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2010年05月31日

『人間の将来とバイオエシックス』ユルゲン・ハ-バマス(法政大学出版局)

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「ブレーブ・ニューワールド時代の哲学」

 クローン人間だけでなく、両親が生まれてくる子供のための善を祈って遺伝子操作を行えるようになる時代がもう間近に迫っている。こうした「ブレーブ・ニューワールド」(ハクスレー)を前にして、ぼくたちはこうした新しい技術にどのような姿勢を取ればよいのかという問いは、避けがたいものである。

 ハーバーマスがこの問題に答えようとする際に前提とするのは、哲学はもはや「どのように生きるべきか」という問いに答えることは断念しているということである。キルケゴールは「自分自身の人生が成功なのか失敗なのかに関する根本的な倫理的問いに、〈自分自身でありうること〉というポスト形而上学的な概念で答えた最初の人であった」(p.15)とハーバーマスは指摘する。

 ということは、価値が多元化した現代の社会にあって、各人が自分自身でありうる生き方を求めればよいのであり、哲学はそのどれかを選ぶことも、優先することもないということである。「純粋に倫理的な問いに関していかなる優先準位も禁じる」(同)のである。ただしそれは道徳的な問いを放棄するということではない。「社会的な次元では自身の行動に責任をもつことが、そして他者に対する約束や責任に応じることが可能となる」(p.16)ことは依然として必要なのであり、そのような責任を取る道徳的な主体を構築する可能性を最大限で維持することが、哲学の道徳的な課題だということになる。

 この視点から考えるときに、遺伝子操作にはいくつかの重要な難点がある。たとえば、両親が子供の「ため」を思って、特別に知能に優れた遺伝子を与えたり、美貌で優れた体格の遺伝子を与えたりするとしてみよう。子供は両親の嗜好を共有して、自分の知能が高く、美貌であることに感謝するかもしれない。あるいは遺伝子を操作しない場合にも、知能や美貌が優れている子供と優れていない子供の違いがあることを考えて、自分の与えられたものを一つの運命や所与として甘受するかもしれない。

 そうであれば問題はないかもしれない。しかしそうでない場合も考えられる。子供は自分の生き方として、美貌のために注目されることがない生活を望むかもしれないし、知能の高さを発揮したりするのではなく、ぐうたらな生活を送ることに最大の幸福を見いだすかもれしない。そのような可能性が残されている以上、そして「自分らしい生き方」というものは、すべての個人において異なる可能性があり、その優越を決めることはできない以上、こうした選択もまた優劣のないものとして認める必要があるのである。

 遺伝子操作は、このような個人の選択の余地に介入することになる。それは子供という「他の人格が自分自身に対してもつ自発的な関係および倫理的自由の身体的基盤にまで介入するものとなる」(p.29)と言わざるをえないのである。この両親の決定は、子供にとっては「独特のパターナリズム」(p.107)としてしか感受されないだろう。子供は「自分自身の歪曲されない未来を奪われて」(p.106)いるとしか感じないだろう。

 このようにして子供の未来が歪められるだけではなく、この両親の選択には、対話の可能性を否定するという問題が含まれる。子供というものは、幼いときには家庭で両親のパターナリズム的な配慮の恩恵をうけるものである。両親の配慮とはそうした性質のものだからだ。しかし子供はその配慮をやがて迷惑なものと感じるようになる。そして社会のさまざまな他者とのコミュニケーションを経験するうちに、両親の配慮の恵みと迷惑さから脱出してゆく。それが社会的な存在になるということだ。

 しかし遺伝子操作が行われていると、「パターナリズム的な目論見が、対抗しようのないプログラムの中に実現しており、コミュニケーション的な媒介された社会化の実践のかたちで現れることがないがゆえに、帰結は不可逆的である」(p.108)。そこでは両親が子供に語りかけた「二人称」の言葉は存在していても、子供が両親に語りかける「二人称」の言葉は奪われているのである。両親の二人称の言葉は、実は自己の願望を子供に押しつける「一人称」の言葉にすぎない。

 ハーバーマスは、「人間同士の関係のありかたは現存在的に可逆的である」(p.107)べきだと考える。遺伝子操作の優生学は、「ある人格が他の人格のゲノムの望ましい構成について後戻りの不可能な決定を下すことによって、二人のあいだに成立する関係においては、自立的に行為し、判断する人格相互の道徳的自己了解のこれまで自明であった前提が自明ではなくなる」(同)のである。

 ハーバーマスのこの議論は、人々の価値の多元性を前提としても、なお道徳的に不可欠な要件が存在することを、コミュニケーション的な理性の議論で巧みに展開するものである。大きな難問を抱えるバイオエシックスの哲学的な議論として、大きな貢献をしていると言うべきだろう。

 ハーバーマスの討議倫理の議論にはこれまでさまざまな批判が行われてきたが、この遺伝子操作の問題に関しては、ディスクルスの議論が巧みに働いていると感じられた。討議の現場に対話の相手が存在しない状態で、その架空の相手との対話の可能性を探ることが試みられているために、討議倫理に潜んでいたさまざまな問題点が顕在化しないからである。


【書誌情報】
■人間の将来とバイオエシックス
■ユルゲン・ハ-バマス/著
■三島憲一訳
■法政大学出版局
■2004/11
■135, / 20cm / B6判
■ISBN 9784588008023
■定価 1890円


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2010年05月28日

『赤ちゃんはコトバをどのように習得するか-誕生から2歳まで-』ベネディクト・ド・ボワソン・バルディ(藤原書店)

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「言語習得の深い謎」

 ぼくたちは誰もが、まったく知らない言葉を覚えて、使いこなせるようになるという不思議な、ほとんど奇跡的なことを実現してきたのである。しかしそれでいて、赤子がどのようにして言葉を習得するのかは、ほとんど分からない。フロイトは小児健忘という概念を提起するが、いかにも不思議なことである。

 この書物は、フランス人の言語学者が、アメリカ、イギリス、フランス、日本、スウェーデンなどの諸国を訪れて、喃語段階の赤子、言語習得段階の小児の多数の発音サンプルを収集しながら、この謎に挑戦したものである。結論から言うと、謎はまだ謎のままだが、いつくか興味深い知見もちりばめられている。

 まず赤子は母親の体内にいるときから、すでに母親の言葉や周囲の物音に耳を傾けていることが確認された。「胎児の聴覚組織は妊娠25週目から機能し、聴覚レベルは35週目ころには、オトナの聴覚レベルに近付く」(p.34)のである。そして新生児は、他の女性の言葉よりも母親の言葉に愛着を示すという。この段階で新生児は、母親が話す言語への親しさを確立することになるのだろう。

 それでも生後5か月から半年までは、新生児はすべての言語を習得する可能性を白紙のように残しているらしい。しかしこの時期になると、聞き分ける音素の体系が確立してしまう。この時期に「自分の周囲で話されている言語との接触の影響で、音響空間を再構成し、単純化して終えている。音響空間を母語に関与的なものとしている」(p.51)のである。そしてめったに耳にしない要素を「聞くのを怠る」(p.52)ようになるらしい。

 7か月から8か月頃になると、子供は喃語を話しだす。単語としては識別されない言葉を話し始めるのだが、すでにイントネーションは母語にふさわしいものになっている。アラビア人の幼児の喃語とフランス人の幼児の喃語の録音でテストしてみると、成人の70%以上が、正しく聞き当てたという(p.58)。

 10か月から11か月には、「調音はずっとはっきりとして確かなものとなり、多様なシラブル連鎖がずっと多くなる」(p.59)。子供はまるで語っているかのように、楽しく喃語で独り言を言う。しかしその後で、すなわち9か月から17か月くらいに、子供は苦しい時期を迎える。喉と舌で歌う楽しさとは別に、他人の言語を習得しなければならないからだ。これがもっとも不思議なところである。大人が話している会話のうちから、どのようにして単語を切り分け、分節するのだろうか。

 ぼくたちが外国語を学ぶときには、文の構造をまず習って、たとえば目的語の位置にくるものを次々と変えてゆく。「わたしはリンゴが好きです」「わたしはリボンが好きです」などと言い換えてゆけば、すぐに単語の数は増える。しかし新生児にはそのような構文の理解はないし、置換要素として単語を示してくれる人もない。身近な誰かが語った「きょうはあめがふりそうね」という言葉のうちから、「雨」という単語を切り出して、それを雪に変えることなどは、とうていできないのだ。

