« 2010年03月 | メイン | 2010年05月 »

2010年04月30日

『監獄ビジネス-グローバリズムと産獄複合体-』アンジェラ・デイヴィス(岩波書店)

監獄ビジネス-グローバリズムと産獄複合体- →bookwebで購入

「監獄ビジネスの危険性」

 グローバリゼーションの時代に、資本が国内市場で新たな市場を開発するための重要な手段の一つが、公的な領域で行われるべき業務を民営化することにあるのはよく知られていることだろう。

 公共機関は、税金で雇った公務員に担わせてきた仕事を民間の業者に委託することで、人件費を節約することができるかもしれない。また競争原理を導入することで、コストを低減できるかもしれない。さらに役所には適切な人材が存在していないかもしれない。ごく身近なところでは、最近は市立図書館の貸し出しカウンターの業務を、民間の書店に委託する例が多いようである。

 これなどは、別に専門の司書を配置して相談業務を担当させれば、それほど問題にはならないかもしれない。しかし最近では国家としてのもっとも枢要な部門でも、民営化が進んでいる。たとえば軍隊や監獄などである。この強制的な暴力を行使する業務は、国家権力のもっとも重要な任務とみなされてきたものであり、こうした分野での民営化は、きわめて大きな問題を引き起こしかねない。

 本書はアメリカにおける監獄業務の民営化に焦点をあてて、それが引き起こしているさまざまな問題を浮き彫りにする。アメリカでは一九八〇年代から監獄の大量増設が開始され、薬物の厳罰化と「スリー・ストライク」の規定によって、囚人の数は爆発的に増大した。国が率先して、監獄に収容する国民の数を増大させているのである。一九六〇年代には囚人の数は三〇万人台だったが、二〇〇七年には二三〇万人台へと一〇倍近くに増大しているのである(p.3)。アメリカの有色人種の三人に一人は、生涯のうちに一度は監獄暮らしを経験することを見込む必要があるほどだという。

 重要なのは、この監獄の業務に民間企業が関与する傾向が高まっており、それが囚人の数をさらに増大させる可能性があるということだ。大手の企業は、監獄の設計段階から関与し、監視やシステムの運営の技術を提供する。『ウォール・ストリート・ジャーナル紙』によると、ウェスティングハウスなどの大手企業は「犯罪対策設備の開発に乗り出し、国防技術をアメリカの街頭で利用できるように、機械設備の更新を進める特別部局を設置した」という(p.93)。

 また民間企業は、監獄の運営に必要な設備や物品の供給によって大きな利益をえている。「建築資材から電子装置、衛生用品にいたるあらゆる種類の商品や、給食から治療、予防医療までのさまざまなサービスを提供」(p.94)しているのであり、こうした企業は「監獄制度の恒久化に強い利害関係をもつようになった」(同)のである。

 さらに民間の監獄も増大しており、州政府はこうした監獄での業務に税金から手数料を支払っている。「これらの株式会社は、収監者をできだけ長く留め置き、施設を一杯にしておくことに強い関心を抱いている」(p.102)のは、経済の論理としてごく当然のなりゆきだろう。そこには、「産獄複合体」(p.5)と呼ばれるべきものが成立しているのである。

 民間企業が監獄業務にかかわることには、いくつもの重要な問題がある。第一に、すでに指摘されたように、企業の利潤を重視する観点からは、囚人の人数が増大すること、そして収容される期間が長くなることは好ましいことであり、これが暗幕の圧力となって、収容者の増加と収容期間の長期化を招くことになる。収監者の更生という監獄のほんらいの目的が見失われて、監禁産業となってしまうのである。

 また、こうした民間の監獄では、公的な機関に求められる説明責任というものがほとんど意識されない。そのため、国の施設以上に、内部でどのようなことが行われているかが不透明になる。一九九七年にはテキサス州のある民間の監禁施設での虐待を写したビデオが公開されて、大きなスキャンダルとなったことがあった(p.102)。さらに一九七四年に禁止されるまで、監獄では「無数の化粧品やスキン・クリームが実験として囚人に試されていた」(p.96)という。囚人は動物実験の対象となる動物と同じまなざしでみらていたのである。

