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2013年05月28日

『新自由主義の帰結』服部茂幸(岩波書店)

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「”新自由主義" への戦闘宣言」

 著者(服部茂幸氏)はポスト・ケインズ派経済学の研究や最近の量的緩和政策批判などで極めて精力的な活動を続けている経済学者だが、本書(『新自由主義の帰結―なぜ世界経済は停滞するのか』岩波新書、2013年)は、一連の仕事を一般の読者にも近づきやすい形にまとめた話題作である。

 本書は、全体を通じて、新自由主義の経済学に基づく政策が危機を拡大させたことを厳しく批判しようとしているが、著者によれば、新自由主義とは、ケインズ主義や福祉国家による民間の経済活動への余計な介入を廃し、市場メカニズムによる効率的な資源配分を信頼する思想であり、その主な政策は、金融の規制緩和、供給サイドの重視、富の再分配よりも「トリクル・ダウン」(富裕者の優遇によって経済を活性化されれば、富が貧困層にも「滴り落ちる」という説)などに代表されるという。これだけでは、新自由主義の解説としては十分ではないが、当面はこの理解でよしとしよう。
 では、この新自由主義の実践の結果、世界はどうなったか。著者は、ジョージ・オーウェルの『1984』の三つのスローガンに倣って次のようにまとめている(同書、167ページ)。

 「成長とは99%の国民の賃金・所得が停滞することである。」
 「パイの増加とは1%の富裕層にパイを集中させることである。」
 「供給サイドの改善とは、家計に返済できないカネを貸して、支出させることである。」

 つまり、ITバブルや住宅バブル期に普通の人々が借金して支出することを覚えたせいで、一時はアメリカ経済が「復活」したかのような活況を呈したが、結局、1%の人々のために富と所得を集中させることに成功しただけだったというのだ。なかなか大胆なスローガンである。


 著者の従来の仕事の印象からは、量的緩和やインフレ目標に対するもっと理論的批判を期待したいところだが(注1)、本書では、おそらく新書という制約もあって、むしろレーガン政権以後の金融自由化がもたらした経済的「帰結」とそれを支持する政治勢力への批判のほうに重点が置かれているようである。著者は次のように述べている。

「バブルと投機が生じても、神聖な市場には介入しない。しかし、反社会的なバブル崩壊によって、金融市場が暴落したり、金融機関が危機に陥ったりした時には、市場を支え、金融機関を救済する。こうした救済主義によって、アメリカの金融当局はウォール街の特殊利益を守るとともに、金融システムを不安定化させてきたのである。こうしたバブルと不良貸付を促進する政府は破滅的であると同時に、社会的にも不公正な政策である。
 このような愚かな政策が実施される理由として、最初に考えられるのは、アメリカの金融当局に初歩的な経済学の素養が欠如していることであろう。次いで考えるべきは、こうした政策がだれの利益になっているかである。こうした金融崩壊促進政策は、破滅的な政策だとしても、ウォール街の金融機関にとっては素晴らしい政策であった。1%の利益を追求する政治が政策を歪めているのである。」(同書、174-175ページ)

 著者がこれまで書いてきたものからは、とくにナショナリスティックな傾向やあふれる正義感などは感じられなかったのだが、本書は新書ということもあってそれらがストレートな表現で随所に現れているようだ。
 例えば、バブル崩壊後にアメリカ政府が危機に陥った金融機関を救済するということまでは否定しないが、崩壊に至ったまでの過程を考えると釈然としないものが残るのだろう。「政府が公的資金を投入するのであれば、少なくとも過去の誤りを繰り返さないように経営改革を行わせる必要があろう。しかし、市場主義のイデオロギーが強いアメリカではこうした経営改革は行われなかった。加えて、破綻して救済された金融機関の経営者は以前と同様の高額報酬を受け取っている。こうした行為もまた国民の怒りをかった。ところが、オバマ政権は政府は金融機関の経営には口をだすべきではないとして、高額報酬問題に介入しなかった」と(同書、97ページ)。
 あるいは、アメリカの新自由主義が日本にも浸透していくにつれて、アメリカの悪いこともすべてとりいれてしまったと手厳しい。「貧困大国、格差大国アメリカのまねをして、アメリカと同じ病が日本に広がるのは、全く不思議なことではない。もともと新自由主義の政策はアメリカにおいても成功していなかった。アメリカで失敗した政策をまねて、アメリカのような失敗が生じるのは当然の結果と言えよう」と(同書、181ページ)。
 著者の立場は、アメリカでは異端の烙印を押されるポスト・ケインズ派に近いのだが、スペースの制約もあって、ハイマン・ミンスキーのような優れたポスト・ケインジアンが主流派に対して金融危機が生じる可能性をかねてから警告していた意味を掘り下げていないのが惜しまれる(注2)。


