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2013年08月21日

『オットー・クレンペラー あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生』エーファ・ヴァイスヴァイラー(みすず書房)

オットー・クレンペラー あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「現代音楽から古典音楽の大家へ―クレンペラー没後40年」

 今年はドイツの名指揮者オットー・クレンペラー(1885-1973)の没後40年の年でもある。クレンペラーといえば、私がクラシック音楽を聴き始めた頃は、ベートーヴェン、ブラームス、ヴァーグナー、ブルックナー、マーラーなど、ドイツ=オーストリア系の音楽の大家のように扱われていたが、若い頃は、現代音楽を積極的に取り上げる指揮者として名声を博していた。彼の伝記としては、ピーター・ヘイワースの二巻からなる名著(『オットー・クレンペラー:その生涯と時代』第一巻1983年、第二巻1996年)があるが、本書(エーファ・ヴァイスヴァイラー『オットー・クレンペラー』明石政紀訳、みすず書房、2011年)は、つねにヘイワースを意識しながら、それとは違う視点を打ち出すことに努力を傾注した作品に仕上がっている。意外にも、本書がドイツで出版された初めてのクレンペラー伝だという。

 当時ドイツ領のブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)に生まれたクレンペラーは、少年時代をハンブルクで過ごし、正式な音楽教育はフランクフルトのホーホ音楽院やベルリンのクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院で学んだが、専攻科目はピアノと作曲だった。20世紀の大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと同じく、最初は作曲家を目指していたのである。もちろん、作品も残されているが、残念ながら、今日その演奏に触れる機会は少ない(注1)。だが、モスクワ生まれのドイツの作曲家で指揮者としても活躍していたハンス・プフィッツナー(1869-1949)の指導を二年間受けたことによって、クレンペラーもようやく将来の道を見つけたようだ。プフィッツナーは後にナチズムに接近したことで評判を落としたが、師弟の関係は、ときに険悪になりながらも最後まで続いたという。
 クレンペラーは、どんな立場のひとでも、学ぶべきところがあればみずから進んで近づいていくという、大胆とも向こう見ずともいえる性格だったのだろう。師のプフィッツナーと後に対立することになる作曲家フェルッチョ・ブゾーニのところにも通い、当時の前衛音楽(セザール・フランク、ガブリエル・フォーレ、バルトーク・ベーラなど)を教わった。ブゾーニはみずから主催していた「新作演奏会」で取り上げる作品のなかにドイツ音楽が少なすぎると音楽評論家に批判されていたらしいが、若いクレンペラーに次のように語ったという。「音楽評論家など『浜辺の波のようなもので、それは人を押し倒すこともできるが、ひとたび波が砕けてしまえば、人はまた立ちあがれる』」と(同書、31ページ)。
 とくに指揮に関していえば、クレンペラーは師よりもアルトゥア・ニキシュ(フルトヴェングラーの前のベルリン・フィルの首席指揮者)から多くを学んだという。彼は「教える」ことには長けていなかったが、クレンペラーは、ステージで「催眠術的な威力」を発揮するニキシュの姿に圧倒された。「彼の動きは、控えめで、落ち着いていて、抑制がきき、細く軽やかな指揮棒は、指の有機的な延長のように見え、この指揮棒が揺れ、それがオーケストラを喋らせるかのように思えた。彼の指示を逃れることは不可能だった。スタッカートはスタッカート、レガートはレガートなのだ。抗弁も逃亡もできなかった。彼の手が目の高さより上がることは稀で、この目が一緒に指揮をし、オーケストラを操った」と(同書、32ページ)。


 だが、どうしたら指揮者としてのキャリアをスタートできるのだろうか。チャンスは遠からずやってきた。1905年11月、ベルリンでグスタフ・マーラーの第二交響曲の演奏会があったが、指揮者のオスカー・フリートが自分の助手で練習伴奏者になりたてのクレンペラーを舞台裏での「遠方楽団」の指揮を任せてくれたのである。マーラーの第二交響曲は、終楽章「スケルツォのテンポで、荒々しく進み出るように」で遠方楽団(トランペット四本、ホルン四本、七つの打楽器から成る)を指揮するひとが必要なのだ。マーラー自身も練習に立ち会ったが、クレンペラーはマーラーの指示のおかげでなんとかお褒めの言葉をかけられる仕事をすることができた。
 狂喜したクレンペラーは、マーラーの第二交響曲のピアノ連弾版までつくった。マーラーはウィーン宮廷歌劇場の音楽監督にまで上り詰めた「雲の上」のひとだったが、クレンペラーは、なんとか彼の助手になれないものかと考えた。しかし、マーラーにはすでにブルーノ・ヴァルターという心から信頼する助手がいた。それでも、指揮者になる夢は諦めきれない。二年後、オランダのチェリストと演奏旅行に出かけたとき、マーラーに会うためにウィーンを何度か訪れた。クレンペラーはマーラーの推薦状がほしかったのだ。マーラーは、クレンペラーがピアニストとして通用する腕をもっているのになぜ指揮者になりたいのか訝ったが、三度目の訪問のとき、ようやく名刺に推薦文を書いてくれた。この推薦状があったおかげで、クレンペラーは、プラハのドイツ劇場でのポスト(アンジェロ・ノイマンのもとで合唱指揮者兼楽長)を手に入れることができたのである。
 ドイツ劇場では懸命に働いたが、この頃から、クレンペラーを生涯にわたって悩ます「双極性障害」(躁鬱病)の症状がみられたようである。ノイマンとの関係も悪化し、ついには解雇されしまった。そんな彼を救ってくれたのも、またマーラーの推薦状だった。1910年1月、今度はハンブルクのオペラ座から声がかかったのである。


