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2013年10月31日

『反逆する華族 「消えた歴史」を掘り起こす』浅見雅男(平凡社)

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「”赤化華族”とは何だったのか」

 著者は、すでに戦前の華族について何冊も本を書いており、私もその一冊はかつてある新聞で取り上げたことがあるが、本書(浅見雅男著『反逆する華族―「消えた昭和史」を掘り起こす』平凡社新書、2013年)は、「赤化華族」に的を絞り、皇室の「藩屏」といわれた彼らがなぜ戦前には非合法だった共産党の運動に身を投じたかを再考し、「消えた昭和史」を掘り起こそうとする興味深い試みである。


 本書に登場するのは、石田栄一郎(男爵家の長男)、大河内信威(子爵家の長男)、学習院グループ、岩倉靖子(公爵家の三女)などだが、現代の若者には、当時ふつうの人たちよりははるかに恵まれた境遇に育った彼らがなぜ共産党の活動に身を投じたのか、理解に苦しむに違いない。しかし、まさに恵まれた境遇に生まれたからこそ、あるいは、著者の言葉を借りれば、「自分ではどうしようもない『出自』への罪悪感」(同書、52ページ)を抱いていたがゆえに、彼らは左傾化していったのである。
 もちろん、彼らの共産党への関与や、逮捕された後の取り調べや裁判の過程での「改悛の情」(「転向」といってもよいが)には温度差がある。いったん有罪(実刑)となりながらも、控訴して執行猶予という比較的軽い判決を言い渡された華族がいる一方で、石田栄一郎のように上告せずに服役したケースもあるというように。逮捕された後いとも簡単に転向表明した華族もいるが、意志の固い人物であればあるほど、獄中で冷静に考える時間を与えられて、自分たちを利用したに過ぎなかった党や運動関係者に幻滅し、彼らとは袂を分かつ道を選んだ華族もいた。石田はまさに後者の典型であった。
 石田は獄中で猛勉強し、後に民俗学や文化人類学への道を歩むことになるが、彼が本当に「転向」したかどうかは微妙な問題である。だが、転向者が戦後の共産党によって厳しく糾弾されることになったとき、石田の脳裏にはどのような思いがよぎっただろうか。――マルクス主義の理論的な矛盾や共産党の非合法活動の内実には幻滅した。しかし、マルクス主義に代わるものは見つからない。そこで、以前から関心を持っていた民俗学の方へ行くことにした。それは現実からの逃避であったかもしれない。いろいろな思いがよぎったに違いない。著者は、「彼が自分は転向していないと内心で叫びながら、それを公言できないという屈託をかかえていたことである。これこそが最も「逃避」したい「現実」であろう」(同書、83ページ)と述べているが、言い得て妙である。


 大河内信威は、一時は熱心に非合法活動にのめりこみ、『日本資本主義発達史講座』に収録された論文「労働者の状態及び労働者運動史」(400字詰原稿用紙で300枚ほどの大作)を執筆したほどの理論家でもあったが、最終的には、「転向」のおかげで執行猶予を勝ち取った例である。だが、著者によれば、大河内の場合も、本当に転向したかどうかは微妙だという。大河内は、のちに理研グループの持ち株会社の取締役にもなったが、三戸信人の回想によれば、左翼活動の前歴者を密かにかばっていたという(同書、108-109ページ参照)。
 戦後は、陶磁器の観賞や研究に打ち込み、その分野での専門家として有名になったが、『歴史科学体系25 労働運動史』(昭和56年刊)に前に触れた論文の一部を再録することは認めている。彼の心の内は本当はわからない。

 
 本書で「学習院グループ」と呼ばれている八条隆正(旧公家)と森俊成(旧大名)の二人は、裁判が始まる前には転向を表明していたが、森は実刑判決を不服として控訴(その結果、控訴審では執行猶予)、八条は実刑に服するというように立場が分かれた。八条は「優秀転向者」となったが、森が控訴審で執行猶予がついた背景には、天皇の意向が働いていたという。天皇の「寛大な御心」は、内大臣秘書官長で宗秩寮総裁を兼ねていた木戸幸一に伝えられたが、著者によれば、その後の動きをみると、天皇の内意が働いていたと考えるほか説明がつきにくいという。

