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2010年06月07日

『貨幣の哲学』エマニュエル・レヴィナス(法政大学出版局)

貨幣の哲学 →bookwebで購入

「貨幣の正義」

 マルクスからは「マンモンの神」と呼ばれて嫌われた貨幣であるが、これが物物交換の不便さを解消する文明の工夫の一つであることは間違いない。しかしレヴィナスが指摘するように、貨幣の経済学や社会学は多いとしても、「貨幣の形而上学」はほとんど存在しない。この書物はレヴィナスの貨幣論をまとめたものであり、彼の思考の粘着力をよく示している。ほとんど同じテーマから離れずに、どこまでも螺旋状に広がりながら思考をつづける能力は、見習いたいものである。

 レヴィナスの定義では、貨幣は「所有の所有」(p.66)である。これは経済学では購買力と呼ぶ概念なのだが、それが所有という語に言い換えられることで、概念的に膨らみがでてくる。貨幣は他者の所有しているものを入手することができる能力であり、貨幣を所有していることは、他者の所有を所有することである。

 しかし人々はこの貨幣を所有するためには、働かなければならない。そしてその最悪の労働形態は、賃金労働である。マルクスは賃金労働は労働の販売ではなく、労働力の販売であることを指摘したが(そこから余剰価値の搾取という概念が生まれる)、賃金労働をするあいだは、その身体と人格は買い手に占有されているであり、レヴィナスが指摘するように、それは人間を一時的に売却することにほかならない。所有を所有するためには、他者に所有されるという「地獄」を経由するしかない場合も多いのである。

 これは国家と法によって定められたシステムである。ただし貨幣は貨幣を呼ぶというように、多額の貨幣の所有者のもとには楽々と貨幣が蓄積されるのであり、貨幣はこうした所有の所有であると同時に、貪欲の追求の手段と化し、モリエールの喜劇に描かれる守銭奴においては、目的そのものとなってしまう。これが「貨幣の両義性」(p.67)である。

 これだけなら、誰でも言えることである。レヴィナスはここに第三者という概念をもちこむ。わたしは神に命じられて、隣人を愛する。これは善なる行為である。しかしこの善なる行為は隣人に向けられるだけであって、このわたしの隣人愛から排除されている人々にたいしては、わたしは無視し、無言の暴力をふるっていることになる。愛する隣人とみしらぬ他人のあいだに、わたしは格差をつけているからだ。

 これを否定しようとしてすべての人を愛するといったところで、ただ愛が希釈されるだけのことで、そこに正義は生まれない。レヴィナスはここに貨幣というものの価値をみいだす。「他人に責任をもつことは、その命に責任をもつことであり、かくしてほかならぬその物質的な欲求に責任をもつことであり、かくして貨幣を与えることである。このとき貨幣は、そのすべての意義を取り戻す」(p.103)。貨幣は第三者にふるった暴力を償う正義の役割もまたはたすのである。

 貨幣はまた数量化することである。たとえば「目には目を」というとき、目を傷つけた相手には、つぐないをしなければならない。この法律の文面では自分の目を与えることになっているが、それでは相手はいかなる償いをうけることはない。ただ復讐心が満たされるだけであり、こうむった被害は、手つかずにそのままである。そこで貨幣による償いが求めれるのである。命を除いて、あらゆるものは数量化することができ、数量化されるべきである。それがいかに冷酷で非人間的なことと思えようとでもである。正義は数量化を要求するのである。

 手短に語ろうとすると、論理が飛躍しているように思われるだろうが、倫理的に極限までつきつめて考えるレヴィナスの思考は、ときに飛躍をみせながらも、その脈絡をきちんと補填して、ぼくたちに新たな思考へと誘う。「プレリュード」と題した序文は、レヴィナスが本文で語っていることを語りなおしているだけなので、読み飛ばされてもいいかもしれない。ただし文末のレヴィナスの著作において貨幣の概念が考察されている場所を列挙したリストは有益だろう。


【書誌情報】
■貨幣の哲学
■エマニュエル・レヴィナス
■法政大学出版局
■2003/08
■195, / 20cm / B6判
■ISBN 9784588007798
■定価 2625円


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