 それだけでなく、それを自分なりに単純化して自分の要求を伝えることができるようにならなければならない。「ミルク」という語をたとえ使えたとしても、それがほしいのか、もういらないのか、こぼれたのかを伝えるのはきわめて困難である。ここで母親との関係が重要な役割をはたすのは、自明なことであるが、よほどのことがないかぎり、たとえ話す時期は遅くなっても、子供たちは誰もが言葉を覚えてゆくのである。やっぱり不思議だ。

 フランスの子供たちの言葉の覚え方は「快楽主義」的であるとか、アメリカの子供たちは「実用主義と社交性」が顕著であるとか、スウェーデンの子供たちは行動意欲を明確に示すとか、日本人の子供たちは「おいしい」「きれい」とか美的感覚を示すとか、どうでもいいような分類もあるが、読んで楽しい本ではある。アウグスティヌスが、フロイトが、チュムスキーが、ラカンが捉えられた謎が、ぼくたちも捉えて放さないからだ。

【書誌情報】
■赤ちゃんはコトバをどのように習得するか-誕生から2歳まで-
■ベネディクト・ド・ボワソン・バルディ著
■加藤晴久・増茂和男訳
■藤原書店
■2008/01
■249p / 22cm / A5判
■ISBN 9784894346086
■定価 3360円

●目次(藤原書店のサイトから)
序論
 コトバ――天の賜
 複雑な賜
 進化の賜
 コトバの能力とコドモ
 モジュール性
 相互作用的学習システム
 コミュニケーションの機能
 ラテン語infansからフランス語enfantへ

第1章 乳児は話さない。しかし……
 新生児、この未知なる者
 音は出せても話せない
 新生児の能力
 生まれる前からコドモは準備していた
 乳幼児の才能
 名前――最初の信号
 言語能力に関わる大脳の構成

第2章 コトバの出現
 生後数ヶ月間の音声表現
 短時間で母語のスペシャリスト
 喃語
 生後7~10ヶ月のコドモはなにを言っているのだろうか
 生後10~12ヶ月のコドモはなにを言っているのだろうか
 喃語の性質と機能をめぐる様々な学問的アプローチ
 フランスのコドモはフランス語で喃語を発し、
  ヨルバ族のコドモはヨルバ語で喃語を発するのだろうか
 コドモは訛なしに母語を話し始める
 手話における喃語

第3章 コドモのコミュニケーション世界
 コミュニケーションと表現
 まなざし
 相互的行動
 代わりばんこ(ターン・テイキング)
 情動表現
 外部世界に対して共有された注意力
 母親語(マザリーズ)
 母親の声
 赤んぼことば
 文化とコドモに話す様態
 敏感期

第4章 単語の意味の発見――生後9~17ヶ月
 切り分ける、組み立てる
 仕事中のコドモ
 ジグソー・パズルの断片を組み立てる
 小さな断片の問題
 識別と理解
 同一対象の再発見
 熟知した単語の識別
 単語の心的表象
 単語の理解

第5章 語彙への歩み――生後11~18ヶ月
 単語と指示対象
 外部世界とコドモ
 コドモは物理学者か
 モノと言葉
 始語
 試行錯誤
 心内辞書は2つ?
 最初の語彙の構成

第6章 コドモそれぞれのスタイル
 みんな似ている、みんなちがう
 エミリーとショーン、ティミー――最小労力戦略
 シモン、レオ、マリー――会話の魅力
 シャルルとノエル、その他のコドモたち――中間の道
 アンリ――急がば回れ
 選択するのはコドモである

第7章 言語、文化、コドモ
 言語能力と社会化
 文化環境と始語
 フランス・アメリカ・スウェーデン・日本の
                コドモの会話の主題
 フランスのコドモの快楽主義
 アメリカのコドモの実用主義と社交性
 スウェーデンのコドモの行動意欲
 日本のコドモの美的感覚
 しかし世界中のすべてのコドモが……

第8章 始語から言語へ――18~24ヶ月
 新しい段階
 語彙の爆発
 音韻論の発見
 大脳反応の再編
 最初の文
 フランスのコドモの最初の文

結論


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2010年05月26日

『貧困と共和国―社会的連帯の誕生』田中拓道(人文書院)

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「「社会」の発明」

 かつてアレントは『人間の条件』において、ギリシアの公的な空間と私的な空間の分離について説いた後、近代、とくにフランス革命になってからこの二つの空間とはことなる社会的な空間」が登場し、それが公的な空間を覆ってしまったと語ったことがある。アレントは『革命について』ではそれをフランス革命の「失敗」と関連づけるのだが、そのプロセスが実際にどうであったかは、詳しくは考察されていなかった。

 著者はアレントのこの私的に関心をもって、「社会的なものの内実に関心を向けるようになった」(p.263)という。この〈社会的なもの〉の登場は、フーコーに近い人々、とくにドンズロの『社会の発明』やエヴァルトの『福祉国家』などの著者でも詳しく考察されているものであり、ぼくも関心をもっていた。この著書は、フランスの福祉国家が登場するまでのこうした〈社会的なもの〉の思想的な変遷をたどったものとして興味深い。

 著者はこのプロセスを、大きく四つの時期に分けて考察する。第一の時期は革命から七月革命後、一八世紀半ばまでの「政治経済学」の時期であり、ほぼルソーに始まり、重農主義、イデオローグなどを経由して、一八三〇年代から一八四〇年代の「統計の熱狂時代」(p.79)頃までを対象とする。この時代は国富の増大と統計学的な手段による国民の統治が重視された時代である。

 第二の時期は、七月王政時代の前後の時期であり、政治経済学から分離した社会経済学が、「社会」そのものと人民への注目を高めた時期である。この時期には下層の大衆に注目が集まり、「新しい慈善」によって、社会の「上下階層のつながりを維持」するために、「貧民の生活状態に関する知の蓄積を重視する」(p.123)学が展開された。

 第三の時期は、七月王政後から第二帝政にいたる「社会的共和主義」の時代である。この時代には、「友愛」の絆に結ばれた政治的な共同体を目指す運動が労働運動としても、思想的な運動としても展開されることになる。そして「デモクラシーの理念が勝利することで、大衆的貧困は根絶される」(p.168)という掛け声のもとで、富裕層だけではなく、国民全体の福祉を向上させることが求められた。フーリエやサンシモンの影響がはっきりと現れた時期でもある。

 第四の時期は、第三共和制の登場とともに、国民の「連帯」を訴える連帯主義が登場した時代である。社会の全体性を強調するデュルケームの社会学が注目を集めた時代でもあった。フランスの「福祉国家の原型」(p,255)が素描され、戦後の体制に引き継がれることになる。

 本書は脚注も詳細で、参考文献も詳しく、参考になる。フランスを実例として、「私的なもの」とも、「公的なもの」とも異なる「社会的なもの」の空間がどのようにして分節され、力をえていったか、その思想的な背景はどのようなものであったかを考えるには、きわめて有益な書物である。


【書誌情報】
■貧困と共和国―社会的連帯の誕生
■田中 拓道著
■人文書院
■2006/01/31
■300p / 21cm / A5判
■ISBN 9784409230374
■定価 3990円

●目次
第1章 社会問題(導入;革命期―“市民的公共性”と“政治化された公共性” ほか)
第2章 社会経済学―「新しい慈善」(導入;政治経済学 ほか)
第3章 社会的共和主義―「友愛」(導入;社会問題と共和主義 ほか)
第4章 連帯主義―「連帯」(導入;「連帯」の哲学 ほか)


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2010年05月24日

『イスラームと西洋―ジャック・デリダとの出会い、対話』シェリフ,ムスタファ(駿河台出版社 )

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「地中海の子、デリダ」

 著者のムスタファ・シェリフは、デリダの生まれた国アルジェリアのイスラーム学者であり、駐エジプト大使や高等教育大臣を歴任した政治家で、哲学者である。著者はデリダの哲学に心酔しており、2000年の3月に、デリダをパリのアラブ世界研究所で開催されたシンポジウムに招待した。デリダは病気が悪化していたにもかかわらず、病院での検査の後に、このシンポジウムに直行したという。

 シェリフはイスラーム世界の有力な知識人として知られているが、2006年に起きたムハンマド風刺画事件に関連して、「イスラーム意見番」(p.155)として活躍した逸話が有名だ。ローマ教皇がこの問題についてレーゲンスブルク大学で発言して、イスラーム世界から批判をうけたことから、ローマ教皇がシェリフを招いて、助言を求めたのだった。