 クレンペラーは、名指揮者が誰もが辿るように、ハンブルクのあともバルメン、シュトラースブルク、ケルン、ヴィースバーデンなどの歌劇場を渡り歩くことになるが、おそらく過労や人間関係のもつれから躁鬱がひどくなると、しばしばケーニヒシュタインのサナトリウムに逃げ込むようになった。このサナトリウムを創立した院長オスカー・コーンシュタムは、ジークムント・フロイトのような理論は持ち合わせていなかったが、「患者の話をじっくり聞き、患者に生きる勇気を与える」という、現代の行動療法と類似の手法で治療に当たっていたらしい(同書、66-67ページ参照)。しかし、この病気とたまに訪れる「奇怪な激昂期」は、彼の妻ヨハナや友人たちを巻き込んでひと騒動になることもあった。
 ところで、クレンペラーといえば、やはりベルリン・クロル・オペラの総監督時代の活躍に触れずにおくことはできないだろう。1927年のベルリンには、ウンター・デン・リンデンの州立歌劇場にエーリヒ・クライバー、ベルリン市立歌劇場にブルーノ・ヴァルター、ベルリン・フィルにフルトヴェングラーという名指揮者が揃っていた。いまから思えば、黄金時代である。クレンペラーは、相変わらず、現代音楽に積極的に取り組み、「ストラヴィンスキーの<エディプス王>を指揮したころにはドイツ最高の現代音楽指揮者のひとりであるとの名声を獲得していた」という(同書、177ページ)。また、ワーグナーの<さまよえるオランダ人>を初稿版で上演し(1929年1月15日)、「ヴァーグナーに積もり積もっていた塵や垢を徹底的にぬぐい払おうとした」(同書、182ページ)が、この上演はヴァーグナーの孫フランツ・バイドラーには評価されたものの、ヴァーグナーの息子ジークフリートとその妻ヴィニフレートには受け容れられなかった。ジークフリートは、後にその演出を「文化ボルシェヴィズム」と呼んで蔑んでいたという(同書、182ページ参照)。
 だが、黄金時代はいつまでも続かない。やがてナチ党が躍進するにつれて、プロイセンの州政府は、1930年10月6日、クロル・オペラの閉鎖を決定した。クレンペラーがユダヤ人であったことも、彼が取り上げる音楽が「前衛的」に過ぎて「ドイツ的」ではないことも大きく関係していただろう。クレンペラーの小さな子供たちは、なぜ父親が追放されるのかが理解できなかった。するとクレンペラーは一言だけ言葉を発したという。「わたしがユダヤ人だからだ」と(同書、191ページ)。
 その後、クレンペラーは数々の災難に見舞われる。スイスを経由してアメリカに渡り、ロサンジェルス・フィルハーモニーの首席指揮者となったが、まもなく脳腫瘍ができていることが判明し、1939年9月18日、4時間半に及ぶ手術を受けた。術後意識が回復したときには、右目の括約筋と舌の右側が麻痺しており、右腕もやっと動かせる程度だった。数日後には髄膜炎も併発した。オーケストラからも解雇された。精神状態も悪化した。このような最悪の状態から立ち直るのは並大抵の努力では難しかっただろう。
 第二次世界大戦後、三年間、ブダペストのオペラ座の首席指揮者をつとめたが、その後も火傷を負ったり転倒によって大腿骨を骨折したりと不運が重なった。
 しかし、1959年、フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者となり、晩年の活動の場を得たのは幸いだった。私がクラシック音楽を聴き始めた頃に市場に出ていたのは、たいてい、フィルハーモニア管との晩年の録音、それもドイツ=オーストリア系の古典派からロマン派に至る音楽が中心だった。なぜ彼はあれほど以前は力を入れていた現代音楽を録音しなかったのだろうか。本書によれば、彼はブーレーズ、シュトックハウゼン、ときにヘンツェを好んで聴いていたらしいが、録音したのが古典音楽に偏ったのは「商業的理由」によるものだったという(同書、205ページ参照)。つまり、現代音楽は売れなかったのだ。しかも、クレンペラーも生計を立てるためにお金が必要だったので、レコード会社の意向を無視できなかった。ただ、そうはいっても、彼の指揮は、主観性を排し、泰然とした音楽の流れをつくりだすことによって最も優れたベートーヴェン全集のひとつに結実したように思われる。