 さて、前に指摘したように、本書では「新自由主義」がフリードマンの思想に近い形で定義されているのだが、「こうした新自由主義の考え方を支えるのが、現在のミクロ経済学と現代思想である」(同書、5ページ)という文章はきわめて誤解を招きやすいと思う。ミクロ経済学の専門家がみな新自由主義者というわけではないし、現代思想(経済の分野だけに限っても)といっても多様なので何を指しているのかがわからない。おそらく、著者もこの点は十分に承知しているのではないだろうか。それにもかかわらず、「わかりやすさ」という大義名分の下でそのような書き方を選ばざるを得なかったとすれば、そのことは新書という形での啓蒙主義にも反省を迫るものであるかもしれない。これは、著者だけの問題ではなく、出版文化の問題でもあるのだが、次に新書版で出すときには、多少難しくなっても、自分の本領を最もよく発揮するような書き方をしてほしい。


1 例えば、著者による『金融政策の誤算―日本の経験とサブプライム問題』(NTT出版、2008年)、『危機・不安定性・資本主義―ハイマン・ミンスキーの経済学』(ミネルヴァ書房、2012年)などを参照のこと。
2 著者の前作『危機・不安定性・資本主義』では、この問題が専門的に取り扱われているので、関心のある読者はその本を参照してほしい。


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2013年05月19日

『ケネー 経済表』ケネー(岩波書店)

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「経済学の真の天才の作品」

 フランソワ・ケネー(1694-1774)の『経済表』が岩波文庫に収録された(『ケネー 経済表』平田清明・井上泰夫訳、岩波文庫、2013年)。喜ぶべきことである。なんとなればケネーは経済学の創設期を飾る真の天才であるから。
 なるほど、アダム・スミスもイギリス古典派経済学の父という意味では経済学の誕生を語るには欠かせない偉人だが、そのスミスでさえ、フランスで「フィジオクラシー」(重農主義)と呼ばれる学派の指導者であったケネーを尊敬し、『国富論』を彼に献ずるつもりであったことが知られている(残念ながら、『国富論』が出版された1776年にはケネーは他界していた)。しかも、ケネーは、古典派やマルクスによって継承される「社会的富の再生産」という視点を誰よりも早く明確に把握していたように思われる。それゆえ、私は、経済学史の講義ではケネーを最初に取り上げることにしている(拙著『経済学の歴史』講談社学術文庫、2005年を参照のこと)。  ケネーの生涯や学説の詳細については、本書の解説や専門書にゆずるが、以下では、ケネーの『経済表』のどこがそれほど天才的なのかについて私の見解を述べてみたい。


 『経済表』は、ケネーが理想とする「農業王国」の経済システムをひとつの表の形で示したものだが、これをみて何が言いたいかをすぐに理解できる人は当時ほとんどいなかった(同書36ページに載っている「原表第三版」を参照)。のちに「スフィンクスの謎」だと言った人もいる(エンゲルスの言葉)。
 表をみると、真ん中に「地主階級」、左側に「生産階級」、右側に「不生産階級」が配置されている。ケネーによれば、農業のみが「生産的」であり、それ以外の産業は「不生産的」となるが、もともと「自然の支配」を意味する「フィジオクラシー」が「重農主義」と訳されたのは、いくらか誤解を招く恐れがあるものの、理由なきことではなかった。表では、地主階級はその貨幣を生産階級と不生産階級に半分ずつ支出し、その後、生産階級と不生産階級の生産物(農産物や工業品)と貨幣がどのように流れていくかがジグザグの線で示されている。ケネーはもともと外科医であったが、一説には、このような思想にはウィリアム・ハーヴェイ(1578-1657)の「血液循環説」が影響を及ぼしているという。
 この表には、同じ再生産額(1500リーブル)が年々歳々繰り返されるような状態が描かれているが、これはのちにマルクスが「単純再生産」と呼んだ世界である。現代的な用語では、シュンペーターが使った「静態」(stationary state)と呼んだ状態に他ならない。このようなモデルがなぜ重要かといえば、『経済表』をもって初めて経済システムの存続可能性が、個々の経済主体の意思や思惑とは独立に、客観的な法則として提示されたからである。このような視点が古典派やマルクスを経て現代のスラッファにまで受け継がれていく。この意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない偉業である(注1)。
 ケネーは、ひとつの表のあとに続けて「経済表の説明」その他を書いているが、それはあくまで「説明」であり、彼の経済思想のエッセンスはひとつの表の中にすべて凝縮されているといっても過言ではない。経済学史上たったひとつの表だけで不朽の名声を得たのはケネーのみかもしれない。もちろん、「説明」を読み飛ばしてはケネーの経済思想を十分に理解することはできないが、一応の知識を頭に入れて改めて『経済表』を眺めると、彼がいかに巧妙にみずからの思想を表の中に埋め込んだかがわかって驚嘆するだろう。

