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2010年10月18日

『サルトルの世紀』レヴィ,ベルナール=アンリ(藤原書店)

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「フランスの戦後思想の転変」

 ヴェルナール・アンリ・レヴィの長大なサルトル論。一世代下からみたサルトル論であるが、ほとんど同時代と言ってもいいほどに、長い時期をともに生きてきた哲学者による論であって、実感がこもっていて読み応えがある。関連資料も細々と集められており、同国人による議論の立てやすさが際立っている。サルトル後の哲学者や文学者にとって、サルトルは気になる人物でありつづけたのだろう。

 サルトルのすごさは、哲学者であり、文学者であり、ジャーナリストであり、文芸批評家であり、政治的な発言者であり、「演劇、シャンソンの歌詞、講演、ラジオ放送、映画」(p.78)などのあらゆる分野に手を出し、しかも「征服すべきすべての戦場を制圧した唯一の人物」(p.82)だということである。しかしそれが同時に弱点にもなる。「あらゆる分野で二番手であるが、一番手となれる分野がない」(同)ということでもある。あまりに高い名誉を獲得した反動でもあるかのように、サルトルは急速に忘れられてゆく。実存主義、古いねということになってしまうのである。

 それでもサルトルの最大の業績は、文学の分野に哲学を持ちこんだことにあっただろう。文学において哲学し、哲学において文学する、そのような奇怪な営みができる哲学があり、文学があるということは、なかなか想像できない。「『実践理性批判』が小説に書き替えられた」(p.94)などということは考えられない。試みても、たんなる例証を提供するだけのことだろう。しかしサルトルの「偉大な独創性の第一の点」(同)がそこにある。

 レヴィはサルトルがこの偉業を達成するために二つのモデルが必要であり、しかもこの二つのモデルを克服する必要があったと指摘している。ジィドとベルクソンである。サルトルは文学理論においてジィドを模倣する。「ジィドの現代性、形式における大胆さ、鏡の戯れや入れ子構造への愛好、どの小説作品も〈自己反論〉を含んでいるそのありかた、視点の多様化と多数の焦点設定という技法」(p.135)。サルトルはアメリカの作家から学んだと主張するが、実はこれらのすべてジィドの手法であり、これを採用したとレヴィは考える。

 しかしジィドを克服しなければ、サルトルは誕生できない。そのためにサルトルはドス・パソス、ジョイス、セリーヌ、カフカなどを活用する。「自分がサルトルになることを妨げているジィドを追い払うという課題であり、これは息の長い仕事」(p.144)になるだろう。

 さらにサルトルはベルクソンを悪魔払いしなければならない。かつては「ベルクソン思想は、まるまる一つの時代の思想、文学、政治史の乗り越え不可能な地平線であった」(p.181)からである。レヴィはサルトルにおける「ベルクソン主義の影響に目を向けなければ、彼の哲学的な冒険を何一つ理解できない」(p.182)とまで極言する。そのために利用されるのがドイツ哲学である。「サルトルの抱いた直観の大部分は、最初はベルクソン的な直観であって、それをサルトルは後にハイデガーやフッサールの様式に基づいて定式化し直した」(p.189)というのが、彼の診断である。

 さてこのようにして遺産を悪魔払いしたことで、サルトルがサルトルとして登場するが、レヴィはサルトルの内に二人のサルトルがいると考える。第一のサルトルとは『嘔吐』『存在と無』『ユダヤ人問題』の若いサルトルであり、ペシミストであり、自由であり、共同体というものに反感を抱き、係争の思想家であり、不和の思想家である。これは「悲劇的な」(p.410)思想家であり、全体主義を正面から否定する思想家である。

 第二のサルトルは『弁証法的理性批判』に始まる後期のサルトルであり、共同体のうちではじめて自由が実現すると考え、全体主義的な主張を展開するサルトルである。このサルトルは第一のサルトルを正面から否定する。しかしこれは転向のようなものではない。第二のサルトルのうちにつねに第一のサルトルが存在しつづけているからである。サルトルがどれほど否定しようと、「いずれにせよ、このサルトルは確かにいるのだ。永遠に若いまま、真の若さのままに」(p.409)。

