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2010年06月28日

『アガンベン入門』ゴイレン,エファ(岩波書店)

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「初の入門書」

 アガンベンの仕事もかなりまとまってきて、彼の思想を紹介する書物が登場し始めた。英語版でも五冊から六冊はある。これはドイツの研究者による入門書である。雑誌『現代思想』の特集号(二〇〇六年六月号)を別とすると、日本では初の入門書だろう。

 著者はまずアガンベンの思索の方法を「狩猟」の比喩で考える。「アガンベンはさながら〈狩猟者〉のように、さまざまな時代の多様な由来をもったテクストの草むらに息をひそめて、引用の機会を待ち受けている。しかもその引用は、専門的学問の外部では行きあたることがないようなもの、つまり専門家の手によるテクスト読解のなかでしかお目にかかれないような傑出したものなのだ」(p.15)。なかなか言い得て妙である。

 第二章の文学と哲学の関係を探った章は、「現勢態と潜勢態」の節が、アガンベンに固有の潜勢態の概念を詳しく紹介していて、参考になる。重要なのは「非能力は能力の反対ではない」(p.52)という発想だという。「非能力はある固有の力をもっているのであり、その力そのものである。こういう想定は、アガンベンが人間的共同体の形式について、それをつい実体的に定義してしまう伝統的な理解とは違った仕方で、もっと深いところが考察しようとするときに重要な意味をもってくる」(同)。ナンシーの『無為の共同体』につながる重要な考え方だ。これはカフカ解釈にもつなげて考えられるだけでなく、「主権のパラドックス」(p.97)の結び目をどう断ち切るかとも関わるのである。

 アガンベンの思想の紹介としては、第三章の「ホモ・サケル・プロジェクト」が圧巻だろう。ここでは例外の論理、剥きだしの生、ホモ・サケル、強制収容所などの重要な政治的な概念が詳しく紹介される。ドイツの観念論とロマン派に詳しい著者の独自の考察も加わって、興味深い部分である。

 例外の論理については、アガンベンがシュミットを持ち出す前に、古代のギリシアのピンダロスの作品を引用しながら、「法治国家が主権の問題を法に内在する問題の次元で解決しようとする試みは、すでに古代のテクストのなかにあったと見ている」(p.85)ことは、この問題が国家そのもののうちに含まれていることを示すものであり、いろいろと考えさせられる。

 第五章の「エコノミーの系譜学」の章は、最近のアガンベンのエコノミーと神学の結び付きに関する考察で、ごく短いものだ。この問題を集中的に展開した『王国と栄光』などは、まだ最近の書物である。「アガンベンは宗教と密接に結びついた主権性という政治学的パラダイムと並べて、経済学を第二のハラダイムとして設定した」(p.196)のであり、この問題の考察は、これからの大きなテーマとなるだろう。オイコノミアは伝統的に「神の配剤」として、神学的に考えられたきた概念であり、これがアガンベンの今後の展開で、近代のエコノミーとどうつながってゆくか、興味深々というところである。

 注でも批判や他の論文の紹介が行われていて、役立つ。たとえばアガンベンはベンヤミンの『歴史の概念について』のうちにパウロの手紙が隠れていることを『残りの時』で指摘しているが(p.101)、それについて注ではマンフレート・シュナイダーの論文では「ベンヤミンノテクストのなかにパウロ書簡からの引用が隠されているというアガンベンの見解に対して、反証を突きつけている」(p.216)と指摘する。さて、どんな反証なのか、つい知りたくなる。


【書誌情報】
■アガンベン入門
■ゴイレン,エファ【著】
■岩崎稔、大澤俊朗【訳】
■岩波書店
■2010/01/26
■243,9p / 19cm / B6判
■ISBN 9784000220576
■定価 3570円


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2010年06月24日

『解読ユダの福音書』ジャック・ファン・デル・フリ-ト(教文館)

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「一級のミステリー」

 これは二〇〇六年五月に初めてコプト語の原文が発表された『ユダの福音書』の本文とその読解である。新約聖書の伝統的な外典には、このような文書は存在しない。「裏切り者」のユダを書き手あるいは主人公とする福音書があるわけがないのだ。そして予想にたがわず、これはグノーシス文書である。

 それは冒頭近くで、イエスが自分は誰かという有名な問いをすると、ユダはこれに「あなたは、不死なる者すなわちバルベーローのアイオーンから来られ、そしてその名を私が口から発するのがふさわしくない、そのお方からあなたは発してきたのです」(p.88)と答えていることからも明らかだろう。この固有名と名詞は、グノーシスの重要な名だからだ。

 しかしこれまで発見されてきたグノーシス文書と違うのは、これがあくまでも新約聖書の他の福音書と同じように、キリスト教の聖書の物語の内部に、まるで象眼されるようにはめこまれているということである。しかもユダの福音書としてである。

 著者は、この福音書とその他のクノーシス文書を読み比べることで、欠落の多いこの文書の特異なありかたを浮き彫りにしてみせる。そしてこの解読によって明らかになったはのは、このクノーシス文書がいかに巧みに新約聖書の世界を嘲笑し、みずからの世界の卓越性を誇示しているかということである。

 特に圧倒的なのは、この書物においてキリスト教の教会の制度そのものが愚弄されていることである。冒頭近くでイエスは使徒たちがパンで感謝の祈りをしているのをみて笑う。使徒たちは「私たちがしているのは正しいことはではありませんか」(p.87)と尋ねる。するとイエスはこの儀礼で「あなた方の神が賛美をうけるでしょう」(p.88)と答える。

