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2013年11月29日

『危機の女王 エリザベスⅡ世』黒岩徹(新潮社)

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「英女王を知らずして英国社会は語れない」

 長く毎日新聞のロンドン特派員や欧州総局長として英国社会を観察してきた著者によるエリザベス女王論が登場した(黒岩徹『危機の女王 エリザベスⅡ世』新潮選書、2013年)。著者はすでに英国に関係する多数の著作を著しているが、意外にも、エリザベス女王について詳しく書いたのは本書が初めてではないだろうか。

 タイトルにある「危機の女王」が本書全体のモチーフである。1936年12月、伯父のエドワード8世がシンプソン夫人との「愛を貫く」ために退位宣言に署名するという英王室にとっては仰天するような「事件」が勃発した。伯父の退位によって弟のヨーク公(エリザベスⅡ世の父)がジョージ6世として即位したが、ヨーク公は本来なら国王にはならなかったはずなので、その準備が全くできていなかった。しかし、海軍時代の同僚で親友でもあったマウントバッテンに次のように諭されたという。「君は間違っている。海軍で訓練を受けるほど国王になるために最適な準備はないのだよ」と(同書、22ページ)。そういえば、ヨーク公の父ジョージ5世も、兄の死で急に王位を継いだのだが、そのときはマウントバッテンの父がジョージ5世に同じアドバイスをしたのだった。だが、このような王室の危機を目の当たりにした経験は、エリザベス王女(のちのエリザベスⅡ世)の深層心理に後々まで影響を及ぼしていく。
 1952年2月6日、もともと体が丈夫ではなかった父のジョージ6世が心臓発作で亡くなり、エリザベス王女がエリザベスⅡ世として即位した。将来女王となるための「帝王学」の教育は受けていたが、まだ25歳の女性である。ときの首相チャーチルは当初若干の不安を抱いていたようだ。だが、「若い女王を教育するのは自分の役割だ」と決意した。チャーチルにとっては孫のような歳の女王だが、エリザベスⅡ世の呑み込みの早さに驚き、次第に女王と会うのを楽しみにするようになったという(同書、72-73ページ参照)。女王にとって、チャーチルは政治の師匠であった。


 エリザベスⅡ世は、王女時代は快活な女性だったが、女王となってからは、「ほがらかな表情や軽快な笑みが顔から消えた」という(同書、75ページ)。それだけ女王としての重責を自覚していた証拠だろう。それゆえ、妹のマーガレット王女が離婚歴のあるタウンゼンド大佐と恋に落ちたときには、妹の幸せを願いながらも、英王室の権威を守る行動をとった(結局、二人は結婚には至らなかった)。エリザベスの脳裏には、伯父が退位宣言をしたときの英王室の危機感が鮮明に刻まれていたのである。
 後年、「おとぎ話」(カンタベリー大主教)として始まり、「ギリシャ悲劇」(チャールズ皇太子)として終わったといわれる、皇太子チャールズとダイアナ妃との一連の物語が英王室に大きな打撃を与えたが、エリザベスⅡ世はこのときも従来と同じ姿勢で臨むつもりだった。だが、地雷撤去活動支援やエイズ防止などの慈善活動で国民に人気のあるダイアナがマスコミを味方につけたために、彼女がパリで愛人とともに事故死したあとの判断に狂いが生じた。英国民は、ダイアナの死のあとバルモラル城に籠って出ようとしなかったことに対して怒った。世論に敏感なブレア首相が渋る女王を説得し、ロンドンへの帰還と半旗掲揚に至るまで五日間の時間が経過していた。ダイアナの死の直後の英国民の反応を「集団ヒステリー」として分析する見解もあるようだが(同書、234ページ参照)、女王はこのときの経験に学んで、チャールズ皇太子のカミラさんとの再婚を許すまで5年間慎重に世論の動向を気にしていたという。


 エリザベスⅡ世は、大資産家ではあるが(もっとも、売ることができない資産をたくさん持っているひとを「お金持ち」と呼べるかどうかは微妙だが)、無駄や浪費を嫌い、歴史上悪名の高いマリー・アントワネットのように服装に凝ることもない。「着る服は流行のファッションに左右されることなく、女王の威厳が保たれるような、やや保守的なデザイン」(同書、136ページ)が基本だという。