 本書は、クレンペラーのプライベートな面についても多くのエピソードが紹介してある。他の偉大な音楽家についてもいえることなので、いちいち記さないが、本書は、多くの人間的欠陥をもちながらも、不屈の精神によって怪我や病気を克服し、偉大な指揮者と評価されるようになった経緯がわかるように丁寧に叙述してある。クレンペラー没後40年と知って本書を取り上げるゆえんである。

1 ヘイワースは、クレンペラーの作曲は「躁鬱病の錯綜」の産物だと軽く触れていただけだったが、本書は「作曲家クレンペラー」も再評価に値するという立場をとっている。ただし、今日、彼の作品を実際に聴いたひとはごく少数だと思われるので、どの程度の評価になるのかは正直わからない。


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2013年08月16日

『資本理論とケインズ経済学』J・ロビンソン(日本経済評論社)

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「ジョーン・ロビンソン没後30年」

 今年は、イギリスの女性経済学者ジョーン・ロビンソン(1903-83)没後30年の年に当たっている。ケインズの愛弟子のひとりで、生前は「ノーベル経済学賞」(注1)の受賞候補に何度も挙げられながらも、結局、その栄誉に浴することはなかった。彼女はみずから「左派ケインジアン」と名乗ったいたが、「左翼」であること自体は、いまの時代にはとくに魅力にはならないだろう。だが、彼女の学問の評価は「左翼」であったこととは別に考えなければならない。もちろん、彼女の支持者には政治的にも左派であったひとが多いのは事実だが、私の恩師(故菱山泉・京都大学名誉教授)はそうではなかった。むしろ「通説」を何の疑問も抱かずにただ教え続けるだけの学問的態度に飽き足らず、すべてを根本的に考え直す姿勢に共感していたのだと思う。これは、ジョーン・ロビンソンの「盟友」であったピエロ・スラッファにも等しくいえることだ(菱山氏がスラッファ経済学の権威者であったことは言うまでもない)。幸い、ジョーン・ロビンソンの『資本理論とケインズ経済学』山田克巳訳(日本経済評論社、1988年)がまだカタログに生きているので、この本を取り上げることにしよう(この本は、彼女がさまざまな機会に書いた論文集なので、引用するときは論文名を明記することにしたい)。

 本書は、比較的初期から晩年にいたるまでの彼女の論文を収録しているが、第一に挙げるべきは、ケインズ革命の形成にも大いに関係のある「貨幣理論と産出量の分析」(1933年10月)だろう。当時、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)はまだ草稿段階で、ジョーン・ロビンソンを含む彼の弟子たちは、ケインズの前作『貨幣論』(1930年)を批判的に検討する研究会を定期的に開いていた。今日、ケインズの産出量(国民所得)決定理論の初歩は経済学部の一年生でも学ぶが、それは、かいつまんで言えば、投資がそれに等しい貯蓄を生み出すところに産出量を決めるというものである。これは当時は革命的なアイデアであったが、ジョーン・ロビンソンは、全く同じとは言えないものの、その核心に極めて近いところまで到達している。

「彼(ケインズ)は、もし貯蓄が投資を超過すれば、消費財は損をしてしか販売することができないことを指摘した。その結果、全人口の実質所得が減少して貯蓄が必然的に投資に等しいところまで減少するような低い水準になるまで、それらの産出量は減少するであろう。しかし、彼はこの発見の重要性を完全に見過ごし、産出量がいくらでも異なる水準で均衡しうること、また貯蓄と投資の間には均衡に向かう傾向(非常な長期において)があるのに、生産要素に関しては完全雇用に向かう自然的傾向はないことを彼が証明した、ということを述べるために立ち止ることなく、まったく無頓着なやり方でその考えを投げ出したのだった。」(「貨幣理論と産出量の分析」、同書7ページ)

 ケインズもジョーン・ロビンソンも、この段階では、『貨幣論』の理論的枠組みから完全に脱却しているとは決して言えないが、それでも、ジョーン・ロビンソンの指摘は『一般理論』の方向に歩みだす貴重な第一歩である。この論文はもっと評価されてもよいと思う。


 第二に挙げるべきは、資本論争の火蓋を切った論文「生産関数と資本理論」(1953-54年)だろう。だが、利潤率から独立に「資本」量を測定することはできないという問題提起は、のちにスラッファの『商品による商品の生産』(1960年)の援軍を得て、一時アメリカのケインジアンたち(ポール・サムエルソン、ロバート・ソローなど)との激しい論争に発展したものの、結局、あまり多くの果実をもたらさなかった。ジョーン・ロビンソンが批判した集計的生産関数O=f(L.C)は、いまでもよく使われているし(Oは産出量、Lは労働量、Cは資本量を表わしている)、最近の学生は、かつてこの問題について論争があったことさえ知らないようである。
 ジョーン・ロビンソンも、晩年は、どちらかといえば、資本概念よりは「歴史対均衡」という方法論上の問題を重視していたように思える。もちろん、「均衡」は新古典派の方法論の核心にあるものだが、それに対して、彼女は、「歴史」あるいは「歴史的時間」こそがケインズの核心にあるのだと主張した。そのアイデアの萌芽は、実は、すでに資本論争の頃から彼女の頭の中にあった。