 使徒たちは不思議に思って、イエスは「私たちの神の息子ではありませんか」(同)と尋ねる。するとイエスはこれを否定し、使徒たちが自分を知ることはないと断言する。パンを使った聖餐の儀式は、わたしの神ではなく、「あなたがたの神」のための儀式であり、自分は「あなたがたの神」の息子ではないと指摘するのである。これは教会の儀礼の意味を正面から否定することになる。

 次にイエスのユダ以外の一二使徒とユダがみた夢が語られる。使徒たちは、一二人で礼拝をしているところを夢見る。しかし困ったことに、この司祭たちは罪人なのである。「自分の息子を捧げる者たちがおり、また、自分の妻を捧げ、賛美し互いにへりくだる者たちがおり、また男と寝る男たちが」(p.90)いるのである。するとイエスはこの一二人の司祭が使徒たちであり、彼等は罪人であり、「彼らは私の名によって、恥ずべき仕方で、実りのない木を植えた」(p.91)と叱り、「祭壇の前であなたがたが誤らせた群衆」を犠牲と捧げていると非難するのである。キリスト教の教会がイエスの名において、人々を間違った道に導いているというのである

 何よりも傑作なのは、十字架で死んだのはイエスではないというキリスト教の内部の仮現論よりも巧みにイエスの死を処理しているところだろう。もちろんこの文書でも死刑になるのは、イエスの仮の身体である。ただしイエスはたんに天に戻るのではなく、この世の支配者たちにイエスを死刑にしたと信じさせることで、世界の終末をもたらすことになっているのである。そのためにもユダは仮のイエスを死刑にさせる必要があるのであり、そのために「裏切り」が必要とされるのである。この福音書はユダのその決意と犠牲をたたえる書物となっているのである。

 著者の分析は詳細で、まだ多数の裏付けとなる解読がある。最後までハラハラとして書を置くことができない一級のミステリーの味わいのある書物として、ぜひ一読を勧めたい。世の支配者を嘲笑するときのイエスの不気味な「笑い」について知るだけでも読む価値があるだろう。


【書誌情報】
■解読ユダの福音書
■ジャック・ファン・デル・フリ-ト/著
■戸田聡/訳
■教文館
■2007/06
■290, / 20cm / B6判
■ISBN 9784764266667
■定価 2520円


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2010年06月21日

『正義の他者―実践哲学論集』ホネット,アクセル【著】(法政大学出版局)

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「ホネットのポストモダン論」

 フランクフルト学派の第三世代のホネットの粘り強い思考が記録された一冊である。時事的な論文も含まれるが、注目は前著の『承認をめぐる闘争』での考察を展開した「正義の他者」と、文明がもたらす害悪に注目した社会学的な思想系列をていねいにたどった「社会的なものの病理」だろう。

 「正義の他者」では、ポストモダンの哲学運動が最初は理性批判を中心とするものであったのにたいして、「今日では倫理学的転回と言われるほどに、倫理学と正義の問題に力を注ぐようになった」(p.145)ことに注目する。それはポストモダンの倫理学が、「非同一的なもの(すなわち他者)と適切にかかわりあうことによって初めて人間の正義の要求が満たされる」(p.146)と考えるようになったからである。

 たとえばリオタールの『文の抗争』の中心的なテーマは、「後続の文が先行する文にたいして〈不正〉を行っている」(p.151)ことを指摘することにある。というのは、両立することができない言説が存在するからである。たとえば「労働者たちの想像を絶する労働条件への抗議」も、市場社会における「経済効率性の言語」の中では場をもつことができず、沈黙せざるをえないのである。こうした断絶はナチスの強制収容所で収容された人々と看守の間でも発生したのだった。

 ただしホネットはこの断絶は指摘されたままであることはできず、ある「規範的な性格をもった道徳理論の展開」(p.153)を要請するが、この道徳理論の展開は、ハーバーマスの討議倫理学の枠組みにおいて実現可能であると考える。リオタールはハーバーマス激しく批判しているが、リオタールがこうした道徳理論を展開しようとすると、ハーバーマスの倫理学を援用しなければならなくなるというわけである。

 ハーバーマスの倫理学が示したのは、「道徳的な行為コンフリクトを了解志向的に解決することに役立つべき実践的討議において、すべての主体が強制されることなく自分の利害関心と要求とをはっきりと表明てき平等なチャンスを持たなければならない」(p.167)ということであり、この場が存在しなければ、言説の対立は片方の沈黙で終わるしかないからである。

 これにたいしてレヴィナスの影響のもとで正義の問題を考察し始めたデリダでは状況が異なる。デリダが友愛の概念を考察しながら明らかにしたのは、他者との関係が非対称な場合と対称的な場合があるということだった。友愛の関係のうちにある他者は、「同情と好意という情動的なレベルにおいて私に非対称的な義務を訴える」(p.171)と同時に、「道徳的な人格としてすべての他者と同じように尊重されることを求める」のである。

 これは友愛の絆において、他者が愛情と道徳的な人格という二つの異なる次元において登場するということである。愛情の関係においては、「いつくしみ」を求める非対称な存在であり、道徳的な人格の関係においては、尊重を求める対称的な存在なのである。この二つの次元が錯綜した友愛の絆においては、デリダはこの問題を政治的に解決しようとはしない。

 しかし法の問題の考察においてはさらに一歩を進めて、この二つのパースペクティブのどちらも、「正義」の問題であることを指摘するようになる。そしてどちらの正義もそれ自体で自足することができず、「正義はつねに正義そのものを越え出てゆく」(p.178)ことを指摘するのである。これは個別的な場面においてはケアを要請し、普遍的な場面においては平等を要求すると考えることができるだろう。

 ホネットはデリダがここで「カント以来の正義の伝統において引かれている境界線をすでに大きく乗り越えてしまっている」(p.180)と指摘する。そしてそれにつづく論文「アリストテレスとカントの間」「正義と愛情による結びつきの間」「愛と道徳」などは、この問題を『承認をめぐる闘争』の延長線上でさらに検討したものである。