「かくして森の控訴審を除いては学習院関係者による共産党事件は一段落した。森の二審判決が執行猶予つきとなったことに天皇の意向が反映していたかどうかは分からないが、その半年後にくだされた大河内信威の二審判決がやはり執行猶予付きの軽いものだったことも考え合わせると、司法部が宮内省のおこなった処分内容から天皇の心情を以心伝心で察し、方針を転換した可能性ものこるだろう。しかし、真相はおそらく永遠に謎である。」(同書、147ページ)


 最後に登場する岩倉靖子の場合は、どうしても筆が重くなる。彼女はキリスト教の信仰を捨てて運動に身を投じたほど意志が固く、あらゆる懐柔策にもめげずに容易に転向表明はしなかった。ところが、自分を運動に導き、若くして亡くなった従姉妹(上村春子)の夫・横田雄俊が簡単に転向表明したことに大変な衝撃を受けた。その後、彼女も「転向」したことになっているが、心の内は複雑だったに違いない。
 その頃、赤化華族問題とは別に不良華族問題という「醜聞」があり、世間は彼らに厳しく新聞も彼らへの厳重な処分を予想していた。この予想は天皇の寛大な御心によって見事に外れてしまうが、靖子はそんなことは露知らず、赤化華族問題にも厳正な処分がなされると信じてしまった。兄や公爵家は無事でいられるのだろうか。彼女の心は極端なペシミズムへと向かっていく。――自分が自殺すれば、宮内省や世間は岩倉家を同情の目で見てくれるのではあるまいかと。そして、昭和8年12月21日午後、まさに「不良華族事件」関係者への処分が決まる日、彼女は頸動脈を切って自らの命を絶った。
 靖子は、獄中にあって転向する前頃から再び聖書をひもとくようになっていたが、遺書には、次のように記されていたという。

「生きていることは、凡て悪結果を結びます。これ程悪いことはないと知りながら、この態度をとることを御許し下さいませ。皆様に対する感謝とお詫とは云い尽せません。愛に満ちたと願ってもこの身が自由になりません。唯心の思いを皆様に捧げることをおくみとり下さいませ。全てを神様に御まかせして、私の魂だけは、御心に依って善いようになし給うと信じます。説明も出来ぬこの心持を善い方に解釈して下さいませ。」(同書、198-199ページ)

 悲劇の生涯である。もう一度言うが、現代の若者は、このように「思想」に殉じて短い生涯を閉じた女性がいたことをほとんど理解できないだろう。「消えた歴史」を掘り起こす意味もわからないかもしれない。だが、それもまた、ほんの一部とはいえ、私たち日本人が歩んできた歴史なのである。


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2013年10月24日

『オーケストラは未来をつくる マイケル・ティルソン・トーマスとサンフランシスコ交響楽団の挑戦』潮博恵(アルテスパブリッシング)

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「MTTとサンフランシスコ響の挑戦」

 マイケル・ティルソン・トーマス(しばしばMTTと略称される)は、レナード・バーンスタイン亡きあと、アメリカのクラシック音楽界を担ってきた鬼才のひとりだが、本書(潮博恵『オーケストラは未来をつくる』アルテスパブリッシング、2013年)は、MTTとサンフランシスコ交響楽団がどのようにクラシック音楽の未来を切り開こうとしているのかに焦点を当てた好著である。

 私がMTTの演奏を初めて聴いたのは、彼がロンドン交響楽団の首席指揮者をつとめていた頃だから、ずいぶん前の話である。MTTの指揮ぶりには好感をもったが、その頃はまだカラヤンやバーンスタインが健在だったので、正直MTTの録音や演奏を注視する暇はなかった。本書を読む限り、著者がMTTにとくに関心を寄せるようになったのも比較的最近のこと(2006年12月、MTTとサンフランシスコ響を紹介するブログを開設)のようだ(注1)。
だが、本書を読むと、MTTがサンフランシスコ響と実に興味深い活動を展開しているのがわかる。