「空間では、AからBに移動する物体はBからAに移動する物体に変化することができるが、時間においては、一方通行というきわめて厳格なルールが常に作用している。そして、空間においては、AからBへの距離は・・・BからAへの距離と同じ大きさである。しかし、時間においては、今日から明日への隔たりは24時間であるのに、今日から昨日への隔たりは、詩人たちがしばしば注意してきたように、無限である。それゆえ、時間に対し空間的隠喩を適用すると、それはきわめて扱い難いナイフのようなもので、均衡概念はそれを振り回す人の腕をしばしば傷つけるのである。」(「生産関数と資本理論」、同書137ページ)

 このような問題意識が彼女独自のケインズ解釈(「ケインズ革命はどうなったのか」1973年)につながっていくのだが、ここでは、その点を指摘するにとどめる(注2)。


 第三に、「左派ケインジアン」としての彼女の特徴がよく出ているものとして、アメリカ経済学会での講演「経済学の第二の危機」(1971年12月27日)を挙げたい。「雇用の水準」ではなく「雇用の内容」が重要だという彼女のメッセージは、聴衆の喝采を浴びたらしいのだが、その後の主流派経済学に採り入れられた形跡はない。彼女は、「左派ケインジアン」として、「軍産複合体」によって雇用が確保されているアメリカの現状とそれを放置したアメリカのケインジアンを厳しく批判したが、その問題はいまだに未解決といってもよいだろう。


 それにしても、数十年前まで、ジョーン・ロビンソンはなぜこの日本であれほど人気があったのだろうか。それは、一部には、彼女がミハウ・カレツキの影響で比較的初期からマルクスを真剣に読み、折に触れて、マルクスとケインズやマーシャルなどを比較する論文を書いてきたからだろう。日本もちょうどその頃までは「近代経済学対マルクス経済学」という図式がよく当てはまるような経済学界の勢力図があり、例えばマルクスとケインズを比較する論文だけでも数えるのに暇がないほどであった。だが、ベルリンの壁の崩壊後、経済学部のカリキュラムからマルクス経済学が次第に消えていき、そのようなテーマ設定自体が流行らなくなった。それとともに、学生たちもジョーン・ロビンソンに対する関心を失っていったように思われる。
 だからといって、先にも触れたように、彼女の問題提起が解決されたわけではない。いまや経済学者は以前にもまして器用になり、公の場で政策提言をする機会も多くなったが、ときの政府に都合のよい形で利用されている面がないとは言えない。それにもかかわらず、彼女が昔発した次の言葉だけはよく引用されているようだ。興味深いことだ(注3)。

「経済学を学ぶ目的は、経済理論に対する一連の受け売りの回答を得ることではなく、いかにして経済学者にだまされるのを回避するかを知ることである。」


1 「ノーベル経済学賞」というのは俗称に過ぎず、正確には、「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン銀行経済学賞」という。詳しくは、拙著『物語 現代経済学』(中公新書、2006年)第7章を参照のこと。
2 詳しくは、拙著『現代イギリス経済学の群像』(岩波書店、1989年)第3章を参照のこと。
3 本書には収められていないが、この言葉は、「マルクス、マーシャル、そしてケインズ」(1955年)と題された論文の中に登場する。とうに品切れだが、昔は『マルクス主義経済学の検討』都留重人・伊東光晴訳(紀伊國屋書店、1956年)として訳が出ていた(原文も収められている)。


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2013年08月12日

『捕虜が働くとき―第一次世界大戦・総力戦の狭間で』大津留厚(人文書院)

捕虜が働くとき―第一次世界大戦・総力戦の狭間で →紀伊國屋ウェブストアで購入

「総力戦の狭間で「働く捕虜」」

 本書(大津留厚著『捕虜が働くとき―第一次世界大戦・総力戦の狭間で』人文書院、2013年)は、従来ほとんど取り上げられなかった第一次世界大戦中の「働く捕虜」たちの実態を詳細に紹介した好著である。第一次世界大戦を「総力戦」として捉える見方は大戦中からあったが、著者によれば、その言葉は、ドイツの軍人エーリッヒ・ルーデンドルフによる同名の著書(1935年)の刊行以来、次第に定着するようになったという。私たち日本人は、とかく第二次世界大戦に関心が向かいがちだが、ヨーロッパでは、多くの証言があるように、「青天の霹靂」のごとく勃発した第一次世界大戦の衝撃が大きかった。しかし、大戦の推移やその後のパリ講和会議などについてある程度知っていても、大戦中に捕虜になった人たちが「労働」に駆り出された事情についてはほとんど知らないといってもよいほどだ。本書は、その穴を埋める貴重な研究である。