 巻頭の「社会的なものの病理」の論文では、文明のもたらした堕落と疎外を指摘したルソーに始まる社会哲学の歴史を「堕落」という観点から追跡したものであり、ニーチェのニヒリズム批判がその一つの帰結であること、ドイツの社会学の基礎を築いたジンメルとウェーバーがこの問題意識を継承していることを指摘する。そこからルカーチ、フランクフルト学派、アレント、そして現代の社会哲学の現状にいたるまで展望する。目配りのきいた論文で、お勧めである。

【書誌情報】
■正義の他者―実践哲学論集
■ホネット,アクセル【著】
■加藤泰史、日暮 雅夫ほか訳
■法政大学出版局
■2005/05/25
■399,50p / 19cm / B6
■ISBN 9784588007934
■定価 5040円

●目次
1 社会哲学の課題(社会的なものの病理―社会哲学の伝統とアクチュアリティ;世界の意味地平を切り開く批判の可能性―社会批判をめぐる現在の論争地平での『啓蒙の弁証法』;“存在を否認されること”が持つ社会的な力―批判的社会理論のトポロジーについて ほか)
2 道徳と承認(正義の他者―ハーバーマスとポストモダニズムの倫理学的挑戦;アリストテレスとカントの間―承認の道徳についてのスケッチ;正義と愛情による結びつきとの間―道徳的論争の焦点としての家族 ほか)
3 政治哲学の問題(道徳的な罠としての普遍主義?―人権政治の条件と限界;反省的協働活動としての民主主義―ジョン・デューイと現代の民主主義理論;手続き主義と目的論の間―ジョン・デューイの道徳理論における未解決問題としての道徳的コンフリクト ほか)


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2010年06月17日

『シリーズ心の哲学〈2〉ロボット篇』信原 幸弘【編】(勁草書房)

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「認知科学の可能性と行き詰まり」

 『心の哲学』のシリーズ二冊目『ロボット篇』である。ただしロボットが直接に登場するのは、フレーム問題を取り上げた第三章「ロボットがフレーム問題に悩まなくなる日」だけであり、認知科学のさまざまなテーマを考察した書物と考えてよい。

 序章「認知科学の主な流れ」(信原幸弘)では、これまでの認知科学の主要な理論を紹介する。コンピュータが情報を処理するために心的な表象を必要とし、そうした表象を「構文論的な構造をもつ」(p.4)ものとして処理する「古典主義」的なアプローチ、これを批判して、心は神経のネットワークであると考える「コネクショナリズム」、すべての認知は表象を必要とせず、力学系の観点から考察できると考える「力学系アプローチ」の順である。

 第一章「心は(どんな)コンピュータなのか」(戸田山和久)は、この最初の二つの理論体系を考察する。筆者の立場としては、コネクショナリズムを古典主義から擁護し、コネクショナリズムの仮説である「思考の言語」仮説を採用することは「ナンセンス」(p.60)であると主張する。この仮説では古典主義と同じように、言語を表象とみなす考え方に依拠しているが、「自然言語がコミュニケーションの道具であることは、それが表象であることを意味しない」(p.67)のであり、これを除去して理論をもっと首尾一貫したものとすべきだという。ヴィトゲンシュタインの議論を思わせるようなところもあり、面白く読める。

 第二章「表象なき認知」(中村雅之)は、第三の力学系のアプローチを擁護する議論である。このアプローチでは、コンピュータが表象を処理すると考えた場合には、きわめて多量の処理が必要となる作業が、力学系の装置を利用することで節約できることを指摘する。その実例がワットの調速機である。対象を認識するために、すべての情報を入手するのではなく、生態の免疫のように、それとぴったりあてはまるものをみつけてやればよいとするカップリングの理論は、ルーマンのシステム論を想起させて、魅力的な考え方である。

 第三章の「ロボットがフレーム問題に悩まなくなる日」(柴田正良)は、有名なフレーム問題を紹介しながら、コレクショニズムガこの問題を解決するために「きわめて有望である」(p.155)と指摘する。筆者はフレーム問題で前進するために必要なのは、「感情の機能の徹底的な洗い出し」(p.168)と、「マクロなレベルで捉えられた機能が、実際の中央システムにとっていかなる作用となって実現されるのか、という具体的なメカニズムの探求」(同)であると指摘する。ロボット工学が発展すれば、フレーム問題はいつか冗談のように考えられるのかもしれない。

 第四章の「覚知する心」(染谷昌義)は、ギブソンが開発した生態学的な認知の理論を紹介しながら、道具には「先人たちの知的成果が織り込まており、過去に達成された知性を」使用者に授けるという意味で、「潜在的な知性」(p.194)と考える理論を紹介する。道具は人間の理性が物となったものだというのはヘーゲルの卓見であり、これはまっとうな考え方と言うべきだろう。身体もまた知性の塊であるのだ。

 第五章「存在の具体性」(河野哲也)も同じように道具を「変形する身体の延長としてとらえる」(p.231)ことから、世界内存在としての心について考察する。これについて手がかりとなるのはメルロ=ポンティの身体論であり、この理論が認知科学ときわめて近い知見をそなえていることは、すでに多くの論者によって確認されている。それぞれの論文は、認知科学の可能性と行き詰まりをまざまざと示していて興味深い。


【書誌情報】
■シリーズ心の哲学〈2〉ロボット篇
■信原 幸弘【編】
■勁草書房
■2004/07/20
■280,8p / 19cm / B6判
■ISBN 9784326199259
■定価 2940円

□目次

序論 認知哲学のおもな流れ(信原幸弘)
1 心はコンピュータ──古典主義
2 古典主義への批判
3 心は神経ネットワーク──コネクショニズム
4 心は脳を超えて──環境主義