 新聞記者出身だけに著者は綿密な取材に基づいて本を書いているが、残念ながら、エリザベスⅡ世本人に直接取材することはできない。それにしては英王室内の事情を知り過ぎていると思う読者もいるかもしれないが、「あとがき」を読むと、アン王女が来日したときのインタビューから多くの貴重な情報を得たことが明かされている。

 「女王という人物を知らずして、英国社会を語れない」(同書、245ページ)という著者のメッセージに関心のある方々には興味深く読める一冊であるに違いない。


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2013年11月24日

『ケネーからスラッファへ―忘れえぬ経済学者たち』菱山泉(名古屋大学出版会)

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「経済学における客観主義―スラッファ没後30年」

 今年は、イタリア出身の経済学者ピエロ・スラッファ(1898-1983)没後30年の年でもある。彼は若き日にイギリスの経済学界を揺るがした論文「競争的条件の下での収穫の法則」(1926年)で世界的に有名になったが、イギリスのケンブリッジ大学で研究生活を送るようになってからは、ライフワーク『商品による商品の生産』(1960年)の完成まで長い年月をかけて思索を続けた稀有のひとである。本書(菱山泉著『ケネーからスラッファへ』名古屋大学出版会、1990年)は、わが国におけるスラッファ研究の権威者であった菱山泉(1923-2007)がスラッファを中心とする経済学史上の第一級の理論家を取り上げながら、経済学における客観主義の意義を平易に語った名著である。

 「客観主義」というからには「主観主義」があるはずだが、本書では、有名なケインズが『一般理論』のなかで批判の対象にした「新古典派」(ケインズは「古典派」という言葉を使ったが)、または「正統派均衡理論」がまさに方法論的個人主義と主観主義に立っていたと捉えられている。具体的には、ヒックスの『価値と資本』に出てくる「消費者」、すなわち、所与の貨幣所得と選好体系をもった消費者がどのような行動をとれば効用を最大化することができるかという問題を立てて消費者選択の理論を構築しようとする方法論のことだ(同書、140-141ページ参照)。新古典派では、消費者の効用最大化仮説から通常右下がりの需要曲線を導出し、企業の利潤最大化仮説から通常右上がりの供給曲線を導出することによって、両曲線の交点で均衡価格と均衡数量が決定されるという思考法が支配的である。
 ところが、スラッファ理論においては、一言でいえば、価格は経済体系の「生産方法」(「投入産出構造」という言葉も使われているが)に規定されて決まる。留意すべきは、ここで「価格」というのは、需給状況でつねに上下する「市場価格」ではなく、スミスやリカードなら「自然価格」、マルクスなら「生産価格」と呼んだものに相当することである。最も基本的なモデルでは、すべての産業で「均等利潤率」が成立していると仮定されているが、これは最大の利潤を求めて資本が各資本の間を自由に出入りするような「競争」プロセスを通じて「均等な」利潤率が成立しているということである。それゆえ、スラッファの「価格」は、市場価格が究極的にそこに向かって収束していくという意味でスミスのいう「中心価格」でもある。
 本書は、スラッファがこのような客観主義的価格理論を提示するに至った思索のプロセスを、ケネーの再生産論、リカードの「不変の価値尺度」問題、マーシャルの「需要と供給の均衡」という着想への疑問など、学説史上の話題を縦横に駆使しながら興味深く語っている。現在手に入りうる最も優れたスラッファ入門書と言ってよい。

「・・・・・スラッファの価格が、考察されている体系のテクノロジーと「剰余」の比例的分配とに基づいて決定するということは、それが、通常のミクロ理論でのように、個人の行動に依存するものではないという性質をもっている。新古典派理論にもとづく分析的構想からは、まったく予想もつかないかもしれないが、個々人の期待や行動に少しも基づかない、純粋に客観的な経済理論も存在するのだ。」(同書、187-188ページ)


