« 『貨幣の哲学』エマニュエル・レヴィナス(法政大学出版局) | メイン | 『都市空間の地理学』加藤政洋/大城直樹編著(ミネルヴァ書房) »

2010年06月09日

『経済学の再生―道徳哲学への回帰』セン,アマルティア(麗沢大学出版会)

経済学の再生―道徳哲学への回帰 →bookwebで購入

「資本主義と倫理」

 この書物でセンが語るのは、きわめて明確で簡略なことである。経済学には、アリストテレス以来の「善き生」を求める倫理的な伝統と、インドのカウティリヤの『実利論』以来の「工学的な」問題処理に専念する伝統がある。ただし現代の経済学は、近代初期の統計データを利用したウィリアム・ペティ以来の「工学的」なアプローチ(p.21)を重視する傾向がある。

 この工学的なアプローチには利点もあった。たとえば飢餓と飢饉という「悲劇的な問題」では、倫理的なアプローチよりも、「一般均衡理論が焦点をあてる相互依存関係のパターン」(p.26)を用いることで、食料があっても飢餓が起こる事実を解明することができたのである。

 しかしこの工学的なアプローチには、いくつかの重要な難点がある。第一は、人間が合理的に行動する存在であることが前提とされ、それが現実のものとみなされていることである。しかし実際の生活を分析してみれば明らかなように、人間は経済的な合理性だけで行動するものではない。

 人間にはさまざまな性格の人物が存在し、合理性という想定は狭すぎるものである。また人間が合理的に行動することを認めた場合にも、合理性には経済的な合理性だけではなく、さまざまな合理性が存在する。「他に取りうる行動パターン」(p.30)を考慮にいれる必要がある。「実際の行動を特定するために合理的行動の仮定だけでは不十分である」(同)。

 また経済的な合理性を追求することが、「自己利益の最大化」(p.34)と同じことだと見なされているのも問題である。「他のすべてを排除して、自分自身の自己利益を追求すること」(同)だけが合理性とみなされているが、この根拠はない。グループの利益が優先されて、個人の利益は重視されない場合もあるし、追求されている目的が「非自己的な目標」(p.35)であることもあるだろう。

 この自己利益を追求する合理的な人間は、ホモ・エコノミクスと呼ばれて、アダム・スミスの主張だとされているが、アダム・スミスはその『道徳感情論』を読んでみれば、はるかに道徳的な見地を採用しているのは明らかである。スミスはストア派の哲学に共鳴しており、「大いなる共同体のために、いつの時も自らの小さな利益を犠牲にすることを少しもいとわなかった」(p.42)人々を称賛しているのである。

 現代の厚生経済学は、「自己利益の最大化」と「効用に基づく基準で計った社会的な成果」(p.59)だけを原理としているが、効用を個人のあいだで比較することは、個人AとBの幸福を比較することで、これは「無意味なこと」とされたために、パレート最適だけが基準として残ってしまった。

 パレート最適は、「他人の効用を減らさずには誰の効用も増やせない社会状態」(p.61)である。これによると、極貧の人が悲惨に暮らしていても、裕福な人の効用を減らさなければ、極貧の効用を増やせない場合には、パレート最適状態であり、これを動かす理由がなくなる。パレート最適は「灼熱の地獄で熱く焼けただれている」こともあるのである(p.61)。

 「パレート最適を唯一の判断基準とし、自己利益最大化行動を経済的選択の唯一の基礎とする厚生経済学は、小さな箱の何かに押し込められたも同然だから、もはや、大したことを言える余地などほとんどなくなってしまった」(p.61)というセンの指摘は疑いようがないだろう。センはアローの一般可能性原理にもとづいた社会的選択の理論には大きな難点があることをすでに証明しており、この原理が前提としている自由で平等な社会というものは、実際には仮説にすぎないことを明らかにしたのだった。

 だから厚生経済学が前提とする基本的な考え方を修正してゆく必要とセンは指摘する。まず「自己中心的な厚生」の原理では、人間の厚生はその人個人の消費だけに依存すると考えるが、他者への共感や反感なども考慮にいれるべきだろう。「自己厚生の目標」の原理では、個人の目標は自己の厚生の期待値を最大にすることが目標とされているが、他人の厚生も人生においては重要な要素となる。さらに「自己目標の選択」の原理では、各人は目標を追求することで選択するとみなされているが、孤独に行動する人はいないのであり、他者との相互依存関係を無視すべきではないのである(p.129-130)。

 センのこうした議論はきわめてまっとうなものであり、「経済学の再生」(サブタイルト)が「道徳哲学への回帰」を必要としているのは明らかなことだろう。資本主義の初期のスミスの時代のように、経済学が倫理学と密接に結びついていた時代の思考方法を取り戻すことが、経済学について考えるためにも、資本主義について考えるためにも、必須のことだと思う。

【書誌情報】
■経済学の再生―道徳哲学への回帰
■セン,アマルティア【著】
■徳永澄憲、松本保美、青山 治城【訳】
■麗沢大学出版会
■2002/05/09
■220p / 19cm / B6判
■ISBN 9784892054488
■定価 2415円

●目次
第1章 経済行動と道徳感情(二つの起源;成果と弱点;経済的行動と合理性 ほか)
第2章 経済的判断と道徳哲学(効用の個人間比較;パレート最適と経済的効率;効用、パレート最適、厚生主義 ほか)
第3章 自由と結果(豊かな生、行為主体、自由;多元性と評価;完全性の欠如と過剰な完全性 ほか)


→bookwebで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/3804