第一章 心は(どんな)コンピュータなのか──古典的計算主義 VS.コネクショニズム(戸田山和久)
1 計算主義とは何か、それは何を問題にしているのか
2 古典的計算主義の認知モデル
3  認知研究の三つのレベル
4 コネクショニズムの認知モデル
5 古典主義者VS.コネクショニスト
6 コネクショニズムと思考の言語

第二章 表象なき認知(中村雅之)
1 表象と計算に伴う問題
2 力学系的認知観
3 力学系の反表象主義
4 折衷論
5 折衷論への批判
6 表象なしでどうやるか
7 結論

第三章 ロボットがフレーム問題に悩まなくなる日(柴田正良)
1 ロボットは苦悩する(あるいはフレーム問題)
2 精確な規則にしたがった記号操作(あるいは古典的計算主義)
3 すべての表象が同時に重なり合って(あるいはコネクショニズム)
4 俺たちは天使じゃない(あるいは自然知性)

第四章 拡張する心──環境─内─存在としての認知活動(染谷昌義)
1 計算の一部は頭の外で行われる
2 認知活動における道具の役割
3 環境操作としての認知活動──認識的行為
4 構造化された環境
5 環境を構造化する道具としての言語──問題変換の集団的達成
6 三つの問題

第五章 存在の具体性──世界内存在と認知(河野哲也)
1 はじめに──世界内存在としての心
2 材質・サイズ・モルフォロジー
3 道具のなかの心
4 心の立脚性
5 巨大な身体としての習慣
6 ユニヴァーサル・デザインの方へ
7 心のカテゴリー
8 心に閉じ込めること、心を閉じ込めること
9 おわりに──存在の具体性

読書案内(信原幸弘)
あとがき
事項索引
人名索引


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2010年06月14日

『マキァヴェッリの生涯』ロベルト・リドルフィ(岩波書店)

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「マキアヴェッリ読解の参考に」

 マキアヴェッリの同時代にフィレンツェで活躍していて、マキアヴェッリとも仲のよい名門貴族だったリドルフィ家の末裔が、愛情をこめて著した詳細な伝記である。ときに歴史家の枠組みを越えて、当時の教皇や貴族たちや仲間たちがマキアヴェッリに援助の手を差し伸べなかったことを、歯がみするように悔しがっているが、それも愛嬌というものだろう。なにしろ著者にとっては、「今日では、マキアヴェッリの不幸はフィレンツェの自由の崩壊よりも重大なことだ思われる」(p.187)ほどなのだから。

 著者は強い愛着の思いをもって詳細な調査を行っているだけに、文脈まで細かに解読しながら、マキアヴェッリの行動と思想を解説する。彼の外見は次のように描かれる。
  頭は小さく、顔は骨ばっていて、おでこは高かった。目は実に生き生きとし、引き締まった薄い唇にはいつも冷たい笑みが浮かんでいるように見えた。彼の肖像画は、数枚、残っているけれどよい出来のものはない。かすかな、あいまいな微笑の意味を構図の上でも、色の上でも引けでる画家がいたとしたら、レオナルドだけだっただろう。レオナルドがマキアヴェッリに出会ったのは、マキアヴェッリが順境にあった時なのだけど(p.20)。

 フィレンツェの書記官だったマキアヴェッリは交渉の名人だった。そしてことあるごとに、外国の高官との交渉に派遣された。マキアヴェッリは相手をじらし、しかも相手を怒らせず、それでいて決断の遅いフィレンツェ本国政府からの吉報を待ちつづける。そして状況を鋭く読み取り、臨機応変に対処する。それでいて交渉の相手から好かれることが多い。そしてフィレンツェの都合のよいようにうまく説得できることも何度もあった。しかし何といっても、小さな都市国家一つで、ローマ教皇、フランス王、神聖ローマ帝国皇帝などと、不利な立場で交渉しなければならないのだ。多くの交渉が失敗に終わる。しかしこうした現場で研ぎ澄まされた政治的な感覚は鋭く、それが後に著書に生かされることになる。

 マキアヴェッリが失墜して田舎に籠っているころに、友人だったフィレンツェのローマ大使から質問されたことがった。スペイン王が突然フランスと休戦協定を結んだのである。大使はその意味がどうしても理解できない。しかしマキアヴェッリは王たちの個性からものの考え方まで熟知している。そこですぐに鋭い分析を示す。その書簡は筑摩の全集の六巻で読むことができるが、当時の大使は納得しなかったらしい。後に事態が明確になってから、大使は唸ることになる。そして「田舎に閉じ込められて人の顔も見られなくなり」、情報も会話も断たれた暗闇の中にいても君主たちの思考と将来の行動を鋭く見ぬくこの観察者に感服し、かれを称えた(p.204)。

 このような洞察こそが、マキアヴェッリの著書を生き生きと活気づけているのである。著者は、マキアヴェッリが「自分の才能を賭けてみたくなほとんどすべての分野で頂点に達した、あるいは顕著な足跡を残した」(p.248)と高く評価する。比類なき政治著作家であり、歴史著作家であるだけでなく、たった一つ書いた物語(『ベルファゴールの物語』)は並外れ傑作だった。たった一つの喜劇についても、著者はイタリアに「かつて存在しなかった最良の作」(同)と称賛する(ぼくはマキアヴェッリの文学作品にはそれほど感銘はうけないけど)。

 マキアヴェッリの政治の仕事は結局は失敗に終わった。しかし政治の実務が彼に何よりも鋭いまなざしを与えたのであり、この現実的なまなざしこそが、政治哲学の分野でまったく新しい視点を作りだすのに役立ったのである。著者も指摘するように、マキアヴェッリの書簡は状況を活写する力があり、この鋭いまなざしの働きかたを現場で示してくれる貴重な文献である。