 ところで、ケネーの重農主義は、農業のみが「純生産物」を生み出すという意味で「生産的」であると捉えた。なるほど、これはスミスも批判したように狭い捉え方であったかもしれないが、ケネー以前にフランスの経済政策に大きな影響を与えていた「コルベール主義」(商工業や外国貿易を偏重したフランスの重商主義)のために農業が疎かにされ、農村が疲弊していたという歴史的事情を勘案しなければならないだろう。コルベール主義のもとでは、工業製品の価格を低めに抑えるために低賃金政策がとられたが、そのためには農業の生産物である穀物の価格を人為的に低い水準に釘づけにする必要があった。ケネーの用語では、穀物の「良価」の実現が政策的に阻まれていたのである。それゆえ、ケネーは、穀物の流通を外国貿易も含めて自由にし、重商主義の規制を撤廃しなければならないと説く。いわゆる「経済的自由主義」の思想だが、これは、しばしば誤解されるように、「自由放任主義」のすすめではない。国家には国家にしかできない仕事があるからである(注2)。
 農業のみが「純生産物」を生み出すという意味で「生産的」ということは、「純生産物」のみが課税の対象になるということでもあるが、「純生産物」は結局「地主階級」の収入となるので、「地主階級」のみが納税者になる。ケネーの「土地単一税」と呼ばれる思想である。ケネーは次のように述べている。

「租税が破壊的なものではないこと。すなわち、国民の収入の総額に不釣り合いなものでないこと。租税の増加は国民の収入の増加に準拠すること。租税は土地が生む純生産物に対して直接課されること。そして生産物(農業以外の生産物―引用者補足)のうえに課されないこと。もし生産物に課されるならば、租税は徴税費を増加させ、商業を害するであろう。租税はまた、土地を耕作するフェルミエの前払から徴収されないこと。なぜなら王国において、農業の前払は、国民の租税と収入の生産にとって大切に保存されるべき恒常的なものとしてみなされなければならないからである。さもなければ、租税は化して詐取となり、衰退を惹き起こして国家をただちに死滅させることになる。」(同書、61ページ)

 租税とは反対に、財政支出については、濫費は戒めるものの、ただ節約すればよいとは決して言っていない。

「政府は節約に専念するよりも、王国の繁栄に必要な事業に専念すること。なぜなら、支出が多過ぎても、富が増加すれば、過度ではなくなりうるからである。だが、濫費とたんなる支出とは混同すべきではない。というのも濫費は、国民や主権者の富をすべて貪りかねないからである。」(同書、100ページ)


 ケネーの文章を読んでいくと、世俗のイメージ「自由放任主義」とは違って、「国家」や「統治」などの言葉がしばしば登場することに驚く向きもあるかもしれない。だが、『経済表』以外のケネーの論文を精読すると、「農業王国」の実現可能性は「開明的専制君主」たる主権者のよき政治にかかっていると主張しているのがわかる(この意味では、「中国の専制政治」1767年と題された論文が必読の文献である)。
 ケネーは外科医としての名声が高まったあと、ルイ十五世の寵妃ポンパドゥール侯爵夫人の侍医としてヴェルサイユ宮殿の「中二階の部屋」に居住するようになったが、『経済表』もそこで構想されたものである。印刷は宮殿の地下にある印刷所でおこなわれたらしい。確かに、ケネーの経済思想には、「土地単一税」のようにラディカルな提案も含まれているが(アンシャン・レジームでは、特権階級としての「地主階級」が様々な課税を免れていたからだ)、「中二階の部屋」の住人として、彼は「開明的専制君主」による、いわば「上からの改革」を期待していたのである。この点を誤解してはならないだろう。

「経済統治は富の源泉を開くものである。富が人間を引き寄せる。人間と富とが農業を繁栄させ、交易を拡張し、工業を活気づけ、そして富を増加させ永続させるのである。経済統治は国民の繁栄と勢力との衰退を予防することができる。経済統治の有する豊饒な資力にこそ、王国の他の部分の管理の成功が依存している。経済統治は国家の力を確固たるものにし、他国民からの畏敬を勝ち取り、君主の栄光と人民の幸福を保証するのである。この統治にもとづく見解は、完璧な統治原則をもれなく包括している。この完璧な統治においては、権力はつねに保護的で慈悲深く、後見人らしく、申し分ないものとなっている。そしてこの権力は少しも無理をともなうことがなく、その範囲が拡大しすぎることもないし、不安を惹き起こすこともない。それはいたる所で国民の利害、良好な秩序、公法、主権者の力と支配を支えるのである。」(同書、107ページ)

