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2013年09月01日

『ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス 生涯とその思想』イスラエル・M・カーズナー(春秋社)

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス 生涯とその思想 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「ハイエクの影に隠れたネオ・オーストリア学派の先駆者」

 まだ大学院生の頃、ネオ・オーストリア学派についての書評論文を書いたことがあった(注1)。四半世紀も前のことだが、その頃、オーストリア学派の流れをくむルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(1881-1973)の研究者はこの国にはごく少数しかいなかった。現在、彼の弟子であったF.A.ハイエクの研究者は格段に増えたが、それとは対照的にミーゼスの研究者はいまだに多いとは言えない。本書(イスラエル・M・カーズナー『ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス 生涯とその思想』春秋社、2013年)は、そのギャップを埋めるために翻訳・出版されたのだろう。著者のカーズナーは、ニューヨーク大学時代のミーゼスの弟子だが、ネオ・オーストリア学派あるいは「ネオ・オーストリアン」と呼ばれる研究者のなかでは最も明快な文章を書くひとりである。ミーゼス入門書として本書を選んだのは正解だと思う。

 著者は、ミーゼスの思想が単なる「リバタリアニズム」(自由至上主義)として片づけられることが不満なのだろう。ミーゼスは確かに自由市場の役割を最大限に擁護した思想家ではあったが、著者は、「市場プロセス」や「企業家」についての彼の見解が、新古典派の均衡理論よりも市場経済のダイナミズムを理解する優れた視点を提供していると主張している(ミーゼスの見解は一部ハイエクのそれとも類似しているが、本筋と関係はないので、ここでは文献学的な事柄には触れない)。つまり、「企業家」の役割は、現実の不均衡のなかで利潤獲得機会をいち早く発見することによって「均衡化傾向をもつ矯正プロセス」を発動させることだというのである。このような視点は、著者を含めたネオ・オーストリアンに大きな影響を及ぼした。

「(均衡状態である)完全競争では、ミーゼスが重視した企業家を考えることは絶対にできない。これに対して(相互に競争する生産者たちの成功と失敗を消費者が決定していくミーゼスの)ダイナックな競争プロセスは、まさに企業家的なプロセスだ。競争的参入という行為は、必然的に企業家的だ。その行為はある特定の資源を、現在使用しているところから、販売して利益を上げることができると予想される別の生産物の生産に振り向けることでより大きな利益を獲得できるという、参入者の確信を示している。このように企業家的市場プロセスは、終わることのない一連の企業家的な歩みなのだ。それらの一歩一歩が「参入」行為だ。ミーゼスによれば、「競争」の利点として人々が理解しているのは、それが絶えることのない企業家的な冒険を許容し刺激することである。これらの冒険で新たな生産物や新たな生産方法が導入される。そしてそれらの冒険はまた、資源と生産物の新たな市場価格を生みだしていく。これらの新しい価格は、消費者の判断に順応して、最も生産的なところに資源を惹きつける可能性を開く。それはまた、より低価格で消費者に生産物を提供できる可能性も生み出す。」(同書、117-118ページ)

 ミーゼスは、このように、企業家や市場プロセスが妨害されない限り、究極的に、消費者の利益にかなうという意味で「消費者主権」が貫徹していると理解していた。著者が、ミーゼスの大著『ヒューマン・アクション』(1949年)から「船長は、消費者だ」という文章を引用しているのも頷ける。これは、同じように企業者精神を重視しながらも、J.A.シュンペーターが「動態」においては生産者が主導権を握るという意味で「生産者主権」を説いていたのとは対照的である。


 

 評価が分かれるとすれば、ミーゼスの市場経済への擁護が、「混合経済」(ポール・A・サムエルソンに代表されるように、自由放任主義の弊害をケインズ主義的な裁量政策で是正するが、完全雇用達成後は市場機構を基本的に尊重するという考え方)のような折衷主義を完全に拒否するところまで突き進んでいるところだろう(ハイエクも類似の思想をもっているが、ミーゼスはもっと徹底している)。

「再三再四ミーゼスは、社会主義計画経済でも資本主義自由企業経済でもない経済体制が実現可能であり、また安定的だという考えを拒否した。ミーゼスによれば、政府介入というのは本質的に不安定で、それは、最終的に完全な社会主義へと至る一連の体系的な変化を引き起こさざるをえない。「政府介入」という語でミーゼスが意味したのは、「市場への介入」であり、「企業家や資本家が市場の指示だけに従うときとは違う所で生産要素の一部を使用するよう」強制する政府の活動や法令である。」(同書、189-190ページ)

 「市場への介入」に批判的な人々は、ベルリンの壁の崩壊後の現代のほうが勢力があるように思われるが、彼が新古典派の均衡理論を批判するとき、「完全競争モデル」をよく引き合いに出すのは、ミーゼスが生きていた時代の主流派経済学の反映のように思われる。現代なら、情報の不完全性や限定合理性などを対象にした様々な分析手法が開発されているので、批判はそう単純にはいかないのではないだろうか(同書、199ページ参照)。
 また、本書に限らずよく見かけるのだが、マックス・ウェーバーの「価値自由」を研究者による「価値判断の排除」という意味に理解するのはウェーバーの単純な誤読のように思われる(同書、105ページ参照)。ウェーバーは、社会科学において「価値判断」から一切離れた「客観的な」研究がありうるとは決して考えていなかった。彼はむしろ研究者は自分の仕事がいかなる価値判断を前提とするものであるかを明確に自覚しておかなければならないと主張したのである(注2)。

 それにもかかわらず、ハイエクと比較してミーゼス入門書はなかなか推薦できる本がないだけに、関心のある読者は以上を留意しながら本書を読んでみることをすすめる。


 

1 拙稿「ネオ・オーストリア学派の企業者像」(『経済評論』1987年3月号)
2 この点は、今日では、ウェーバーの入門書(例えば、山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』岩波新書、1997年)でも解説されている。


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