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2013年06月21日

『早稲田1968―団塊の世代に生まれて』三田誠広(廣済堂書店)

早稲田1968―団塊の世代に生まれて →紀伊國屋ウェブストアで購入

「学生運動、挫折、それでも文学に生きる」

 団塊の世代が学生運動を回顧するのはつねにある種のためらいや痛みが伴うものだ。本書(『早稲田1968―団塊の世代に生まれて』廣済堂新書、2013年)の著者、作家の三田誠広氏があえてそれを試みようとするのには理由があるだろう。私は、以前、著者の『マルクスの逆襲』(集英社新書、2009年)という本をある新聞の読書面に取り上げたことがあったが、そのとき、著者が高校時代からマルクスを読書会で読んでいたことを知ったので、学生運動についても何か書きたがっているような気配はつかんでいた。しかし、本書のようなタイトルでズバリと切り込んでくるとは予想していなかった。

 団塊の世代の高校生が「マルクス主義研究会」のような読書会をつくってマルクスを読むというのは当時ではそれほど珍しかったわけではないが、それをどこまで引きずるかは人によりけりだろう。端的にいえば、著者は、いまでも、それを引きずっているのである。1968年とは、著者が早稲田大学(文学部)に入学した年だが、それから1972年までの数年間のうちに東大闘争や日大闘争に始まり、連合赤軍事件でクライマックスを迎えるような事件がいくつも起こった。それゆえ、著者は、「1968」に注目する理由を次のように述べている。

「学生というものは既存の社会に批判の目を向け、命をかけてでも反体制運動に没入するものだという風潮が、そこで(1972年を指す―引用者)途切れてしまった。
 それ以後は、理念とか、義というものが失われ、お金だけが意味をもつ社会に変貌してしまった。
 その変わり目が、1968年のあたりにあったのではないかと思われる。」(同書、4ページ)

 著者の学生時代はまさに学生運動のピークから終焉までの時期に当たっているわけだが、著者が運動そのものに没入したというわけでは決してない。著者は、高校を一年間休学していた頃に書いた小説が一流の文芸誌に掲載され、早くから出版社の編集者との付き合いもあったので、小説家になるのは当然のコースのように思い込んでいた。だが、本格的な小説家として身を立てるには長い「潜伏期間」を経なければならなかった。その期間のかなりの部分が学生時代と重なっていたのである。
 著者の大学一、二年の頃は、早稲田のキャンパスでは正常な授業がほとんどなかった。文学部は革マル派の拠点だったが、高校時代からデモに参加したこともあった著者は、ある意味で学生運動に対する「免疫」のようなものをもっていたと言えなくもない。もちろん、こういう言い方は正しくないかもしれないが、著者は運動の最も激しかったときの活動にはいっさい関わっていない。
 例えば、早大全共闘が組織されてから早稲田闘争が始まったのだが、文学部のキャンパスでは革マル派と中核派その他との対立があり、後者が前者を襲撃するという事件があった。しかし、文学部が革マル派の牙城であるという事実は変わらなかった。革マルに排除された勢力は、大隈会館の向かいの学生会館を占拠した。
 早稲田は、文学部とは少し離れたところにある本部キャンパスでは解放派の勢力が強く、民青もいたというように内部事情は相当に複雑なのだが、いずれにせよ、当時の著者は「学生の自主管理」というのもあり得るかなと漠然と考えた程度で、運動には深入りしていなかった。占拠された学生会館の中でクラス討議をおこなうような試みあったが、まもなく運動が過激化し、暴力が日常になってくると、夜中に小説を書き、昼頃に大学に顔を出すような生活をしていた著者の入り込む余地はなくなってきた。
 結局、学生会館の占拠は、機動隊の導入によって排除され、籠城していた学生たちは逮捕された。彼らは大学に戻ってこなかったし、大学側のロックアウトによってキャンパスで行き場を失ったセクト所属の学生たちは別の大学に移ったのかもしれないという。そのような光景を目の当たりにした青年が、程度の差はあれ、当時のことを後々まで何も引きずらなかったと考えるほうが不思議ではないだろうか。引きずらなかったという人も、単に記憶を封印しているだけかもしれない。感受性の鋭い著者は、何十年経っても、クラスの同窓会で大隈会館を眺めるたびに物思いにふけってしまうのだ。

