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2013年09月22日

『カザルスと国際政治 カタルーニャの大地から世界へ』細田晴子(吉田書店)

カザルスと国際政治 カタルーニャの大地から世界へ →紀伊國屋ウェブストアで購入

「音楽はビジネスではなく、聖職(カザルス)」

 パブロ・カザルス(1876-1973)は、20世紀最大のチェリストである。クラシック音楽のファンなら、そのことは誰でも知っている。しかし、本書(細田晴子著『カザルスと国際政治-カタルーニャの大地から世界へ』吉田書店、2013年)のテーマは音楽そのものではなく、「国際政治」とのかかわりである。音楽家と政治は全く別と考えたいひとも少なくないが、フルトヴェングラーとナチスとの関係のように、意識的にせよ無意識的にせよ、両者がかかわらざるを得ない時代があったことも事実である。カザルスの場合は、スペインのカタルーニャに生まれたことがその運命を左右したと言ってもよいだろう。

 カザルスは、20世紀の初め、パリにて「文化国際主義」の香りを吸い込んだ音楽家であった。彼は、画家ドガ、政治家クレマンソー、作家ロラン、哲学者ベルクソンたちと交流し、コスモポリタンな視点を身につけた。他方、彼の音楽のバックグラウンドにはつねにカタルーニャの豊かな自然があったことがつとに指摘されてきたが、彼はのちにフランコ独裁下のスペインから逃れてプラードに亡命してからも「カタルーニャ性」を統合の象徴とするという意味での「政治的役割」をみずからに課した。
 著者は、スペイン内戦から第二次世界大戦を経て1950年代の冷戦期にかけて、カザルスは三つの観点から「政治的役割」を担ったとまとめている(同書、102-104ページ参照)。
 第一は、「反フランコ体制を掲げ、連帯意識を高める、政治的な象徴」としての役割である。実は、亡命カタルーニャ人の間にはいろいろな立場の違いがあったのだが、それを超越する象徴としてカザルスが担ぎ出されたのだ。
 第二は、「日々乖離していく政治家と民衆の間のつなぎ役」としての象徴である。カザルスは、世界中で演奏活動をおこなう自分自身をカタルーニャ語を操る中世の吟遊詩人にたとえていたらしいが、このような人物が民衆と知識人の間の乖離を埋めるための役割を期待されても不思議ではない。
 第三は、「カタルーニャ文化を維持して世界にアピールするための象徴」である。フランコ独裁下のスペインでは、カタルーニャ語を使うことは禁じられていたが、マスコミを通じたカタルーニャ語の広報にはどうしても象徴となる人物が必要だったのだ。
 著者は次のように言っている。

「歴史的にみると、カタルーニャ人はアイデンティティを守るために、カスティーリャに対抗してカタルーニャ語を守り続けた。彼らはスペイン内戦後、世界中へ離散してもカタルーニャ語、文化を大切に維持するのみならず、世界にアピールするのである。
 そして、このような背景には、文化国際主義者たちが活躍していた戦間期からの流れがある。知識人は大戦を止めることはできなかったが、マダリアーガが述べたように、戦後も知識人の中には真に芸術を理解しないユネスコの役人だけでは何もできないかもしれないという危惧感もあった。さらにラジオという音楽を広めやすいマスメディアの普及も忘れてはいけない。」(同書、103-104ページ)