 このシンポジウムに招かれたデリダは、まとめたスピーチを行える状態ではなく、シェリフの質問に回答するという形で発言しているが、あくまで「アルジェリア人としてお話したいと思います」(p.42)という姿勢を崩さない。そして西洋世界とイスラーム世界の「両岸をむすびつけ」る(p.133)という役割をはたすべく、ごく平易な言葉で語りかけているので、デリダの晩年の思想の入門としても役立つ書物になっている。

 アルジェリアがデリダが受け継いだ「遺産」について、デリダはこう語る。自分はヨーロッパの思想にたいして「ある種の周縁から、ある種の外部から投げかけるように数々の問いを提示してきた」(p.45)が、それができたのは自分が「単なるフランス人でもなく単なるアフリカ人でもない、言うなれば地中海の子供」だったことが大きく影響していると想起する。

 そしてデリダは、イスラームと西洋の相互の利益のために「民主主義の普遍主義」を求めていると語る。これは現在の地球には存在していない民主主義、「来たるべき民主主義」である。デリダにとって民主主義というモデルは、「自らの歴史性、すなわち自らの将来を受け入れ、自己批判を受け入れ、改善可能性(ペルフェクティビリテ)を受け入れるという、いわばモデルをもたないモデルという独特な政治体制」(p.58)であると信じているからである。

 とは言いながらもデリダは、この民主主義を実現するためには国家という体制もまた必要であると考えている。「国家なるものはいくつかの条件において、……非宗教性、あるいは諸宗教的共同体の生活の保証人でありうるのです。国家は、何らかの経済的勢力、度を越した経済的な集中、経済的権力をもつ国際的な勢力に抵抗することができます」(p.70)と考えるからである。

 デリダのこの姿勢は、グローバリゼーションに対する姿勢とも一貫する。デリダは「グローバリゼーションなるものは生じていない」(p.82)と断定する。帝国であろうとするアメリカにたいして、地球的な抵抗が生じているからであり、「ヨーロッパは、自らを作り直し、アメリカ合衆国の覇権主義的な一方通行主義(ユニラテラリズム)とは一線を画し、そこから袂を分かつと同時に、世界にあって、アラブ・イスラーム世界同様にいつ何時でも、〈来たるべき民主主義〉を達成する用意がある勢力とともに、新たな責任を担おうとしている」(p.83)と判断するからである。

 デリダがグローバリゼーションが「生じていない」と主張するのは、文明はあくまでも多元的なものであり、多元的なものでありつづけるべきだと考えるからである。「多元性といっていも私は他者性という意味て使っていますが、差異の原理、他者性への敬意、これらのは文明の根源とも言えます。だから私は、均質て普遍的な文明というものは想像できません」(p.108)と語るのである。

 短い対話ではあるが、『他者の言語』『たった一つの、私のものではない言葉』「信仰と知」『マルクスの亡霊たち』などの書物のエッセンスが、イスラーム世界との対話という形で表明されていて、分かりやすい。


【書誌情報】
■イスラームと西洋―ジャック・デリダとの出会い、対話
■シェリフ,ムスタファ/著
■小幡谷友二/訳
■駿河台出版社
■2007/10/10
■165,17p / 21cm / A5
■ISBN 9784411003775
■定価 1785円

●目次
序論 何にもまして友情が大切である
第1章 諸文明の未来
第2章 討論
第3章 アルジェリア人としての経験と思い出
第4章 東洋と西洋、同質性と差異
第5章 不正行為と急進的潮流
第6章 区別するべきか、関連づけるべきか?
第7章 進歩は完全である一方で不完全でもある
結論 私たちの生活には異なる他者が不可欠である
対談後記 南海岸からのアデュー、ジャック・デリダへ


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2010年05月21日

『石毛直道 食の文化を語る』石毛直道(ドメス出版 )

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「近代日本の食事の歴史」

 ぼくは紀伊国屋書店で刊行している『スクリプタ』のファストフードの歴史についての連載を毎号楽しみに読んでいる。同時代的に経験している出来事も、遅れたものものもあるが(マクドナルドはすっかり定着してから食べたのだった)、昭和の歴史のひとこまとして記憶に値する出来事だと思う。

 本書は、ファストフードの歴史よりも、日本人の日常の食生活がどのように変動してきたかを考察する興味深い歴史的な考察を含む書物である。「料理は芸術か」とか、「国家の学としての栄養学」などの思想的・哲学的な考察も興味深いが、何よりも一般の庶民の食事の習慣の歴史は、楽しい読み物だった。

 たとえば今では郷土料理というと、地方の名産をメインにした料理のように考えられている。秋田のショッツル鍋、山梨のほうとう鍋のようにである。しかし著者によると、江戸時代には京都、大坂、江戸の三都の「都」の料理のほかは、すべてか「鄙」の料理であり、郷土料理であったという。しかし現代にいたると、日本中が「都」の料理、すなわち都市型の食生活になる。そしてそれぞれの土地の名物が、郷土料理として、いわばマーケティングの材料として登場してくるのである。

 著者は現在では日本列島の全体がひとつの都市のようになったと指摘する。都市は自然が存在しない人工的な環境であり、「そこは食料の生産の場ではなく、食料は都市の外部から供給される。都市はただ人間が集まって住む場ではなく、さまざまな物質と情報の流通の場である」(p.54)。日本列島はひとつの巨大な都市となり、外国から多量の食料を輸入し、「さまざまなメディアから供給される情報に基づいて、食卓を構成する食物とその料理が平均化する現象がつづいている」(同)という。

 だから都市と地方の時間的なずれはあっても、全国的に食生活が変動していったと考えることができるのだろう。著者によると、江戸時代から明治時代をつうじて、庶民の食事は箱膳で行われていたという。箱膳はそれぞれの個人に割り当てられていた。他人の膳では食べないのである。それぞれが膳を前にして正座して、家族が食事をとるスタイルが定着していたという。座る場所も厳しく決められ、家長には特別な料理がつけられて、いわば家父長的で武士的な倫理感のもとで食事がされる。家長は家族に小言を言い、食事中の会話はほぼ禁止される。使用人などは別の間で食事をするなど、身分的な差別が強調された。まあ、田舎でもこうだったとは、とても思えないのだが。

 この長い伝統を崩したのがチャブ台の登場である。「大正時代から昭和の一〇年代になるまでの時期に、チャブ台が全国的に使用されるようになった」(p.130)。やはり座って食べることに違いはないが、家族皆がひとつのチャブ台を囲むようになったのである。チャブ台が狭いので、みんな正座をしなければ食事ができない。そして家長は家族に姿勢を正すことを強く求めるようになる。ただしそれ前ほど厳しくはなく、「会話は厳禁」と「話してよい」がほぼ同程度になるという違いは生まれていた(p.171)。

 このチャブ台をやがて一掃することになるのが、テーブルである。一九五六年に日本住宅公団が「ダイニングキッチンの集合住宅を建設し始める」(p.131)。この団地は、当時はあこがれの的だったらしい。このテーブルでの食事では、家族が会話をすることが奨励され、食事は家族の「だんらん」の時間であるというのが理想になる。しかし実際には話すのは子供たちであり、あるいはテレビをみながら、放映される番組について話すことが、「会話」であり、「団欒」でもあった。

 現代はこのテーブルでの食事が全国的に普及しているが、すでに大都会では「個食」方式が大きな地位を占めるようになっているらしい。各人が個別に、自分の食べたい時間に、食べたいものを食べるのである。たしかに合理的に見えるが、この合理的な食事方法は、食事という家族にとっての最大の「儀式」の場と時間を崩壊させる効果も発揮することになるだろう。

 飲み物の歴史、外国からの料理の取り入れの歴史、発酵した食物の文化圏の違いなど、まだまだ楽しいテーマがたくさいある。読者にはそれぞれに異なる食事の歴史があるはずであり、読んでいるうちに、思いがけずに自分の生活史が、日本の食事の歴史と交叉していることに気付かされることだろう。

【書誌情報】
■石毛直道 食の文化を語る
■石毛 直道【著】
■ドメス出版
■2009/04/20
■418p / 19cm / B6判
■ISBN 9784810707151
■定価 3990円


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2010年05月19日

『政治概念の歴史的展開〈第1巻〉』古賀 敬太【編著】(晃洋書房 )