「ぼくは日帰りの参加者だったから、夜の学生会館のようすは知らない。仲間たちはそこに泊まり込み、夜になると、向かいの大隈会館に向けて、瓦礫の破片を投げつけていたのだ。
 そうした記憶が、いまは心地よい痛みをともなった青春の思い出みたいなものになって胸の奥に残っているのだろうか、と想像してみる。
 いや、何年たっても、心地よい痛みにはならないだろう。いまでも心の奥底に、苦いものが残っているのではないか。そんなことも考えてみる。
 みんなちゃんとした社会人になっている。ぼくだけが青春小説みたいなものを書いているので、昔の雰囲気を引きずっているのかもしれない。だから、胸の痛みを感じるのは、ぼくだけなのかもしれないのだが。」(同書、163-164ページ)

 
 学生運動とは何だったのか。著者は、「お祭りだった」かもしれないとか、「高校の体育会系の部活に似ている」とか書いているが、要は「組織の中に、自分の居場所がある」というのがポイントのようだ。「これは人間にとって、大切なことだ。自分の居場所としての、共同体みたいなものがあって、その中で自分がどのあたりに位置づけられているか、ということがわかるというのが、人間の精神の安定には必要なのだ」と(同書、171ページ)。
 だが、そのような意味での組織であれば、必ずしも学生運動でなくともよいのではないかという疑問が生じるだろう。実際、学生運動が挫折したあと、多くの学生たちはキャンパスに戻り、卒業後いろいろな会社に就職していった。著者も例外ではない。「居場所」を提供したのは、日本の会社である(奥村宏氏の「会社本位主義」論を想起してほしい)。

「大学を出てから、ぼくは玩具業界誌に一年、自動車メーカーの販売店向け機関誌に三年いて、メーカーの社員や販売店のオーナー、営業マンなどに取材で接する機会があった。
 どの人も、仕事を生きがいにしていた。職場が、温かいコミュニティーになっていた。まるで田舎の『村社会』みたいに、会社というものは温かい人間関係で、働く人を支えていた。そういえばクライアントの自動車メーカーでは、会社のお祭りみたいなものを毎年開催していた。日本の企業は意図的に、会社を『村』のようなものにしようとしていたのだろう。
 だから日本のサラリーマンは、転職などせずに、定年まで同じ企業で働く人が多かった。それが日本企業の強みだと言われた時期もあったのだが・・・・・・。
 ぼくと同世代の人々も、就職して会社に入ると、会社という村社会に帰属することで、そこに生きがいを見いだすようになったのかもしれない。」(同書、241-242ページ)

 もちろん、著者は、長年苦労した末に、芥川賞につながる小説を書いて、会社とは離れていくのだが、この直観は間違っていないと思う。しかし、現在は大学教授としても若い学生をみているだけに、どうしても昔の学生気質と比較したい気になるようである。

「ぼくは大学の先生をしているので、いまの若者たちとつきあっている。彼らには夢がない。将来への希望がない。命をかけるほどの理念がない。若者に活力がないと、国家は衰退への一途をたどるだろう。日本という国は、大切なものを失ってしまったのだ。」(同書、234ページ)

 著者は、いまでも学生運動の「大義名分」を信じるほど現実離れはしていない。本書は一種の回想録だから、当時の気分を再現しようとするあまり、力が入りすぎてそのような誤解を招きかねない記述が散見されるだけである。それにもかかわらず、「1968」がいまから振り返ってもスリリングな時代だったという著者の指摘は当たっていると思う。そのメッセージが汲みとれるかどうかで、本書の評価は二分されるに違いない。

「いまの時点から見れば、すべての闘いは負け戦だった。何の意味もない、無駄な抵抗だったと、世の人々は見ているかもしれない。
 でも、コピーライターの糸井重里さんも、東京都知事の猪瀬直樹さんも、全共闘運動の闘士だった。早稲田では、立松和平も、村上春樹も、闘っていたはずなのだ。
 その経験が、彼らの人生を豊かなものにしたのだと、ぼくは信じている。
 負け戦を体験したからこそ、彼らは強くなったのだ。」(同書、268ページ)