1 詳細は、菱山泉『ケネーからスラッファへ』(名古屋大学出版会、1990年)を参照のこと。
2 「自由放任主義」と「自由主義」の違いについては、拙著『経済学はこう考える』(ちくまプリマー新書、2009年)を参照のこと。


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2013年05月13日

『ヴォルガのドイツ人女性アンナ―世界大戦・革命・飢餓・国外脱出』鈴木健夫(彩流社)

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「ヴォルガ・ドイツ人女性の苦難の物語」

 本書(鈴木健夫著『ヴォルガのドイツ人女性アンナ--世界大戦・革命・飢餓・国外脱出』彩流社、2013年)の主人公アンナ・ヤウク(1889-1974)は、ロシア・ヴォルガ地方のドイツ人移民の富裕な農家に生まれた女性である。彼女は、苦難の末にドイツへ脱出し、のちにドイツ語で『ヴォルガ・ドイツ人の運命―ボリシェヴィズムに破壊された故郷の滅亡を生き延びたひとりの在外ドイツ人の体験』(1937年)と題する手記を筆名(アンナ・ヤネッケ)で出版したが、本書はその手記をもとにヴォルガ・ドイツ人が歴史的にどのような運命を背負って生きてきたかを紹介しながら、「20世紀の人類の歴史にあって忘れてはならない現実の一端」(同書、11ページ)を映し出そうとした好著である。

 ヴォルガ地方へのドイツ人移民は、エカチェリーナ一世(1684-1727)の時代、彼らの進歩的な農業の経営と技術を採り入れるという目的で政策的に進められた。当時のヨーロッパのほとんどの国はエカチェリーナの入植誘致政策には敵対的な態度を示したが、西南ドイツの小さな領邦や帝国都市などのように国民の国外移住への禁止や規制の緩かったところでは、ロシアに新天地を求めようとする動きが出てきた。著者によれば、「長年の戦争による荒廃、兵役、圧政、飢餓、貧困、人口増加による土地不足、宗教上の不寛容などが、移住の要因となっていた。『ロシアでは自分たちと同じドイツ生まれの、美しい若い女帝が誘ってくれている』と受け取られた」という(同書、18ページ)。
 こうして、1764年以降、ドイツ西部の中央部(ヘッセンなど)から南部(ヴュルテンベルク、バーデンなど)にかけての地域を中心にロシア移住への大きな流れが生まれた。ヴォルガ地方への入植者は、短い期間(1767年から68年)に2万3千人から2万9千人にものぼったが、入植は南ロシアや黒海沿岸などの方面にも活発となり、アレクサンドル二世(1818-81)の時代の1858年には、ロシア国内のドイツ人の人口は84万3百人(総人口の1.1%)に達したという。
 アレクサンドル二世は、クリミア戦争の敗北後、「上からの改革」を強力に推し進めた皇帝として知られるが、ドイツ人移民に対しても従来の法的特権や特別行政を廃止し、兵役を課すなど、「ロシア帝国の臣民」になることを求めた。さらに、アレクサンドル三世(1845-94)の時代には、国内の非ロシア民族に対する徹底したロシア化政策が推進されるようになり、ドイツ人入植者にもロシア語が強要された。19世紀末にはロシア国内のドイツ人は177万人余に達していたというから、決して少なくない人数である。


 アンナ・ヤウクは、1889年、ヴォルガ河からかなり東に奥まったところにあるオーバードルフ村(ロシア名はクプツォヴォ)の豊かな農民の家に生まれた。時代の流れとともに土地利用制度の変化はあったが(ロシア的な共同体的土地利用から西欧的な土地利用秩序への移行)、アンナの父親は耕地と牧草地を合わせて300エーカーを所有し、さらに近くの国有地を12年契約で賃貸しながら大規模な農業経営を営んでいたというから、彼女はいわゆる「クラーク」(富農)と呼ばれる家に生まれたことになる(だが、のちのロシア革命後、クラークは追放の対象となる)。
 だが、1905年9月20日、突然の悲運がアンナを襲った。アンナの村では結婚式で新郎新婦を祝うために大空に向けて銃を発射する習慣があったが、アンナの兄ハインリッヒが発射したはずの銃がなぜか発火しなかった。兄は一度地上に向けて撃ってからやり直すようにという隣人のアドバイスに従おうとしたところ、その銃弾が庭のリンゴをもいでいたアンナの左脚に命中してしまったのである。重傷であった。アンナは、結局、左脚を切断することで命を取り留めた。それからアンナは義足での生活を余儀なくされるのである。
 左脚を失っても、アンナには夢があった。小さい頃から裁縫が得意だったので、その仕事で独り立ちしたいという夢である。両親は当初反対だったが、ヴォルガ左岸の町に住む義兄の説得もあって、その町の裁縫学校で学ぶことができた。そして、1911年、22歳で自分の裁縫学校を開くまでになる。アンナの夢は膨らみ、いつかサラトフにドイツ人家政学校を開設したいとまで思うようになった。