 レヴィはこの第二のサルトルが、捕虜収容所での共同体体験によって誕生したことを指摘する。これは同時代の多くの人々、ボーヴォワールが、トゥルニエが指摘していることでもある。ヒューマニズムを否定するサルトルが、捕虜収容所から戻ってきたら、ヒューマニストになっていたのである。

 レヴィは第二のサルトルが犯した過ちをきびしく評価する。しかしその愚かしいサルトルのうちに、「永遠に若いまま」のサルトルを見る視線は、サルトルへの密かな愛情を示すものだろう。800ページを越える記述のうちに、フランスの戦後思想の転変のありかたも読み取ることのできる楽しい書物となっている。

【書誌情報】
■サルトルの世紀
■レヴィ,ベルナール=アンリ【著】
■石崎 晴己【監訳】
■藤原書店
■2005/06/30
■909p / 19cm / B6判
■ISBN 9784894344587
■定価 5775円


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2010年10月04日

『ならず者たち』デリダ,ジャック(みすず書房)

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「デリダの理論の深みをうかがわせる」

 帯によるとデリダの「晩年の主著」である。この書物は二つの講演で構成される。一つはスリジィの恒例の一〇日間にもおよぶ講演とセミナーでの長文の記録「強者の理性--ならず者国家はあるか」であり、もう一つは「来るべき啓蒙の〈世界〉--例外、計算、主権」である。

 最初の講演ではデリダは、アメリカ合衆国が一部の諸国を告発するために使った「ならず者国家」という概念をとりあげて、そのいかがわしさを暴き出す。ここまではチョムスキーと同じだと思われるかもしれないが、問題は政治的なものに限られない。主権と理性の問題であり、生の自己保存としての免疫と、それが生そのものを滅ぼしてしまう自己免疫、「死の欲動」(p.299)の問題でもある。アクチュアルな政治的な問題を哲学の根本問題にまで引き戻す手腕は、アガンベンとデリダの二人の思想家の際立ったところだろう。

 第二の短い講演では、時間的な制約もあって、デリダは「電報的でも綱領的でもある」(p.293)形で、これまで論じてきたさまざまな問題を要約的に、手際よく提示する。その要約の巧みさのために、読者は目がくらくらするところもあるが、逆に引用に耐える短い文章も多い。第一論文では時間の余裕がありすぎて(デリダはそれでも足りない、足りないと言い続けるが)、迂回路をたどる時間が長すぎるので、引用できるところはあまりない。この迂回が楽しいのもたしかであり、デリダのセミナーは楽しかっただろうと想像する。

 書評では電報的なものをさらに印象批評的に取り上げることしかできないのは残念だ。最初の論文では、民主主義が自己免疫を引き起こし、自殺する寸前にいたる事例を考察する。何よりも範例的なのは、アルジェリアだ。民主主義を否定するイスラームの政党が民主的な選挙で圧勝することが確実になった時点で、軍がクーデターを起こし、選挙を無期延期したのだ。

 これは「民主主義の名における、民主主義に対するあらゆる侵害の典型的な出来事」(p.74)と言えるだろう。アルジェリア政府は、「開始された選挙過程は、民主的に民主主義の終焉に導くだろうと考えた。そこで彼らは、みずから民主主義を終焉させることの方を選んだのである。彼らは主権的に決定したのだった、民主主義を、民主主義にとって善いことのために、そしてその手当てをするために、最悪の、もっとも街全体の高い侵害に対してそれを免疫化するために、少なくとも暫定的に停止することを」(同)。これは「自己免疫的な自殺」(p.75)だった。

 電報的な第二論文から自己免疫の簡単な定義を復習しておこう。「ある生体の中で、他者の攻撃的な侵入に対する免疫を当の政体に与えているもの、まさに当の主体が自発的に破壊しうる」(p.234)ことである。民主主義を守るために民主主義を殺すアルジェリア、主権を守るために主権の根源となるものを殺すクーデター、ならず者国家を攻撃するという名目で、みずからならず者国家となるアメリカ合衆国。アメリカ行政府は、「悪の枢軸」に対抗すると称して、民主的な自由を「不可避的に、また否認不可能な仕方で制限しなくてはならない。そして、それに対しては誰も、どんな民主主義者も本気で反対することができない」のである(p.86)。