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「重要な政治的な概念の歴史的考察」

 政治的な概念の歴史的な展開を考察するシリーズで、第三巻まで刊行されている。ドイツには『歴史的な基本概念』という9000ページに及ぶ大シリーズがあるが、それには及ばないものの、ひとつの概念に20ページほどを使って考察している。古代から中世を経て近代までの流れを展望し、現代の論争的な状況を解説し、最後にお勧めの参考文献をあげるという標準的な作りだが、枚数がかなりあるので、参考になるだろう。ぼく好みの本ではある。

 この第一巻では、自由、平等、友愛、人権、寛容、正義、公共性、権力、国家、官僚制、市民社会、連邦主義という一二の概念が考察されている。筆者はみな異なるが、それほどの凹凸はなく、標準的な出来栄えになっている。

 たとえば「自由」の項目では、ルソーの一般意志の概念を批判したヘーゲルが、特殊と普遍の実質的な媒介を目指して、「個人の個別性と特殊的利益が権利として承認されつつも、普遍的な利益に媒介され、このことを個人が承認するという構図」(p.11)を思い描いたが、個人の自由を享受する私人たる市民と、政治的な自由を享受する公民との分裂が解消されないために、これが破綻される筋道を描いていてわかりやすい。

 また「公共性」の項目では、政治哲学が始まったプラトンにおいてすでに、「開かれていることを最大の特質とする実践的な公共空間への懐疑と不信に淵源する」(p.131)という皮肉な状況が描かれ、ホッブズにおいて「人間の共同体の淵源をその善き本性に求めるアリストテレス依頼の伝統的な理解」が完全に否定される(p.135)ことが指摘される。

 「国家」の項目では、ギリシアの国家がオリエントの「帝国」概念との対立で国家というものを考え始めたこと、「膨大な官僚機構をそなえ、権力支配によって多くの人間を服従させる〈帝国〉ではなく、公と私を分離して、公共圏としてのポリスを国家概念のモデルとして描く」(p.172) ことが試みられたことの由来の考察から始めているのも、納得のゆくところである。

 ホッブズ、ロック、ルソーなど、非常に多くの項目で登場する哲学者もいて、近代の初頭に政治的な概念がいかに大きく転換したかを実感させられることになる。読者は章末に示された参考文献を手がかりに、さらにそれぞれの項目についての考察を試みることができるだろう。

 ドイツやフランスには多くみられる哲学の基本概念の歴史的な考察として、もっと前からあってよかった本だと思う。第二巻では政治、国民、契約、主権、支配、独裁、革命、戦争、共通善の九つの概念が、第三巻では徳、平和、共同体、ナショナリズム、パトリオティズム(愛国心)、コスモポリタニズム、抵抗権、専制、例外状態の九つの概念が考察されている。重要な概念ばかりで、つい残りの二冊も揃えておきたくなる。

【書誌情報】
■政治概念の歴史的展開〈第1巻〉
■古賀 敬太【編著】
■晃洋書房
■2004/05/10
■264p / 21cm / A5判
■ISBN 9784771014954
■定価 3255円



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2010年05月17日

『幼児期と歴史―経験の破壊と歴史の起源』ジョルジョ・アガンベン(岩波書店)

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「インファンスの二重の意味」

 アガンベンの初期の著作であるこの『幼年期と歴史』は、『言葉と死』のような連続したセミナーではなく、論文集という性格をもつものである。ただし本書の「目玉」である「インファンティアと歴史」の文章が圧倒的な迫力をもって迫るので、ほかの論文を読む元気を失うほどである。だまされたと思って、本書の半分近くを示すこの論文を読んでいただきたい。美学の領域から仕事を始めたアガンベンが政治哲学の領域へと進出する転換点のようなところにある論文である。

 ほかの論文をひとまずみておこう。「おもちゃの国」ではピノキオの「遊戯の国」のエピソードを手掛かりに、儀礼と遊戯という行為の意味を考察する。遊び道具は、過去の聖なる器具がその聖性を失った遊具になったものであり、その意味では亡霊や幼児のように、死の世界と生の世界をつなぎ、切断する意味をもつ。亡霊は「生きている死者」(p.148)であり、幼児は「死んでいる死者、あるいは半分死んでいる者」だからである。

 アガンベンはこの死の世界と生の世界の対比を、共時態(構造)と通時態(出来事)の対比として考え、「儀礼が通時態を共時態に変形する機械であるとすれば、逆に、遊戯のほうは共時態を通時態に変形するための機械である」(p.132)と定義する。レヴィ=ストロースも援用した考察は、まだまだ掘り下げればおもしろいものがでてくることを予感させる。

 「時間と歴史」は、円環としての時間と直線としての時間という伝統的な区別に依拠しながらも、この時間を否定し、超越する「快楽」を提起することによって、こうした区別を崩壊させてしまう。歴史は「快楽の本源的な場所としてのみ」人間にとって意味をもちうる(p.184)というのである。「真正な革命は、ベンヤミンか想起しているように、いつの場合にも、時間の停止およびクロノロジーの中断として生きられたきたのだった」(同)という結論は意表をつく。

 「君主とカエル」はアドルノとベンヤミンの「論争」を詳しく紹介しながら、アドルノがベンヤミンを俗物唯物論者として非難していった経緯を考察する。フランクフルト研究所からの援助がほとんど最後の頼りの綱であったベンヤミンにとって、深い理解者であったアドルノからの「難癖」が、どれほどにつらいものだったを思うと、アドルノのかたくなさがもたらした「害」は大きかったと思わざるをえない。

 さて、「インファンテイアと歴史」は、語ることのできない(インファンス)という時期をかなず経る人間にとっての言語の意味を問うものである。精神分析には「小児健忘」という概念があり、幼年期の数年間の出来事はほぼ完全に記憶から失われてしまうことの理由を考察する。フロイトはそこに抑圧の働きをみいだす。そしてエディプス・コンプレックスの克服が、その限界を画すると考える。

 しかしアガンベンは「言葉をもつ動物」であるというアリストテレスの定義にたいして、人間はそもそも言葉を話さない動物であることに注目する。小鳥は生まれたときから、その種に固有の声で囀る(うぐいすは学ばないとうまく鳴けないが、それでもうぐいすの声がある)。ミンミンゼミはどの個体も生まれながらにミンミンと鳴く。しかし人間には人間に固有の「声」のようなものがない。人間は固有の「声」については、いわばタブラ・ラサで生まれるのだ。

 これは二重の意味をもつ。一つは人間は話すことを学ぶ必要があるということだ。そして学んでしまうということは、「純粋の、いわばなお物言わぬ経験」(p.82)というものを剥奪されるということである。「そのときには、本源的な経験は、なにか主体的なものであることからほど遠く、人間において主体以前のもの、すなわち言語活動以前のものでしかありえない」(同)ことになる。言語活動は、インファンティアの限界を画するのである。

 もう一つは、人間はバベルの塔の崩壊によって散らされて話すようになった多数の言語のうちのどれでも話すことを学べるということである。インファンティアがなければ、人間は生まれつき一つの言葉しか話すことができず、すべての人間は同じ言語を話していただろう。言語の差異も文化の差異も生じなかったに違いない。これがあるからこそ「歴史は存在する」(p.92)のである。

「歴史にはじめてその空間を開くのは、インファンティアなのである。ラングとパロールのあいだの差異の超越論的な経験なのである」(P.93)。アガンベンはまだまださまざまな側面からこの問題を考察するので、とてもここには書ききれない。ぜひ本書を紐解いていただきたい。

【書誌情報】
■幼児期と歴史―経験の破壊と歴史の起源
■ジョルジョ・アガンベン
■上村忠男訳
■岩波書店
■2007/01/26
■262p / 19cm / B6判
■ISBN 9784000254571
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/400025457X.jpg
■定価 3360円

○目次
序 言語活動の経験
インファンティアと歴史―経験の破壊にかんする論考
おもちゃの国―歴史と遊戯にかんする省察
時間と歴史―瞬間と連続の批判
君主とカエル―アドルノとベンヤミンにおける方法の問題
おとぎ話と歴史―プレセペにかんする考察
ある雑誌のための綱領


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2010年05月14日

『新世界の悪魔 ― カトリック・ミッションとアンデス先住民宗教』谷口智子(大学教育出版 )

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「アンデスの神と悪魔」

 テーマになっているのは、南米のアンデス地方において、カトリックの宣教師たちにキリスト教に改宗させられた現地の人々の宗教心の複雑なありかたである。大きく二つの部分で構成され、前半は一七世紀の改宗の直後の状況が中心であり、後半は現代のフォークロア的な形で表現された宗教心が中心となる。