 「大衆消費社会」の到来と重なる冷戦期では、ラジオに代わりテレビという媒体が登場し、反戦や反核などの運動と文化国際主義者とのつながりも強化されたが、カザルスがプエルトリコという米国の自由連合州に移ってからは、本人の意思とは独立に、米国の政治的思惑にも巻き込まれていく。
 例えば、カザルスは、ケネディ大統領の「個人的な」招待を受けてホワイトハウスで演奏したつもりだったが、米国内のマスコミは、カザルスの反フランコ主義者としての活動に言及し、予想以上の反響を呼んだ。ところが、米国は国家としては「反共」のフランコ体制を承認していたのだ。カザルスのホワイトハウス訪問のすぐあと、ラスク国務長官が「ニューヨーク・タイムズ」紙(1961年12月17日付)において、「共産党の攻撃に対して世界を守る、米国の同盟者」としてのスペインを称賛したが(同書、145ページ参照)、カザルスが直ちにこれに抗議する書簡をケネディ大統領に送付するということがあった。
 政治の世界はそれほど甘くはない。ジョンソン政権のときも、副大統領のハンフリーがカザルスを個人的に尊敬していた関係で、知らぬ間にヴェトナム戦争擁護の方向に利用されかけた(もちろん、反核、反ヴェトナム戦争の象徴として彼を利用する勢力もあったが)。おそらく、そのような危険性は、本人もある程度は自覚していただろう。それでも、彼は「世界共通の言語」である音楽を通じて世界にメッセージを発し続けた。

「フランス側のカタルーニャにしっかり根を下ろしていったカザルスであったが、冷戦期の世界情勢とは無縁でいられなかった。またプエルトリコにわたったカザルスは、米国の自由連合州という特殊な地位を体感し、イスラエルの建国10周年を祝い、世界の民族自決について考えるに至る。こうして彼は次第にカタルーニャの民族自決のみならず、自らの音楽界・知識人の間における影響力を意識しつつ、連帯意識を持って平和運動を展開していくようになる。まさに世界に飛翔する時期が来たのである。」(同書、153ページ)


 「音楽家」カザルスに関心のある読者は、彼がカタルーニャの詩人アラベドラの詩をもとに作曲した「パセブラ」や、有名な「鳥の歌」にかかわる話を読みたいだろう。本書にも関係がある限り、そのような言及もあるが、しかし、メインテーマが「国際政治」である以上、禁欲せざるを得ない。
 カザルスは、あるとき、「芸術家は特に人権に関わる時は、中立的でいるわけにはいかない」と述べたという(同書、185ページ参照)。著者が言うように、彼が自らの活動の中軸に据えたのは、何度も触れるように、「カタルーニャ性」と「世界共通言語」であったが、この「武器」によって、彼は普通の政治家にはなしえないグローバルな影響力を及ぼすことができたと言ってもよいだろう。

「スペイン国内外のフランコ体制に反対する者たちの期待という重圧、亡命した後ろめたさという十字架を背負って、カザルスは世界を行脚する。なぜなら彼は「芸術家は政治に仕えるのではなく人間の尊厳に仕えるから、音楽家は道徳的責任がある」と考えていたためである。またカザルスによると、もちろん秀でた演奏技術も必要だが、音楽は心の中からあふれ出るものでなければならないという。さらに、「音楽はビジネスではなく、聖職」であるとも言っている。自分が何か得る前に、与えなければならないからである。」(同書、192ページ)

 カザルスというと、ふだんはバッハの無伴奏チェロ組曲の名演や「鳥の歌」くらいしか思い出さなかったが、本書を一読して、「国際政治」にかかわる彼の活動について多くを教えられた。このような影響力のある音楽家がほとんどいなくなった現在、カタルーニャ分離・独立運動がそう簡単に進まない理由もある程度察することができるのではなかろうか。


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2013年09月08日

『「幸せ」の経済学』橘木俊詔(岩波書店)

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「「幸せ」とは何か」

 「幸せ」とは何か――この問題に答えるのは難しい。経済学者は国際比較をするとき、一人当たりの所得に注目しがちだが、この方法は昔から経済学者以外の人たちから批判されてきた。それゆえ、経済学者も過去数十年「幸せ」を測るためのいろいろな指標を考案してきたのだが、一人当たりの所得ほど人口に膾炙しているとは言えないようだ。