 スラッファの価格理論が「個々人の期待や行動」に全く基づかないという意味で「客観主義的」だとすれば、ケインズ革命の遺産であるマクロの所得決定理論も「個々人の期待や行動に基づかない」客観主義的なものである。ケインズ理論では、総投資Iが与えられれば、それに等しい総貯蓄Sを生み出すところに総所得Yが決まるからである。この点、著者は、「ともあれ、安定的な消費関数が与えられると、投資がΔIだけ増加すると、これに等しい貯蓄ΔSを生み出すように、ΔYをもたらす。この場合の乗数とは、「1-限界消費性向」の逆数、すなわち限界貯蓄性向の逆数であることは、よく知られている。要するに、所与の消費性向の下での投資増加ΔIと、それに対応して生じる所得増加ΔYとの関係は、ΔIをもたらした個々の企業者の主観的な動機や思惑がいかなるものであれ、それらとは独立の、客観的かつ不可避的な因果的関係であることを強調しておきたい」と的確に述べている(同書、163ページ)。
 もちろん、ケインズとスラッファでは問題意識や理論構造に大きな違いがあることも事実だが、所得決定(ケインズ)や価格決定(スラッファ)の問題に関して「客観主義」という共通項があることは極めて興味深い。


 久しぶりに本書を読み返しながら、私は、研究者の一生の仕事を決定づける「偶然」と「必然」の両方を痛感した。若い頃、経済社会学に関心をもっていた著者に対して経済学の古典的名著を読む意義を静かに諭してくれた恩師の言葉(「偶然」)と、スラッファに導かれるように古典派やマーシャルを初めとするケンブリッジ学派などの研究に没頭するようになった日々(「必然」)――すべての研究者がこのような道を歩むとは限らないが、著者の場合、「偶然」と「必然」が見事なまでにミックスし、ついには研究者として大輪の花を咲かせた好例ではないだろうか。スラッファ没後30年という節目の年でもあり、本書を若い学生や研究者たちにすすめる所以である。


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2013年11月12日

『宮澤賢治の聴いたクラシック』萩谷由喜子(小学館)

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「宮澤賢治とクラシック音楽との接点」

 宮澤賢治(1896-1933)について書かれた本は多いが、賢治の生涯や作品とクラシック音楽との接点に的を絞った本を初めて読んだ(萩谷由喜子『宮澤賢治の聴いたクラシック』小学館、2013年)。宮澤家には、明治40年(1907年)頃にはすでに蓄音器があり、家族で愛聴していたとは驚きである。賢治の実家は、よく知られているように、大都会ではなく岩手県の花巻だから、「質・古物商として成功した宮澤家の文化水準と経済力を映し出している」(同書、5ページ)という著者の指摘は正しいと思う。以下、できる限り賢治とクラシック音楽との関係に焦点を合わせたいので、それ以外のことは付随的に触れるのみにとどめたい。

 花巻市上町には、同市で唯一の洋品専門店(岩田洋物店)があった。この店は洋品雑貨一般からヤマハのハーモニカまで販売していたらしいが、店主(賢治の従兄弟・岩田蔵)が仕入れのために上京したとき、ある化粧品屋から百円のワシ印の蓄音器を譲り受けた。店主はそれを花巻に持ち帰ってレコードをかけていたのだろうが、ある日、賢治と彼の弟(宮澤清六)がそれを聴いて、とくに賢治が「これはいい、これはいい」と感激したという(同書、6-7ページ参照)。レコードといっても、それ以前は浄瑠璃や俗謡などがほとんどだったが、賢治がこの頃(1918年)気に入ったのは、西洋のクラシック音楽である。弟清六の回想(『兄とレコード』)によれば、賢治はチャイコフスキーの第四交響曲のフィナーレを聴いたとき、「此の作曲家は実にあきれたことをやるじゃないか!」と叫んだという(同書、7ページ)。本書の強みは、賢治が実際に聴いたか聴いた蓋然性の高い音源を付録として二枚組のCDにまとめていることである。この演奏は、ムック指揮ボストン・シンフォニー管弦楽団の演奏(1917年録音)だったという。
 この時代のレコードでクラシック音楽を演奏しているのは、私たちがいま思い浮かべるフル・オーケストラというよりも「バンド」と呼べるような小規模な楽団が少なくなかったが、賢治も1910~20年代に活躍したヴェセルラ指揮のイタリアン・バンドの演奏をよく聴いていた。ベートーヴェンの有名なピアノ・ソナタ第14番「月光」やピアノ・ソナタ第12番「葬送」第3楽章のバンド版も、イタリアン・バンドの演奏で愛聴した。
 当時レコードは高価だったが、賢治は大正10年(1921年)12月から大正15年3月まで花巻農学校の教師として毎月90円の俸給をもらっていたので、レコードの数も少しずつ増えていったのだろう。著者はこんなことを書いている。