 ところが、1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。この戦争でドイツはロシアの敵国となり、ロシア在住のドイツ人も敵国人の扱いを受けた。しかも、若者は「ロシア軍兵士」として母国ドイツとの戦争に駆り出されたというから、二重の苦しみを味わされたことになる。アンナの兄たちも戦場へと駆り出された。
 著者によれば、大戦勃発後、ゴレムィキン首相は、「われわれはドイツ帝国に対してだけでなくドイツ人に対して戦争を遂行するのだ」と通告し、ニコライ二世(1868-1918)の勅令(1915年2月2日)に基づいて、「ドイツとの国境に近いロシア西部・南部に居住していたドイツ人に対して、強制的な財産没収、知識人(牧師、教師、法律家など)の逮捕、ヴォルガ地方・ウラル地方・シベリアへの追放が行われた」という(同書、42ページ)。ロシア西部から全体で50万人が追放されたという数字も残っている。
 しかし、ヴォルガ・ドイツ人も安泰ではなく、彼らのシベリアへの強制移住も着々と準備されつつあった。強制移住の決定は、ヴォルガ・ドイツ人を絶望に陥れた。アンナの手記には次のような文章が綴られているという。引用してみよう。

「ある日曜日、牧師たちは説教壇から、長いこと準備され今や公表された追放令を読み上げた。各家族は、衣類と必要な家具以外は一頭の家畜のみを持って行くことが許され、家と屋敷は国家の所有となる。これは残酷な仕打ちである。はじめすべての人びとは無言で跪き、祈った。しかし、つぎには絶望感が広がった。『なにゆえに私たちの祖先はこの地にやってきたのか。なにゆえにドイツに留まってくれなかったのか』。出発の日はまだ決められていなかったが、毎日、それを覚悟しなければならなかった。」(同書、43-44ページ)

 ところが、この強制移住計画が実行に移されることはなかった。なぜなら、まもなくペトログラート(旧サンクト・ペテルブルク)に二月革命(1917年)が起こり、ロマノフ王朝が崩壊したからである。だが、その後、十月革命によって、レーニンを指導者とするヴォリシェヴィキが権力を掌握し、社会主義の建設へと進み始めた。そして、今度は富裕者からの財産没収が始まったのである。ヴォルガ・ドイツ人地域も例外ではない。もちろん、革命や社会主義建設はすべて順調に進んだのではない。1921年の春頃までは、内戦(つまり、赤軍と白軍の戦い)が各地で続き、混乱がやまなかった。だが、アンナは、赤軍による略奪行為を決して忘れなかった。手記にはこうある。

「『略奪されたものを略奪せよ』というレーニンのスローガンによる財産没収は貧しい人びとの正気を失わせた。赤軍兵は、いまや突然主人となり、すべてが自分たちのものだと考え、略奪した。烏合の衆が商店や家に駆け込み、主人を脅迫することが日常茶飯事となった。人びとは、通りに投げ出された略奪品を奪い合った。かつてアンナの家で洗濯婦として真面目に働いていた女性もこの狂気にとらわれ、窓に掛けてあった衣類をひったくり、叫んだ。『いまや金持ちの衣服で私の身体を包んでみるのだ』と。」(同書、53ページ)


 財産没収が大きな痛手であったことはいうまでもないが、内戦のあと、日照り続きのために凶作となり、恐るべき飢餓がやって来た。その上、伝染病(とくにチフス)も蔓延するようになった。ロシア全体で何百万もの人が死んだにもかかわらず、「新政府は市民の生活は放置し、新しいイデオロギーの浸透こそを最大の課題とした」とアンナの目には映った(同書、64ページ)。
 なんとかせねばならない。アンナは、なんと、このまま餓死するよりはドイツへ脱出(もちろん不法に国境を越えるのである)しようという危険を伴う冒険を選択する。これは苦難の道であった。詳細は本書に譲るが、1921年10月25日に家族に別れを告げてから、なんとかフランクフルトに到着(1922年4月28日)するまで約半年もかかっている。三名の連れがいたとはいえ、義足で森の中を徒歩で国境を越えるというのがどれほど大変か、想像に難くない。しかも、ポーランドに入国できたとホッとしたのもつかの間、宿を貸してくれた家の主人が「厄介なことにならないように」警察に通報したので、突然二人の警官がやって来た(同書、77ページ)。
 その後は、各地の刑務所や収容所を転々としたが、その間、食事は乏しくシラミが出るような不衛生な部屋のなかに拘留されたので、途中で病死しても不思議ではなかっただろう。実際、同行のひとりはチフスにかかり、もう少しで死ぬところだった。もしアンナたちのためにドイツ入国に必要な書類が届かなければ、どうなっていかはわからない。アンナたちを支援したのは、ドイツにいるヴォルガ・ドイツ人や、大戦中アンナの家で世話していたドイツ人捕虜などだが、彼らはまさに「救いの神」であったと言えよう。