 これらの事例はアメリカが中心であるが、すでにパッケージとした監禁システムが海外に輸出され初めているという。その効率の良さに、南アフリカ、トルコ、オーストラリアなどの諸国が関心を寄せているという。公共の業務を民営化したときに起こる問題について、さらに鋭い視線が向けられるべきだろう。

【書誌情報】
■監獄ビジネス-グローバリズムと産獄複合体-
■アンジェラ・デイヴィス著
■上杉忍訳
■岩波書店
■2008.9
■9,157p
■ISBN 9784000224871
■定価 2300円


→bookwebで購入

2010年04月28日

『ミクロコスモス ― 初期近代精神史研究第1集』平井浩ほか(月曜社)

ミクロコスモス ― 初期近代精神史研究第1集 →bookwebで購入

「近代初期の思想の多彩な研究」

 最近には珍しい作りの本だ。近代初期のさまざまな思想的な思想についての研究を集めて一冊にしたものであり、パラケルスス、デュシェーヌ、画家コペルニクス、ニコラウス・ステノなどの研究、さらに百科全書空間の役割をはたしたルネサンス庭園の研究、ルドルフ二世とその宮廷の研究など、多彩である。ルネサンス庭園では自動人形が取り付けられて、さまざまな動作をしてみせたというし、パラケルススの「徴」の概念は、ミクロコスモスとマクロコスモスの照応を示す医学の実例としても、楽しく読める。

 とくに有益だったのが、ゴルトアマー「初期近代の哲学的世界観、神秘学、神智学における光シンボル」と、フィチーノ「光について」の翻訳である。ピコについて「光の思弁が哲学・宗教や自然哲学・形而上学、そして最終的には自然学にいたるまでの議論の根幹をなしている」(p.259)ことが示され、フィチーノでは「太陽の光は、宇宙の自然学・形而上学的な総体と霊的諸力がもつ支配的な意義とを表現した至高なる一者像である」(p.261)ことが確認される。

 興味深いのはパラケルススが、自然の光が「人間の星辰的身体(アストラル・ボディ)の内部で」(p.275)働くと考えていることだろう。この光は「自然を構成し、貫く原理」であり「自然を光で照らして満たす原理」(p.276)であるというのであり、マクロコスモスを作りだす光が、ミクロコスモスである身体を内側から照らしだすのである。

 またベーメの逆説的な光も魅力的だ。光と火は、「地獄であり神の憤激でもある闇と相対峙している」(p.285)のであり、神は光のうちにも、死のうちにもあるのである。「その二元論は、光が闇の前提とされる逆説的な特徴をもつ一元論的な対立関係として」把握され、「かくして宗教改革的な神の概念が、シンボル・概念性の神秘主義・錬金術的な二元論と並んで登場する」(同)という不思議さがある。

 フィチーノの「光について」の翻訳もありがたい。不可視の光は、非物体的な光であり、物体的な要素から導くことができず、「諸物体よりも上位にあって比類ないほど豊かな、あえて言えば、より明瞭な光に起源をもつ」(p.297-8)はずであり、地上の光からこの不可視の光に上昇する必要があるとフィチーノは考える。「月下の[すなわち地球の]光を暗闇から、つまり星辰的な光を物質から分離して、そこから超天界の光まで、さらにまた理性的な火から知性的な光まで、知性的な光から可知的な光へと昇り」、さらに神的な光に到達するという。グノーシスを逆転させたような上昇の行程は、新プラトン派のプロティノスのように、人間の心の歓喜のうちで、「天空の笑い」のうちで行われるものなのだろうか。光の形而上学を考える上で、このルネサンスの一連の文献は重要な位置を占めることになるだろう。

 なお参考文献が豊富なのも助かる。たとえばノストラダムスの学術的な研究について、この時期の解剖学について何を読めばよいか、一目でわかるようになっている。同人誌的な趣もある書物だが、今後の展開に期待したい。

【書誌情報】
■ミクロコスモス ― 初期近代精神史研究第1集
■平井浩ほか
■月曜社
■2010/02
■365p / 22cm / A5判
■ISBN 9784901477727
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/4901477722.jpg
■定価 3150円