 1907年のハーグ陸戦条約第4条には捕虜の人道的な処遇について、第6条には捕虜の労働に関しての規定がある。その内容は、かいつまんでいうと、将校を除いて兵士に労働をさせることはできるが、戦争に直接かかわる業務や過度な労働を課してはならないというものであった(同書、10ページ参照)。しかし、当初の予想に反して大戦が長引き、オーストリア=ハンガリーの場合、大戦中200万の自国兵士を捕虜として失うと同時にほぼ同数の200万の敵国兵士を捕虜として収容せざるを得なくなると、その規定は「原則」ではあっても実情はそれからかなり離れたものになっていく。敵対したロシアは、同じ捕虜でも、スラヴ系兵士を優遇し、ドイツ系やハンガリー系などを少し厳しく扱っていたが、しかし、これもあくまで「原則」に過ぎなかった。著者は次のように言っている。

「つまりオーストリア=ハンガリーは200万強の働き盛りの男性が捕虜となって労働市場から姿を消し、その代りに200万人弱の働き盛りの男性を捕虜として抱え込むことになった。失われた労働力の補完だけではなく、200万人近い捕虜を扶養するためにもいかに捕虜を労働力として利用するかはオーストリア=ハンガリーにとっては重要な課題となった。しかしそれはオーストリア=ハンガリーだけのことではなかった。」(同書、64-65ページ)

 当初想定してなかった事態に直面し、オーストリア=ハンガリー陸軍省は捕虜兵を雇用するに当たっての指針を改訂し(1915年8月10日)、雇用者と軍との負担の分担を明確にした。しかし、働く環境が劣悪なものであることに変わりはなく、1917年には捕虜兵労働部隊の監査が行われることになったという。


 捕虜兵労働部隊は、どんな労働を課せられていたのだろうか。著者は、オーストリア=ハンガリーの第11軍団の後方任務に就いた捕虜兵労働部隊を例に挙げているが、そこでは、例えば道路建設、ロープウェーの建設、パン焼きなどが挙げられている。ロープウェーの建設は「戦闘に関係する業務」の可能性が高いが(つまりハーグ陸戦条約違反)、オーストリア=ハンガリー軍は捕虜兵にそこまでの配慮をする余裕がなかったという(同書、84ページ参照)。捕虜兵を警備する人員も足りなかったので、監視の目をすり抜けて逃亡する捕虜兵も後を絶たなかった。さらに、捕虜兵と地域住民との「交際」という問題もあった。とくに、軍は、現地の女性と捕虜兵との「交際」によって感染症が増えることを警戒していたらしい。だが、著者は次のように述べている。「捕虜の労働力は交戦国に欠かせないものとなり、捕虜の集団は細分化されて雇用された。そのため捕虜が現地の人びとと親密な関係を築く可能性は高かった。感染症の蔓延などの負の側面には軍も神経を尖らせたが、警備に大きな勢力を割く余裕もなく、厳しい監査が行われたとは考えにくい」と(同書、94-95ページ)。
 大戦の長期化とともに食糧事情も悪化していったが、1917年後半には、不満を抱いた捕虜兵の逃亡が増加し、それに対応しなければならない警備兵も疲弊していった。監視を担当する立場にある監視委員も、自らの職務に耐え切れずに辞任を申し出るほどであったという(同書、101ページ参照)。


 ロシアの捕虜となったが幸い早期に帰国できたオーストリア=ハンガリー軍の兵士たちは、まだシベリアに残されている仲間たちの安否を案じていたが、まもなく捕虜としての自分たちの経験を風化させないために機関誌『プレニ』を発行し、そのスローガンに「苦悩があって初めて光がある、光があって初めて愛がある」という言葉を掲げた(同書、122ページ参照)。のちに捕虜に関する新たなジュネーヴ条約が締結されるが(ジュネーヴ条約は何度も改訂されているので、第一次世界大戦後であれば1929年の改定を指すと思われる)、なんとナチ政権のドイツががオーストリアを併合したあとの『プレニ』には、そのスローガンと並んでナチスのハーケンクロイツが付されることになったという。旧捕虜兵の経験が第二次世界大戦中の捕虜の扱いに必ずしも活かされなかっただけに、表紙にハーケンクロイツを付した機関誌をみると複雑な思いを抱かざるを得ない(同書、123ページの表紙を参照のこと)。


 本書には、日本で捕虜になったドイツ人やオーストリア人などの興味深い記述もあるが、中心はオーストリア=ハンガリーに置かれている。著者によれば、この十年間で、第一次世界大戦の捕虜研究は急速に進んだという。来年(2014年)は、第一次世界大戦の勃発から100年という節目の年に当たるが、この機会に、第二次世界大戦の研究に比べて地味な印象のあったこの分野での研究が飛躍的に高まることを期待したい。


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2013年08月06日

『ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた』青山通(アルテスパブリッシング)

ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた →紀伊國屋ウェブストアで購入

「ウルトラセブンの「音楽」を探して」

 本書(青山通『ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた』アルテスパブリッシング、2013年)の内容は、装幀から受ける印象とはずいぶん違っている。いや、ウルトラセブンと関係はあるのだが、メインテーマはその最終回に出てきた「謎」の音楽で、読者は探偵ものを読むかのようにその世界に引き込まれてしまう。よくこんな本が書けたものだ。