 前半で描かれるのは、一七世紀に「魔術師」として処罰されたファン・バスケスの物語である。この人物は熱心なカトリック信徒であるが、祖先伝来の薬草や呪術による治療の術に長けていて、多くの人々を治療したという。本人は、キリスト教の神から術を夢の中で伝えられたものだと主張した。

 ちょうど本土のスペインで魔女狩りが流行していたこともあって、バスケスの「奇蹟」は魔術と解釈された。「それらの智恵が自然的徳に基づいておらず、文字によって得られた知識でない」(p.56)からである。さらに薬草による治療はスペイン人には医学として承認されていないという事情もあった。かれの術が治療の実績をあげたことは事実であるが、当局はどうしてもそれを認めず、処罰したのだった。

 この事例はキリスト教に改宗したものの、それまでの民衆的な慣行があくまでも効果を発揮するために、それを捨てきることができない「魔術師」と、その治療に頼らざるをえない民衆の苦悩を象徴的に示したものである。当時の当局の疑いは、改宗したとみせかけて、背後で人々が異教の崇拝をしているのではないかということだった。土葬された家族の死体は、土に潰されてかわいそうだからと教会の墓場から掘り出して、山の洞窟に運んで供養するという土俗的な営みが、どうしてもやまなかったためでもある。

 後半では、ピシュタコという「悪魔」が中心になる。これは境界的な立場にある人々が現地の人々を襲って殺し、その脂肪をとって売るという伝説的な人物である。「黒ずくめの格好で、帽子をかぶり、顎鬚をつけ、鋭い刃物を持つ」(p.131)という人物像からも、外国人のイメージが強いが、「村落の住人である場合もあり、外から来た異人でもある場合がある」(p.137)というように、村落と外部の境界にいて、共同体の掟を守らない悪魔のイメージである。

 これは改宗してから長い期間が経った後に、改宗を強いたスペイン人にたいする怨恨の思いが、「植民地主義批判としての悪魔のネガティブなイメージ」として表現されたものであると同時に、「先住民の生存のありかた」を尊重することができれば、西洋文明との仲介者になることができるのではないかという両義的な存在として表現されたもののようである。

 これらのテーマはとても興味深いものであり、著者が示す別の事例とともに、さらに解釈を進めることができるだろう。ただし著者が前半部で示す理解の格子はあまりうまく機能しない。著者は「エリートの宗教と民衆の宗教」というカテゴリー、リクールの「顕現」の宗教と「宣言」の宗教というカテゴリー、「祖系と反復」というカテゴリーを提示して、これが解釈しようとするのだが、どれも部分的にしか説明機能を発揮してくれない。むしろ後半部分で示されたバフチンのカーニヴァルの概念を展開したほうが、分析を深められたのではないかと思う。

 カルロ・ギンスブルグが『ベナンダンティ』で描いた民間の魔術師は、新世界ではさらに強烈な姿を示すだけでなく、征服者と被征服者、西洋と非西洋という新たな対立軸をもたらす。いずれにしても、あらたな解釈と分析の意欲をそそるテーマではある。

【書誌情報】
■新世界の悪魔 ― カトリック・ミッションとアンデス先住民宗教
■谷口智子
■大学教育出版
■2007/12
■192p / 22cm / A5判
■ISBN 9784887308046
■定価 3255円

●目次
第1章 「名」と「像」の葛藤 1.エリアーデの「ヒエロファニー」における「聖と俗の弁証法」 2.リクールにおける「顕現」の宗教と「宣言」の宗教 3.「偶像崇拝」と「ヒエロファニー」 4.「偶像崇拝」と「顕現」の宗教 5.上田閑照による「経験と言葉(自覚)」の3つのモデル 6.ヒエロファニーとしての「偶像崇拝」 

第2章 ペルーにおける「偶像崇拝・魔術」撲滅巡察の歴史 1.初期の改宗計画 2.タキ・オンコイと最初の巡察 3.副王トレドとリマ異端審問 4.リマ大司教区教会会議とイエズス会の活動 5.アビラによる偶像崇拝撲滅巡察の開始 6.リマ大司教区と偶像崇拝僕滅巡察の体制化 

第3章 「魔術師」ファン・バスケス 1.「エリートの宗教」と「民衆の宗教」 2.「インディオ、ファン・バスケスに対する魔術師ゆえの罪」 3.スペインの悪魔学 4.バスケスの治療の先住民的ルーツ 5.「魔術師」ファン・バスケス 6.正統主義が孕む問題 7.宗教の混淆化 

第4章 カトリック・ミッションとアンデス先住民宗教における祖型と反復 1.ユダヤ・キリスト教の伝統における祖型と反復 2.祖型としてのグレゴリオ1世 3.集村化のモデル 4.集村化 5.アンデス先住民の聖なるトポス 6.天空神 7.大地と石 8.灌漑水路と畑 

第5章 「世界は逆転している」 1.魂の救済=植民地化は等価交換か? 2.個々人のモラル・ハザード 3.先住民の道徳的堕落について 4.先住民側の反応 

第6章 我々の祖先は悪魔なのか? 1.祖先神と創造神話 2.豊饒の泉としての祖先 3.アンデスの神話において語られる祖先=悪魔 4.レイミー族の死者儀礼 

第7章 鉱山の悪魔 1.「鉱山の悪魔」研究とその批判 2.山の神ティオ 3.仲介者 4.ティオの悪魔化 5.民衆の悪魔-価値の転倒- 第8章 ピシュタコ 1.「ピシュタコ」前史 2.神話的イメージとしての「ピシュタコ」 3.供犠の象徴的意味 4.脂肪とり魔 5.異人、すなわちコスモスを破壊する者 6.問われる研究者の位置づけ


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2010年05月12日

『共和主義ルネサンス ― 現代西欧思想の変貌』佐伯啓思/松原隆一郎編集(NTT出版)

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「共和主義理論のわかりやすい入門書」

 ポコックの力作『マキアベリアン・モーメント』の影響のもとで作られた書物であり、ほとんどすべての論文で、ポコックの恩恵が語られている。ポコックが示した共和主義の系譜をたどり直す論文と、共和主義について正面から考察する論文で構成されている。共和主義について考察する論文は、どれも共和主義とは何かというところからスタートするので、書物としてはあまりうまく編集されていない印象をうけるが、同じテーマが異なる視点から語られるという意味では、おもしろい。お手並み拝見と、ちょっと意地悪な気持ちになったりする。ここでは三人の共和主義の定義を比較してみよう。

 巻頭の佐伯啓思の「〈自由〉と〈善き生〉」の論文は、共和主義の一般的な特徴について、もっとも網羅的に考察している。著者は共和主義に共通にみられる要素を次のようにまとめてみせる。 (一)共通の善をめざす政治 (二)「美徳」をもった市民 (三)自立した自由な個人と国家 (四)愛国心と政治的な義務 (五)市民としての対等性 (六)「法」による支配 (七)権力の堕落・腐敗への批判 (八)政治体制としての権力の分散、混合体制 (九)商業や金銭主義的な市場競争社会(商業社会)への警戒(p.36)

 このキーワードはすべての共和主義に該当するものというよりも、「家族的な類似性』のイメージで考えられているのだろう。また第二論文では、近代のイングランドとアメリカにおけるハリントンやジェファーソンなどのいわゆる「ネオ・ローマ的共和主義」、すなわち公民的な徳によって支えられる政治への志向の特徴として、(一)腐敗から市民の自由を守ることを第一義的な課題とすること、(二)そのための統治機構の整備、とくに政治制度や基本的な法のありかたに重点を置くこと、(三)市民の政治的な自由を保護するために、所有の平等などの経済的な平等を重視することをあげている(p.67)。これも特徴を絞ったわかりやすい要約である。

 また共和主義の歴史的な考察においてもやはり共和主義とは何かが語られる。第四章「共和主義パラダイムにおける古代と近代」では、共和主義の原理を次の三つに要約する。
(一)「徳の支配」。徳によって支配され、善の実現を究極の目的とする国家こそが真の国家であると考える。
(二)「法の支配」。自由・平等な市民が相互に統治する唯一の方法は、みずから作り、みずからに対して課する法による支配だけだと考える。
(三)「人民の支配」。最多数者である人民による支配こそが、自由な国家の不可欠な条件と考える(p.139)。

 この論文は古代のアリストテレスとキケロ、ルネサンスのマキアヴェッリ、近代のロック、モンテスキュー、ルソー、ヒュームと、共和主義的な思想の伝統がうけつがれ、発展させられていく筋道をたどっていて、とてもわかりやすい。やはり歴史的な流れとともに語るほうが、読者の理解を深めるだろう。