 サンフランシスコ響の専用コンサート・ホール(デイヴィーズ・シンフォニー・ホール)が完成したのは1980年、ときの音楽監督はエド・デ・ワールトであった。このホールは、のちに音響改善工事(1991年から92年にかけて)を経てさらに立派なホールに生まれ変わるが、MTTがサンフランシスコ響の音楽監督になるのは1995年であり、躍進への基礎は前任者のヘルベルト・ブロムシュテット時代に出来上がっていたと言えるかもしれない。
 著者によれば、MTTは三つのヴィジョンを抱いていたという(同書、102-110ページ参照)。
 第一は、アメリカの音楽とアメリカン・サウンドを重視すること。アメリカの指揮者がアメリカの音楽を重視するのは当たり前のように思えるが、アメリカといえども、聴衆がアメリカの音楽をつねに聴きたがるとは限らない。MTTは、「アメリカ音楽を聴くことが、アメリカという国や社会の来し方を知り、行く末を探ることにつながる」(同書、103ページ)という信念をもって、毎回のコンサートでアメリカの作品を演奏した。アメリカのオーケストラがヨーロッパのそれと同じになる必要はなく、「ヨーロッパのオーケストラが提供するクラシック音楽とは違うものを提供するという姿勢」(同書、105ページ)を貫くのはそれほど簡単ではない。しかし、MTTはアメリカ音楽の特徴である、ダイレクトな表現やブレーンな語り口を活かした演奏を続けた。日本のオーケストラが、日本人の作品を毎回コンサートで演奏しているかといえば事実はそうではないので、MTTの信念がいかに固いものであったかがわかるだろう。
 第二は、MTTが用いる決め台詞「生きているというだけで、あなたは必要なことをすべて知っている」ということ。クラシック音楽は専門家だけのものではない。MTTは、クラシック音楽は「人生とは何か」を探求しており、しかも人間は誰でも人生を探求しているのだから、クラシック音楽はすべての人に通じていると考えていた(同書、107ページ参照)。それゆえ、MTTの仕事は、曲の選択や組み合わせを工夫し、聴衆に人間や人生の多様性が伝わるような演奏を心がけることになるのだ。
 第三は、「音が消えたあとで心に残るもの」を大切にすること。MTTが演奏する音楽は必ずしも耳に心地よいものばかりではなく、ときには聴く者を混乱に陥れるものもある。しかし、MTTは、音が消え去った後(一週間後、一年後、十年後)でも聴き手に何かが残るはずだと信じていた。「何か」の例として、「メロディ」「リズム」「他の人間や別の文化への理解」などが挙げられているが、MTTがサンフランシスコ響100年を振り返ったドキュメンタリーの最後で述べたという次の言葉は引用に値すると思う。

「私が曲を演奏するときにもっとも興味があるのは、音楽が止まったときに何が起こるか、音楽が終わったときに私たちが手にしているものは何かという点にあります。音楽の何かが私たちの内面に入り込んで、違う人間に変えるのです。このことが音楽の素晴らしい魅力であり、これまでも、そしてこれからも人々を惹きつけてやまない神秘なのです。」(同書、109ページ)

 本書を読むまで、私はMTTがこのようなヴィジョンをもって音楽活動をしていたとは知らなかったが、MTTとサンフランシスコ響が力を入れているいろいろな活動(地域の学校への音楽教育の提供、オーケストラ版オープン・エデュケーションというべき「キーピング・スコア」、アマチュア音楽家のコミュニティづくり、若手音楽家を対象にした「ニュー・ワールド・シンフォニー」の創設など)をみると、MTTが並々ならぬ情熱をもった音楽家であることを改めて認識した(注2)。とくに感心したのは、MTTが「子供だから」という理由で彼らを決して侮らないことだ。「『子供だからこのていど』ではなく、『子供だからこそ本物を』という発想」(同書、146ページ)には敬服する。