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2013年06月16日

『<三越>をつくったサムライ 日比翁助』林洋海(現代書館)

<三越>をつくったサムライ 日比翁助 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「三越ブランディングをつくった久留米武士」

 タイトルに惹かれて本書(『<三越>をつくったサムライ 日比翁助』現代書館、2013年)を手にとったが、「三越ブランディング」を創り上げるのに尽力した久留米武士、日比翁助(1860-1931)について多くのことを教えられた。

 日比翁助が、明治37年(1904)12月17日、「デパートメントストア宣言」を新聞広告で打ち上げたとき、「デパートメントストア」がどんなものかわかっている人はほとんどいなかった。「百貨店」と呼んだのは、大正時代の雑誌『商業界』の主幹、桑谷定逸が初めてだという。しかも、「株式会社三越呉服店」を創業するに当たって、三井家からは人材や資本の提供は受けられず、ほとんどゼロからの出発であった。
 三越呉服店は越後屋呉服店の継承・発展ではないかと思われがちだが、呉服店からデパートメントストアに生まれ変わるにはひとつの飛躍が必要であった。それを、旧久留米藩士の次男で、「国家有為の人たれ」と説いた江崎済の北汭義塾で漢学を、慶應義塾で「士魂商才」を学んだ「サムライ」が成し遂げたというのが興味深い。
 名宣伝部長と呼ばれた浜田四郎は、のちに、翁助の「三越革命」について、「デパートの開祖 日比翁助」(『オール生活』昭和27年4月号)と題する文章の中で次のように述べたという。

「具体的にいえば、三百年の伝統と旧習に凝り固まっていた越後屋呉服店という一大老舗を、根本的にたたき直して、近代的な百貨店組織に改められたことです。・・・・・・
 たとえば、現銀取引掛け値なしという商法は越後屋開店当時からの特色であったが、これを全店総陳列の正札売りに改めたのも日比さん、元禄模様その他の考案で、流行意匠の総元締めを企画したのも日比さん、寄せ切れ・見切り反物大売出し、実用百貨のバーゲンセール、現代名画の陳列会、勧業博覧会とのタイアップ、レジスターの使用、メッセンジャーボーイの活用等々、何から何まで日比さんの仕事は、つまり『先鞭』ということに尽きます。
 それに日本で初めて女子店員を採用したのも、子ども寄宿舎を設けて教育と厚生施設の実現に努めたのも、さらに後年各方面で行われだしたPRを始めたのも、もう四十余年前にちゃんと日比さんが『知恵の大出し』で手をつけていました。」(同書、23-24ページ)

 本書を読むと、ボーナス制度の創設、従業員持ち株制、月二回の休暇の制度化など、翁助のアイデアで実現したものがたくさんあることに気づく。


 ところが、翁助は、下級武士とはいえ、徳川幕府の時代なら士農工商の一番上にいた「サムライ」の心を持っていた。それゆえ、当初、サムライが商売に手を染めるということに抵抗があったらしい。高橋義雄が越後屋改革のためには翁助の辣腕が必要だと中上川彦次郎に懇願して説得しようとしたものの、なかなか「イエス」という返事は返ってこなかった。「わたしは武家の生まれで、侍気質がいまだ抜けきれず、おまけに九州久留米の田舎育ち、商人の才覚もありませんし、婦人相手の呉服商売などとうていできません」と(同書、123ページ)。だが、相手も負けていない。「日比君、福沢先生のことばを忘れたか、われわれが目指す、いまからの商人像は先生から教わった『士魂商才』だ。われわれが日本の新しい商業人と商業ビジネスを創るんだ」と説得を続けた(同書、124ページ)。
 このように翁助が決断に至るまでには時間がかかったし、決断してからも具体的に何をすればよいのかすぐにはわからなかったものの、苦悩の日々が続いたあと、ようやく次のことに気づいた。

