« 『ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品』加藤浩子(平凡社) | メイン | 『<三越>をつくったサムライ 日比翁助』林洋海(現代書館) »

2013年06月07日

『愛国心』清水幾太郎(筑摩書房)

愛国心 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「民主主義による愛国心の合理化は可能か」

 本書(清水幾太郎著『愛国心』ちくま学芸文庫、2013年)は、1950年に出版された岩波新書の文庫化である。復刊の経緯は知らない。著者の清水幾太郎(1907-88)は、当時「岩波文化人」として最も人気のあった論客のひとりであり、本書もその頃の著者の立場を反映した内容となっている。もちろん、同じ主題について晩年に書いていたら別の本になっていただろうが、著者の思想遍歴については優れた研究(竹内洋『メディアと知識人』中央公論新社、2012年)があるので、ここでは触れない。むしろ本書を読む意義は、私たちが「愛国心」という言葉で表現してきた思想の起源・変遷・未来についての簡潔で要領を得た知識を得ることにあると思う。


 著者は、愛国心の歴史を、未開社会の「エスノセントリズム」(民族中心思想)から、古代(ギリシャの都市国家のような「祖国」への愛情と奉仕)と中世(特殊な発達を遂げた各集団への忠誠という意味での愛国心)を経て、近代社会における民主主義によるその合理化への過程として捉えている。
 このようにまとめると簡単なようだが、もちろん、現実の流れはもっと複雑である。例えば、未開社会の「人間の原始的非合理性」は、近代社会では消滅しているのかといえば、もちろん、そうではない。著者はいう。「一般に社会生活のうちに危機が生ずる時、今まで隠れていた原始的傾向は突如として姿を現す。追いつめられた人間は、一方、合理的工夫をすると同時に、他方、混乱の極、原始的傾向のままに動こうとする」と(同書、059-060ページ)。その直後にファシズムへの言及があるが、1950年刊行の本だから、「ついこの前」の歴史的な事実について語っているのである。

 本書の中でとくに興味深いのは、フランス革命前後のフランス人が「愛国心」という言葉を「自由主義的精神の持主」の意味で使っていたという指摘である。「国民」という言葉も「自由主義的精神の所有者の全体」の意味であり、「祖国」も「この精神の所有者の住む土地」の意味であったと(同書、099ページ参照)。それゆえ、現代からみると、滑稽なことが起こっていた。

「当時の保守派は自ら愛国者と名乗らぬように気を配り、進歩派は自ら愛国者と称しただけでなく、保守派からも愛国者と呼ばれていた。・・・・・この用語法は、フランス革命の国際的意義に相応しく、やがて他のヨーロッパ諸国にも波及した。1787年、オランダの共和主義者たちは『祖国と自由のために』という旗印を掲げ、彼らは自ら愛国者と号した。オランダ史は当時の運動を『愛国者革命』と呼んでいる。ロシアでは、士官が愛国者と呼ばれただけでアレキサンドル一世の不興を蒙り、コーカサスへ送られるに十分な資格となった。」(099-100ページ、ただしオランダ語を含んだ部分は削った)

 だが、もちろん、著者にとって最も関心があったのは、近代の愛国心と民主主義との関係だろう。前に触れたような「民主主義による愛国心の合理化」への期待は、ここで展開される。

「もし今日の愛国心が多少とも近代の文明人に相応しいものであるとすれば、近代の民主主義がこのエスノセントリズムに合理化を施して、その原始的な棘を抜き取っているためである。この傲慢、偏狭、残忍を除去ないし緩和しているためである。交通機関やジャーナリズムの発達もみだりに軽視すべきではなかろうが、しかし最も肝要な問題は民主主義にある。万一にも民主主義という要素を欠くならば、たとい飛行機が日常の交通機関になろうとも、テレヴィジョンがジャーナリズムの手段になろうとも、吾々の愛国心は未開社会の先祖と同じレヴェルに立つエスノセントリズムであるのほかはない。吾々の愛国心は昔ながらの傲慢、偏狭、残忍を特質とするのほかはない。」(同書、101-102ページ。ただし、一部の漢字はひらがなに置き換えた)