○目次
記号の詩学――パラケルススの「徴」の理論 菊地原洋平
ルネサンスにおける世界精気と第五精髄の概念――ジョゼフ・デュシェーヌの物質理論 平井浩
画家コペルニクスと「宇宙のシンメトリア」の概念――ルネサンスの芸術理論と宇宙論のはざまで 平岡隆二
百科全書的空間としてのルネサンス庭園 桑木野幸司
アーヘン作《トルコ戦争の寓意》シリーズに見られるルドルフ二世の統治理念――《ハンガリーの解放》考察を通して 坂口さやか
ハプスブルク宮廷におけるディーとクーンラートのキリスト教カバラ思想 小川浩史
伝統的コスモスの持続と多様性――イエズス会における自然哲学と数学観 東慎一郎
ニコラウス・ステノ、その生涯の素描――新哲学、バロック宮廷、宗教的危機 山田俊弘
初期近代の哲学的世界観、神秘学、神智学における光シンボル クルト・ゴルトアマー(岩田雅之訳)
光について マルシリオ・フィチーノ(平井浩訳)
ルネサンスの建築史――ピタゴラス主義とコスモスの表象 桑木野幸司
ノストラダムス学術研究の動向 田窪勇人
ルネサンスの新しい身体観とアナトミア――西欧初期近代解剖学史の研究動向 澤井直


→bookwebで購入

2010年04月26日

『マキァヴェッリの生涯―その微笑の謎』ヴィローリ,マウリツィオ(白水社 )

マキァヴェッリの生涯―その微笑の謎 →bookwebで購入

「実にヴィヴィッドに描かれた生涯」

 マキアヴェッリの肖像画はたしかに、口元に皮肉な、そしてどこか悲しげな微笑を浮かべている。本書は、マキアヴェッリの生涯のさまざまな出来事と、彼の野心の蹉跌の歴史をたどりながら、その微笑の謎を解こうとする意欲的な伝記である。

 もちろん微笑の謎は、ほんとうの意味で「解く」ことはできない。それでもマキアヴェッリの生来の笑い好きの性格と、その生涯の多数の蹉跌の事情を考えてみれば、その微笑の謎も少しは「わかった」つもりになるくらいはできるだろう。著者が行っているのもそのくらいのことであり、微笑の謎は数回にわたって推測される。

 たとえば「わたしたちはようやくニッコロの微笑の意味がわかりかけてきた。微笑が口元で消え、痛みを隠すことはわかった。自らの愚かさに気付かないまま、様々な感情に左右され、動揺する人間たちに、マキアヴェッリは微笑みかける」(p.184)のように。あるいは「その手紙は、ニッコロが例の微笑の裏側に隠していた表情を、わたしたちに他の何よりもわかりやすく教えてくれる」(p.272)のように。

 それでも城壁の上にたって裾をめくって秘部をみせて「いくらでも子どもを作ることはできる」(p.46)と、復讐を誓ってみせたカテリーナ・ウフォルツァ、フィレンツェの支持がえられないとわかって「一瞬にして失望の面持ちに変わった」ヴァレンティアーノ公が、「想像を絶する」暗殺計画を思いついた瞬間、そしてマキアヴェッリの拷問など、かれの生涯を彩るさまざまなエピソードが、実にヴィヴィッドに描かれていて、映画をみているような気持ちになる。

 マキアヴェッリは、フィレンツェを共和国として自立させるためにさまざまな計画を立て、軍隊を設立して防衛に成功したりもするが、ルソーのジュネーヴとは違って、支配地域である農村の兵士たちは、祖国防衛の意欲は高くなく、やがてはスペイン軍に敗退して、メディチ家がふたたび支配者となるのだった。

 『君主論』を著したのは、このマキアヴェッリの最初の蹉跌の後、書記官を解任された後のことであり、蹉跌の後のマキアヴェッリの行動と思想の密接な関係をたどるのも、きわめて興味深い。『ディスコルシ』や『フィレンツェ史』を書きながら、マキアヴェッリがどのような歴史的な事件に直面していたか、それが書物にどのように反映していったか。普通の著者とは異なり、マキアヴェッリはイタリアの歴史の重要な局面のうちで、まさに当事者として活躍しながら、そこで学んだ教訓を著書のうちに書き記していったのである。