「大変なところに気がづいた。というのは、日本のすべての社会は、軍事でも、教育でも、工業でも、すべてのことがみな欧米先進の風に傾いて日進月歩と改良せられていっておるが、ただ日本の小売業ばかりは、この進歩から取り残されて、依然として旧幕の遺風を墨守しているばかりである。
 これは大いに改革しなくてはならん。この茫々たる荒野を開拓することは、己の仕事として実に愉快な仕事であるわいと思うようになった。そしてこの点に目を付けた。
 これはひと奮発してやってみよう、と。こう考えついたところ、さあ、仕事が面白くなった。
 そのうち自分は、この仕事に打ち込んでもよいというくらいまでになった。」(同書、128-129ページ、日比翁助著『商売繁盛の秘訣』大学館からの引用)

 そうと決めてからは、宣伝広告の重視、PR誌の発行、外売り通信係(通販)の新設、新柄研究会、店員への簿記学の導入など、次々に改革を進めていった。もともと、「三越」とは、越後屋時代には最下級の「のれん」であったが、翁助の改革は「三越ブランディング」の力を高めることによって、三越の従業員の意識改革やモラルの向上までも狙った「一石二鳥の策」だったという。
 翁助は、明治39年(1906)4月4日、欧米のデパートに視察に旅立ったが、当初は百貨店はアメリカが最先端を走っていると思っていたようだ。ところが、アメリカのホワイトリーズをみても、陳列は洗練されておらず、書生の商売のような印象を抱いた。だが、イギリスでハロッズを見たとき、まさに自分が理想とするような百貨店だと感激し、何度も足を運んだ。
 当時のハロッズ総帥リチャード・バービッジともやがて意気投合し、バービッジから百貨店のノウハウを丁寧に教えられたという。ときには、こんな細やかな注意までしてくれたらしい。「百貨を完備する順序はよくよく考えねばならぬ。日常身につける小物、ネクタイ、シャツのごときを先にし、徐々として品種をふやすべく、貴金属類などは最後に持ち越すがよい、これは商品の回転率とストックの関係をにらみ合わせて考慮すべきで、そうすれば売上高が増すだろう。品物がきれいだなというて、無意味に品種を増やすのは危険である」と(同書、176ページ)。


 翁助の努力は、やがて「今日は帝劇、明日は三越」という名コピーに結実していくが、著者がいうように、デパートメントストアなるものがなかった日本にひとつの「ビジネスモデル」を構築した功績は大きいだろう。
 だが、おそらくは長年の過労とストレスの蓄積によって、翁助は50歳を前にした頃から「神経衰弱」(当時の病名で今は使われない。翁助の場合は、頭痛から始まったが、症状をみると、働き過ぎによる抑鬱状態だったと思われる)を患い、亡くなるまでこの病気との闘いが続いた。まさに「企業戦士」であったと言えよう(ただし、この言葉を「美談」のように語る傾向には同調しがたいが)。
 革新者(イノベーター)は一時代を創り上げるが、成功のあとには新しい革新者による挑戦が待ち受けている。本書がそこまで筆を伸ばしていないのは残念だが、翁助が越後屋の伝統にしがみつくのではなくビジネスモデルを革新することによって全く新しい三越を創り上げたように、これからは時代の変化に機敏に適応した新しいビジネスモデルを創出することが求められているに違いない。翁助の足跡を辿った本書を読んで、その感を深くした。


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2013年06月07日

『愛国心』清水幾太郎(筑摩書房)

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「民主主義による愛国心の合理化は可能か」

 本書(清水幾太郎著『愛国心』ちくま学芸文庫、2013年)は、1950年に出版された岩波新書の文庫化である。復刊の経緯は知らない。著者の清水幾太郎(1907-88)は、当時「岩波文化人」として最も人気のあった論客のひとりであり、本書もその頃の著者の立場を反映した内容となっている。もちろん、同じ主題について晩年に書いていたら別の本になっていただろうが、著者の思想遍歴については優れた研究(竹内洋『メディアと知識人』中央公論新社、2012年)があるので、ここでは触れない。むしろ本書を読む意義は、私たちが「愛国心」という言葉で表現してきた思想の起源・変遷・未来についての簡潔で要領を得た知識を得ることにあると思う。