 第三章の「現代のコミュユニタリズムと共和主義」は、共和主義的な傾向があるアメリカのコミュニタリズムとの関係を考察し、第五章「共和主義とリベラリズム」では一七世紀のイングランドの政治思想における共和主義的な要素を点検し、第六章では特にバークと共和主義、第七章では特にケインズと共和主義の関係を考察していて参考になる。今流行の共和主義理論の分かりやすい入門書としてお勧めである。

【書誌情報】
■共和主義ルネサンス ― 現代西欧思想の変貌
■佐伯啓思/松原隆一郎編集
■NTT出版
■2007/08
■335p / 21cm / A5判
■ISBN 9784757141599
■定価 3990円

●目次
第1部 共和主義の現代的意義
第一章 「自由」と「善き生」―共和主義の現代的変容
第二章 共和主義とリベラルな平等―ロールズ正義論にみる共和主義的契機
第三章 現代のコミュニタリアニズムと共和主義

第2部 共和主義の歴史的展開
第四章 共和主義パラダイムにおける古代と近代―アリストテレスからヒュームまで
第五章 共和主義とリベラリズム―十七世紀イングランド政治思想への眼差し
第六章 「共和国」という「統治の学」の殿堂―ジェイムス・ハリントンとエドマンド・バークにみるその意義
第七章 イギリス経済思想における共和主義の影―スミス・ヒューム・ケインズ


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2010年05月10日

『アドルノ-政治的伝記-』ローレンツ・イェーガー(岩波書店)

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「逸話が楽しいアドルノ伝」

 アドルノの孫弟子にある人のアドルノ伝。「政治的」という形容詞がついているが、それほど政治的なものではなく、むしろ音楽家としてのアドルノの顔が透けてみえるようなエピソードが多くて、おもしろい。

 たとえばアドルノと互いに敬意をもってつきあっていたトマス・マンは「過去の音楽についての彼の知識、音楽のすべての領域を心得ている彼の知識は膨大だった。アドルノと一緒に仕事をしたことがあるアメリカの女性歌手が私に、『信じられないわ。彼は世界中のすべての楽譜を知っているのよ』と言ったことがある」(p.10)という。音楽は、アドルノの「一家の文化的な営みの中心を占めていた」(同)こともあって、耳から流れ込んできて、「記憶と音を頼りに楽譜をめくったものだった」(同)という。

 それだけでなく、アドルノにとって哲学と音楽は内的に密接につながっているもののようだ。たとえばフッサールについての博士論文では、超越の概念が「意識の枠組み」との関係で考察されているが、「意識の枠組み」という説は、「認識論的にだけでなく、音楽的にも解釈できる」(p.50)という。「作曲というものは、アーノルト・シェーンベルクが定義したように、枠組みに関する教説なのである。アドルノの場合には、哲学的なテクストがそのまま音楽理論としても読める」(同)ところがあるという。

 そしてある音楽理論家は、そこにアドルノの特異性と優越性をみいだすことになる。作曲家としてのアドルノは、「子供時代に起きたモダニズム音楽の黎明期を懐かしむ思いにあふれていた」(p.63)というくらいで、あまり才能に恵まれてはいなかったらしい。師事したシェーンベルクには後に「彼はもちろん一二音音楽についてすべてを知っていた。しかし作曲の仕方については、まったく知らなかった」(p.217)と酷評することになる。しかし「彼が音楽と言語の相似性をテーマとした点は、ほかの誰もなしえなかった」(p.63)とは、言えるかもしれない。

 また演奏はあまり上手ではなかったらしい。晩年の演奏を聞いたある美学者は、「音楽の老化はアドルノの場合、もうグロテスクでした。彼がシュトックハウゼンやヘンツェの話をすると、モダン音楽とは何であるか、もうまったく分かっていたのではないか、という印象を私はいつも受けていました。……われわれにとってはケージが決定的でしたが、アドルノには分かっていませんでした」(p.312)という評価は、鋭いだろう。

 この伝記は、アドルノがホルクハイマーとアメリカに亡命した頃の記述から、だんだん意地悪になる。精神分析を使った大衆の意識分析がいかにまがいものであるか、フランクフルト研究所を守るために、ベンヤミンの原稿に手をいれるなど、恥知らずなことをしていたか、学生に「抵抗」を教えて、魔法使いの弟子のように、抵抗の波におぼれて、いかに手も足もでなかったか、身をつまされる思いで読まされる。そうだったのだろうなぁと(ぼくも「抵抗」した側だったし)。

 それでも何よりも忘れないのは、アドルノとベンヤミンのあるエピソードである。二人の友人だったゾーマ・モルゲンシュテルンが伝えた逸話だ。ベンヤミンは彼にアウラについて話していて、クラウスの夢をみたことを話し始める。「実は昨晩クラウスの夢を見たんだ。彼は部屋の中で大きな机の前に座っていたんだよ。全体はのっぺらぼうで、遠近法がない光景だった」(p.109)。そこにアドルノが口をはさむ。「そう、中世の絵みたいにね」。「ベンヤミンは沈黙して私の方を長いあいだ、見つめていました」。

 それからベンヤミンはまた話し出す。「クラウスが座っている机の上には、大きさの違うピストルがたくさん置いてあったんだ。カール・クラウスは、通り掛かる人達一人一人とほんの短い時間議論した後、そいつに向かってピストルを撃つのさ」。するとまたアドルノが口をはさむ。「そのたびに違ったピストルでだよね」(p.110)。またしてもベンヤミンはゾーマを見つめる。

 ゾーマは不思議に思ってあとでベンヤミンにこの夢について聞いてみる。するとベンヤミンはアドルノには夢の話はまったくしていないと語る。「彼には何も話していないさ。あいつは僕を夢のなかまで追いかけてくるのさ」(p.111)。アドルノはベンヤミンの『パサージュ』論にぞっこんほれ込んでいた。そしてベンヤミンが直観だけで作りだしたイメージには、媒介する概念がないと厳しく批判していたのだった。

アドルノはベンヤミンの作品を分析することに熱中していた。そのためにベンヤミンが適切な概念を提示しないと、分析できなので不満だったのだ。だからアドルノはベンヤミンの夢のなかまでも追いかけて、自分が分析するための概念を手探りで求めていたに違いないのである。

 この著者は、アドルノの後半の人生には厳しい眼を向けるが、前半ではシャズをあれほど嫌っていたアドルノが、若い頃に「四分音符でラグタイムを口ずさんでいた」(p.24)ところなどを、さわやかに描きだす。アドルノの『否定の弁証法』などの著作についての理論的な考察はほんの駆け足程度で、少し物足りない。

 それでも学生運動を起こして、アドルノを批判した学生たちに、実は好かれていたこと、『啓蒙の弁証法』が当時密かなブームだったこと、学生たちのいたずらっぽい「反抗」に、きわめてまずい反応を示すしかなかったことなど、エピソードだけを読んでも楽しい。

【書誌情報】
■アドルノ-政治的伝記-
■ローレンツ・イェーガー著
■大貫敦子、三島憲一訳
■岩波書店
■2007/12
■13, 352, 36p
■ISBN 9784000220385
■定価 3800円


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2010年05月07日

『聖なる共同体の人々』坂井信生(九州大学出版会)

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「ウェーバーのテーゼの検証」

 この書物は、アメリカ、カナダ、メキシコに移住した再洗礼派の共同体のルポルタージュであり、アーミシュ、ハッタライト、メノー派の共同体の現在の状況が報告されている。映画『刑事ジョン・ブック目撃者』)で描かれたアーミシュの共同体は圧倒的な迫力だった。とくに村を挙げての納屋の建築と、緊急を知らせる鐘の音に集まる村人たちの姿が印象的だった。

 そして本書によると、あの映画が撮影されたのは、伝統をあくまでも固持する旧派アーミシュのペンシルヴァニア州ランカスターであり、現在でも映画の撮影当時と状況はほとんど変わっていないらしい。

 本書が興味深いのは、こうした「聖なる共同体」で暮らす人々の暮らしぶりの面白さだけではなく、宗教的な伝統を維持した再洗礼派の共同体において、ウェーバーが示したテーゼがどのように検証され、彼が指摘した逆説がどのように回避されるかを明らかにしているからである。

 ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で描いたのは、プロテスタントの倫理の宗教性が失われた後に、そのエートスがいかに資本主義の精神を作りだす上で貢献していったかということだった。本書に描かれた共同体では、宗教性を強く維持しているだけに、ウェーバーのテーゼが直接的に検証できることになる。

 ウェーバーのテーゼは三つの基準な要約することができるだろう。(一)修道院の内部ではなく、世俗的な社会で禁欲を維持すること、(二)労働は、神か与えられた召命として神の名を高めるために行われるべきこと、(三)自己の救済はこの労働が禁欲的に行われるかどうかにかかっていること。そして彼が示した逆説は、信徒たちが労働をまじめに行うほどに、その共同体の宗教性が希薄なってゆくというきことだった。これらの共同体はこうした基準を守っているだろうか、またどうやってこの逆説を回避しているだろうか。

 アーミシュでは、「長時間労働にいそしみ、自家製の質素な衣服を身にまとい、この世的な一切の娯楽を慎み、さらに高額な農業機械の使用を禁じる自給自足的禁欲生活」(p.47)が送られていることからも、(一)禁欲の基準に適合していることは明らかである。ただしプロテスタントの禁欲は、必然的に富をもたらし、それが宗教性を薄めるという逆説を、アーミシュは二つの方法で解決している。

 一つは、閉じた共同体の内部で一生を過ごし、外部の誘惑を遮断することである。世俗的な生活を容認しているかぎり、宗教性は薄れざるをえない。これは遮ることができないものである。しかしアーミシュのように外部の者を排除し、共同体の内部で生まれた者たちだけで共同体を維持し、教育も共同体の内部で行うようにし、両親が厳しい宗教教育を担当するならば、そして違反者にたいする厳しい制裁が維持されるならば、この宗教性の稀薄化は避けることができるだろう。

 第二は、ここで生まれた富は、贅沢な用途に消費されるのではなく、共同体の拡大と分封に利用することで、富を有効利用することができることである。アーミシュでは「生めよ、殖やせよ」という原則にしたがって、一つの家族で一〇人ほどの子供たちを出産する。医療の問題で、幼児の死亡率がいくらか高いとしても、多数の子供たちが成年し、新たな農場を必要とするようになる。そのためには外部から土地を購入する資金が必要であり、蓄積された富はそのために活用できる。これは共同体の衰弱を防ぐためにも、重要な役割をはたすのである。

 第二にアーミシュの労働観には、「神の栄光を高める」という目的はみられないという(p.79)。しかし都市を避けて農業に専念することは、「神の定め」であると考えることは、ある意味ではこの基準を潜在的に認めることであろう。また「一生苦しんで、地から食料をとる」農業に従事することが、神の命令であると信じていることも、自己の救済が農業への従事によって確保されることを裏返しにしたものと考えられるだろう。この共同体のうちで暮らし、この共同体の維持に力を尽くすことは、信者としての救いをもたらすと考えられているのである。

 そのことは、「その宗教的理念は成員のエネルギーを経済的成功のみではなく、現世を越えたところで与えられる永遠の報酬をも保証する農業へのひたむきな献身に方向づける」(p.48)とされていることからも明らかだろう。

 このことは、モラヴィア同胞団の流れを汲むハッタライトではさらに顕著である。この集団は、アーミシュとは違って、高度に機械化された農業を営む。そのために共同体の内部に蓄積される富も格段に大きくなる。それだけにわずか百年ほどの間に、巨大な拡張を実現している。一八七四年には三か所のコロニーに四四三名の信徒が暮らしていたが、一二〇年後の一九九六年には、四三〇のコロニーに三万七千名以上の信徒が暮らしている(p.95)。じつに百倍近くまで信徒の数が増大しているのであり、その成長力には驚かされる。ただしその他の面ではアーミシュと同じように禁欲的であり、外部の誘惑から共同体を閉ざしている。

 ハッタライトで特徴的なのは、私的所有を否定し、個人の自己否定を教えこむことである。幼児期から死ぬまでの教育によって、自己実現ではなく、自己否定の重要性が教え込まれる。「個人は謙遜であり、従順であらねばならない」(p.108)と教え込まれ、洗礼までの二〇年の間に信徒は共同体の教えを受容するように期待される。そしてみずからの意思で洗礼をうけなければ、共同体の正式なメンバーとして認められることも、結婚することもできない。この共同体では教育によって「神についての知識を神を恐れること」(p.109)をしっかりと教えられるのである。

 メキシコに移住したメノー派も同じような禁欲の姿勢を維持している。「基本的にはこの世からの分離、成人洗礼、絶対平和主義といった再洗礼派に共通した特徴的な宗教的信念を持ち、単純素朴な生活様式、相互扶助といった伝統的な生活実践を行っている」(p.163)のである。

 この宗派ではとくに信徒の救済に教義の重点がおかれるのが特徴的である。個人としてだけでなく、「ひとりの脱落者もなく、成員全体が集団的に救済されることに大きな力点がおかれている」(p.163)という。基本的にこれらの三つの集団では、ウェーバーのテーゼはほぼ裏付けられていると考えることができるだろう。

 なお、日本の那須山中にハッタライトのコロニーが存在する、大輪コロニーとして、本地のハッタライトから正式に承認をうけているという。ただし数家族だけで構成されるコロニーであり、高齢化を迎えて、内部からの補給だけでは存続が難しくなっているらしい。

【書誌情報】
■聖なる共同体の人々
■坂井 信生【著】
■九州大学出版会
■2007/10/10
■218p / 21cm / A5判
■ISBN 9784873789569
■定価 3360円

●目次
序章(はじめに;セクト ほか)
第1章 アーミシュ(アーミシュ略史;宗教的理念と実践 ほか)
第2章 ハッタライト(ハッタライト略史;ハッタライト・コロニーの生活 ほか)
第3章 メノニータス(メノナイト略史;宗教的理念と実践 ほか)


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2010年05月05日

『マックス・ウェ-バ-と妻マリアンネ ― 結婚生活の光と影』クリスタ・クリュ-ガ-(新曜社)

マックス・ウェ-バ-と妻マリアンネ ― 結婚生活の光と影 →bookwebで購入

「サブタイトルで引かないように」

 ウェーバーの伝記は、妻のマリアンネのものが圧倒的な詳しさと当事者性から確固とした地位を占めている。しかし妻が書いたものだけに、どうしてもぼかされてしまうところ、描かれないところというものもでてくるものである。本書は、著者がさまざまな関係者の証言や、家族や友人宛ての書簡を発掘して、別の面からウェーバーとその妻の生涯に光を当てようとする。

 ウェーバーの私的な状況を知りつくしていたマリアンヌの情報の価値は高いが、は大きいが、主著とされる『経済と社会』の構成における作為をめぐってさまざまな疑問が出されている。これは主著は言われるが、ニーチェの妹が捏造した『権力への意志』と同じような性格の書物かもしれないのである。

 圧巻なのは、ウェーバーの神経失調症の発病と、その看護においてマリアンネが果たした役割の分析だろうか。妻の伝記では詳しい症状は描かれていなかったが、「焦燥、不眠症、疲労、背中の痛み、発作的ななきじゃくり、頭痛、両手の震え、鈍い放心の状態、口がきけなくなること」(p.101)などだけではない。「苦痛な勃起と射精をともなう、責めさいなまれるような夢と睡眠障害」(p.103)をともなうものであり、ウェーバーはこれを「悪魔たち」(同)と呼んでいたという。

 この障害が父親の断罪とその直後の病死を「原因」としたものであったのはほぼ確実であるが、ウェーバーのエディプス・コンプレックスはたんに母親との愛着だけを原因としたものではなかったらしいので、病はきわめて治療が困難だったろう。夫からの独立と自由を望んでいた母はつねにウェーバーに助けを求めていたが、それでいて母親としてはきびしいプロテスタントの禁欲の精神をもって子供たちを律していたのである。いわばウェーバーには父親が二人いたのであり、超自我の抑圧は二重に厳しかったのである。

 ウェーバーの病は、死を願っていた父親の死への罪の意識だけではなく、父親から守ろうした母親からうけついだ超自我との戦いという意味をもっていたのだろう。母親は息子の病気を本人の意思薄弱にすぎないと責め立てていたのであり、妻と母とに看病されながら、ウェーバーは病気の利得を利用することもあったらしい。妻が母と「意気消沈した夫を時々ひそかに観察し、気力が回復する兆候はないかと窺っていると、マックスはそれにたいしてダンマリ状態に後退することで応じる」(p.113)のである。

