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2010年06月02日

『新版 現代政治理論』キムリッカ,W.(日本経済評論社)

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「アメリカの政治理論のよくできた見取り図」

 この書物は『現代政治理論』と題されてはいるが、あまり正確ではないかもしれない。あくまでも英米の、というよりもアメリカの政治理論の分析と考察なのである。フランスの政治理論もドイツの政治理論もほとんど視野に入っていない。しかしローカルなだけに、アメリカの論争については、きわめて詳細に分析されている。

 アメリカではロールズが『正義論』を発表したことで、政治哲学に関する議論が急に活発になった。この書物でもこれを避けて通ることができないために、第二章で功利主義、第三章でロールズとドゥオーキンの「リベラルな平等」理論、第四章でノージックなどのリバタリアニズム、第五章でマルクス主義、第六章でサンデル、ウォルツァー、マッキンタイヤ、ベル、テイラーなどのコミュニタリアニズムと、さまざまな議論を紹介している。

 すでに有名になった論争だが、本書はきめ細かに議論を追跡しているし、著者がリベラルとしての立場を明確に示して、さまざまな議論の批判をしているために、見取り図がきわめてわかりやすいものとなっている。コミュニタリズムからの反論にたいして少し議論を修正したロールズの姿勢を不思議がるほどだ。

 著者はロールズ以降のアメリカの政治哲学の基本的な立場は、「共同体のすべての成員は平等者として処遇されるべきだ」(p.542)という「平等主義的な土台」にあり、これに基づいて、さまざまな議論の動向を判断できると考えている。これはアメリカの政治哲学の分析の土台としては適切なものであり、ぼくたちの直観的な道徳感にもふさわしいものであるために、適切な視点だと思う。

 この土台に立つことで、さまざまな議論について、直観的な支持と反感のありかを見定めながら考察を進めることができる。ときには、あらゆる客に無愛想なウエイターと、ほとんどの客に愛想よく接するが、黒人にたいしては無愛想なウェイターのどちらかがましかという「究極の選択」のようなところまで考察が入りこむこともある。「後者は総体としてみると、より多くの品位を示しているかもしれない」ものの「特定の集団にたいする態度はリベラルなシティズンシップの最も基本的な規範を脅かす」(p.467)というのである。

 最後の二つの章は、この新版になって新たに追加されたところである。第八章の多文化主義の考察はナショナルな少数派、移民集団、孤立主義的な民族宗教的集団、外国人居住者(不法滞在者のことだ)、アフリカ系アメリカ人のそれぞれの事例について、ていねいに考察されていて、かりやすい。この章ではアメリカの事情だけではなく、ヨーロッパの事情も検討されている。

 第九章のフェミニズムの理論は、その政治的な意味だけに考察を限らざるをえないので、ごく原理的なところにとどまっているのは、仕方のないところだが、少し不満を感じるところである。それでも包括的な入門書として、大いに役立つ書物になっているのは間違いのないところだろう。


【書誌情報】
■新版 現代政治理論
■キムリッカ,W.【著】
■千葉眞、岡崎晴輝【訳】
■日本経済評論社
■2005/11/10
■620,95p / 21cm / A5
■ISBN 9784818817708
■定価 4725円


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2010年04月30日

『監獄ビジネス-グローバリズムと産獄複合体-』アンジェラ・デイヴィス(岩波書店)

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「監獄ビジネスの危険性」

 グローバリゼーションの時代に、資本が国内市場で新たな市場を開発するための重要な手段の一つが、公的な領域で行われるべき業務を民営化することにあるのはよく知られていることだろう。

 公共機関は、税金で雇った公務員に担わせてきた仕事を民間の業者に委託することで、人件費を節約することができるかもしれない。また競争原理を導入することで、コストを低減できるかもしれない。さらに役所には適切な人材が存在していないかもしれない。ごく身近なところでは、最近は市立図書館の貸し出しカウンターの業務を、民間の書店に委託する例が多いようである。

 これなどは、別に専門の司書を配置して相談業務を担当させれば、それほど問題にはならないかもしれない。しかし最近では国家としてのもっとも枢要な部門でも、民営化が進んでいる。たとえば軍隊や監獄などである。この強制的な暴力を行使する業務は、国家権力のもっとも重要な任務とみなされてきたものであり、こうした分野での民営化は、きわめて大きな問題を引き起こしかねない。

 本書はアメリカにおける監獄業務の民営化に焦点をあてて、それが引き起こしているさまざまな問題を浮き彫りにする。アメリカでは一九八〇年代から監獄の大量増設が開始され、薬物の厳罰化と「スリー・ストライク」の規定によって、囚人の数は爆発的に増大した。国が率先して、監獄に収容する国民の数を増大させているのである。一九六〇年代には囚人の数は三〇万人台だったが、二〇〇七年には二三〇万人台へと一〇倍近くに増大しているのである(p.3)。アメリカの有色人種の三人に一人は、生涯のうちに一度は監獄暮らしを経験することを見込む必要があるほどだという。