「この頃、地方の小さな町花巻の楽器店でなぜかよくレコードが売れるので、ポリドール社ではその店に感謝状を贈り、詳しい事情を聞いてみたところ、それは、ひとりの風変わりな農学校教師がせっせと買っていくからだとわかり唖然としたという珍事があった。その農学校教師が賢治であったことは言うまでもない。」(同書、15ページ)

 賢治はベートーヴェンを敬愛していた。花巻農学校でベートーヴェン百年祭レコードコンサートを企画したのも賢治だった。そればかりか、同時期に農学校付近の野良で、つばのある帽子に厚手のコート姿で後ろ手に組んでうつむきがちに歩く自分の写真を撮らせているが、これはなんとベートーヴェンがウィーン郊外のハイリゲンシュタットを散策するのを「模倣」して撮らせたものだという(同書、18ページ)。
 ベートーヴェンの有名な「運命」交響曲も大好きだった。賢治の感想「繰り返し繰り返し我らを訪れる運命の表現の素晴らしさ」も興味深いが、「おれも是非ともこういうものを書かねばならない」と奮起して書き始めたのが『春と修羅』と題する心象スケッチだったという弟清六の回想がさらに印象深い(同書、20ページ参照)。賢治は運命交響曲のレコードを三種類もっていたが、そのうちの一つは日本でも人気の高いフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの演奏(1926年録音)である。
 もう一つ有名なベートーヴェンの田園交響曲も賢治の作品と無縁ではない。賢治は、大正11年(1922年)5月21日、岩手山の南東山麓に広がる小岩井農場を一日がかりで歩き、その折々の実景と心象風景を画家がスケッチするのと同じように言葉で紡いでスケッチしたが、この長編口語詩『小岩井農場』は、ベートーヴェンの田園交響曲の手法を踏襲したものだった。著者は、「ベートーヴェンの書き留めたのが五線上の音符で、賢治のそれが彼独自の言葉の音符だったに過ぎない」という(同書、27ページ)。賢治が所蔵していたレコードの中ではベートーヴェンが一番多かったというくらい、この楽聖への思い入れは強かったようだ。

 ところで、賢治といえば童話『セロ弾きのゴーシュ』を思い出すひとも多いだろうが、彼は実際に「新交響楽協会」(設立まもない日本初の常設プロ・オーケストラ)のチェロ奏者(大津三郎)から三日間の特訓を受けている。無謀なことだ。大津のペンネームでの回想記(『音楽の友』1952年1月号)によれば、「エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思ってオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりもセロのほうがよいように思いますので」と答えたらしい(同書、39ページ参照)。
 また、童話『銀河鉄道の夜』の後半には『新世界交響楽』が登場するが、これはもちろんドヴォルザークの新世界交響曲のことである。賢治はこの曲の第二楽章のラルゴが大好きで、折に触れては口ずさんでいたという。半端ではないクラシック音楽への傾注ぶりである。

 今日、私たちは賢治が長生きできなかったことを知っているが、晩年リヒャルト・シュトラウスの交響詩『死と浄化』の世界に共感し、そのレコードを病を押して吉祥寺の菊池武雄に託したという。賢治は法華経の信者でもあったが、著者は、「東洋的な宗教観に基づく解脱の境地」と、『死と浄化』のテーマ(死が生の終焉ではなく天界への浄化であること)が重なり合ったのではないかと推察している(同書、58ページ参照)。
 病が重くなったとき、音量の大きな音楽を聴くのは身体にこたえるようになったが、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』をごく小さな音量でも聴きたがったり、ストラヴィンスキーの『火の鳥』までも受け容れるようなモダンな芸術感覚を持っていたりと、興味深い事実の紹介がたくさん登場する。賢治のファンでなくとも、あるいはクラシック音楽のファンでなくとも十分に楽しめるし、また教えられることの多い好著である。


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