 著者は、愛国心の歴史を、未開社会の「エスノセントリズム」(民族中心思想)から、古代(ギリシャの都市国家のような「祖国」への愛情と奉仕)と中世(特殊な発達を遂げた各集団への忠誠という意味での愛国心)を経て、近代社会における民主主義によるその合理化への過程として捉えている。
 このようにまとめると簡単なようだが、もちろん、現実の流れはもっと複雑である。例えば、未開社会の「人間の原始的非合理性」は、近代社会では消滅しているのかといえば、もちろん、そうではない。著者はいう。「一般に社会生活のうちに危機が生ずる時、今まで隠れていた原始的傾向は突如として姿を現す。追いつめられた人間は、一方、合理的工夫をすると同時に、他方、混乱の極、原始的傾向のままに動こうとする」と(同書、059-060ページ)。その直後にファシズムへの言及があるが、1950年刊行の本だから、「ついこの前」の歴史的な事実について語っているのである。

 本書の中でとくに興味深いのは、フランス革命前後のフランス人が「愛国心」という言葉を「自由主義的精神の持主」の意味で使っていたという指摘である。「国民」という言葉も「自由主義的精神の所有者の全体」の意味であり、「祖国」も「この精神の所有者の住む土地」の意味であったと(同書、099ページ参照)。それゆえ、現代からみると、滑稽なことが起こっていた。

「当時の保守派は自ら愛国者と名乗らぬように気を配り、進歩派は自ら愛国者と称しただけでなく、保守派からも愛国者と呼ばれていた。・・・・・この用語法は、フランス革命の国際的意義に相応しく、やがて他のヨーロッパ諸国にも波及した。1787年、オランダの共和主義者たちは『祖国と自由のために』という旗印を掲げ、彼らは自ら愛国者と号した。オランダ史は当時の運動を『愛国者革命』と呼んでいる。ロシアでは、士官が愛国者と呼ばれただけでアレキサンドル一世の不興を蒙り、コーカサスへ送られるに十分な資格となった。」(099-100ページ、ただしオランダ語を含んだ部分は削った)

 だが、もちろん、著者にとって最も関心があったのは、近代の愛国心と民主主義との関係だろう。前に触れたような「民主主義による愛国心の合理化」への期待は、ここで展開される。

「もし今日の愛国心が多少とも近代の文明人に相応しいものであるとすれば、近代の民主主義がこのエスノセントリズムに合理化を施して、その原始的な棘を抜き取っているためである。この傲慢、偏狭、残忍を除去ないし緩和しているためである。交通機関やジャーナリズムの発達もみだりに軽視すべきではなかろうが、しかし最も肝要な問題は民主主義にある。万一にも民主主義という要素を欠くならば、たとい飛行機が日常の交通機関になろうとも、テレヴィジョンがジャーナリズムの手段になろうとも、吾々の愛国心は未開社会の先祖と同じレヴェルに立つエスノセントリズムであるのほかはない。吾々の愛国心は昔ながらの傲慢、偏狭、残忍を特質とするのほかはない。」(同書、101-102ページ。ただし、一部の漢字はひらがなに置き換えた)

 当時の著者にとっては、「民主主義」という言葉は、「寛容の精神」「経験の尊重」「平等の拡大と充実」という言葉と結びついていたのだろう。著者は、それらが簡単に実現されたとは決して言っていない。むしろ困難に立ち向かいながら徐々に実現されてきたといってもよいが、それでも、著者は、民主主義に固有の「平和的方法」に期待をかけているように思われる。「野生的な力は、これを抑圧している機構が崩れれば、自然に流れ出す。だがこれを平和的に、即ち寛容な方法で処理するには、永い間の経験が要る。努力が要る。反省が要る。この経験、努力、反省を現に持っているところに、また持とうと企てるところに、偉大な個人及び偉大な民族の証拠がある。自然の野生的な力のままに押し流されるところに、未開人そっくりの憐れな個人、憐れな民族の証拠があるのである」と(同書、114ページ)