 重要なのは、この監獄の業務に民間企業が関与する傾向が高まっており、それが囚人の数をさらに増大させる可能性があるということだ。大手の企業は、監獄の設計段階から関与し、監視やシステムの運営の技術を提供する。『ウォール・ストリート・ジャーナル紙』によると、ウェスティングハウスなどの大手企業は「犯罪対策設備の開発に乗り出し、国防技術をアメリカの街頭で利用できるように、機械設備の更新を進める特別部局を設置した」という(p.93)。

 また民間企業は、監獄の運営に必要な設備や物品の供給によって大きな利益をえている。「建築資材から電子装置、衛生用品にいたるあらゆる種類の商品や、給食から治療、予防医療までのさまざまなサービスを提供」(p.94)しているのであり、こうした企業は「監獄制度の恒久化に強い利害関係をもつようになった」(同)のである。

 さらに民間の監獄も増大しており、州政府はこうした監獄での業務に税金から手数料を支払っている。「これらの株式会社は、収監者をできだけ長く留め置き、施設を一杯にしておくことに強い関心を抱いている」(p.102)のは、経済の論理としてごく当然のなりゆきだろう。そこには、「産獄複合体」(p.5)と呼ばれるべきものが成立しているのである。

 民間企業が監獄業務にかかわることには、いくつもの重要な問題がある。第一に、すでに指摘されたように、企業の利潤を重視する観点からは、囚人の人数が増大すること、そして収容される期間が長くなることは好ましいことであり、これが暗幕の圧力となって、収容者の増加と収容期間の長期化を招くことになる。収監者の更生という監獄のほんらいの目的が見失われて、監禁産業となってしまうのである。

 また、こうした民間の監獄では、公的な機関に求められる説明責任というものがほとんど意識されない。そのため、国の施設以上に、内部でどのようなことが行われているかが不透明になる。一九九七年にはテキサス州のある民間の監禁施設での虐待を写したビデオが公開されて、大きなスキャンダルとなったことがあった(p.102)。さらに一九七四年に禁止されるまで、監獄では「無数の化粧品やスキン・クリームが実験として囚人に試されていた」(p.96)という。囚人は動物実験の対象となる動物と同じまなざしでみらていたのである。

 これらの事例はアメリカが中心であるが、すでにパッケージとした監禁システムが海外に輸出され初めているという。その効率の良さに、南アフリカ、トルコ、オーストラリアなどの諸国が関心を寄せているという。公共の業務を民営化したときに起こる問題について、さらに鋭い視線が向けられるべきだろう。

【書誌情報】
■監獄ビジネス-グローバリズムと産獄複合体-
■アンジェラ・デイヴィス著
■上杉忍訳
■岩波書店
■2008.9
■9,157p
■ISBN 9784000224871
■定価 2300円


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2010年04月05日

『新世界秩序批判―帝国とマルチチュードをめぐる対話』アトゥツェルト,トマス/ミュラー,ヨスト編(以文社)

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「『〈帝国〉』の構想への一つの補足」

 ネグリ/ハートの『〈帝国〉』が、フーコーの生政治の概念を新しい方向に展開させて、ぼくたちの想像力をかき立てたために、この構想を補足し、修正するための書物がまだつづいている。本書もその試みの一つであり、ドイツの社会科学者のジョバンニ・アリギと、政治学者のヨアヒム・ヒルシュの批判と、それにたいする応答で構成されている。

 アリギの批判は主として四つの点に絞られる。第一に、現在の趨勢が世界帝国の形成に向けて進んでいるのはたしかだとしても、それがすぐに実現されるかのように考えるべきではなく、「時間軸を付け加え、不確実な要素を付け加えるべきだろう」(p.22)。歴史的にみても、都市国家が国民国家のシステムに移行するには数百年がかかったのであり、帝国への以降も、一世紀以上の時間が必要となるだろう。歴史というものは、前進と交替を反復しながら進むものであることはたしかだ。

 第二に、世界的な金融危機によって、資本主義が「意図せざる自己破壊」(p.23)をもたらす可能性がある。アメリカ合衆国が世界に自国の覇権を押しつけるために、「資本主義の大きな不安定性と自己破壊の原因」(同)をもたらすことだろう。今回のサブプライム問題をきっかけとした世界的な金融危機は、この危険性を如実に示したし、アメリカだけでなく、ヨーロッパの資本主義体制そのものを揺るがしたのだった。