 ウルトラセブンは、1967年10月1日から68年9月8日まで放送されたテレビ番組だが、私も小さな子供だったので、全部とはいわないものの、大部分をみたと思う。しかし、著者が問題にしているのは、最終回で主人公のダン(ウルトラ警備隊)が同僚のアンヌに自分がウルトラセブンであることを告白するシーンである。「僕は・・・僕はね、人間じゃないんだよ。M78星雲から来たウルトラセブンなんだ!」と。ラストの8分強だという(同書、025ページ)。
 その瞬間、映像が二人のシルエットになり、それまでのウルトラセブンのオリジナル音楽(M34「ダンの思い出」)から、突如、あるクラシック音楽の有名曲の冒頭部分が流れ出す。著者は、長い間、これが何の音楽かわからなかった。
 数年後、リビングで母親が観ていたNHK交響楽団のテレビ番組でまさにその音楽が流れた。「これ、なんて曲?」と尋ねると、「シューマンのピアノ協奏曲よ」という答えが返ってきた(同書、049ページ)。ようやく曲の名前がわかった。しかし、当時、子供に2000円から2500円もするレコードは高かった。母親に頼み込んで、新宿のデパートに入っていたレコード屋さんでその曲を買った。アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアノ)、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮シカゴ交響楽団の演奏だ。しかし、冒頭を聴いて、著者の期待は失望へと変わった。「違う・・・同じ曲なのに違う。あれじゃない。似ても似つかない」と(同書、053ページ)。
 諦めきれず、しばらくしてもう一枚のレコードを買った。今度は、ヴィルヘルム・ケンプ(ピアノ)、ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団の演奏だ。これも違うのだ。


 著者は考えた。ウルトラセブンの放送は1968年だった。レコードを使うなら、この年よりあとの録音ではありえないと。そして、またしばらくして三枚目を買った。ディヌ・リパッティ(ピアノ)、エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団の演奏だ。かなりよい線をいっていたが、これも違う。
 中学三年の秋になった。友人のお兄さんがクラシック通で、たくさんのレコードをもっていることを聞いた著者は、友人宅でそのお兄さんにシューマンのピアノ協奏曲の名盤について教えを乞うた。そうしたら、「やっぱりこれだよ」といって、そのレコードをかけてくれた。「これだ! まさにこれだ!」と著者は狂喜した(同書、071ページ)。ディヌ・リパッティ(ピアノ)、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏だった(録音は1948年)。やっと「本物」に再会できた著者は、次のことに気づいた。

「クラシック音楽は、同じ曲でも演奏によってまったく違う表情になる。そして、同じ演奏者でも同じ演奏は二度とない」(同書、074ページ)

 著者は必死だったのだ。三枚の演奏の特徴を述べた件は、思わず笑ってしまうが、著者には三枚は次のように聴こえたらしい(同書、065ページ)。

 リパッティ=カラヤン盤 「ジャン! ダダーンダダンダダンダダン・・・」
 ルービンシュタイン盤 「シュワン・・・ポロン・・・ポロン、ポロン、ポロン・・・」
 ケンプ盤 「ジャン、タラーン、タラッ、タラッ、タラッ・・・」

 ルービンシュタイン盤もケンプ盤もそれぞれ優れた演奏だが、著者には前者は「枯山水」、後者は律儀だが「あまり個性がない」演奏のように聴こえたらしい。
 著者は、リパッティ=カラヤン盤のどこかウルトラセブンに使われているか調べてみた。以下のとおりである(同書、038ページ)。

「1小節~18小節:ダンからアンヌへの告白のシーン、作戦室のシーン
 41小節~50小節:マグマライザー突進のシーン
 384小節~544小節(第1楽章の終了まで):改造パンドンとの戦い、勝利のシーン」


 これだけならよく調べたものだで終わってしまうが、著者はピアノを弾いているリパッティに関心をもった。そして、なぜ自分がその演奏に惹かれたのかを考えてみた。実は、最終回のウルトラセブンは体力的にかなり弱っており、力を振り絞って敵と戦っている状態だったが、奇しくも、ピアニストのリパッティもリンパ肉芽腫瘍を患い、数年後には亡くなってしまう運命にあった。著者は次のように述べている。

「それにしても、なんという符号だろう。「セブン上司」から危機を宣告され、深刻なダメージを抱えながらも、命の危険を顧みずに人類と地球のために最後まで戦ったウルトラセブン。そして最終回に使用された録音のピアニスト、ディヌ・リパッティもまた、病気と放射線治療の苦痛にさいなまれながら、死と真正面から闘っていた。みずからの使命と、リパッティの演奏会と録音を待つ聴衆のために、命を削り、それが尽きるまで演奏活動を続けていたのだ。」(同書、077ページ)