 だが、この国で「愛国心」という言葉を聞くと、著者は「ついこの前」の歴史的な事実を思い浮かべるのだろう。「日本の場合、愛国心は専ら天皇への愛情と奉仕とであった。愛情というような人間的な表現さえ不適当であった。天皇に対する絶対的な崇拝及び尊敬が吾々の愛国心の内容であった。それは人間的なものであるよりは、神秘的なものであった」と(同書、128ページ)。つまり、明治以来の日本の愛国心は、民主主義による合理化の過程を経ていなかったのだ。ここにわが国固有の問題が潜んでいると言いたいのだろう。「民主主義」に大きな期待をかけ、そこから戦後日本の明るい未来を描きたい著者の意図は十分に伝わるものの、随所に、それを不気味に脅かす「エスノセントリズム」の残照への言及が顔を出す。

「人間は超個人的集団の懐に抱かれたいという原始的欲求を有し、自己の反省と責任とにおいて生きるという重荷に堪えられぬ時がある。平穏の日なら別であるが、苦難と危機とが迫って来る時、人間はこの重荷を投げ出して、巨大な集団に身を託し、上からの命令のままに動きたいと思い始める。この集団を自己の膨張したものと感じ、この命令を良心及び判断の代用品として感ずる。元来、人間の精神にはこのような傾斜がある。」(同書、152-153ページ)

 それにもかかわらず、著者は、愛国心と結びついていた戦争が問題解決の方法としての意義を次第に失いつつある最近の傾向に望みを託している。もちろん、現代からみれば、楽観主義的であったと言われても仕方があるまい。だが、留意すべきは、著者が「平和」とは単なる現状維持ではなく、「問題解決の方法」なのだと力説していることである。

「真に平和と呼ぶべきは、他の場合に戦争を通じて処理された、その問題を平和的に解決する方法のうちに横たわっている。暴力を避け、現状に潜む困難を除去し、充足を妨げられていた欲求に満足を与えること、それが真の平和というものである。平和とは、平和的方法によって現状を打開することである。方法としての平和とは、前に述べた如く、民主主義に固有な方法を指すものにほかならない。あくまで平和的方法に頼りながら、しかも平等の拡大と充実とを実現して行くところに、民主主義の発展があるのである。」(同書、184-185ページ)


 本書は、初めに述べたように、戦後まもなく著者が「岩波文化人」として論壇における輝ける星であった頃の作品である。晩年の思想は、本書の立場とは異なるだろう。だが、全体を通読して、「愛国心」という言葉で語られてきた思想やイデオロギーなどを整理するには格好の読み物となっていると思う。もともと「岩波新書」として出版された本が「ちくま学芸文庫」として甦った理由はわからない。「学芸」というよりは「ちくま文庫」に収録されても不思議ではない内容だからである。もしそれが「学芸」とふつうの「文庫」の間の垣根がなくなったことを意味するのなら、喜んでよいのかどうか迷ってしまうが。


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2013年06月02日

『ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品』加藤浩子(平凡社)

ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「神話や伝説に覆い隠された大オペラ作曲家の実像」

 今年は、ワーグナーとヴェルディの生誕200年に当たっており、世界中のオペラ劇場がこの二人の偉大な作曲家の作品を上演中である(注1)。いや、生誕200年でなくとも、ワーグナーとヴェルディの登場しないオペラ劇場などは想像することもできない。書店には関連の本がたくさん並んでいるが、ワーグナーと比較すると新書版のヴェルディはこれまであまりなかったような気がしたので、本書(加藤浩子著『ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品』平凡社新書、2013年)が目にとまった(注2)。
 ヴェルディが偉大なオペラ作曲家であったことは誰もが知っているといってよいが、「偉大な」人物には色々な「神話」や「伝説」がつきまといやすい。本書の「まえがき」が「ジュゼッペ・ヴェルディは、知られざる作曲家である」(同書、13ページ)という文章で始まっているのを読んだとき、著者の狙いがある程度理解できたが、これだけ有名な作曲家についての実証研究が本格化したのがこの数十年のことだというのは驚きであった。