 第三に、「南北の格差が次第になくなるというハートとネグリの主張は明らかに誤りである」(p.12)。資本は「豊かな国々の間を移動する」だけで、「現実には相対的にわずかな資本しか豊かな国から貧しい国に流入しないのである」(p.13)。「気たるべき世界国家の社会志向をめぐる闘争は、南北間の闘争であると共に、資本と労働との間の闘争でもある」(p.24)。

 第四に、南北の格差の拡大はつづくとしても、生産活動と世界市場の地理的な移動は確認されるのであり「北米と西欧から東アジアに大きくシフトしている」(p.25)ことが認識されていない。『〈帝国〉』が執筆された頃には、中国がこれほど巨大に勢力として現実に登場することが実感されていなかったこともあって、マルチチュードの像がいささか古典的なものであったのはたしかである。

 政治学者のヒルシェは、『〈帝国〉』では国家の重要性が低下すると考えていることにたいして、国家は国際的な活動との結びつきを深めて、「国家の国際化」(p.32)が進行するために、国家はこれまでとは違った意味で重要な役割をはたすことを、次の四つの側面から指摘する。

 第一に、金融・資本市場への「個々の国家装置の依存が強められる」(p.32)ことである。しかしそれは国家の重要性を弱めるものではなく、逆に世界的な金融・資本市場における国家の重要性を高めるものである。多国籍企業といえども一つの国家に依存する必要があるのであり、「個々の国家が国境の枠に従って搾取され支配される階級の分裂の基盤であり、資本の移動の増大のために、それどころか、重要性がましたまとまりとなっている」(p.35)のである。

 第二に、国家の「脱ナショナル化」(p.33)が発生する。規制する枠組みとしての国家の力が弱まることで、「ナショナルで人種主義的な傾向が結びつくというパラドックス」(同)が顕著になる。たしかに、バルカン半島でもアフガニスタンでも、宗教と結び付いたナショナルな傾向が、国家の「脱ナショナル化」の裏返しのように発生しているのである。

 第三に、政府の民営化が進行する。公的な活動が、国民によるチェックの届かない民間企業に委託される傾向が強いことは、アメリカにおける監獄の管理などにもみられることであり、これが今後の重要な問題の一つとなるのはたしかだろう。これは「個々の国家の自由民主主義的な制度か次第に空洞化していく」(p.37)ことを意味している。

 第四に、政治のルールが国際化される傾向が強まることである。NGOを含むさまざまな国際的な組織が活発に活動して、国の政策に影響を与えていることは、ぼくたちも毎日のように目撃している事実である。

 これらの批判は、『〈帝国〉』の構想を否定するよりも、補強しようとするものである。何と言ってもこの書物のもったインパクトは巨大なものであった。毎日のニュースが、ネグリ/ハートの理論を裏付け、覆し、補足を求めている。そう思って読むと、日々の新聞記事には無数の示唆が含まれているのである。


【書誌情報】
■新世界秩序批判―帝国とマルチチュードをめぐる対話
■アトゥツェルト,トマス/ミュラー,ヨスト編
■島村賢一訳
■以文社
■2005/10/30
■187p / 19cm / B6判
■ISBN 9784753102440
■定価 2310円

○目次
第1部 帝国、世界システムと資本の国際化(帝国の発展路線―世界システムの転換;新しい世界秩序―国家の国際化;帝国とマルチチュードの構成的権力―アントニオ・ネグリへのインタヴュー)
第2部 帝国における階級闘争とマルチチュード(農民世界の薄明―帝国における階級分析のために;国家に抗する社会―クラストル、ドゥルーズ、ガタリ、フーコーについての覚書;マルチチュードの存在論的規定;マルチチュードの逃亡線―ジェノバとニューヨーク以後の短い電子メモ)


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2007年10月05日

『二十世紀の法思想』中山竜一(岩波書店)

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「法と哲学の結びつき」

二〇世紀の基本的な法学の流れを追った書物だが、法哲学というよりも、法的な思考の枠組みが、哲学に大きな影響をうけていることが実感できる。著者とともに「どんな法解釈も何らかの哲学と結びつくものであらねばならないこと、あるいは逆に、法哲学的省察という次元をまったく欠いた法解釈など空虚以外の何ものでもない」(p.217)と感じざるをえない。

第一章で紹介されるケルゼンの純粋法学は、新カント派のヘルマン・コーエンの認識哲学に着想をえて、「である」という事実と「べきである」という当為の厳格な区別に依拠したもの(p.6)だし、ファンヒンガーの「かのように」哲学の影響も明確なものである。この規範と事実の峻別こそが純粋法学の根幹であり、そこにこの法学の限界もあることになる。この区別にこだわりすぎると、「法的実践に対する無力」(p.22)がもたらされるからだ。