 本書(橘木俊詔著『「幸せ」の経済学』岩波現代全書、2013年)で最初に紹介されているのは、イギリスのレスター大学が178か国を対象におこなった研究(2007年)である(同書、14ページ)。この調査は、(1)良好な健康管理、(2)高いGDP、(3)教育の機会、(4)景観の芸術的美しさ、(5)国民の強い同一性、(6)国民の信仰心、などの基準をもとに国々の幸福度をランキングしている。それをみると、第1位はデンマークであり、スイス、オーストリア、アイスランドがこれに続いている。日本は90位、中国は82位、アメリカは23位である。
 著者は第1位になったデンマークの事情に関心をもっているように思える。著者は、「比較的暖かい気候と平坦な土地」に支えられた農業、農業協同組合の発展を通じて醸成された「自由・平等・民主・連帯の意識」、「国民の福祉制度の充実」、「所得格差が小さいながらも平均としては比較的高い所得」などが同国の幸福度を高めているとまとめているが(同書、77ページ)、興味深いのは、デンマークがそのような国になった文化的背景を紹介しているところである。例えば、デンマークの国民的詩人グルントヴィ(1783-1872)の詩(『国民唱歌集』第17版、463番)のなかに次のようなものがあるという(同書、65ページ参照)。

 「人生は、平凡で楽しく暮らし、働く生活がよい。
このような生活は、王の生活と交換できない。
年老いた者たちと一緒で、素朴で楽しい生活がよい。
王宮の中も、あばら家の中も、同じように素晴らしい。」

 著者は、この詩の中に、「すべての人が平凡ながらも質素に暮らす生活がよい」という意味が込められているのだと解釈しているが、そのような精神的文化がデンマークの諸制度に体現されているというわけだ。このような幸福感は、著者が「定常経済時代」の「幸せ」を論じるときに再び登場するので、頭に入れておきたい。


 ところで、まだ記憶に新しいが、8年前(2005年)の国勢調査のとき、ブータンでは、97%の国民が「幸せ」であると感じていると世界中に報道され大きな反響を呼んだ。ブータンは、4代目の国王が1976年にGNH(国民総幸福)という指標を提唱したが、これには、①経済的自立、②環境保護、③文化の推進、④良き政治、の四つの柱があった。この指標はのちの2006年に拡充されて九つの指標となっているが(同書、81ページ参照)、この指標を使っても8割前後の人びとが「幸せ」であると感じていたという。
 ただし、ブータンの国民も、「家族関係」には大いに満足しているものの、「経済的な豊かさ」に満足している人の比率は低かった。それゆえ、情報社会の波が同国に押し寄せると、このような「古き良き時代」にも変化がみられるようになる。著者が引用している『朝日新聞』(2011年7月1日付)によると、2010年には、ブータンの国民の41%しか「幸せ」を感じなくなってしまった。著者はこの調査結果を次のように読み解いている。

「これは既に述べたように国民が外国の人びとの豊かな生活を知るようになったことに加えて、人生において経済生活の果たす役割が大きいと思うようになったことが影響していると推察できます。換言すれば、家族の絆を中心にした貧乏生活だけでは幸福を感じることができない、とブータン国民が思い始めたのです。先進国のようにある程度の所得がないと満足な生活とはならない、あるいは幸福な人生のためにはある程度の所得が必要である、と思うようになったと解釈しておきましょう。ブータンも先進国への道を歩まねばならないという国民の意思表示なのです。」(同書、84ページ)

 この辺に「幸せとは何か」という問題の難しがあると言ってもよいが、先進国になったとしても、「相対所得仮説」(人は自分の所得を周囲の人のそれと比較して幸福度や不幸度を感じるので、経済格差の下にいる人の不幸度が上がる)や「順応仮説」(人は条件の変化にすぐ反応するので、所得が増えてもそれにすぐ慣れてしまい、幸福度が上がらなくなる)が教えるように、問題の難しさは消えない。
 だが、昔のブータンに戻ることはできずとも、現代は「定常経済時代」への適応が求められているという認識の上に、著者は、前に紹介した幸福の指標に加えて、フランスのサルコジ前大統領時代に勧告された幸福度の指標、簡単にいえば、「家計の重視、分配への配慮、環境問題への対処、所得だけではない生活の質への考慮」(同書、138ページ)を重視した方向へ舵を切らなければならないと主張している。