 当時の著者にとっては、「民主主義」という言葉は、「寛容の精神」「経験の尊重」「平等の拡大と充実」という言葉と結びついていたのだろう。著者は、それらが簡単に実現されたとは決して言っていない。むしろ困難に立ち向かいながら徐々に実現されてきたといってもよいが、それでも、著者は、民主主義に固有の「平和的方法」に期待をかけているように思われる。「野生的な力は、これを抑圧している機構が崩れれば、自然に流れ出す。だがこれを平和的に、即ち寛容な方法で処理するには、永い間の経験が要る。努力が要る。反省が要る。この経験、努力、反省を現に持っているところに、また持とうと企てるところに、偉大な個人及び偉大な民族の証拠がある。自然の野生的な力のままに押し流されるところに、未開人そっくりの憐れな個人、憐れな民族の証拠があるのである」と(同書、114ページ)

 だが、この国で「愛国心」という言葉を聞くと、著者は「ついこの前」の歴史的な事実を思い浮かべるのだろう。「日本の場合、愛国心は専ら天皇への愛情と奉仕とであった。愛情というような人間的な表現さえ不適当であった。天皇に対する絶対的な崇拝及び尊敬が吾々の愛国心の内容であった。それは人間的なものであるよりは、神秘的なものであった」と(同書、128ページ)。つまり、明治以来の日本の愛国心は、民主主義による合理化の過程を経ていなかったのだ。ここにわが国固有の問題が潜んでいると言いたいのだろう。「民主主義」に大きな期待をかけ、そこから戦後日本の明るい未来を描きたい著者の意図は十分に伝わるものの、随所に、それを不気味に脅かす「エスノセントリズム」の残照への言及が顔を出す。

「人間は超個人的集団の懐に抱かれたいという原始的欲求を有し、自己の反省と責任とにおいて生きるという重荷に堪えられぬ時がある。平穏の日なら別であるが、苦難と危機とが迫って来る時、人間はこの重荷を投げ出して、巨大な集団に身を託し、上からの命令のままに動きたいと思い始める。この集団を自己の膨張したものと感じ、この命令を良心及び判断の代用品として感ずる。元来、人間の精神にはこのような傾斜がある。」(同書、152-153ページ)

 それにもかかわらず、著者は、愛国心と結びついていた戦争が問題解決の方法としての意義を次第に失いつつある最近の傾向に望みを託している。もちろん、現代からみれば、楽観主義的であったと言われても仕方があるまい。だが、留意すべきは、著者が「平和」とは単なる現状維持ではなく、「問題解決の方法」なのだと力説していることである。

「真に平和と呼ぶべきは、他の場合に戦争を通じて処理された、その問題を平和的に解決する方法のうちに横たわっている。暴力を避け、現状に潜む困難を除去し、充足を妨げられていた欲求に満足を与えること、それが真の平和というものである。平和とは、平和的方法によって現状を打開することである。方法としての平和とは、前に述べた如く、民主主義に固有な方法を指すものにほかならない。あくまで平和的方法に頼りながら、しかも平等の拡大と充実とを実現して行くところに、民主主義の発展があるのである。」(同書、184-185ページ)


 本書は、初めに述べたように、戦後まもなく著者が「岩波文化人」として論壇における輝ける星であった頃の作品である。晩年の思想は、本書の立場とは異なるだろう。だが、全体を通読して、「愛国心」という言葉で語られてきた思想やイデオロギーなどを整理するには格好の読み物となっていると思う。もともと「岩波新書」として出版された本が「ちくま学芸文庫」として甦った理由はわからない。「学芸」というよりは「ちくま文庫」に収録されても不思議ではない内容だからである。もしそれが「学芸」とふつうの「文庫」の間の垣根がなくなったことを意味するのなら、喜んでよいのかどうか迷ってしまうが。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/5264