第二章で紹介されるハートの「一次的ルール」と「二次的ルール」の概念は、ウィトゲンシュタインのゲームの理論から着想をえたものだし、オースティンなどの分析哲学からの影響も大きい。ハートの「社会的ルールとしての法」と「内的視点・外的視点」は、ウィトゲンシュタインの『青色本』で提示した「基準」の観念を「ハートが独自のやり方で法理論へと移しかえた」(p.43)ものだという。ハートはこの方法で法学の分野においても、「言語論的転回」をもたらしたことになるが、二次的ルールを専門家だけに開かれたものと定義することになった。「その司法裁量論は裁判官の政策的な考量や準=立法的な機能を認めることによって、法的実践の自立性や自己完結性に綻びを招いてしまう」(pp.51-52)ことになったのである。

第三章で紹介されるドゥオーキンは、ハートのこうした限界を指摘しながら、法には確定された法的な基準だけでなく、法的な原理というものが存在しており、字義的な解釈だけではなく、裁判官が原理にさかのぼることで、正しき裁きを模索することができることを指摘する。そのために援用されるのが、ガダマーやハイデガーなどの解釈学の理論であり、「参加者の視点からの解釈的アプローチ」(p.89)を活用しようとするのである。

第四章では、ポストモダン法学としていくつかの哲学者の理論との結びつきが示される。アメリカで特に流行した批判法学では、「ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論、トマス・クーンのパラダイム論、リチャード・ローティのネオ・プラグマティズム、ホルクハイマー-アドルノからハーバーマスにいたるフランクフルト学派の批判理論」(p.152)だけでなく、デリダの脱構築の理論が援用されたのは有名だろう。「デリダの脱構築は法学研究や正義論に無視しえない影響を及ぼし、やがて脱構築学派は批判法学内部での一台勢力を形成するようになった」(p.156)のだった。

さらにルーマンのシステム理論は、「法システムはその外部に対して、認識論的には開放されているが操作的には閉じられている」(p.165)根拠を示すものとして利用され、「法の相対的な自立性」を擁護するためにも援用されるようになる。

本書では多数のコラムを活用することで、マルクス主義法学からフェミニズム法学にいたるまでの多様な流れを紹介しているし、巻末の読書案内も親切だ。「岩波テキストブック」の一冊としては、とくにうまくできている本ではないか。

【書誌情報】
■二十世紀の法思想
■中山竜一著
■岩波書店
■2000.3
■226p ; 21cm
■岩波テキストブックス
■ISBN 400026026X
■定価 2100円
■目次
第1章 20世紀法理論の出発点―ケルゼンの純粋法学
第2章 法理論における言語論的転回―ハートの『法の概念』
補論 ハート理論における「法と道徳」
第3章 解釈的実践としての法―ドゥオーキンの解釈的アプローチ
第4章 ポストモダン法学―批判法学とシステム理論
補論 脱構築と正義―デリダ「法の力」
第5章 むすび


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2007年09月19日

『民主主義の逆説』シャンタル・ムフ(以文社)

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「多元主義的な民主主義のための戦略」

ラディカル・デモクラシーの理論を構築するムフのこの書物の議論の中心は「政治」と「政治的なもの」の分離にあると言えるだろう。ムフはシュミットに依拠しながら、「政治的なもの」を、「人間関係に内包される抗争性の位相、さまざまな形態をとり、社会関係のさまざまな様式において組織化しようとする諸実践、諸言説、諸制度の総体」を意味するものと定義する(p.156)。これに対して「政治」とは、「敵意の馴致と人間関係のうちに存在する潜在的な抗争性の緊張を和らげること」(ibid.)である。

ムフにとってシュミットは、この人間関係に内在する権力としての「政治的なもの」を前提とし、「民主主義ががつねに包摂と排除の関係を内包していることを浮き彫りに」したという貢献をなしている(p.69)。シュミットに問題があるのは、こうした内在的な対立関係のために「自由民主主義が必然的に自己破壊に至る矛盾として提示する」(p.70)ことにある。ムフはこの対立関係を認識することは、民主主義を否定することではなく、新しい実践のための「原動力を生み出す緊張の場」として理解することにつながるべきだという。民主主義において、抗争を「闘争」(アゴーン)に変換することこそが重要だ考えるのである。

この人間関係に内在する権力関係を承認することは、フーコーが指摘したミクロな権力関係を前提とすることであり、「権力から完全に自由でありうるという幻想を放棄する」(p.36)ことを求めることである。ムフはここに「ラディカルで複数的な民主主義」のプロジェクトの根拠を求める。そしてこれが、ロールズやハーバーマスの道徳的で普遍主義的な理論への反論の根拠となる。民主主義には、抗争性は除去できない本質的な要素として内在しているのであり、「普遍的で合理的な合意を目標とすることこそ、民主主義への真の脅威」となるというわけである。