「もうGDPを追い求めるだけが、すなわち経済を豊かにするだけが、日本の目標ではないのではないか。そこそこの経済力を保てばいいのではないか。全員が食べていけるだけの所得が得られる経済規模をキープして、労働時間を短くして余暇の時間を多く取っていろいろなレジャー活動にコミットしてほしいと考えます。」(同書、145ページ)

 このような見解は、著者自身が認めているように、わが国ではまだ少数派だが、労働経済学や社会保障問題を長年研究してきた著者の目には、アメリカ流の自立精神に立脚した「低福祉・低負担」の制度はもはや限界にきており、ヨーロッパ流の「中高福祉・中高負担」の制度を再構築しなければならないと映っているようである。
 だが、憂うべきことに、このような制度の再構築が成功するかどうかは、国民が政府の「質」をどのように考えているかにかかっているという。将来への明るい展望を期待していた読者は、ある意味で、本書の結びの言葉によって裏切られる。もちろん、これは著者一流のレトリックで、本当はそうであってはならないと思っているはずだが、読む人によっては反対の意味に誤解されるかもしれない。

「以上、日本政府の仕事ぶりに対する低評価を解釈すれば、国民は日本政府のやることを信じておらず、結局甘い汁を吸っているのは政治家と官僚であり、自分達はよいサービスを受けていないとの判断です。そうであるなら、たとえ高い税金と社会保障料を政府に払っても、見返りのある福祉や教育の分野で良いサービスを受けることは期待できないので、今のままの「小さな政府」の姿でいた方がよい、と思っていると判断していいでしょう。」(同書、171ページ)


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2013年09月01日

『レナード・バーンスタイン わが音楽的人生』レナード・バーンスタイン(作品社)

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「優れた知性を備えた音楽家レナード・バーンスタイン」

 先日(8月25日)、レナード・バーンスタイン(1918-90)がもし生きていれば95歳になることを知った。彼が亡くなったのは72歳のときだから、もう20年以上も経ってしまったことに驚いたが、そういえば、昨年バーンスタインが64歳のときに書いた本(といっても、さまざまな機会に発表された文章をまとめたものだが)が出ていたのを思い出した。本書(レナード・バーンスタイン著『バーンスタイン わが音楽的人生』岡野弁訳、作品社、2012年)がそれである。

 バーンスタインは、もちろん、指揮者としてはアメリカ人として初めてニューヨーク・フィルのようなメジャーなオーケストラの音楽監督となったひとであり、作曲家としては何よりも「ウェスト・サイド・ストーリー」で有名になったひとだが、このような知識だけでバーンスタインの「音楽的人生」を理解するのは難しい。本書が貴重なのは、第一に、彼が若い頃に書いた「ハーヴァード大学学士論文」(1939年)が収められており、そのなかに彼の音楽観が明確に表れているからである。このような文章はもっと早く読みたかった。
 この論文は「アメリカ音楽への民族的要素の導入」をテーマにしているのだが、興味深いのは、20世紀のアメリカ音楽の捉え方である。かいつまんで言えば、彼は、アメリカの現代音楽を、「ニューイングランド」の音楽(「クラシック音楽」といってもよいだろう)と黒人の「ジャズ」の融合として捉えているのである。このような捉え方が音楽史家にどのように評価されているかは、ここでは問題ではない。要は、バーンスタインが、この二つの要素の「融合」から現代のアメリカ音楽が生まれたという音楽観を持っており、ガーシュインなどの例を挙げなら自説を展開していることである。
 「学士論文」とは、日本でいえば、大学の学部卒業論文に当たると思われるが、1939年といえば、彼がまだ21歳のときである。きわめて初期から、このような音楽観を持っていたことがわかる。彼はその論文を次のような言葉で結んでいる。