 神話のひとつは、「ヴェルディ」の名前がイタリア人にとって「リソルジメント」(祖国統一運動)と結びついており、ガリバルディ、マッツィーニ、カヴァールなどの名前と並んで「建国の父」と称されていることである。だが、著者によれば、最近の実証研究は、ヴェルディが意図的にリソルジメントを鼓舞したという事実を否定しているという(同書、62-65ページ参照)。
 なるほど、都合のよいことに、ミラノでの「ナブッコ」の初演時、第三幕の合唱「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」に熱狂した聴衆が、当時は禁止されていたアンコールを要求したと伝えられてきた。それはオーストリア占領下で苦しんできたミラノの人々の心情にぴったり一致したので、イタリアで「第二の国歌」と呼ばれるくらい愛されたのだと。
 だが、「ナブッコ」の批判校訂版(1987年)を編纂したロジャー・パーカーの資料研究によれば、初演時のアンコールは、「行け、わが想いよ」ではなく、最後の賛歌「偉大なるエホバ」であったことが判明しているという。しかも、ミラノ以外のイタリアの都市で「ナブッコ」が上演されたとき、「行け、わが想いよ」が熱狂的に迎えられた記録もないという。
 ヴェルディは、確かに、統一後のイタリアで「名士」として国会議員にも選出されているが、彼が何らかの政治的活動をしたという記録は残っていない。国会にもほとんど出向かず、議員用の鉄道のフリーパスも使わなかった。それゆえ、著者は、ヴェルディには政治的意図はなかったと主張するのである。

「≪ナブッコ≫は、初演後数年の間に、ドイツ、フランス、南北アメリカ大陸を席巻した。このことからもわかるように、≪ナブッコ≫の成功はおそらく作品の力によるものであり、ナショナリズムとは無関係だった。もし≪ナブッコ≫や≪ロンバルディア人≫に政治的意図が認められるとしたら、それは父が政治犯として投獄され、本人にもその傾向があったテミストークレ・ソレーラの台本に帰せられるべきだろう。」(同書、65ページ)

 ただし、著者も、統一後のイタリアが「建国神話」にふさわしい「名士」を必要としていたということまでは否定しない。かくして、1880年代以降、ヴェルディの神話化が進んでいったのである。

 政治に関心がなかったのとは対照的に、ヴェルディは資産形成や農場経営には並々ならぬ情熱を注ぎ込んだ。最盛期には約670ヘクタールの土地(東京ドームのおよそ143個分)を所有していたというから半端ではない。ヴェルディの資産形成には、彼が当時のイタリアにまだ浸透していなかった著作権という考え方を確立し、作曲家の地位の向上に貢献したという面も大きく関係していただろう。だが、著者の紹介している最晩年のヴェルディのポートレートは、「作曲家」というよりもほとんど「農場主」そのものである。「ある日の日課は、五時起床、ウズラ撃ちに出かけ(狩猟は彼の趣味のひとつだった)、朝食後は現場の見回り、その後一、二時間の昼寝、午後は家での仕事と手紙書き。夕食後は暗くなるまで散歩し、就寝前の時間はカード遊びに費やされた」と(同書、54ページ)。
 ヴェルディも、しばしば「ロンコレの農民」(ロンコレは北イタリアにある彼の故郷)と自称していたらしいが、それでも、よそ行きのときは、「トレードマークとなった黒いつばのある帽子をかぶり、公の場にはエレガントなスーツとシルクハットで現れた」という(同書、54ページ)。私たちがレコードやCDのジャッケトでよく見てきた姿である。「名士」として振る舞わねばならぬ時と場所はちゃんとわきまえていたと見える。


 ヴェルディは、「慈善家」としての顔ももっていた。彼は私財を投じてヴィッラノーヴァの病院と、音楽家のための老人ホーム(「音楽家のための憩いの家」)という二つの公共的な建物を建てたが、後者に比べて前者はあまり知られていないという(現在もリハビリ専門の病院として使われているそうだが)。
 「憩いの家」は、ヴェルディが「私の最高傑作」と呼んでいたものらしい。どういう意味だろうか。著者は、実際にその家を訪れたときに感じたことを次のように書いている。