「やがて列車はポーランドからドイツへの国境に向かった。アンナは、窓からの景色を食い入るように眺めた。畑は豊かで、よく耕されており、なんとすばらしいことかと思った。ロシアでは1918年以来土地は十分に耕されないままであり、ヴォルガ地方からミンスクまではそのような寂しい風景が続いていた。同行してきていた看護婦が叫んだ。『いまドイツの国境を越えています』。車内には喜びの歌声がわきおこった。」(同書、88ページ)


 アンナたちがドイツに脱出したあと、ソ連ではスターリンによる農業集団化と工業化政策が急ピッチで推進されたが、1930年代のはじめ、ソ連は再び大飢饉に見舞われた。アンナの両親も兄妹も飢餓に苦しみ、財産を没収された両親はまもなく亡くなった。アンナは、飢えに苦しむ兄妹のためにドイツから何度も送金したが、「私たちはまだ生きています」という返書を受け取るたびに暗い気持になった。
 アンナがその後ドイツでどのような生活を送ったのか、手記から詳細は分からないという。しかし、著者は次のようにいう。「ともあれ、アンナの、そして彼女の家族の悲劇は、ロシアの富裕者『クラーク』すべての悲劇であったとも言えよう。このことを自覚するアンナのボリシェヴィキ批判は手厳しい」と(同書、107ページ)。もちろん、「クラーク」として生まれたひとりの女性の手記だけをもとに共産主義体制を糾弾することはできないだろう。だが、アンナの生涯は、著者もいうように、「第一次世界大戦、ロシア社会主義革命、内戦、大飢餓、農業集団化、そして再び大飢饉という、激動の時代を映す貴重な証言となっている」ことは確かである(同書、109-110ページ)。
 歴史の大きな流れを鳥瞰する仕事も大切だが、アンナの手記に描かれたようなミクロの視点も忘れてはならない。本書はそのことを語りかけているように思われる。


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2013年05月05日

『ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団』根岸一美(大阪大学出版会)

ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 ヨーゼフ・ラスカ(1886-1964)という名前を聞いて、一体どれくらいの人がどんな人物だったか、知っているだろうか。本書(『ヨーゼフ・ラスカと宝塚交響楽団』大阪大学出版会、2012年)は、ブルックナー研究家としても知られる根岸一美氏が、偶然出会った音楽家の生涯をひとつずつ掘り起こしていった、ほとんど類書のない評伝である(注1)。

 ラスカは、簡単にいってしまえば、戦前の関西で12年間にわたって音楽教育や指揮者・作曲家として活躍したオーストリア人だが、本書を読むと、日本に来るまでも、日本から離れてからも運命に翻弄される生涯を送ったことがわかる。

 ラスカはブルックナーとのゆかりも深いオーストリアのリンツで生まれた。ミュンヘン音楽院に学んだあと、市立劇場の練習用ピアニストとして修業を積み、やがてリンツ州立劇場の指揮者やプラハの新ドイツ劇場の副指揮者(首席指揮者はツェムリンスキー)もつとめるようになるが、第一次世界大戦の勃発が彼の音楽家としての人生を狂わすことになった。オーストリア軍の陸軍予備少尉としてロシア前線に送られるものの、ほどなくロシア軍の捕虜となり、終戦まで幾つもの収容所を移動させられた。だが、戦争が終わっても捕虜はすぐには解放されなかったらしく、1919年7月までイルクーツク、さらにその年のうちにウラジオストクに移動させられた。この辺の事情は資料不足で詳細にはわからないようだが、少なくともラスカの妻エレンの手記「音楽のために生きた人生! 少し前に亡くなった私の夫、ヨーゼフ・ラスカの生涯についての覚え書き」(1964年12月)を信じる限り、捕虜でありながらいろいろな音楽活動もしていたという。
 ラスカの人生は、ウラジオストクでの生活にピリオドを打ち、1923年8月、日本の横浜(エレンの手記には「ある大きなオーケストラ団体からの招請により」とあるが、具体的にどの団体であるかはわからない)に向けて旅立つことによって一変する。ところが、9月1日、日本は関東大震災に見舞われたので、最初の目的地であった横浜を避けて、9月3日、敦賀港に到着することになった。最初に宿泊するはずであった横浜のホテル(そこで彼はオーケストラ団体との契約をする予定であった)も壊滅した。ラスカは地震による災害は免れたが、これからどうしてよいのか、途方に暮れた。そのとき、彼に救いの手を差し伸べたのは、ラスカよりも少し前に宝塚少女歌劇団に雇われていたロシア人のバレエマイスター(ルジンスキー)であったという。こうして、ラスカは、ルジンスキーの紹介で宝塚音楽歌劇学校の教授に採用されるのである。