「アメリカで唯一の真に普遍的な人種的影響は黒人であり、ある面ではニューイングランドであった。黒人はジャズという全国に広がった表現を通じて、ニューイングランドはこの国の社会学的バックボーンを形作った人種の音楽であるがゆえに、この一つまたは双方の影響の下に、それ以外の人種出身の作曲家は、無意識にか否かは別にして、自らの遺産を融合させている。これら三つの流れが合流して、力強いアメリカという大河となり、今や初めて、その満々たる水―真に固有の貢献となるもの―を、世界に広がる音楽の大海へと注ぎ込んでいるのである。」(同書、100ページ)

 バーンスタインは、ブロードウェーのために書いた「ウェスト・サイド・ストーリー」があまりにも有名になったために、彼のほかの作品が不当に軽視されやすいが、三つの交響曲(「エレミア」「不安の時代」「カディッシュ」)を聴いてみればわかるように、彼の作品は、ヘブライの宗教音楽、クラシック、ポピュラー、ジャズなどを独自に融合させたものであり、彼の音楽観とまさに符合しているのである。この論文だけでも、本書を読む価値があるくらい示唆に富む文章である。


 第二に、彼が若い頃タングルウッドでお世話になった名指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーを敬慕する文章がところどころ出ていることである。バーンスタインによれば、クーセヴィツキーは単に指揮者であるにとどまらず、「聴衆には聴くことを教え、作曲家には機会があるごとに高みに到達できるように勇気づけた」教育者でもあった。ところが、クーセヴィツキーは、「動物的な本能」で、現代では「コンサート・ホールは博物館か過去の宝物殿になる危険性」に気づいていたので、「絶えず刺激を与え続けなければならない」と考えていたという(同書、186ページ)。さらに、バーンスタインは続けて次のように言っている。

「彼は、現代の聴衆は放っておくと新しい音楽を求めることは決してないので、新しい音楽が聴けるよう期待し、それを当然のことと考え、さらに要求するようにすら教えなければならないということを知っていました。そこで、クーセヴィツキーの演奏会はすべて、まさにコープランドとシューマンのための、バルトークとプロコフィエフのためのガラ、祝典のようであり、それはモーツァルトとチャイコフスキーという顔合わせの場合と同様でした。作曲家が第一だったのです。」(同書、186ページ)

 バーンスタインがテレビ番組などを通じて音楽教育に熱心に取り組んだことはいうまでもないが、これもクーセヴィツキーの影響のなのかもしれない。本書でも、バーンスタインは、幼稚園から高校まで、誰でも楽譜を理解することができるような教育を充実させることを提案している(同書、298-299ページ参照)。

「私たちは、文化国家になることができます。そのためにしなければならないのは、ただ私たちのエネルギーと公共のお金を、ふさわしい場所にまずどう使うかを学び取ることです。アメリカを、そして私たちの限りない資源と可能性を誇りましょう。そうすれば、子どもたちは私たちを誇りにするでしょう。」(同書、300ページ)

 
 第三に、最後になったが、バーンスタインが終生その演奏に力を入れたマーラーの音楽についての理解に触れなければならないだろう。
 バーンスタインは、何度もマーラーの「二元的ヴィジョン」とか「二重のヴィジョン」という言葉を使っているが、これは、19世紀末ウィーンの特徴でもある。バーンスタインは、次のように言う。

