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2010年06月24日

『解読ユダの福音書』ジャック・ファン・デル・フリ-ト(教文館)

解読ユダの福音書 →bookwebで購入

「一級のミステリー」

 これは二〇〇六年五月に初めてコプト語の原文が発表された『ユダの福音書』の本文とその読解である。新約聖書の伝統的な外典には、このような文書は存在しない。「裏切り者」のユダを書き手あるいは主人公とする福音書があるわけがないのだ。そして予想にたがわず、これはグノーシス文書である。

 それは冒頭近くで、イエスが自分は誰かという有名な問いをすると、ユダはこれに「あなたは、不死なる者すなわちバルベーローのアイオーンから来られ、そしてその名を私が口から発するのがふさわしくない、そのお方からあなたは発してきたのです」(p.88)と答えていることからも明らかだろう。この固有名と名詞は、グノーシスの重要な名だからだ。

 しかしこれまで発見されてきたグノーシス文書と違うのは、これがあくまでも新約聖書の他の福音書と同じように、キリスト教の聖書の物語の内部に、まるで象眼されるようにはめこまれているということである。しかもユダの福音書としてである。

 著者は、この福音書とその他のクノーシス文書を読み比べることで、欠落の多いこの文書の特異なありかたを浮き彫りにしてみせる。そしてこの解読によって明らかになったはのは、このクノーシス文書がいかに巧みに新約聖書の世界を嘲笑し、みずからの世界の卓越性を誇示しているかということである。

 特に圧倒的なのは、この書物においてキリスト教の教会の制度そのものが愚弄されていることである。冒頭近くでイエスは使徒たちがパンで感謝の祈りをしているのをみて笑う。使徒たちは「私たちがしているのは正しいことはではありませんか」(p.87)と尋ねる。するとイエスはこの儀礼で「あなた方の神が賛美をうけるでしょう」(p.88)と答える。

 使徒たちは不思議に思って、イエスは「私たちの神の息子ではありませんか」(同)と尋ねる。するとイエスはこれを否定し、使徒たちが自分を知ることはないと断言する。パンを使った聖餐の儀式は、わたしの神ではなく、「あなたがたの神」のための儀式であり、自分は「あなたがたの神」の息子ではないと指摘するのである。これは教会の儀礼の意味を正面から否定することになる。

 次にイエスのユダ以外の一二使徒とユダがみた夢が語られる。使徒たちは、一二人で礼拝をしているところを夢見る。しかし困ったことに、この司祭たちは罪人なのである。「自分の息子を捧げる者たちがおり、また、自分の妻を捧げ、賛美し互いにへりくだる者たちがおり、また男と寝る男たちが」(p.90)いるのである。するとイエスはこの一二人の司祭が使徒たちであり、彼等は罪人であり、「彼らは私の名によって、恥ずべき仕方で、実りのない木を植えた」(p.91)と叱り、「祭壇の前であなたがたが誤らせた群衆」を犠牲と捧げていると非難するのである。キリスト教の教会がイエスの名において、人々を間違った道に導いているというのである

 何よりも傑作なのは、十字架で死んだのはイエスではないというキリスト教の内部の仮現論よりも巧みにイエスの死を処理しているところだろう。もちろんこの文書でも死刑になるのは、イエスの仮の身体である。ただしイエスはたんに天に戻るのではなく、この世の支配者たちにイエスを死刑にしたと信じさせることで、世界の終末をもたらすことになっているのである。そのためにもユダは仮のイエスを死刑にさせる必要があるのであり、そのために「裏切り」が必要とされるのである。この福音書はユダのその決意と犠牲をたたえる書物となっているのである。

 著者の分析は詳細で、まだ多数の裏付けとなる解読がある。最後までハラハラとして書を置くことができない一級のミステリーの味わいのある書物として、ぜひ一読を勧めたい。世の支配者を嘲笑するときのイエスの不気味な「笑い」について知るだけでも読む価値があるだろう。


【書誌情報】
■解読ユダの福音書
■ジャック・ファン・デル・フリ-ト/著
■戸田聡/訳
■教文館
■2007/06
■290, / 20cm / B6判
■ISBN 9784764266667
■定価 2520円


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