 ところで、最近MTTが録音したマーラーの交響曲全集を聴く機会があったが、この録音はサンフランシスコ響の自主レーベルから出ているSACDである。現在はマーラーはある意味でベートーヴェンやブラームスよりも人気があるので、市場には名指揮者によるマーラー全集があふれている。それゆえ、大手のレコード会社は新たにMTTとサンフランシスコ響の演奏でマーラー全集を製作することに消極的だった。
 しかし、MTTのマーラー演奏は以前から定評があり、本人もそのことを自負していたと思われる。それなら、いっそのこと、自主レーベルで製作しようというわけだ。もちろん、理事会には慎重な意見もあったに違いない。しかし、「挑戦」を称賛するベイエリア気質にも助けられて、演奏と録音に徹底的にこだわったマーラー録音が開始された。その演奏の数々は何度もグラミー賞に輝いたほど成功をおさめたが、これなどはMTTとサンフランシスコ響のチャレンジ精神とベイエリアの地理的環境が生み出した最高の贈り物だったと思う。

 私も長いブランクを経て再びMTTの演奏を聴き始めたが、MTTとサンフランシスコ響の活動は、まさにシュンペーターのいう「イノベーター」(革新者)のそれに他ならない。「いままで見たことがない新しい見方、新しいヴィジョンを感じる演奏がしたい。そして、自分のキャリアを考えたとき、成功とはタイトルやラベルではない」(同書、94ページ)という著者の言葉はMTTの本質を突いているのではないだろうか。 


1 著者のウェブサイトが参考になる。
http://www.blog.ushiog.com/
2 アメリカの記事を読んでいると、ときどきMTTの関係した記事のことが登場する。
http://articles.chicagotribune.com/2013-10-20/entertainment/ct-ent-1021-mtt-symphony-review-20131020_1_new-world-symphony-classical-music-chamber-orchestra


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2013年10月03日

『シャルル・ドゴール 民主主義の中のリーダーシップへの苦闘』渡邊啓貴(慶應義塾大学出版会)

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「フランスの「偉大さ」を演出した権力者の生涯」

 シャルル・ドゴール(1890-1970)のバランスのとれた評伝(渡邊啓貴著『シャルル・ドゴール』慶應義塾大学出版会、2013年)が出版された。ドゴールは、「救国の英雄」や政党政治を嫌った権力者としてイメージされることが少なくないが、政治家の評価というのは、それほど単純にはいかないものだ。死後40年以上の時間が経って、ようやく日本語でも水準の高い評伝が読めるようになったことを喜びたい。

 ドゴールを語るとき、しばしば引用される言葉があるという。

「生涯を通じて私は、フランスについてあるひとつの考えを抱いてきた。理性と同じく感覚的にその考えが私に宿るのである。私の心にある感情的なものが自然とフランスを思い起こさせるのである。それは、あたかも御伽噺に出てくる王女のようであったり、際立った例外的な宿命に捧げられたかのごとき壁にかかったフレスコ画のマドンナのようでもある。・・・・・要するに、私の考えるところ、フランスは偉大さを失ってしまってはフランスではありえないのである。」(同書、196-197ページ)

 いかにもドゴールが発しそうな言葉だが、彼の生涯の中で幾度も生じた「危機」に際してそれを実践したところが凡人とは違っている。
 例えば、第二次世界大戦中、アメリカやイギリスのような強大国を前にして風前の灯であった「自由フランス」を率いていたとき、何度も挫折を味わったが(アメリカのローズヴェルト大統領がなかなか彼を信用しなかったことが一番大きな要因だが)、ノルマンディー上陸作戦の成功からパリ解放に至るまでの間、戦後構想がフランスを除外した四か国で進められようとする動きに抵抗し、フランスが平和と世界秩序の維持に不可欠な役割を果たし得ることを粘り強く主張し続けた。戦後フランスが国連の常任理事国の一角を占めたのは、彼の努力に負うところが大きい。
 また、アルジェリア独立をめぐって内戦の危機が発生したとき、ドゴールは「強いフランスの再生」のために強大な行政権力に支えられた新しい政治体制の樹立を第一優先した。彼は、かねてより、第二次世界大戦の混乱を招いたのは、第三共和制の下での多党分立の不安定な政党政治であったという固い信念を持っていたのである。いまから振り返ると意外に思えるが、フランス革命以後もっとも長く続いたのは第三共和制であり、行政権力の強大な政治体制は例外に過ぎなかった。著者は、「その意味ではドゴールはフランス政治史上最も偉大な政治体制の生みの親となった政治家であったといっても過言ではない」と述べている(同書、162ページ)。