また普遍主義的な理論に依拠する自由主義的な理論は、「人類」という概念に依拠するために、「人民」という「政治的な構成の中心的な問題」にとりくむことができなくなる(p.69)。自由主義の普遍主義的な理論と概念構成は、民主主義にとっては一つの「危険」(ibid.)をもたらすものだとムフは考える。

それよりも権力関係を認識しながら闘争に向かい合うことが民主主義には必要だというのが、ムフの闘争モデルである。これは民主主義にとっては「存在条件そのもの」(p.159)なのであり、「対立の承認と正統性」を認識し、それを権威主義的な秩序で解決しようとしないところにあるのは、たしかだからだ。

ムフはこうした闘争モデルを提起するにあたって、ヴィトゲンシュタインを利用するが、これは少し遠過ぎるような印象をうける。ヴィトゲンシュタインの著作で、「ホッブズ以来の自由主義理論のなかにある普遍主義化と同質化の様式を断ち切る」(p.94)のは、無理なのではないか。「ざらざらとした大地」の必要性の呼び掛けを、ロールズの普遍主義に対置するのは、かなり文脈からずれてしまうからだ。

それよりもレヴィナスとデリダの他者論、ならびに友愛論や来るべき民主主義論を利用するのほうが、はるかに展望が開けるのではないだろうか。それでもハーバーマスの討議的な理性の理論と、ロールズの『政治的リベラリズム』の背後に潜む道徳主義的な言説の批判は、まっとうなものだ。ムフが指摘するように、「討議民主主義の支持者は、平等な人びとの自由な推論からは単なる暫定協定ではなく道徳的な合意が帰結すると理解するため、そこに政治決定をめぐる合理的合意の不可能性が伴うことを受け入れない」(p.138)のだ。

ムフが指摘するように、ハーバーマスと対立するロールズの「政治的構成主義を討議倫理の言語で再定式化する」ことも可能であり、これに関しては、ハーバーマスとロールズの距離はそれほど遠くないのである。ただしだからといって『正義論』におけるロールズの骨太の試みの価値が低くなるわけではない。


【書誌情報】
■民主主義の逆説
■シャンタル・ムフ著
■葛西弘隆訳
■以文社
■2006.7
■224p ; 20cm
■ISBN 4-7531-0248-3
■定価 2500円


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2006年12月23日

『ダール、デモクラシーを語る』ロバート・ダール(岩波書店)

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「デモクラシーの可能性と不可能性」

ロバート・ダールはアメリカの政治哲学者で、デモクラシーの理論の専門家といっていいだろう。ぼくがこれまで読んだのは『ポリアーキー』の一冊で、すっかり過去の人かと思っていたが、今回イタリアで編まれたインタビューは、九・一一のテロの直後に行われたものであり、まだまだアクチュアルな理論家であることを知らされた。

ダールのポリアーキーの理論は民主主義の理論であるが、デモクラシーではなく、ポリアーキーという言葉を使うのは、現代の民主主義のありかたか、デモクラシーという用語の発祥の地である古代ギリシアの民主制とは、一つの点だけで異なるものとなっているためだ。ダールが示す民主主義の必要条件は次の五つだ。

(1)メンバーが決定に参加する平等で現実の機会をもっていること
(2)メンバーの投票が同じ重みをもっていること
(3)メンバーが問題となっている方式とそこから生じる帰結を理解するために必要なあらゆる情報をえる十分な機会を与えられること
(4)メンバーが動議の案件について最終的なチェックができる条件があること
(5)国家の直接の統治下にあるすべての成人に、参加の権利が平等に認められていること(p.14-15)

ここで最初の四つの条件は、古代のポリス、すくなくともアテナイでは認められていたのであるが、第五の条件だけは該当しない。女性と奴隷と居留外国人(メトイコイ)は政治に参加できなかったのだ。ダールはデモクラシーという用語が作られた古代ギリシアに敬意を表するために、デモクラシーという語はギリシアのポリスに残しておいて、第五の条件もまた満たす政治制度をポリアーキーと呼ぼうとしたのだった(p.20)。ただしダールも認めるように、この語は一般的に普及するものとはならなかった。

現代のデモクラシーは、このすべての成人の参加という条件のために、代表制が必要となる。古代の直接民主主義が実行できる規模ではないのである。さらに現代政治の特徴となるのは、こうした代表制の一つの帰結として、人々を組織する政党や組合などのさまざまな制度が登場することであり、こうした制度なしでは政治参加が実現できないことである。ダールはこうした制度の重要性に注目する。こうした「中間的な構造」なしでは、多元性を確保できないのである。