 それにしても、最終回でシューマンのピアノ協奏曲を使おうと決断したひとがいるはずだ。作曲家の冬木透氏だ。冬木氏は、ウルトラセブンの音楽全般(作曲から選曲まで)を担当していた。著者は、その冬木氏にインタビューを申し込む。冬木氏は次のように語っている。

「ダンの衝撃の台詞を受ける最初の音、そのあとの展開・・・と考えたときに思ったのが、これはもしかしたらシューマンのピアノ協奏曲ではないかと。最初にオーケストラのE音がジャンと鳴る。そしてそのあとのカデンツァ。これだと思いました。そこであらためて聴いてみると、これはいけるぞ、と。結果的にこれでよかったなと思っています。
 だからラフマニノフじゃないんです。いい線まで行っているけど、グリーグでもない。グリーグは、最初にティンパニがクレッシェンドで来るところが少し違うんですね。」(同書、091-092ページ)

 ウルトラセブンの音楽担当者がここまで考えていたとは想像もしていなかった。冬木氏は、小さい頃から父親が持っていた名曲アルバムでクラシック音楽を聴いて育ったので、身体の中にクラシックが浸透していたのだろう。さらにこうも言っている。

「自分がそこから始まったので、『ウルトラセブン』の音楽を作るにあたっても、そこへ帰っていったのかもしれません。ですので、マーラーもベートーヴェンもワーグナーも、実際に意識しましたね。それを持ちこみたい、一つひとつのシーンであやかりたい、という想いはたしかにありました。」(同書、042ページ)


 著者は、大学卒業後、音楽専門の出版社に入社した。クラシック音楽については、一頃カラヤンよりもカール・ベームに傾斜したので、どちらかというと「アンチ・カラヤン」のようになってしまったかもしれないと言っているが、それでも、ウルトラセブンの最終回に出てくる音楽はカラヤン=リパッティ盤のシューマンのピアノ協奏曲以外には考えられないという。

「美しくも哀しく、運命に抗うかのように切迫した推進力をもって、先へ先へと進もうとするこのリパッティの演奏でなくては、あの迫真の場面を彩ることはできないのだ。」(同書、114ページ)

 ウルトラセブンの最終回に登場する音楽にここまで執着し、一冊の本を書いてしまうような熱狂的なファンがいたとは思わなかった。自分もみていたはずの番組だが、このようなことは考えてもみたこともなかった。おそらく、同世代の読者は、探偵ものにも似た面白さを発見して懐かしさを感じるに違いない。


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2013年08月03日

『「ゆるく生きたい」若者たち 彼らはなぜ本気になれないのか?』榎本博明 立花薫(廣済堂出版)

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「「ゆるく生きたい」とは何か?」

 本書(榎木博明・立花薫『「ゆるく生きたい」若者たち―彼らはなぜ本気になれないのか?』廣済堂新書、2013年)は、心理学の専門家二人が「ゆるく生きたい」という最近の若者たちについて考察した興味深い読み物である。「ゆるく生きたい」という意味は、ある程度の年齢以上の者にはわかりにくいが、読み進むにつれて現代の日本社会が生みだした現象であることが次第に明確となってくる。

 「ゆるく生きたい」をとりえあず「本気を出さず、失敗を恐れる」心理として大雑把にとらえてみよう。著者たちは、最近の若者たちを観察して次のように述べている。

「小さい頃から習い事に通う子が多い。ピアノとか英語とか。スポーツをするにも、水泳教室とかサッカー教室に通う。自分たちで勝手に球技をしたり、鬼ごっこをしたりして遊んでいた時代と違って、あらゆる生活空間が管理されている。
 遊び場にしても、ドラえもんに出てくるような空き地で遊ぶというようなことがない。児童公園とかだれかの家とか、スポーツ教室とか、管理された空間で遊ぶことが多い。
 勉強するにも、塾に通うのが一般的になっている。かつてのように自分で本屋に行って役立ちそうな参考書や問題集を買って、自分で計画を立てて家で勉強するというのではなく、塾に通って与えられた教材をやればいい。参考書選びや問題集選びに頭を悩ますこともないし、勉強の仕方で悩むこともない。塾の先生の指示に従って勉強する姿勢が身についている。」(同書、19ページ)

 最近の若者たちはこれほど「自発性」がなくなってしまったのだろうか。「安全」な道を進むように小さい頃からしつけられているとすれば、ともかく自分の好きなことをがむしゃらにやってみて失敗しても悔いはないという一昔前の「勇ましい」若者が極端に減ってきたということだろう。著者たちも、「ムキになって頑張らなければ、失敗してもかっこ悪い姿をさらさずにすむかもしれないが、充実感も爽快感も得られない。味気ない時間が流れるだけ。その味気ない毎日に退屈しないのだろうか」と疑問を呈している(同書、21ページ)。
 驚いたのは、企業の管理職の人が若手社員に新しい仕事を指示したとき、「この仕事は将来の私のキャリアにプラスになりますか?」と聞き返されたことがあるという話だ。これは必ずしも企業内だけの話ではないだろう。どこの世界でも、「これは将来のためになるのですか?」という類の反応を示す若者たちが増えているに違いない。若者たちは、しゃれた言葉を使うと、「キャリア・デザイン」に特別の関心がありそうなのだが、最初から「これが何の役に立つのか」と思うだけでなく上司に聞き返すような者は、私たちの世代にはほとんどいなかった。
 ところが、ある心理学者の調査によれば、70%の人々が自分のキャリアが予想外の偶然の出来事に左右されてきたと答えているという(同書、24ページ参照)。自分の経験に照らし合わせても、なるほどと思わせる数字である。しかし、若者たちは、そうは考えないらしい。

