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2013年05月13日

『ヴォルガのドイツ人女性アンナ―世界大戦・革命・飢餓・国外脱出』鈴木健夫(彩流社)

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「ヴォルガ・ドイツ人女性の苦難の物語」

 本書(鈴木健夫著『ヴォルガのドイツ人女性アンナ--世界大戦・革命・飢餓・国外脱出』彩流社、2013年)の主人公アンナ・ヤウク(1889-1974)は、ロシア・ヴォルガ地方のドイツ人移民の富裕な農家に生まれた女性である。彼女は、苦難の末にドイツへ脱出し、のちにドイツ語で『ヴォルガ・ドイツ人の運命―ボリシェヴィズムに破壊された故郷の滅亡を生き延びたひとりの在外ドイツ人の体験』(1937年)と題する手記を筆名(アンナ・ヤネッケ)で出版したが、本書はその手記をもとにヴォルガ・ドイツ人が歴史的にどのような運命を背負って生きてきたかを紹介しながら、「20世紀の人類の歴史にあって忘れてはならない現実の一端」(同書、11ページ)を映し出そうとした好著である。

 ヴォルガ地方へのドイツ人移民は、エカチェリーナ一世(1684-1727)の時代、彼らの進歩的な農業の経営と技術を採り入れるという目的で政策的に進められた。当時のヨーロッパのほとんどの国はエカチェリーナの入植誘致政策には敵対的な態度を示したが、西南ドイツの小さな領邦や帝国都市などのように国民の国外移住への禁止や規制の緩かったところでは、ロシアに新天地を求めようとする動きが出てきた。著者によれば、「長年の戦争による荒廃、兵役、圧政、飢餓、貧困、人口増加による土地不足、宗教上の不寛容などが、移住の要因となっていた。『ロシアでは自分たちと同じドイツ生まれの、美しい若い女帝が誘ってくれている』と受け取られた」という(同書、18ページ)。
 こうして、1764年以降、ドイツ西部の中央部(ヘッセンなど)から南部(ヴュルテンベルク、バーデンなど)にかけての地域を中心にロシア移住への大きな流れが生まれた。ヴォルガ地方への入植者は、短い期間(1767年から68年)に2万3千人から2万9千人にものぼったが、入植は南ロシアや黒海沿岸などの方面にも活発となり、アレクサンドル二世(1818-81)の時代の1858年には、ロシア国内のドイツ人の人口は84万3百人(総人口の1.1%)に達したという。
 アレクサンドル二世は、クリミア戦争の敗北後、「上からの改革」を強力に推し進めた皇帝として知られるが、ドイツ人移民に対しても従来の法的特権や特別行政を廃止し、兵役を課すなど、「ロシア帝国の臣民」になることを求めた。さらに、アレクサンドル三世(1845-94)の時代には、国内の非ロシア民族に対する徹底したロシア化政策が推進されるようになり、ドイツ人入植者にもロシア語が強要された。19世紀末にはロシア国内のドイツ人は177万人余に達していたというから、決して少なくない人数である。


 アンナ・ヤウクは、1889年、ヴォルガ河からかなり東に奥まったところにあるオーバードルフ村(ロシア名はクプツォヴォ)の豊かな農民の家に生まれた。時代の流れとともに土地利用制度の変化はあったが(ロシア的な共同体的土地利用から西欧的な土地利用秩序への移行)、アンナの父親は耕地と牧草地を合わせて300エーカーを所有し、さらに近くの国有地を12年契約で賃貸しながら大規模な農業経営を営んでいたというから、彼女はいわゆる「クラーク」(富農)と呼ばれる家に生まれたことになる(だが、のちのロシア革命後、クラークは追放の対象となる)。
 だが、1905年9月20日、突然の悲運がアンナを襲った。アンナの村では結婚式で新郎新婦を祝うために大空に向けて銃を発射する習慣があったが、アンナの兄ハインリッヒが発射したはずの銃がなぜか発火しなかった。兄は一度地上に向けて撃ってからやり直すようにという隣人のアドバイスに従おうとしたところ、その銃弾が庭のリンゴをもいでいたアンナの左脚に命中してしまったのである。重傷であった。アンナは、結局、左脚を切断することで命を取り留めた。それからアンナは義足での生活を余儀なくされるのである。
 左脚を失っても、アンナには夢があった。小さい頃から裁縫が得意だったので、その仕事で独り立ちしたいという夢である。両親は当初反対だったが、ヴォルガ左岸の町に住む義兄の説得もあって、その町の裁縫学校で学ぶことができた。そして、1911年、22歳で自分の裁縫学校を開くまでになる。アンナの夢は膨らみ、いつかサラトフにドイツ人家政学校を開設したいとまで思うようになった。


 ところが、1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。この戦争でドイツはロシアの敵国となり、ロシア在住のドイツ人も敵国人の扱いを受けた。しかも、若者は「ロシア軍兵士」として母国ドイツとの戦争に駆り出されたというから、二重の苦しみを味わされたことになる。アンナの兄たちも戦場へと駆り出された。
 著者によれば、大戦勃発後、ゴレムィキン首相は、「われわれはドイツ帝国に対してだけでなくドイツ人に対して戦争を遂行するのだ」と通告し、ニコライ二世(1868-1918)の勅令(1915年2月2日)に基づいて、「ドイツとの国境に近いロシア西部・南部に居住していたドイツ人に対して、強制的な財産没収、知識人(牧師、教師、法律家など)の逮捕、ヴォルガ地方・ウラル地方・シベリアへの追放が行われた」という(同書、42ページ)。ロシア西部から全体で50万人が追放されたという数字も残っている。
 しかし、ヴォルガ・ドイツ人も安泰ではなく、彼らのシベリアへの強制移住も着々と準備されつつあった。強制移住の決定は、ヴォルガ・ドイツ人を絶望に陥れた。アンナの手記には次のような文章が綴られているという。引用してみよう。