「現代の代表制デモクラシーがもつ基本的な特徴の一つは、市民が実際に政治生活に参加しなければならない場合に必要になるかもしれない政党や利益集団やその他の結社を連帯して作る権利が保証されていることです」(p.22)。この中間的な構造は、アメリカの独立革命の当初には否定的に考えられたものだった。「アメリカの憲法制定者の考え方では、個人の優位性は非常にはっきりしており、政党や党派はいかなるものであれ、公共的利益とは矛盾するものでした」(p.26)。いまでも利益集団はいかがわしい目でみられることがあるが、ダールはこうした集団は必要であり、民衆の政治参加に役立つものだと考えるのである。

ダールのこうした考え方は一環しており、世界国家や地域連合にたいする反感にもそれが表現されている。カントもまた多元性を維持するためには、世界国家は危険なものとなることを警告していたが、ダールもこうした世界国家では、デモクラシーは姿を消してしまうと懸念する。EUなどの地域連合においても、それぞれの国家の主権が実質的に奪われることで、民主主義と国民の政治参加は困難ななっていくと考える。中間的なレベルで層が厚く、多様なものであるほど、デモクラシーの可能性が高まるというわけである。

同じことは、国際的な機関についても指摘されている。たしかにIMFなどの国際機関では、責任者のアカウンタビリティが国民や大衆に向けられたものではないために、デモクラシーの原理そのものが実現されず、決定が恣意的なものとなりやすいのである。

ダールが指摘するように、こうしたデモクラシーの崩壊は、国際機構などではなく、暴力の突発やテロなどによっても生み出される。「ある程度までの暴力に対しては、デモクラシーは持ちこたえられますが、それを超えれば不可能になるような臨界点」(p.78)があるのである。国中で暴力が蔓延すれば、デモクラシーが不可能になるのは確実であり、一回のテロでも、「テロとの闘い」の名目のもとで、統治者はアカウンタビリティを免れるような政策を採用することができるからだ。デモクラシーの可能性と不可能性をみきわめようとするダールのまなざしは鋭い。

解説の馬場氏が指摘しているように、民主主義の可能な条件という問題を基本的な思考軸に据えたダールの考察は広い範囲に及ぶものであり、「政治学はこのようなものであり得たし、今もあり得る」(p.191)ことを実感させられる書物である。


なおダールの邦訳書にはほかに次のようなものがある。
□アメリカ憲法は民主的か / ロバート・A.ダール [著] ; 杉田敦訳. -- 岩波書
店, 2003
□デモクラシーとは何か / R.A. ダール [著] ; 中村孝文訳. -- 岩波書店, 2001
□統治するのはだれか : アメリカの一都市における民主主義と権力 / ロバート・A・ダール著 ; 河村望, 高橋和宏監訳. -- 行人社, 1988
□経済デモクラシー序説 / ダール [著] ; 内山秀夫訳. -- 三嶺書房, 1988
□ポリアーキー / ロバート・A.ダール著 ; 高畠通敏, 前田脩訳. -- 三一書房,1981
□規模とデモクラシー / ロバート・A.ダール, エドワード・R.タフティ著 ; 内山秀夫訳. -- 慶応通信, 1979
□民主主義理論の基礎 / ロバート・A.ダール著 ; 内山秀夫訳. -- 未来社, 1970
□プランニングの政治 / Robert A. Dahl [著] ; [中村陽一, 本部修士訳]. -- 経済企画庁地域経済問題調査室, 1962. -- (経企地域資料 ; 第17号)
□政治・経済・厚生 / R.A. ダール, C.E. リンドブロム [著] ; 磯部浩一訳. -- 東洋経済新報社, 1961

【書誌情報】
■ダール、デモクラシーを語る
■ロバート・ダール著
■ジャンカルロ・ボセッティ編
■伊藤武訳
■岩波書店
■2006.2
■199p ; 19cm
■原タイトル: Intervista sul pluralismo.
■4000237675
■定価  2300円


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2006年02月26日

『寛容について』マイケル・ウォルツァー(みすず書房)

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「寛容の政治的戦略」

寛容の問題は、異なる共同体が出会ったときから発生する原初的な問題だ。それが寛容という概念で捉えられるようになったのは近代以降だろうが、他なる共同体から訪れた「他者」をどのように待遇するかという問題は、古代のギリシア以来、歓待の問題として重要な政治的、社会的な意味をそなえてきた。

アメリカに住むユダヤ人としては、みずからを寛容の主体としてよりも寛容の対象と感じて生きてきたウォルツァーにとっては、寛容は切実な問題だった。ウォルツァーはロールズやハーバーマスのように手続き的に考察するのではなく、まず歴史的な見地から類型的な考察する方法を選んだ。ウォルツァーが提示する寛容の類型は、ペルシアやローマなどの多民族で構成された帝国における寛容、国際的な社会における寛容、多極共存・連合(コンソシエーション)、国民国家、移民社会である。