 最後に皇帝軍がフィレンツェを強奪しようとするのを、マキアヴェッリは友人となっていたグイッチャルディーニとともに懸命に阻止することができた。それによって「軍隊というより、もはや「絶望した大群と化して」(p.275)いた皇帝軍はローマに進軍し、略奪したのだった。そして死の床にあったマキアヴェッリは夢をみた。貧しく苦痛に満ちた顔付きの人々が「天国にゆこう」と誘いあっている。高貴で威厳に満ちた人々が「われわれは地獄に落ちる者よ」と語っている。そこにはプラトンも、プルタルコスも、タキトゥスもいる。夢から覚めたマキアヴェッリは友人に、自分は地獄に落ちるほうがましだと語るのだった。

【書誌情報】
■マキァヴェッリの生涯―その微笑の謎
■ヴィローリ,マウリツィオ著
■武田好訳
■白水社
■2007/06/20
■289,9p / 19cm / B6判
■ISBN 9784560026250
■定価 3570円


→bookwebで購入

2010年04月23日

『気候と人間の歴史・入門 ― 中世から現代まで』ル-ロワ-ラデュリ,エマニュエル(藤原書店 )

気候と人間の歴史・入門  ― 中世から現代まで →bookwebで購入

「スパンの長い歴史研究」

 二〇一〇年の四月の半ばに、アイスランドの氷河の下の火山が噴火し、空に噴煙を吹き上げた。航空機が飛行する高さまで吹き上がったので、ヨーロッパの空からはほぼ一週間にわたって航空機が姿を消すことになった。ほとんどすべての欧州便が飛行を停止したために、映画『ターミナル』のような空港暮らしを強いられた人々もいたと聞く。

 これと同じような噴火が一八世紀末に起きている。一七八三年六月八日のアイスランドのラキガール山の噴火であり、島民の二〇%近くが死亡した。同じ年に日本では浅間山が噴火し、農民に大被害を与え、「日本人の住む土地に大飢饉を引き起こした」(p.97)。

 今回の噴火の際の新聞報道では、この「ラキ事件」があたかもフランス革命の遠因となったというような記事が書かれていたが、著者はこの噴火は「フランス革命の原因」とは少しも関係しない(同)と断定している。それでも異常気象や突発的な自然現象が歴史の流れをときに大きく左右するのは確実である。こうした影響関係を歴史的に考察するのが、「気候の歴史」の学問である。著者はアナール派の歴史学者として著名であるが、世界的な規模での気候の歴史を集中的に研究しており、すでに2000年に『気候の歴史』という著書の邦訳が刊行されており、今回の書物はその「入門版」ということになる。

 たとえば、気候の歴史からは魔女狩りは、「一五七〇年から一六三〇年の超小氷期のとばっちり」(p.46)として理解することができるのであり、南ドイツで一六二六年の五月二四日に霜が降りるという異常な寒気のためにブドウの収穫が壊滅状態になり、「その地方がかつて経験したなかで最も忌まわしく甚大な魔女狩りを引き起こした」(p.46)という。

 また一八一五年の四月五日のインドネシアのタンボラ火山の大噴火は、八万六〇〇〇名の死者をもたらしただけでなく、噴煙によって空を覆い、「一八一六年は夏のない年」(p.99)となったのである。ヨーロッパでは記録される限りでもっともブドウの主客の遅い年となり、穀物収穫は落ち込み、小麦は稀少になり、フランスは黒海から小麦を輸入しなければならなくなった。

 冷夏の副産物もあった。メアリー・シェリーは父親のシェリーとバイロンとともに、
雨の中、ジュネーヴ湖近くの山荘に閉じ込められていて、文学の分野で、フランケンシュタインを生み出した」(p.99)のだった。フランケンシュタインの物語の暗さは、この気象異常の余波かもしれない。

 このように、歴史を気象という観点から巨視的に眺めると、いろいろとおもしろい事実が確認され、楽しい着想が生まれる。記録のない時代については、生活のさまざまな記録が指標として使われる。たとえばブドウの収穫の時期などは、その時代の文献を探ることで確認できるからである。ヨーロッパで数千人の死者をだした二〇〇三年の猛暑なども、世界史的にみて、一つの指標として記憶されるだろう。

 本書は「気候の歴史はどのようにして生まれたのですか」から始まり、「ヨーロッパおよび世界における二〇〇七年夏の非常に対照のはっきりした気象状況は、歴史上例のないものですか」という質問にいたるまで、著者が三二の質問に答える形て、非常にスパンの長い歴史研究である「気候の歴史」という新しい学問の概要を説明したものであり、わかりやすい入門書となっている。