 ドゴールが生み出した第五共和制憲法に定められた大統領の権限は誠に強大である。具体的にみると、例えば、次のようなものである(同書、163ページ参照)。

 1 国民も議会も大統領を解任することは制度上できない。
 2 大統領は議会の制約を受けず政府を自己に従属させることができる(任期は7年、2001年に5年に短縮)。
 3 首相任命権
 4 一定の内容の法律案を議会の審議にかけず直接国民投票にかけることができる。
 5 総選挙から1年後であれば理由を示さずに国民議会を解散することができる。
 6 緊急措置発動権

 大統領にこのように強大な権限をもたせた第五共和制が現在まで続いており、国民の多くがそれを支持しているのも注目すべきだが、しかし、ドゴールも民意をどのように掌握するかにはずいぶんと苦闘した跡がある。著者は、それを「試行錯誤の歴史」(同書、353ページ)であったと表現している。そういえば、晩年、1968年の5月革命を乗り切りながらも、翌年、周囲の反対を押し切って上院と地方行政制度の改革案を国民投票にかけるという行動に出たが(結果は否決)、これなどは民意を見損なった失敗の例かもしれない。


 外交面では、冷戦時代、西側の盟主アメリカに対する不遜な態度で知られたが、それを大多数のフランス人が支持していたのも事実である。自前の核抑止力へのこだわり、NATOの軍事機構からの離脱、対ソ等距離外交、独仏連帯を基礎にしたヨーロッパ統合の推進なども、そこから自然に導かれる。だが、現実には、フランスにはアメリカに対抗できるほどの政治力も軍事力もない。それにもかかわらず、フランスの「偉大さ」を演出するのが、政治家としてのドゴールの真骨頂であったという著者の見解は正しいと思う。

「ドゴール外交は単なるナショナリズムでもなければ、がちがちに計算しつくされた国益主義外交でもない。それはフランスという国家の威信を高めるための巧みな「演出力」そのものであり、リアリズムに裏づけられていたのである。それを語らずしてドゴール外交はありえなかった。国力に支えられた正しい意味での説得力はなかった。そして多々独断的な論法は人々を不快にした。しかしそこには意思を伴った「する外交」の姿勢が明瞭であった。それは状況対応的な消極的な「なる外交」ではなかった。それは日本外交に最も欠落している点である。国家の行動の演出手段としての外交という理解は私たちには希薄である。そのことはまた「見識」と「意思の力」の問題でもあった。「何をするか」という問いに対してはビジョンが必要であるし、やりとげるという決意があって初めて政策提案には意味があるからである。」(同書、201ページ)

 だが、国民がつねに「ドゴール」を求めるかといえば、事実はもちろんそうではない。著者も、「ドゴールがその真骨頂を発揮するのはフランスが国難に遭遇したときであり、ドゴールの政治活動は常に煽られた危機感の中で高揚したのである」と言っている(同書、356ページ)。ただし、私たちの抱くドゴールのイメージと違って、彼は無私のひとであり、遺言書にも国葬や勲章などを辞退する旨が認められていた(フランス政府の希望で、家族による地味な葬儀とは別に、国葬が執り行われたが)。「政治的戦略と策謀はすべて国家のためであるが、自分自身は高潔であろうとした孤高の人の姿がそこにあった。かつて「追放された王様」と呼ばれた所以である」(同書、355ページ)という著者の言葉が言い得て妙である。


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