多民族の帝国としてはぼくたちにはローマ帝国がなじみだろう。ユダヤ人がどのように寛容に処遇されたかは、弾圧されたキリスト教徒との対比でよく知られている。分割して統治せよというのはローマ帝国の巧みな戦略であったが、逆に言えばこのような方法で統治されることは、平和のためにも統治される民族の利益に適うものでもあったのである(p.31)。

国際社会は、国家が自然状態にあることを考えると、異例なまでに寛容が認められた状態であるとウォルツァーは考える。「寛容は主権の本質をなす特徴であり、主権の望ましさの重要な理由でもある」(p.38)のである。ときには南アフリカのアパルトヘイトに対する経済制裁のように、主権を超えた非寛容が発揮される場合もあるが、国家は他の国にたいしてきわめて寛容だということができるだろう。帝国と国際社会では寛容の対象は集団である。

多極共存・連合で考えられているのは、スイスやベルギーのように複数の民族で一つの国家を形成する場合である。スイスのように成功している事例も、ボスニアのように破滅にいたった事例もあるが、複数の民族が協議によって一つの国家を形成する上では、寛容は不可欠な原理となる。この寛容の対象となるのは基本的に集団であるが、個人の権利を擁護するためのシティズンシップが存在することが重要な特徴である。

国民国家で寛容が重要な問題となるのは、マイノリティーに対してである。フランスではイスラム教徒のスカーフ問題で、「寛容の限界」があらわになったが、私的な生活での寛容を認めながら、公的な場でそれをどこまで認めるかは、現代の国家にとってはこれからますます切迫した課題となりつづけるだろう。国民国家においては、寛容の対象となるのは国内のマイナーな集団であるとともに、個々の国民とその権利でもある。

第五の類型は移民社会である。アメリカとカナダ、そしてオーストラリアが念頭におかれている。移民たちはこの社会において独特なエスニック・グループを形成し、そのアイデンティティを維持しつづける。ここでは「寛容は根本的に脱中心化された形態をとり、万人が自分以外の全員を寛容にあつかわなくてはならない」(p.57)のである。アメリカに住むウォルツァーとしては、この移民社会におけるハイフン付きのアイデンティティが気にいっているようである。イタリアン・アメリカンのように。この移民社会では、国民が個々の権利をもつ主体として寛容の対象となるとともに、その二重のアイデンティティにも配慮されるという意味で「最高度の寛容」(p.61)の可能性が生まれる。

この類型はカテゴリー的にはあまり適切な分類が行われているとは思えないが、寛容の内容という点ではウォルツァーが考えていることはよく示されている。本書ではこの着想に基づいて、さまざまな複雑な事例と、実際的な係争点が考察される。フランス国内で行われている陰核除去は、どこまで寛容されるべきか(p.101)、宗教的な記号を公共の教育の場にもちこむことがどこまで許されるべきか。

これらの難問は、たとえばスカーフをアイデンティティの印と考えている女生徒と、集団の圧力のためにかぶりたくないスカーフをかぶらされている女生徒の対比で考えてみると、その難しさがはっきりとしてくる。そしてこれは寛容の問題であると同時に、政治的な支配の戦略的な争いの問題でもある。

そのことはアメリカの中絶論争でもはっきりとしてくる。中絶を認めることは、母親に子宮の権利を認めることであり、中絶を禁止することは、母親ではなく社会が女性の子宮を支配する権利があると主張することだからだ(p.105)。寛容の概念のうらがわには政治的な戦略がはりついていることは、同時多発テロ以降のアメリカの政治が顕著に示したことでもあった。

書誌情報
■寛容について
■マイケル・ウォルツァー
■大川正彦訳
■みすず書房
■2003.12
■205,9p ; 20cm
■4-622-07075-8
■2800円


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2005年11月24日

『人権について』ジョン・ロールズ他(みすず書房)

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「人権をめぐる名講義集」

この書物はアムネスティ・インターナショナルが毎年オクスフォード大学で開催している連続講座の一冊で、一九九三年の講義を集めたものだ。毎年開催されているこの連続講座はかなり読み応えのあるもので、今回はいかにもアムネスティらしい人権というテーマで考察する。

最初のS・ルークスの講義「人権をめぐる五つの寓話」は、さまざまな政治理論における人権の概念の位置をさぐるもので、開講講座としてふさわしい。ルークスは五つの政治国を分類しながら、人権を認める国と認めない国がある背景を考察する。功利主義に依拠する功利国(ユーティリタイア)では、最大幸福を重視する幸福計算がすべてであり、人間に人権というものを認める余地がない。次に伝統と共同体における生活を重視する共同国(コミュニタリア)では、人権という概念が社会的な伝統に反する意味をそなえているために、人権を重視しない。マルクス主義の無産国(プロレタリア)では、階級闘争を重視するために、普遍的で平等な人権というものも無視される。これらの三つの政治哲学では、人権の概念は基本的に不要なのである。