「ある日曜日、牧師たちは説教壇から、長いこと準備され今や公表された追放令を読み上げた。各家族は、衣類と必要な家具以外は一頭の家畜のみを持って行くことが許され、家と屋敷は国家の所有となる。これは残酷な仕打ちである。はじめすべての人びとは無言で跪き、祈った。しかし、つぎには絶望感が広がった。『なにゆえに私たちの祖先はこの地にやってきたのか。なにゆえにドイツに留まってくれなかったのか』。出発の日はまだ決められていなかったが、毎日、それを覚悟しなければならなかった。」(同書、43-44ページ)

 ところが、この強制移住計画が実行に移されることはなかった。なぜなら、まもなくペトログラート(旧サンクト・ペテルブルク)に二月革命(1917年)が起こり、ロマノフ王朝が崩壊したからである。だが、その後、十月革命によって、レーニンを指導者とするヴォリシェヴィキが権力を掌握し、社会主義の建設へと進み始めた。そして、今度は富裕者からの財産没収が始まったのである。ヴォルガ・ドイツ人地域も例外ではない。もちろん、革命や社会主義建設はすべて順調に進んだのではない。1921年の春頃までは、内戦(つまり、赤軍と白軍の戦い)が各地で続き、混乱がやまなかった。だが、アンナは、赤軍による略奪行為を決して忘れなかった。手記にはこうある。

「『略奪されたものを略奪せよ』というレーニンのスローガンによる財産没収は貧しい人びとの正気を失わせた。赤軍兵は、いまや突然主人となり、すべてが自分たちのものだと考え、略奪した。烏合の衆が商店や家に駆け込み、主人を脅迫することが日常茶飯事となった。人びとは、通りに投げ出された略奪品を奪い合った。かつてアンナの家で洗濯婦として真面目に働いていた女性もこの狂気にとらわれ、窓に掛けてあった衣類をひったくり、叫んだ。『いまや金持ちの衣服で私の身体を包んでみるのだ』と。」(同書、53ページ)


 財産没収が大きな痛手であったことはいうまでもないが、内戦のあと、日照り続きのために凶作となり、恐るべき飢餓がやって来た。その上、伝染病(とくにチフス)も蔓延するようになった。ロシア全体で何百万もの人が死んだにもかかわらず、「新政府は市民の生活は放置し、新しいイデオロギーの浸透こそを最大の課題とした」とアンナの目には映った(同書、64ページ)。
 なんとかせねばならない。アンナは、なんと、このまま餓死するよりはドイツへ脱出(もちろん不法に国境を越えるのである)しようという危険を伴う冒険を選択する。これは苦難の道であった。詳細は本書に譲るが、1921年10月25日に家族に別れを告げてから、なんとかフランクフルトに到着(1922年4月28日)するまで約半年もかかっている。三名の連れがいたとはいえ、義足で森の中を徒歩で国境を越えるというのがどれほど大変か、想像に難くない。しかも、ポーランドに入国できたとホッとしたのもつかの間、宿を貸してくれた家の主人が「厄介なことにならないように」警察に通報したので、突然二人の警官がやって来た(同書、77ページ)。
 その後は、各地の刑務所や収容所を転々としたが、その間、食事は乏しくシラミが出るような不衛生な部屋のなかに拘留されたので、途中で病死しても不思議ではなかっただろう。実際、同行のひとりはチフスにかかり、もう少しで死ぬところだった。もしアンナたちのためにドイツ入国に必要な書類が届かなければ、どうなっていかはわからない。アンナたちを支援したのは、ドイツにいるヴォルガ・ドイツ人や、大戦中アンナの家で世話していたドイツ人捕虜などだが、彼らはまさに「救いの神」であったと言えよう。

「やがて列車はポーランドからドイツへの国境に向かった。アンナは、窓からの景色を食い入るように眺めた。畑は豊かで、よく耕されており、なんとすばらしいことかと思った。ロシアでは1918年以来土地は十分に耕されないままであり、ヴォルガ地方からミンスクまではそのような寂しい風景が続いていた。同行してきていた看護婦が叫んだ。『いまドイツの国境を越えています』。車内には喜びの歌声がわきおこった。」(同書、88ページ)


 アンナたちがドイツに脱出したあと、ソ連ではスターリンによる農業集団化と工業化政策が急ピッチで推進されたが、1930年代のはじめ、ソ連は再び大飢饉に見舞われた。アンナの両親も兄妹も飢餓に苦しみ、財産を没収された両親はまもなく亡くなった。アンナは、飢えに苦しむ兄妹のためにドイツから何度も送金したが、「私たちはまだ生きています」という返書を受け取るたびに暗い気持になった。
 アンナがその後ドイツでどのような生活を送ったのか、手記から詳細は分からないという。しかし、著者は次のようにいう。「ともあれ、アンナの、そして彼女の家族の悲劇は、ロシアの富裕者『クラーク』すべての悲劇であったとも言えよう。このことを自覚するアンナのボリシェヴィキ批判は手厳しい」と(同書、107ページ)。もちろん、「クラーク」として生まれたひとりの女性の手記だけをもとに共産主義体制を糾弾することはできないだろう。だが、アンナの生涯は、著者もいうように、「第一次世界大戦、ロシア社会主義革命、内戦、大飢餓、農業集団化、そして再び大飢饉という、激動の時代を映す貴重な証言となっている」ことは確かである(同書、109-110ページ)。
 歴史の大きな流れを鳥瞰する仕事も大切だが、アンナの手記に描かれたようなミクロの視点も忘れてはならない。本書はそのことを語りかけているように思われる。


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