 150ページを越える原注、90ページ近くの訳注、100ページを越える人物解説が用意されている。マキアヴェッリの著作や書簡を読むときに、これを隣においておけば、本文では語られていない多くの事情を読み解くことができるだろう。値段が張るが、この時代とマキアヴェッリを深く理解したいと思われたら、図書館にリクエストするなどの方法で読むだけの価値はある。

【書誌情報】
■マキァヴェッリの生涯
■ロベルト・リドルフィ著
■須藤祐孝/訳・註解
■岩波書店
■2009/03/27
■808p / 21cm / A5判
■ISBN 9784000021661
■定価 18900円

●目次
初期の教育と体験
書記官ニッコロ・マキァヴェッリ
初の使節
アルプスの彼方への初の使節
服属都市の叛乱とヴァレンティーノ公の進撃
ヴァレンティーノ公への使節
ローマへの初の使節
フランスへの二度目の使節、『十年史』第一部、市民軍
マキァヴェッリとフィレンツェの出来事、ユリウス二世への二度目の使節
ドイツへの使節、ピーサ戦争と再制圧
マントヴァとヴェローナへの使節、フランスへの三度目の使節
終幕
「苦悩するマキャヴェッリ」
サンタドゥレーアでの「無為」―『ディスコルツィ』と『君主論』
愛と苦悩
文学での気晴し―『ロバ』、『マンドゥラーゴラ』、『ベルファゴール』
『カストゥラカーニ伝』と『軍事・戦争論』、官印つきフィオリーニ「金貨」での『歴史』
フランシスコ修道会への使節
歴史家ニッコロ・マキャヴェッリ
歴史家、喜劇作家ニッコロ・マキャヴェッリ
「歴史家、喜劇作家にして悲劇作家」ニッコロ・マキャヴェッリ
六〇歳
最期
武装せざる預言者
「神の散文」


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2010年06月11日

『都市空間の地理学』加藤政洋/大城直樹編著(ミネルヴァ書房)

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「現代の都市を読み解く」

 本書は都市の地理学、とくに都市の空間についての地理学の入門書であり、さまざまな理論がわかりやすく説明されている。最初の部分では、都市の同心円的な発展という古典的な理論を提示したシカゴ学派の都市の社会学、パリのパサージュの空間とその空間が作りだしたフラヌール(散歩者)を考察したベンヤミンの都市の歴史哲学的な考察、盛り場を中心とした生活空間としての都市を構想した石川栄耀の都市計画の理論が提示される。

 この三つの古典的な都市空間の理論を土台として、そのさまざまな発展形が描きだされる。現代的にみて興味深いのは、都市がグローバリゼーションの中で新たな重要性を帯びてきていることである。シカゴ学派のアーネスト・ワトソン・バージェスが論集『都市』に発表した論文「都市の成長」では、都市の同心円の発展の理論を紹介したが、この理論では中心部から郊外へと直線的に発展していくモデルが構築されていた。しかし現代ではその方向がふたたび逆転している例がみられる。ひとたび価値のないものとして見捨てられた空間を、あらたな価値の担い手としてつくり直すのである。

 日本の原宿のアパートのように、かつては大衆的なアパートだったものが、あらたな価値を付加されて、ブティックとなって再登場する例がある。市内の労働者地区や倉庫街が再開発されて、高級住宅や商店街として再利用されることもあり、ニューヨークの倉庫街がアーティストの町に変身していったのがその重要な例である。「歴史的建造物の保存を求める人びとは、ロフトに住むアーティストたちと協力することで、地区全体の芸術性を高めていった」(p.137)のである。

 都市の開発を終えて、郊外に、地方に、そして外国に進出していった資本が、やがて都市に回帰して、使い尽くしたと思える資源に、あたらに手を加えることで、新しい価値を創造する方法をみいだしたのである。襞をほどくと大きな平面が展開されるように、時間のうちに織り込まれた空間を開くことで、あらたな市場を獲得する。これはグローバリゼーションの新しい市場を発見するためのきわめて有効な手段なのだ。

 同じことが、都市全体を壁て囲んで、安全性を強調した「ゲイテッド・コミュニティ」」にも言えるだろう。ロサンゼルスなどで典型的に展開されたこのコミュニティにも似た町が、日本でもいくつか存在する。住民の知り合いでなければ立ち入ることができず、出入りするすべての人々がビデオで写されるか、録画されている。

 大阪にある七〇〇戸の規模のあるコミュニティでは、住民がインターネットを経由して、たがいに監視しあうことで治安が保たれているという。保護されている住民は、同時に監視されている住民でもある。そして監視は同時に「街のイメージを維持する」(p.161)いう意図でも行われている。住宅の商品価値を維持するために、フラワーポットが設置され、住民はつねに花を咲かせることを求められるという。そしてこの閉じられた空間には、「内部に定着している人間が、敵としてではなく、客として移動する他者を迎えいれ、それと関係性を維持する」歓待の精神はまったく消滅してしまうのである。

 興味深いことは、ここでは公的な意味での警察が不要であり、民間の企業が警備の役割も果たしていることである。「公共空間の民営化」(p.138)は良さそうでありながら、さまざまな問題点を抱えている。企業は、公的な機関とは違って説明責任を求められることがないために、あらゆる蛮行がひっそりと可能になるのである。アメリカで市の公園を運営している民間企業は、「労働組合運動に参加する労働者を雇用しない方針を採っている」(p.139)というが、公的な空間が一部の人々に閉ざされ、従業員が差別的に雇用されても、誰も苦情を唱えることもできないのである。