 興味深いのは、ウェーバーがローマでフロイトと出会っているらしいことである。著者は「一九〇一年にマックス・ウェーバーはローマで、同じように古典の教育を受けた、ほとんど同世代の男性と会うことができたようである」(p.115)と語っているのである(ただし証拠はない)。ウェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』はフロイトの『性理論三篇』と同じ頃に書かれた書物だった。フロイトのある論文に、この神経失調症にあるウェーバーのこととしか思えない大学教授の逸話が語られているので、前から不思議に思っていた。フロイトとウェーバーが同じ時期にローマに滞在したのはたしかなのだが、どちらの伝記からも、出会いの確証はみつからないのがじれったい。


 また晩年のウェーバーの「老いらくの恋」の逸話もおもしろい。まだ発表されていない書簡などもあって、確実なところをつきとめることができないのだが、『中間考察』において、エロス論が展開される理由は、ウェーバーの恋愛がきっかけだと考えると、実にわかりやすいのである。「婚姻関係の枠外における性生活は、昔の農民にみられた有機的な生活の循環からいまや完全に抜けでいる人間を、なおも一切の生命の根源たる自然へとつなぎとめうるただ一つの絆となる」(ウェーバー『宗教社会学論選』邦訳一四〇ページ)という文章にこめられた熱情は強いものであり、それを理解するための手掛かりがそこにあるのかもしれない(もちろんエロスは抑圧から逃れるための出口としてウェーバーが理論的に提示した抜け道の一つにすぎないが)。

 この書物ではマリアンネの活動と、ウェーバーとの結婚生活にかけた思いの強さも描き出される。ウェーバーが『中間考察』で「老年のピアニッシモのときにいたるまで」と引用符をつけて書いているのが、マリアネンの著書からの引用であり、婚姻の絆を死にいたるまで握り締めていたというマリアンネの願いを肯定的に語ったものであることは、ぼくはこの書物を読んで初めて知ったのだった。

【書誌情報】
■マックス・ウェ-バ-と妻マリアンネ ― 結婚生活の光と影
■クリスタ・クリュ-ガ-著
■徳永恂ほか訳
■新曜社
■2007/12
■322p / 19cm / B6判
■ISBN 9784788510784
■定価 3570円

●目次
第1章 「私は婚約したつもりでいるんですが」
第2章 「哀れな子よ、今日がどんな日か知っているのか、お前の父親は処刑されるのだぞ」
第3章 「ぼくたちはお互い自由で対等なんだからね」
第4章 「君たちはみんな、職業人だけがまともだと思っているのだ」
第5章 「豚でさえそれには怖気をふるうだろうよ」―性倫理の原則的問題
第6章 「友情(兄弟愛)―遥かな国」
第7章 「…自分の国を追われた王様」
第8章 「いざさらにイタカへと船をやれ―汝の老いへ、汝の死へと」
第9章 「それでもやはり―戦争は偉大ですばらしい」
第10章 「偶像や神像の瓦礫の山」

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2010年05月03日

『さらば、“近代民主主義”―政治概念のポスト近代革命』ネグリ,アントニオ(作品社)

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「新しい概念の構築に向けて」

 最近多数の著書が邦訳されているネグリであるが、この書物はネグリが珍しく政治哲学のさまざまな概念と思想について、正面から考察したものであり、何度でも読み、考えを練るに値する書物である。これまでの伝統的な概念には、もはやうまく機能しなくなっているものも多いのであり、ぼくたちはそれに代わる概念を構築していく作業を迫られているからだ。

 ネグリはそのことを「概念の構築の作業は、常に人類学的なプロセスをたどり、協働的な流れ、未来に開かれた装置となっていく。これが移行期における思考の特徴であり、また逆に、この思考の生成は移行期によって強化されていく」(p.3)と表現している。

 ネグリは近代の伝統的な思想が力を失ってきた原因を三つあげている。一つは「非物質的な労働の登場」(p.31)であり、これが伝統的なマルクス主義の労働概念と人間概念をなし崩しに崩壊させてゆく。第二が「主権の生政治的定着」(p.33)であり、「社会の生政治統治は次第に全体化していく。生政治は死の政治学に接する形態として姿を現すまでにいたる」(p.34)のであり、こうした社会において主権という概念はその重要な意味を失うのである。第三が「グローバリゼーション」(p.35)であり、主権をもはや「一者」に還元することができなくなったことである。ネグリは、君主制、貴族制、民主制という伝統的な分類は、すべてこの「一者」に主権を集約する考え方にすぎず、現代のグローバリゼーションの時代にはこの考え方が無効になっていることを指摘する。

 またネグリは、「ポスト近代の思想」として同時代の思想家を三つのグループに分類して批判する。第一は「近代の存在論に対する哲学的な反動」であり、これは「〈弱い思考〉と無力な契約主義にしか行き着かない」(p.41)とされる。「弱い思想」として暗示されているのはリオタール、ボードリヤール、ヴァッティモ、ローティ、ヴィリリオなどであり、「無力な契約主義」で暗示されているのは、ルーマン、ハーバーマス、ロールズ(p.113)である。

 第二は「マージナルな抵抗」であり、これは「一種の〈商品の物神崇拝〉と神秘的な終末論の誘惑のあいだでゆれ動く思想」(同)である。ここに含まれるのはデリダ、ナンシー、アガンベンである。第三は「批判的な思想」であり、ここに含まれるのはフーコーとドゥルーズである。

 このグループのうち、第一のグループについて語られていることはよく理解できる。また第三のグループについては、ネグリはそこから新たな刺激をうけ、理論を展開するための出発点としようとしたのであり、これは『〈帝国〉』の路線から十分にうかがえたことである。新しいのは第二のグループについてだろう。

 ネグリはデリダやアガンベンの創造的な営みは認めながらも、この二人は「この余白、端っこ、断層」(p.123)にしか興味をもたないと指摘する。「デリダに欠けているのは、余白を実際に創造に変えるための積極的・持続的な抵抗の現象学である」(同)。アガンベンに欠けているのは「空虚へのアナーキーな誘惑と、愛をともなって社会的なものの建設の区別を可能にする価値観」(p.124)であるという。少し意地悪だが、どこかに共感も感じられる。

 これとは別に興味深いのは、グローバリゼーションにおける新たな展開として、シャドウワークだった女性労働にたいして、新たな資本の攻勢が始まっていることである。これまでは家事、育児、介護という労働は、主に女性が、ときに男性が賃金の支払いをうけずに、しかも社会での労働を成立させるための影の仕事として、ひきうけることを強いられてきたのだった。きつい仕事でありながらも、家計の主たる人物が会社から給与を支給されるためには、誰かが無報酬でこうした仕事を引き受けざるをえないのだった。

 しかし「資本のもとへの労働の実質的包摂は大きく変化」(p.91)するようになり、「女性労働の伝統的な形態とみなされていたもの(家事、介護労働、子育てなどの情動労働)は、ますます一般的な労働組織システムの中に組み込まれ」(同)るようになってくるのである。これは一大市場として、資本が投下される場所となってくる。

 これまでは無報酬で引き受けさせられてきた仕事が、外部からの援助のもとで行われることは、それ自体としては好ましいことである。しかしこのような「労働が女性になる」(同)こと(これはドゥルーズの「動物になる」という概念で理解すべきである)は、「価値化の空間の再定義」であり、資本がもはやこの分野をシャドウのままに放置しておかず、そこに市場をみいだそうとすることを意味するのである。これまで価値の領域の外に置かれていた影の仕事が、価値の領域の内部にとりこまれることで、生政治の統治がさらに緊密なものとなっていくことは、見逃してならないだろう。


【書誌情報】
■さらば、“近代民主主義”―政治概念のポスト近代革命
■ネグリ,アントニオ著
■杉村昌昭訳
■作品社
■2008/01/20
■251p / 20×14cm
■ISBN 9784861821707
■定価 2520円

○目次
序文―新たな政治の文法づくりの“工房”として
近代/ポスト近代の区切り
マルチチュードの労働と生政治的組成
グローバリゼーションと集団的移動―平和と戦争
公と私を超えて―「共」へ
マージナルな抵抗としての「ポスト近代思想」批判
差異と抵抗―ポスト近代の区切りの認識から、来たるべき時代の存在論的構成へ
抵抗の権利から構成的権力へ
ガバメントとガバナンス―「政府形態」の批判のために
決定と組織
共通の自由の時間
結び―マルチチュードを形成することは、新たな民主主義をつくることである


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