャーマンの役割などを連想してもらえればわかるように、前近代社会においては、それがある種の霊性として受容されることがありえた。『難太平記』では、人々のなかにすでに噂として知れわたっていた足利当主の精神的な不安定さを、始祖義兼以来、源氏の棟梁に刻印された聖痕とすることで、足利嫡流家を他家とは異なる特殊な霊性をもった血筋と位置づけようとしたのではないだろうか。」(同書、141ページ)

 そして、著者は、その「神話」の出どころは尊氏・直義兄弟ではないかと推測するのだが、あくまで「推測」の域を出ていない。しかし、きわめて興味深い解釈である。足利一族に関心のある歴史好きには楽しい読み物だ。


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2013年12月11日

『リッカルド・ムーティ自伝』リッカルド・ムーティ(音楽之友社)

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「”音楽に境界はない”」

 イタリアのナポリ出身の指揮者リッカルド・ムーティ(1941年生まれ)を生で聴いたのは、フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督として来日した1980年代の初め頃だったと思う。若々しい姿と指揮ぶりが今でも印象に残っているが、いまや70歳を超えて「巨匠」と呼ばれるようになった。彼は現在シカゴ交響楽団の音楽監督として活躍しているが、本書(『リッカルド・ムーティ自伝』田口道子訳、音楽之友社、2013年)は、シカゴでの仕事が始まる前に出版された原書(2010年)の翻訳である。

 この世代の多くの指揮者と同じように、ムーティもカンテッリ・コンクールに優勝してから指揮者としての活躍の場を広げていくことになるが、初めはピアノの勉強をしており、指揮者になったのは偶然の要素も大きく働いている。
 指揮者としてはまだ駆け出しの頃、すでに大ピアニストであったスヴャトスラフ・リヒテルと共演することになったが、なんとムーティは正直にもリヒテルに本当に自分が指揮してもよいものだろうかと尋ねた。リヒテルは一緒にピアノを弾いてみようと指示し、モーツアルトとブリテンのピアノ協奏曲のオーケストラ部分をピアノ伴奏用に編曲したものを弾くことになった。弾き終わったとき、リヒテルはこう言ったという。「もしあなたがピアノを弾いたように指揮するなら素晴らしい音楽家です。あなたとコンサートをすることにしましょう」と(同書、51-52ページ)。
 その後は、フィレンツェ五月音楽祭歌劇場の音楽監督、フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者、フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督、ミラノ・スカラ座の音楽監督など主要なポストを歴任したが、その他にもカラヤンの招きでザルツブルク音楽祭でモーツアルトのオペラを指揮したり、ウィーン・フィルやベルリン・フィルの指揮台に上ったりと多忙な音楽活動を展開するようになった。とくに、ウィーン・フィルとの相性がよかったようだ。彼は次のように言っている。

「ウィーン・フィルとの共演は、私の人生のうちで最も大切なものである。1971年に付き合いが始まって以来、この自伝を書いている今日もその親密な関係は続いている。
 毎年ザルツブルク音楽祭への参加は決して欠かさない。オペラの指揮をしなかった年も、ウィーン・フィルとの演奏会だけは行った。」(同書、96ページ)

 ウィーン・フィルから「金の指輪」(1992年のオーケストラ創設150周年記念)を授与されたのも肯ける(2001年にはニコライ賞も受賞している)。


 だが、ヴェルディを初めとするイタリア・オペラに触れずしてムーティを語ることは許されないだろう。幼い頃からオペラに親しむ環境で育った彼は、ミラノ・スカラ座音楽監督というイタリア・オペラでは頂点の地位に就いて数々の名演を遺したが、ある事件が起きてからは両者の間に「溝」ができてしまったことは否めない。その事件とは、スカラ座の組合員が雇用問題をめぐってストライキ(1995年6月2日)を起こしたため公演が不可能になったところを、熟慮の末、ムーティがオーケストラの代わりにピアノ伴奏で「ラ・トラヴィアータ」を上演するという苦肉の策で乗り切ったことを指している。ムーティは、この事件について多くは語っていないが、次の文章だけでも彼の胸中を察するには十分ではないだろうか。

「記者会見では、私を勝利者として英雄扱いしたがる人がいるとすれば、昨夜は誰も勝利したわけではなく、それは我々が、劇場やオーケストラや私自身やヴェルディや観客を失った悲しい日だったと考えるべきである(とにかくオペラを縮小して上演してしまったのだから)と言ったことを覚えている。そして私が極限状態でとった態度は決してオーケストラに対抗するものではなく、午後八時に集まってオペラを観ようと楽しみにしている観客の気持を損なわないようにするためだったと説明した。私は――スカラ座のオーケストラとはその後も素晴らしい関係は続き、多くの仕事をしたが――あの日を境にオーケストラとの信頼関係に何かしら亀裂が入ったと思っている。」(同書、145ページ)


 さて、今年はヴェルディ生誕200年という記念の年だったので、ムーティも引っ張りだこだったが、興味深いことに、彼は指揮者としての仕事は「孤独」だと語っている。「楽譜を前にして、演奏への探求をすることのみならず、それをオーケストラに伝え、さらに観客にまで届けなければならない使命を負っているのだ。コンサート前後に一人きりで楽屋にいる時、頭にあるのは演奏の完璧さを追求することだけで、他には何も考えていない」と(同書、159ページ)。

 ムーティは、現在、将来を担う音楽家の育成にも力を入れている(学生やオペラ・ファンへの「レクチャー」や公開リハーサルなど)。その他、「様々な事情から自分の意志に反して文化から遠ざかっている人々」、端的にいえば刑務所で刑に服している人々のための演奏会というのもある(同書、190-192ページ参照)。「音楽は人々を慰める役も果たす」(同書、191ページ)という信念からの活動である。最終章が「音楽に境界はない」と題されているのは、その意味で、本書の結びにふさわしいのではなかろうか。


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