人権がその存在意味をもつ国としてはまず、リベラルな自由国(リバータリア)がある。この国では個人のもつ所有の自由、市場の自由などが重視されるのであり、人権もまた優先される。ただしこの国では既存の社会的な不平等を是正する手段が欠けるという問題がある。次に平等国(イガリタリア)では、すべての人々の平等な権利を認めるために、人権がもっとも確立された国となる。ただし個人のアイデンティティの違いをどう処理するか、経済的な成長と平等の関係はどうなるかなどと困難な問題がでてくるのである。ルークスは「平等主義のプラトー」(p.48)を維持しながら、現代の人権をめぐる問題を解決していくことを唱えるのである。

この講義でルークスが主にアメリカの政治哲学のシーンに依拠しなから、どのような論争を背景にしているかはすぐにわかるだろう。ロールズあり、テイラーあり、マッキナンタイアーあり、センありといったところだ。こうした背後の論争を考えながら読むとおもしろいだろう。

次のロールズの「万民の法」では、無知のヴェールの理論が作られた根拠がはっきりと語られていて、わかりやすい。ロールズはアリストテレス以来の正義の理論の伝統を背景に、新しい正義の概念を構築するために、普遍的なものに依拠しない方法を探し求めたのだ。ライプニッツやロックの学説は、「神の権威であったり、神の理性であったり」(p.55)、ともかくある普遍性なものに依拠する。

しかしロールズは「いかなる場合にも権威をもつ普遍的な第一原理」から出発するのでは、対話のうちで相手を説得することのできるリベラルな正義の理論と「万民の法」は作り出せないと考える。そして相手に、「自由かつ平等な市民の代表として当事者にとっての公正な条件とみなしうるもののモデル」を作ることを誘いかける(p.65)。そのためには自分も相手も、社会のうちでどのような地位にあり、どのような財産をもっているかがまったく分からないと想定して、最善のリベラルな社会を作るための条件を考えようとするのである。

この無知のヴェールという表象装置を適用することで、万民が守るべき最低の規定について合意を調達できるとロールズは考える。その最低の規定は7件ほど列挙されているが(p.68)、これはカントの言うように、悪魔でも合意できる条件として提示されているわけだ。現代の国際社会において発生している問題は、この方法で合意された最低規定ではとうていカバーできないものとなっているが、合意の獲得の方法としてはよく理解できるものだろう。

K・マッキノン「戦時の犯罪、平時の犯罪」は、フェミニズムの視点から、人権について考察する。フランス革命の人権宣言において「人間」という語に女性が含意されていなかったことについてはすでに長い研究があるが、マッキノンは人権の概念が考えられるところでは、つねに男性の人権が暗黙のうちに前提されていることを衝く。「人権の原理は経験に基づいていますが、それは女性の経験ではありません」(p.104)。アウシュヴィッツで女性が虐殺されたとき、それは女性としてでなく、ユダヤ人として記録される。女性であるかとどうかは問題の本質にはふれないと考えられるからだ。娼婦の死体が川に浮かぶと、それは女性だから犯罪の対象になったのだと軽視される。娼婦の死が「人間の受難の記録から完全に除外されます」(同)というのは言い過ぎだと思うが、「女性に起こることは、一般化するには特殊すぎるか、特殊とみるには一般的すぎる」(同)という指摘は鋭い。

あとリチャード・ローティの「人権、理性、感情」は、カントの根源悪の概念に依拠して、プラトンの『国家』に登場するトラシュマコスのように、悪そのものを擁護する人間は「怪物的」であるが、他の人間はたんにそれに感染しているだけだという二分論からスタートする。そのため最後は感情教育の重要性という迷路に入り込んでしまう。

それからリオタールの「他者の権利」はすばらしい。沈黙することの重要性について、他者を沈黙させることの犯罪性について、語る能力をもたないインファンスについて、これほどの短い文章のうちで雄弁に語る文章は、リオタールのものとしても久し振りだ。ハーバーマスの対話的理性の理論をリオタールは批判したが、じつはハーバーマスとリオタールは深いところで通うところがあるのではないか。


書誌情報
■人権について : オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ
■ジョン・ロールズ他〔著〕
■スティーヴン・シュート,スーザン・ハーリー編
■中島吉弘,松田まゆみ共訳
■みすず書房
■1998.11
■304,6p ; 20cm
■4-622-03667-3
■2900円

掲載講義の一覧
□人権をめぐる五つの寓話 S.ルークス
□万民の法 J.ロールズ
□戦時の犯罪、平時の犯罪 C.マッキノン
□人権、理性、感情 R.ローティ
□他者の権利 J-F.リオタール
□自然法の限界と邪悪のパラドック A.ヘラー
□多数決原理と個人の権利 J.エルスター


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