「『憩いの家』を初めて訪れ、入居者=オスピテの演奏に接した時、筆者のなかで何かが腑に落ちたような気がした。それまで茫洋とした表情を漂わせていた老音楽家たちが、いったん演奏を始めると、若者のように生き生きした表情を浮かべるのだ。そのありさまを目撃したことは感動的だった。」(同書、60ページ)

 施設の名前を「芸術家のための養老院」と提案した建築家に対して、ヴェルディが入居者は「私のお客様」なのだから「音楽家のための憩いの場」がふさわしいとして譲らなかったゆえんである。


 作曲家以外のヴェルディの活動に予想外に字数を費やしてしまったが、作曲家としての功績は、著者が言うように、「ベルカント・オペラ」(歌唱美重視のオペラ)から「ヴェリズモ・オペラ」(リアルな人間劇のオペラ)へと大きな一歩を踏み出したというのが正論だろう。ただし、現実的な題材よりは、古典文学を題材に音楽と物語の両面から「真実」へと迫ったというのである(同書、69ページ参照)。
 ヴェルディがシェイクスピアの作品を題材にとったオペラを何曲も書いていることは周知の事実であるが、興味深いのは、ヴェルディが「イタリア・オペラにおいて、シェイクスピアの原作を直接下敷きにした作曲家だった」という指摘である(同書、72ページ)。ヴェルディの時代、イタリアではシェイクスピアはようやく翻訳され始めた頃でまだメジャーではなかったという。だが、彼は「人間の心理の奥深さ」を描いたシェイクスピアに魅了された。
 ドラマ性の重視は、朗唱、二重唱、合唱の効果的な活用とも結びついているが、著者はヴェルディが複雑なキャラクターを表現するために低い声域(男声のバリトンや女声のメッゾ・ソプラノ)をしばしば活用したことに注目している。テノールでは「人間の心理の奥深さ」は表現できないのだろうかという疑問は残るが、バリトンという声域がヴェルディによって開拓されたという指摘は面白い。
 ところで、本書の後半には、ヴェルディ初心者を念頭に、「前期」「中期」「後期」の作品のあらすじがかなり詳しく紹介されているが、せっかく作品紹介をするのに、著者おすすめのCDや感動的だったライブなどを書き込まなかったのはなぜだろうか。そのような情報は他でも得られるといえばそれまでだが、ヴェルディのオペラの特徴をどの演奏が一番よく捕らえているのか、著者の意見を聞いてみたかったと思う(注3)。

1 例えば、イギリスのテレグラフ紙は、次のような記事を載せている。
http://www.telegraph.co.uk/culture/music/opera/9785708/Verdi-or-Wagner.html
2 ワーグナーについては、1980年代に高辻知義著『ワーグナー』(岩波新書、1986年)が出ている。
3 私がヴェルディの「オテッロ」(本書の読み方に従う)を初めて観たのは、1980年代のミラノ・スカラ座の来日公演のときだが、そのときの指揮者はカルロス・クライバー、オテッロ役はドミンゴだった。本書の作品解説に次のような文章を発見したとき、そのときの感動が甦ってきたので、著者がどのような演奏を念頭に置いているのかが知りたかったのである。「シェイクスピアが起爆剤となった≪オテッロ≫で、ヴェルディは音楽とドラマが徹底的に連動したオペラを創ることに成功した。その理由のひとつは、ヴェルディ・オペラではじめて『番号オペラ』を廃したことにある。それによって、イタリア・オペラにつきものだった、歌を聴かせるためにドラマが停止することから解放された。さらに、フランスのグランド・オペラに影響を受けたスペクタクルシーンなどの聴衆へのサービスもほとんど見られない。≪オテッロ≫では、ヴェルディ・オペラの醍醐味である、襟首を摑まれてドラマのなかに投げ込まれる快感が、初めから終わりまで驚異的な緊張感とともに続くのだ。ワーグナーをはじめとするドイツ・オペラの影響もあると思われるオーケストラの雄弁さも、特筆すべきだろう」と(同書、274ページ)。


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