 このような公的な業務を民間に事業体に開放することも、グローバリゼーションの新たな市場創設の方法の一つである。軍隊や監獄など、もっとも公的な意味をもつ国家の業務に民間企業を導入することは、公的な費用の節減と、民間企業への新しい市場の提供という二重の利益を生み出すために、今後さらに展開されていくに違いない。都市の空間についての考察方法はまだ多様なものがあり、本書にはその実例のいくつかが提示されている。参考文献の説明もわかりやすい。

【書誌情報】
■都市空間の地理学
■加藤政洋/大城直樹編著
■ミネルヴァ書房
■2006/09/15
■304p / 21cm / A5判
■ISBN 9784623046805
■定価 3150円

●目次
第1部 都市論の胎動(シカゴ学派都市社会学―近代都市研究の始まり;ヴァルター・ベンヤミン―遊歩者と都市の幻像 ほか)
第2部 街路の地理学(シチュアシオニスト―漂流と心理地理学;ミシェル・ド・セルトー―民衆の描かれえぬ地図 ほか)
第3部 都市景観の解釈学(ジェームズ・ダンカンとナンシー・ダンカン―テクストとしての都市景観;消費と都市空間―都市再開発と排除・監視の景観 ほか)
第4部 ポストモダンの地理学?(アンリ・ルフェーヴル―空間論とその前後;デヴィッド・ハーヴェイ―社会‐空間のメタ理論 ほか)



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2010年06月09日

『経済学の再生―道徳哲学への回帰』セン,アマルティア(麗沢大学出版会)

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「資本主義と倫理」

 この書物でセンが語るのは、きわめて明確で簡略なことである。経済学には、アリストテレス以来の「善き生」を求める倫理的な伝統と、インドのカウティリヤの『実利論』以来の「工学的な」問題処理に専念する伝統がある。ただし現代の経済学は、近代初期の統計データを利用したウィリアム・ペティ以来の「工学的」なアプローチ(p.21)を重視する傾向がある。

 この工学的なアプローチには利点もあった。たとえば飢餓と飢饉という「悲劇的な問題」では、倫理的なアプローチよりも、「一般均衡理論が焦点をあてる相互依存関係のパターン」(p.26)を用いることで、食料があっても飢餓が起こる事実を解明することができたのである。

 しかしこの工学的なアプローチには、いくつかの重要な難点がある。第一は、人間が合理的に行動する存在であることが前提とされ、それが現実のものとみなされていることである。しかし実際の生活を分析してみれば明らかなように、人間は経済的な合理性だけで行動するものではない。

 人間にはさまざまな性格の人物が存在し、合理性という想定は狭すぎるものである。また人間が合理的に行動することを認めた場合にも、合理性には経済的な合理性だけではなく、さまざまな合理性が存在する。「他に取りうる行動パターン」(p.30)を考慮にいれる必要がある。「実際の行動を特定するために合理的行動の仮定だけでは不十分である」(同)。

 また経済的な合理性を追求することが、「自己利益の最大化」(p.34)と同じことだと見なされているのも問題である。「他のすべてを排除して、自分自身の自己利益を追求すること」(同)だけが合理性とみなされているが、この根拠はない。グループの利益が優先されて、個人の利益は重視されない場合もあるし、追求されている目的が「非自己的な目標」(p.35)であることもあるだろう。

 この自己利益を追求する合理的な人間は、ホモ・エコノミクスと呼ばれて、アダム・スミスの主張だとされているが、アダム・スミスはその『道徳感情論』を読んでみれば、はるかに道徳的な見地を採用しているのは明らかである。スミスはストア派の哲学に共鳴しており、「大いなる共同体のために、いつの時も自らの小さな利益を犠牲にすることを少しもいとわなかった」(p.42)人々を称賛しているのである。

 現代の厚生経済学は、「自己利益の最大化」と「効用に基づく基準で計った社会的な成果」(p.59)だけを原理としているが、効用を個人のあいだで比較することは、個人AとBの幸福を比較することで、これは「無意味なこと」とされたために、パレート最適だけが基準として残ってしまった。

 パレート最適は、「他人の効用を減らさずには誰の効用も増やせない社会状態」(p.61)である。これによると、極貧の人が悲惨に暮らしていても、裕福な人の効用を減らさなければ、極貧の効用を増やせない場合には、パレート最適状態であり、これを動かす理由がなくなる。パレート最適は「灼熱の地獄で熱く焼けただれている」こともあるのである(p.61)。

 「パレート最適を唯一の判断基準とし、自己利益最大化行動を経済的選択の唯一の基礎とする厚生経済学は、小さな箱の何かに押し込められたも同然だから、もはや、大したことを言える余地などほとんどなくなってしまった」(p.61)というセンの指摘は疑いようがないだろう。センはアローの一般可能性原理にもとづいた社会的選択の理論には大きな難点があることをすでに証明しており、この原理が前提としている自由で平等な社会というものは、実際には仮説にすぎないことを明らかにしたのだった。

 だから厚生経済学が前提とする基本的な考え方を修正してゆく必要とセンは指摘する。まず「自己中心的な厚生」の原理では、人間の厚生はその人個人の消費だけに依存すると考えるが、他者への共感や反感なども考慮にいれるべきだろう。「自己厚生の目標」の原理では、個人の目標は自己の厚生の期待値を最大にすることが目標とされているが、他人の厚生も人生においては重要な要素となる。さらに「自己目標の選択」の原理では、各人は目標を追求することで選択するとみなされているが、孤独に行動する人はいないのであり、他者との相互依存関係を無視すべきではないのである(p.129-130)。

 センのこうした議論はきわめてまっとうなものであり、「経済学の再生」(サブタイルト)が「道徳哲学への回帰」を必要としているのは明らかなことだろう。資本主義の初期のスミスの時代のように、経済学が倫理学と密接に結びついていた時代の思考方法を取り戻すことが、経済学について考えるためにも、資本主義について考えるためにも、必須のことだと思う。