「自己満足の外観におおわれた堕落のなかで崩壊し、追従が鼻をつき、偽善的で栄華をほこり、地球の不滅は確信できても精神の不滅の信仰は失われている。これが彼の一つの世界像である。その音楽は、ほとんど無慈悲なほどにこれを暴露する。それは、西欧社会の退廃の始まりの瞬間を捉えるカメラのようだ。しかしマーラーの時代の聴衆には、これがわからなかった。」(同書、229ページ)

 このようなマーラーの「二重のヴィジョン」を強調したバーンスタインの演奏は、一回目のマーラー全集に結実しているように思われる。これはマーラーの演奏史に残る金字塔だが、最近の演奏の中には、このようなヴィジョンとは関係なく、いわば「純粋音楽」として捉え直したものも少なくない。そのような演奏も悪くはないが、それでも、ときどきバーンスタインの解釈でマーラーを聴きたくなるのは、バーンスタインが同じユダヤ人としてマーラーの苦悩を肌で感じていたからかもしれない。

「交響曲に対する賛同者の立場として、誇張と歪みを通して、栄光ある果実の最後の一滴まで搾り取ることを通して、素材に対する絶望的で執拗な再吟味と再評価を通して、調性音楽をぎりぎりの限界まで押し進めることを通して、マーラーは最後の一言を述べ、最後のため息をつき、最後の涙を落ちるにまかせ、最後の別れを告げる栄誉を授かった。何に対しての別れか? 彼が熟知し記憶にとどめたいと欲した生に、昔のままの自然に、救済への信仰に対してであり、しかしまた、彼が熟知し記憶にとどめた音楽に、昔のままの調性美の本質に、調性美の未来への信仰に対して――そのすべてに別れを告げたのだ。<大地の歌>最後のハ長調三和音は、彼にとってはファウスト的歴史すべての最後のハ長調三和音だった。彼にとっては?」(同書、236ページ)
 

 文章が書ける音楽家は、現代ではあまり多くない。そのなかで、本書はバーンスタインの「音楽的人生」についてみずから語った貴重な一冊である。


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『ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス 生涯とその思想』イスラエル・M・カーズナー(春秋社)

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「ハイエクの影に隠れたネオ・オーストリア学派の先駆者」

 まだ大学院生の頃、ネオ・オーストリア学派についての書評論文を書いたことがあった(注1)。四半世紀も前のことだが、その頃、オーストリア学派の流れをくむルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(1881-1973)の研究者はこの国にはごく少数しかいなかった。現在、彼の弟子であったF.A.ハイエクの研究者は格段に増えたが、それとは対照的にミーゼスの研究者はいまだに多いとは言えない。本書(イスラエル・M・カーズナー『ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス 生涯とその思想』春秋社、2013年)は、そのギャップを埋めるために翻訳・出版されたのだろう。著者のカーズナーは、ニューヨーク大学時代のミーゼスの弟子だが、ネオ・オーストリア学派あるいは「ネオ・オーストリアン」と呼ばれる研究者のなかでは最も明快な文章を書くひとりである。ミーゼス入門書として本書を選んだのは正解だと思う。

 著者は、ミーゼスの思想が単なる「リバタリアニズム」(自由至上主義)として片づけられることが不満なのだろう。ミーゼスは確かに自由市場の役割を最大限に擁護した思想家ではあったが、著者は、「市場プロセス」や「企業家」についての彼の見解が、新古典派の均衡理論よりも市場経済のダイナミズムを理解する優れた視点を提供していると主張している(ミーゼスの見解は一部ハイエクのそれとも類似しているが、本筋と関係はないので、ここでは文献学的な事柄には触れない)。つまり、「企業家」の役割は、現実の不均衡のなかで利潤獲得機会をいち早く発見することによって「均衡化傾向をもつ矯正プロセス」を発動させることだというのである。このような視点は、著者を含めたネオ・オーストリアンに大きな影響を及ぼした。