 ラスカの採用は、1923年9月16日付であったが、もちろん、宝塚少女歌劇団のオーケストラとして出発し、のちに宝塚交響楽団に発展していく音楽団体に最初から立派なメンバーが揃っていたわけではない。楽団員は生徒だけでは足りず教師も加わったが、歌劇公演の盛況に伴う多忙と練習不足で、演奏水準は高くはなかったと思われる(注2)。だが、ラスカはめげなかった。著者は、宝塚交響楽団の歴史や演奏プログラムを丹念に調べているが、プログラムはとても意欲的で、なかには、モーツアルトのト短調交響曲(第40番)のように、日本初演したものさえある。ベートーヴェンの序曲「コリオラン」、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」中の「夢」、等々に交じってラスカ自身の作曲した作品も含まれている。「こうして1924年の二回のシンフォニー・コンサートを通じて、宝塚少女歌劇のオーケストラは、クラシックの交響楽団としての第一歩を踏み出したのである」と(同書、62ページ)。


 私は前にラスカがブルックナーともゆかりの深いリンツに生まれたと述べたが、実際、ラスカはブルックナーを終生尊敬し、彼の作品の演奏にも情熱を傾けた。交響曲第4番「ロマンティック」のような今日では有名曲ばかりでなく、第1番の本邦初演も手がけている。著者によれば、演奏者は指揮者のほか68名とあるから、ブルックナーの交響曲の演奏にしては小規模である。だが、当時の日本におけるブルックナーの認知度を思えば、「演奏者たちは本当によく頑張ったと言うべきであろう」(同書、70ページ)という著者の評価も肯けよう。
 ところが、この演奏会について極めて厳しい批評を書いた人物がいたという。のちにブルックナー演奏の大家となる朝比奈隆(1908-2001)である。本筋とは関係ないのでごく簡単に触れるにとどめるが、朝比奈はそもそも宝塚交響楽団の指導体制に大きな不満をもっていたらしく、そのような感情が厳しい批評の言葉に表れたのではないだろうか(同書、71-74ページ参照)。朝比奈にしても、ブルックナー演奏についての自分独自のスタイルを確立するのはもっと先のことなのだから。
 ブルックナーを敬愛していたラスカは、さらに1935年1月26日、「テ・デウム」の本邦初演も成し遂げている。ラスカの喜びに満ちた姿は、さっそく翌日付でマックス・アウアー(国際ブルックナー協会の創設者)に宛てた手紙の中に表れている。「このすばらしい作品を日本の人々の前で演奏することがついにできて、私がどんなに嬉しく、幸せであったかは、とても言葉では言い表しえません」と(同書、77ページ)。


 ところで、日本におけるラスカの活躍を語るには、宝塚交響楽団の指揮者としてばかりでなく、神戸女学院音楽部の教員(1928年4月に採用)としての仕事にも触れなければならない。彼が教えたのは、「楽式論、合唱、管弦楽、対位法」だったが、ここにもクラシック音楽の演奏者仲間がいたので、Club Concordiaと称する音楽組織をリードし、自作を含めた演奏活動を開始した。さらに、当時神戸市山手通5丁目にあった神戸教会でも、Musica Sacraと称する催しにて新しい演奏会シリーズを開始した(1933年1月28日)。そのときのプログラムには、ラスカの挨拶文が掲載されているが、ラスカの人柄を伝えるためにも、著者の紹介から引用してみよう。

「Musica Sacraという会の名称は教会音楽だけの演奏を意図するものではありません。敬虔な内容のものもあれば一般の作品も取り上げる予定です。とりわけ中世西洋の歌曲や合唱作品に、また人々に親しまれている音楽に重点を置くつもりです。悲しみや差別を取り払ってくれる音楽の力を信じる方々には、ぜひとも私共の演奏会を支えて下さり、ご出席もいただけますよう、一同心よりお願い申し上げます。また神戸教会には会場ならびに楽器をお貸しいただき、厚く御礼申し上げます。」(同書、85-86ページ)