【書誌情報】
■経済学の再生―道徳哲学への回帰
■セン,アマルティア【著】
■徳永澄憲、松本保美、青山 治城【訳】
■麗沢大学出版会
■2002/05/09
■220p / 19cm / B6判
■ISBN 9784892054488
■定価 2415円

●目次
第1章 経済行動と道徳感情(二つの起源;成果と弱点;経済的行動と合理性 ほか)
第2章 経済的判断と道徳哲学(効用の個人間比較;パレート最適と経済的効率;効用、パレート最適、厚生主義 ほか)
第3章 自由と結果(豊かな生、行為主体、自由;多元性と評価;完全性の欠如と過剰な完全性 ほか)


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2010年06月07日

『貨幣の哲学』エマニュエル・レヴィナス(法政大学出版局)

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「貨幣の正義」

 マルクスからは「マンモンの神」と呼ばれて嫌われた貨幣であるが、これが物物交換の不便さを解消する文明の工夫の一つであることは間違いない。しかしレヴィナスが指摘するように、貨幣の経済学や社会学は多いとしても、「貨幣の形而上学」はほとんど存在しない。この書物はレヴィナスの貨幣論をまとめたものであり、彼の思考の粘着力をよく示している。ほとんど同じテーマから離れずに、どこまでも螺旋状に広がりながら思考をつづける能力は、見習いたいものである。

 レヴィナスの定義では、貨幣は「所有の所有」(p.66)である。これは経済学では購買力と呼ぶ概念なのだが、それが所有という語に言い換えられることで、概念的に膨らみがでてくる。貨幣は他者の所有しているものを入手することができる能力であり、貨幣を所有していることは、他者の所有を所有することである。

 しかし人々はこの貨幣を所有するためには、働かなければならない。そしてその最悪の労働形態は、賃金労働である。マルクスは賃金労働は労働の販売ではなく、労働力の販売であることを指摘したが(そこから余剰価値の搾取という概念が生まれる)、賃金労働をするあいだは、その身体と人格は買い手に占有されているであり、レヴィナスが指摘するように、それは人間を一時的に売却することにほかならない。所有を所有するためには、他者に所有されるという「地獄」を経由するしかない場合も多いのである。

 これは国家と法によって定められたシステムである。ただし貨幣は貨幣を呼ぶというように、多額の貨幣の所有者のもとには楽々と貨幣が蓄積されるのであり、貨幣はこうした所有の所有であると同時に、貪欲の追求の手段と化し、モリエールの喜劇に描かれる守銭奴においては、目的そのものとなってしまう。これが「貨幣の両義性」(p.67)である。

 これだけなら、誰でも言えることである。レヴィナスはここに第三者という概念をもちこむ。わたしは神に命じられて、隣人を愛する。これは善なる行為である。しかしこの善なる行為は隣人に向けられるだけであって、このわたしの隣人愛から排除されている人々にたいしては、わたしは無視し、無言の暴力をふるっていることになる。愛する隣人とみしらぬ他人のあいだに、わたしは格差をつけているからだ。

 これを否定しようとしてすべての人を愛するといったところで、ただ愛が希釈されるだけのことで、そこに正義は生まれない。レヴィナスはここに貨幣というものの価値をみいだす。「他人に責任をもつことは、その命に責任をもつことであり、かくしてほかならぬその物質的な欲求に責任をもつことであり、かくして貨幣を与えることである。このとき貨幣は、そのすべての意義を取り戻す」(p.103)。貨幣は第三者にふるった暴力を償う正義の役割もまたはたすのである。

 貨幣はまた数量化することである。たとえば「目には目を」というとき、目を傷つけた相手には、つぐないをしなければならない。この法律の文面では自分の目を与えることになっているが、それでは相手はいかなる償いをうけることはない。ただ復讐心が満たされるだけであり、こうむった被害は、手つかずにそのままである。そこで貨幣による償いが求めれるのである。命を除いて、あらゆるものは数量化することができ、数量化されるべきである。それがいかに冷酷で非人間的なことと思えようとでもである。正義は数量化を要求するのである。

 手短に語ろうとすると、論理が飛躍しているように思われるだろうが、倫理的に極限までつきつめて考えるレヴィナスの思考は、ときに飛躍をみせながらも、その脈絡をきちんと補填して、ぼくたちに新たな思考へと誘う。「プレリュード」と題した序文は、レヴィナスが本文で語っていることを語りなおしているだけなので、読み飛ばされてもいいかもしれない。ただし文末のレヴィナスの著作において貨幣の概念が考察されている場所を列挙したリストは有益だろう。


【書誌情報】
■貨幣の哲学
■エマニュエル・レヴィナス
■法政大学出版局
■2003/08
■195, / 20cm / B6判
■ISBN 9784588007798
■定価 2625円


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2010年06月04日

『空と海』アラン・コルバン(藤原書店)

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「空と海をめぐる感性の変化の歴史」

 ちょっと見にはバシュラールの著書のようだが、精神分析ではなく、感性の歴史である。『においの歴史』と『浜辺の誕生』の著書のあるアラン・コルバンのお手のものだろう。とくに「海」に関しては、『浜辺の誕生』で積んだ学識が巧みに生かされる。

 この書物がターゲットとするのは、ル=ロワ=ラデュリューの『気候の歴史』のような経済学的、社会的、生態学的な視点による考察ではなく、「文化史の一要素、つまり表象と評価の社会的形態をめぐる歴史の一要素」(p.14)である。