「(均衡状態である)完全競争では、ミーゼスが重視した企業家を考えることは絶対にできない。これに対して(相互に競争する生産者たちの成功と失敗を消費者が決定していくミーゼスの)ダイナックな競争プロセスは、まさに企業家的なプロセスだ。競争的参入という行為は、必然的に企業家的だ。その行為はある特定の資源を、現在使用しているところから、販売して利益を上げることができると予想される別の生産物の生産に振り向けることでより大きな利益を獲得できるという、参入者の確信を示している。このように企業家的市場プロセスは、終わることのない一連の企業家的な歩みなのだ。それらの一歩一歩が「参入」行為だ。ミーゼスによれば、「競争」の利点として人々が理解しているのは、それが絶えることのない企業家的な冒険を許容し刺激することである。これらの冒険で新たな生産物や新たな生産方法が導入される。そしてそれらの冒険はまた、資源と生産物の新たな市場価格を生みだしていく。これらの新しい価格は、消費者の判断に順応して、最も生産的なところに資源を惹きつける可能性を開く。それはまた、より低価格で消費者に生産物を提供できる可能性も生み出す。」(同書、117-118ページ)

 ミーゼスは、このように、企業家や市場プロセスが妨害されない限り、究極的に、消費者の利益にかなうという意味で「消費者主権」が貫徹していると理解していた。著者が、ミーゼスの大著『ヒューマン・アクション』(1949年)から「船長は、消費者だ」という文章を引用しているのも頷ける。これは、同じように企業者精神を重視しながらも、J.A.シュンペーターが「動態」においては生産者が主導権を握るという意味で「生産者主権」を説いていたのとは対照的である。


 

 評価が分かれるとすれば、ミーゼスの市場経済への擁護が、「混合経済」(ポール・A・サムエルソンに代表されるように、自由放任主義の弊害をケインズ主義的な裁量政策で是正するが、完全雇用達成後は市場機構を基本的に尊重するという考え方)のような折衷主義を完全に拒否するところまで突き進んでいるところだろう(ハイエクも類似の思想をもっているが、ミーゼスはもっと徹底している)。

「再三再四ミーゼスは、社会主義計画経済でも資本主義自由企業経済でもない経済体制が実現可能であり、また安定的だという考えを拒否した。ミーゼスによれば、政府介入というのは本質的に不安定で、それは、最終的に完全な社会主義へと至る一連の体系的な変化を引き起こさざるをえない。「政府介入」という語でミーゼスが意味したのは、「市場への介入」であり、「企業家や資本家が市場の指示だけに従うときとは違う所で生産要素の一部を使用するよう」強制する政府の活動や法令である。」(同書、189-190ページ)

 「市場への介入」に批判的な人々は、ベルリンの壁の崩壊後の現代のほうが勢力があるように思われるが、彼が新古典派の均衡理論を批判するとき、「完全競争モデル」をよく引き合いに出すのは、ミーゼスが生きていた時代の主流派経済学の反映のように思われる。現代なら、情報の不完全性や限定合理性などを対象にした様々な分析手法が開発されているので、批判はそう単純にはいかないのではないだろうか(同書、199ページ参照)。
 また、本書に限らずよく見かけるのだが、マックス・ウェーバーの「価値自由」を研究者による「価値判断の排除」という意味に理解するのはウェーバーの単純な誤読のように思われる(同書、105ページ参照)。ウェーバーは、社会科学において「価値判断」から一切離れた「客観的な」研究がありうるとは決して考えていなかった。彼はむしろ研究者は自分の仕事がいかなる価値判断を前提とするものであるかを明確に自覚しておかなければならないと主張したのである(注2)。

 それにもかかわらず、ハイエクと比較してミーゼス入門書はなかなか推薦できる本がないだけに、関心のある読者は以上を留意しながら本書を読んでみることをすすめる。


 

1 拙稿「ネオ・オーストリア学派の企業者像」(『経済評論』1987年3月号)
2 この点は、今日では、ウェーバーの入門書(例えば、山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』岩波新書、1997年)でも解説されている。


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