「最近の学生たちを見ていて納得がいかないのは、この科目を取ると将来何の役に立つかというようなことを気にすることだ。「何の役に立つか」が気になる。そんな姿勢で勉強を楽しむことなどできないのではないか。わからないことがわかるようになる。それが学ぶ喜びだ。学ぶことそのものが楽しいのだ。・・・・・・
 最近の大学では、シラバスというものが導入され、各科目が何の役に立つか、それを学ぶことでどんな成長が期待できるかが明示されるようになっている。そんなものがあるために、学生たちは学ぶ喜びを奪われつつある。そんな気がしてならない。・・・・・・
 功利的なことを考えずに、ただひたすら目の前の課題に没頭するしかなかった時代のほうが、勉強でも仕事でも充実して楽しめたのかもしれない。」(同書、24-25ページ)

 さらに、著者たちは、若者たちが「叱られる」ことを異常に嫌がる傾向があると指摘している。なかにはミスを注意しただけで言い訳をしたりふて腐れた態度をとったりする者がいると。これを心理学では「リジリエンス」(復元力)が乏しいと表現するようだ。つまり、「挫折や傷つきから立ち直る力」が欠けているということだ(同書、27ページ参照)。


 厄介な時代になったものだ。著者たちは、「ゆるく生きたい」若者たちの特徴を、「未熟さの自覚→克服→成長」という「成長のプロセス」を身につけていないとも表現している。

「等身大の自分を自覚できる人は、小さい頃から何度も挫折を味わっている。自分にもっていたイメージがガラガラと崩れるたびに、それを受け止め、理想の自分に近づこうと成長のプロセスを歩んできた。こうした心の筋トレは、小さなことでは傷つかないたくましい精神を作っていく。
 ゆるくだけ生きてきた人は、成長のプロセスを避け、今の未熟な自分をみないようにしてきたから、理想の自己像をそのまま自分だと思い込んでいる。根拠のない自信を成長につなげていくことはできない。」(同書、42-43ページ)

 ここまで読んでくると、「ゆるく生きたい」若者たちに「自己愛的行動」をとる者が多いという指摘も納得がいく。「自己愛」自体は病的ではなく誰もがもっている正常な心理だが(「自己愛」がなければ、ストレスの管理に失敗し、精神状態を悪化させかねない)、著者たちは、「ゆるく生きたい人は、傷ついたときだけでなく、ふだんから自己愛に頼ろうとする傾向がある。その心のクセが、彼らを幸せや成功から遠ざけている」という(同書、68ページ)。冒険を恐れ、失敗することを異常に恐れる若者たちの特徴が次第に見えてきた。


 「ゆるく生きたい」若者たちが抗うつ薬が効きにくい「新型うつ」になりやすいというのも肯ける。現代社会でストレスや不安に悩まされていないひとを探すほうが大変に違いないが、ストレスから解放されるためにとる行動のパターンとして、「問題中心対処」と「情緒中心対処」の二つがあるという(同書、137ページ参照)。「問題中心対処」とは、何が問題であり、それを解決するにはどうすればよいかを考えて実行するタイプの行動だ。それに対して、「情緒中心対処」とは、問題がなくなってくれればよいとか、誰かが助けてほしいとか、要するに、問題解決から目をそらすタイプの行動である。前者は「新型うつ」にはなりにくく、後者はそうなりやすいというのもすぐに察しがつくだろう。
 ただし、著者たちは、「甘え」自体を否定しているのではない。「甘える」とは「許される」ことでもあるので、人と人の間で適度な強さで相互に作用するなら、人間関係にとっての「潤滑油」となることを認めている。しかしながら、問題は、「ゆるく生きたい」若者たちが、自分は甘えたいが人からは甘えられたくないという、「甘えのバランスを欠いた自己愛過剰な態度」をとりがちだということだ(同書、152-153ページ参照)。


 若者に触れる機会の多い大学教師としては、彼らの大半が「ゆるく生きたい」と思っていると想像したくはないが、一昔前よりは確実に増えていることは認めなければならないだろう。「ゆるく生きたい」若者たちに日々接している著者たちが具体例を挙げながら丁寧に叙述した内容には説得力がある。企業の管理職のひとも彼らとどのように付き合えばよいかについて多くの示唆を得られるだろう。「現代社会の病」であると一言で終わらせないで、本書を読んでみることをすすめたい。


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