 ラスカは日本での音楽教育や音楽活動を通じて宗教音楽や合唱曲を積極的に取り上げたが、彼が教えた生徒たちの中にも、のちに「合唱の時間が楽しかった」と回想している者が何人かいるようである。皆に愛された教師だったことがうかがえる。


 ところが、まもなく、ラスカはまたもや運命に翻弄される。1935年8月16日、モスクワで開かれる万国音楽大会に日本代表として出席するために敦賀港を出発したにもかかわらず、10月3日、帰国のときに再入国を許されなかったのだ。どうやら「音楽を通じての赤化運動」にかかわっているという嫌疑をかけられたらしい。都合の悪いことに、ラスカ自身が、共産主義者ではないものの、その理想には少なくとも共感はしていたという「状況証拠」もあった。こうして、ラスカは、突然、日本における音楽教育や音楽活動を続ける機会を奪われたのだ。
 オーストリアに帰国はしたものの、一時は絶望のあまりドナウ河に身投げしようとも考えたらしい。しかし、音楽への情熱を断ち切れず、ようやく立ち直った。それでも、時代は彼に厳しかった。ラスカがみずから書いた手記「1942年9月から1945年6月までの私の苦難」によれば、ゲシュタポ(国家秘密警察)に三度も連行され、KDFと呼ばれたドイツ軍慰問音楽隊に強制的に加えられたあと、ユダヤ人への差別を傍観視できない言動の廉でついに収容所送りとなるのである(ラスカ自身はユダヤ人ではない)。シュトラウビングという収容所の中で彼も死を覚悟した。だが、「神はわれらに対し、別のことを望まれた」と手記にある(同書、140ページ)。幸運にも、1945年5月1日、アメリカ軍によって解放されるのだ。
 5月4日、運ばれた病院の看護婦はモラヴィアのオストラウの出身で、ラスカが劇場でカペルマイスターの仕事をしていたことを覚えていた! そして翌日の5日、およそ三年ぶりにシューベルトの楽譜を手に入れた。繰り返すが、「神はわれらに対し、別のことを望まれた」のである。


 ウィーンに帰還したあとのラスカは、遺族によれば、自宅で音楽を教えたり作曲をしたりと比較的静穏な日々を送ったという。だが、著者は、ラスカが戦後に書いた作品のなかに二つの特徴があることを鋭く指摘している。ひとつは、「反ナチ」の延長線上にある「人道主義的、さらには反戦的な傾向」であり、もうひとつは、「オーストリアの風土や人々への愛情を謳った、比較的保守的な傾向」である(同書、145ページ)。
 私がとくに関心があるのは、ひとつは、ラスカが敬愛していた作曲家への思いを、「ブルックナーを偲んで」という五声の合唱曲によって表現したことである(1956年の作曲、出版は2年後の58年)。著者によれば、ブルックナーの作品からの引用らしきものは見当たらないが、「フーガや低音の持続(オルゲルプンクト)の部分、また全体の和声の雰囲気などに、ブルックナーを彷彿とさせるものがある」という(同書、153-154ページ)。
 もうひとつは、日本を思う「七つの俳句」という、ソプラノ、フルート、ピアノのための曲を書いていることである(亡くなる4年前の1960年)。「俳句」といっても「和歌」も含まれるようだが、著者は、ラスカが藤原良房が詠んだ歌「年ふれば よはひはおいぬ しかはあれど 花をしみれば 物思ひもなし」をもとにしてドイツ語の歌詞をつけているところに「日本の昔の詩人たちのロマンティシズムに共感」している姿をみているようである(同書、157ページ)。

 本書には、ラスカが日本の音楽とヨーロッパの音楽を比較考察した興味深いエッセイの日本語訳が収録されている上、付録としてラスカの作品のCDも付いているので、資料的にも価値があると思う。もちろん、戦後の宝塚はクラシック音楽からは離れていったが、宝塚交響楽団が日本のクラシック音楽の演奏史に重要な役割を演じた事実は変わらない。音楽ばかりでなく、西洋の文化の日本への導入や受容に関心のあるひとに一読をすすめたい。


1 ブルックナー研究家としての根岸氏の著作は、『作曲家◎人と作品 ブルックナー』(音楽之友社、2006年)にまとめられている。
2 例えば、東京にはもともと山田耕筰が創設した日本交響楽協会があったが、山田派と近衛秀麿派の対立で分裂したあと、1927年10月、近衛派が「新交響楽団」(NHK交響楽団の前身)を結成した。だが、宝塚交響楽団が新交響楽団のレベルに達していたとは思えない。


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