 それだけではない。「もっとも暴力的なならず者国家、それは、みずからその第委任者と自称する国際法を、みずからその名のもとに語り、みずからその名のもとに、いわゆるならず者国家に対する戦争を開始する国際法を、みずからの利害が命ずる場合には毎回無視して来た国、侵犯し続けている国、すなわちアメリカ合衆国である」(p.189)。

 そしてアメリカ合衆国と同盟する国も、これに対抗する国も、すべての国も国益の名において、主権の至高性の名において、国家理性の名のもとで、同じように振る舞うのであるから、「もはやならず者国家しかなく、そしてもはやなず者国家はない。この概念はその限界に」(p.205)到達したのであり、「この終焉はつねに、初めから、近かったのである」(同)。なおデリダはこの主権性の理論の背後にキリスト教の神学が存在することを示唆する。「民主的と呼ばれる体制においてさえ、主権の根底には存在-神論がある」(p.299)。しかしこの論文ではそこまでは議論は進められない。

 ところで自己免疫は、もっと普遍的な形で言い換えれば、アポリアでもダブルバインドでもある。「アポリア、ダブルバインド、および自己免疫的過程は、単なる同義語ではないけれども、それらはまさしく共同に、そして負担=責任として、内的矛盾以上のもの、決定不可能性を、……内的アンチノミーをもっている」(p.78)のである。この概念は、ここまで敷衍してしまうと、何にでも使える便利な道具のようになってしまうのはたしかだ。

 後は電報的にいくつか。デリダはクローニングを好まないが、治療的なクローニングは否定する根拠がないと考える。それはそもそもすべての個別性には反復という要素が不可避的に存在しているのであり、それを無視して個性の貴さを、一つの生命の特異性をうたっても空しいからだ。「反復・複製は、生産・再生産とまったく同じように、文化・知・言語・教育の条件を保証しているのである」(p.278)。人間の特異性に基づくクローニング反対論は、「遺伝子主義ないし生物学主義を、つまりは根深い動物学主義、根底的な還元主義を、みずから反対しているはずの公理系と分かち合っている」(同)ことになる。

 しかし自己免疫が絶対的な悪であるわけではない。出来事がその名に値するものであるならば、「出来事は、絶対的な免疫も何の補償もなしに、自らの有限性のなかで地平なしに、剥き出しの傷つきやすさにふれなければならない。その場合には、他者の予測不可能性に対峙して立ち向かうことは依然としてできない、あるいはもはやできないのである。その点からみれば、自己免疫性は絶対的な悪ではない。自己免疫性は対象にさらされること、すなわち到来することのないものない者に、したがって計算不可能にとどまるほかないものに、さらされることを可能にするからだ。もし絶対的な免疫性があるばかりで自己免疫性がないとしたら、もはや何も起こらないだろう」(p.290)。レヴィナスのアレルギーの議論と通底して、デリダの理論の深みをうかがわせる境地である。

【書誌情報】
■ならず者たち
■デリダ,ジャック【著】
■鵜飼哲、高橋哲哉【訳】
■みすず書房
■2009/11/20
■327p / 19cm / B6判
■ISBN 9784622073734
■定価 4620円

●目次
一 強者の理性(ならず者国家はあるか?)
1 自由な車輪
2 放縦と自由―悪知恵に長けた=車裂きにされた者
3 民主制の他者、代わるがわる―代替と交代
4 支配と計量
5 自由、平等、兄弟愛、あるいは、いかに標語化せざるべきか
6 私が後を追う、私がそれであるならず者
7 神よ、何を言ってはならないのでしょう?来たるべきいかなる言語で?
8 最後の/最低のならず者国家―「来たるべき民主主義、二回回して開く
9 ならず者国家、より多く/もはやなく
10 発送

二 来たるべき啓蒙の「世界」(例外、計算、主権)
1目的論と建築術―出来事の中性化
2 到来すること―国家の(そして戦争および世界戦争の)諸々の終焉に


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