 「空」については、気候一般と雲が重要なテーマだ。ある時期からイギリス人が、気候の変化が身体や感情に及ぼす影響に敏感になり、それを日記などに克明に記録し始めたという。「この記録は自己を語るエクリチュールの芽生えと繋がり、土地の歴史をつづり、フランスやイタリアで書かれていた家事日誌に似た一種の欲望と結びついていた」(p.10)らしい。

 そしてバークやカントが導入した「崇高な美」という概念に依拠して、「雷雨、嵐、暴風雨、竜巻、大渦潮、雪崩、氷河などを前にした時に覚える情動の新たな布置」(p.32)が誕生することになる。登山の流行や気球の発明なども、高所についての新たな経験を生み出したのだった。「悪天候の中でこそ主体が誕生した」(p.36)というのは大袈裟でも、「気象の変化と密接に関連した内面化の作業がおこなわれた」(同)のはたしからしい。

 またイギリスのロマン主義者たちは、海にさまざまな想像力をかきたてられたようだ。海は旧約聖書の怪物レビアタンの住家であり、パウロが航海した地中海は「神学的な海」(p.69)という性格を帯びる。浜辺は娯楽と治療の場となり、海辺の光景は新しい絵画と文学を生む。そして自然神学は、「その楽天主義によって、海辺への欲望が復活する要因になった」(p.79)のである。

 海水は、人々に驚きを与えた。「飲めないものなのに、海水は魚を生かし、古代以来認められてきた治療効果をもっている。しかも〈白い黄金〉たる塩は、食物の基本要素の一つである」(p.108)という理由からだ。さらに人間の体液に含まれる塩分が、海水の塩分とほぼ等しいことが明らかになると、人間はその「存在の中に母体的な要素を内包している」(p.109)と考えられるようになり、詩人たちにインスピレーションを与えた。

 教会で使われる聖水は、洗礼の水とは違って塩水であり、それは「悪の勢力を駆逐する力をもらたす」(p.123)と信じられていた。「塩は霊的な健全さを付与し、聖体以前の最初の糧である」(同)とされたのである。

 このように空と海をめぐって、気象と水と塩をめぐって、コルバンはさまざまな歴史的な伝説、文学、絵画などを取り上げて、その感性的な変化の歴史を追う。この方法であれば、ギリシア神話や旧約聖書から、現代の作品にいたるまで、素材は無尽蔵である。著者はいかにも楽しそうなので、ぼくもつい誘惑される(笑)。

【書誌情報】
■空と海
■アラン・コルバン著
■小倉孝誠訳
■藤原書店
■2007/02
■200p / 20cm / B6判
■ISBN 9784894345607
■定価 2310円


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2010年06月02日

『新版 現代政治理論』キムリッカ,W.(日本経済評論社)

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「アメリカの政治理論のよくできた見取り図」

 この書物は『現代政治理論』と題されてはいるが、あまり正確ではないかもしれない。あくまでも英米の、というよりもアメリカの政治理論の分析と考察なのである。フランスの政治理論もドイツの政治理論もほとんど視野に入っていない。しかしローカルなだけに、アメリカの論争については、きわめて詳細に分析されている。

 アメリカではロールズが『正義論』を発表したことで、政治哲学に関する議論が急に活発になった。この書物でもこれを避けて通ることができないために、第二章で功利主義、第三章でロールズとドゥオーキンの「リベラルな平等」理論、第四章でノージックなどのリバタリアニズム、第五章でマルクス主義、第六章でサンデル、ウォルツァー、マッキンタイヤ、ベル、テイラーなどのコミュニタリアニズムと、さまざまな議論を紹介している。

 すでに有名になった論争だが、本書はきめ細かに議論を追跡しているし、著者がリベラルとしての立場を明確に示して、さまざまな議論の批判をしているために、見取り図がきわめてわかりやすいものとなっている。コミュニタリズムからの反論にたいして少し議論を修正したロールズの姿勢を不思議がるほどだ。

 著者はロールズ以降のアメリカの政治哲学の基本的な立場は、「共同体のすべての成員は平等者として処遇されるべきだ」(p.542)という「平等主義的な土台」にあり、これに基づいて、さまざまな議論の動向を判断できると考えている。これはアメリカの政治哲学の分析の土台としては適切なものであり、ぼくたちの直観的な道徳感にもふさわしいものであるために、適切な視点だと思う。

 この土台に立つことで、さまざまな議論について、直観的な支持と反感のありかを見定めながら考察を進めることができる。ときには、あらゆる客に無愛想なウエイターと、ほとんどの客に愛想よく接するが、黒人にたいしては無愛想なウェイターのどちらかがましかという「究極の選択」のようなところまで考察が入りこむこともある。「後者は総体としてみると、より多くの品位を示しているかもしれない」ものの「特定の集団にたいする態度はリベラルなシティズンシップの最も基本的な規範を脅かす」(p.467)というのである。

 最後の二つの章は、この新版になって新たに追加されたところである。第八章の多文化主義の考察はナショナルな少数派、移民集団、孤立主義的な民族宗教的集団、外国人居住者(不法滞在者のことだ)、アフリカ系アメリカ人のそれぞれの事例について、ていねいに考察されていて、かりやすい。この章ではアメリカの事情だけではなく、ヨーロッパの事情も検討されている。

 第九章のフェミニズムの理論は、その政治的な意味だけに考察を限らざるをえないので、ごく原理的なところにとどまっているのは、仕方のないところだが、少し不満を感じるところである。それでも包括的な入門書として、大いに役立つ書物になっているのは間違いのないところだろう。


【書誌情報】
■新版 現代政治理論
■キムリッカ,W.【著】
■千葉眞、岡崎晴輝【訳】
■日本経済評論社
■2005/11/10
■620,95p / 21cm / A5
■ISBN 9784818817708
■定価 4725円


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