【書誌情報】
■気候と人間の歴史・入門 ― 中世から現代まで
■ル-ロワ-ラデュリ,エマニュエル【著】
■稲垣文雄【訳】
■藤原書店
■2009/09
■177p / 19cm / B6判
■ISBN 9784894346994
■定価 2520円


→bookwebで購入

2010年04月21日

『サンパウロへのサウダージ』レヴィ=ストロース,クロード、今福龍太(みすず書房)

サンパウロへのサウダージ →bookwebで購入

「レヴィ=ストロースの「郷愁」」

 サウダージとはある特定の場所を回想したときなどに、「この世に永続的なものなどなにひとつなく、頼ることのできる不変の拠り所も存在しないのだ、という明白な事実によって私たちの意識が貫かれたときに感じる、あの締めつけられたような心の痛み」(p.4)を指すポルトガル語だという。

 レヴィ=ストロースは二九歳の折にサンパウロに滞在し、そこから『悲しき熱帯』を著すにいたったインディオ訪問の旅に出たのだった。そのサンパウロに滞在した時に撮影した街の写真が、レヴィ=ストロースが捨てていたにもかかわらず、ふたたび発見され、書物にされることになった。この街にとっても予想外のことに、六五年前の記録が発見されたわけであり、街の記念物ともなる。ライカの発売が一九二五年のこと、レヴィ=ストロースがこの地に滞在したのが一九三五年から一九三七年にかけてだというから、当時の写真はごく稀に違いない。

 ぼくも少年時代に一夏滞在した島を訪れて、その変化に呆然としたことがあるが、レヴィ=ストロースにとっても思いが新たになることが多いだろう。現地の人々による熱心な調査によって、写真を撮影された場所が特定されていて、マップに番号で記載されている。そして同じくサンパウロに滞在した文化人類学者の今福龍太が、これらの写真を収録した書物を手にして、レヴィ=ストロースのまなざしを再体験し、同じアングルから写真を撮影し、エッセーを寄せて、この書物に掲載されている。

 興味深いことに、レヴィ=ストロースはカメラと写真という媒体を現在では嫌っている。調査の際に「カメラのレンズの後ろに目を置くと、何が起こっているのか見えなくなりそれだけ事態が把握できなくなる」(p.109)からだという。周囲の出来事を理解する身体的な感覚が、レンズをのぞく両眼だけに還元されてしまうということだろう。

 それだけではなく、カメラを手にして撮影している姿というものが、一目にたつものであることも間違いはない。レヴィ=ストロースがサンパウロで撮影していると、「写真を採ってくれ」とせがむ子供たちにまといつかれたと『悲しき熱帯』で語っている(p.143)。現代のアジアのビーチにいくと、写真を写させるからと、ドルをねだる子供たちが多いが、この時代の子供たちは、報酬のためではなく、写真にとられるという「儀式」を望んでいたのだという。今福は、それを写真が「聖画」のような呪物として「無意識によって捉えられている」(p.144)のではないかと解釈している。

 しかし奇妙なことに、『悲しき熱帯』にはぼくたちを圧倒した多数の写真が掲載されているのもたしかだ。あれらの写真がなかったら、あの書物がこれほどまでにぼくたちを惹きつけたかどうかは疑問なのである。しかもレヴィ=ストロースは写真を撮影するという行為の暴力性にきわめて敏感だった。「打ち砕かれた君たちの表情の代わりにコダクロームの写真帳を振り回すというこの妖術」(p.145)にレヴィ=ストロースはいかにも心苦しそうである。それはまるで未開の国を侵略する西洋の「原罪」を象徴するかのようである。文字ですら敏感だったレヴィ=ストロースが、カメラの威力といやらしさを意識しなかったはずはないのである。

 興味深いのは、このレヴィ=ストロースの調査に、ブラジル人民族学者のカストロ・ファリアが同行していたという事実だ。彼は政府の監視官として、国からの正式な任務のもとで、調査に参加したのだった。彼もまた政府から義務づけられて、多数の写真を撮影しており、それが『もう一つの視線』という書物として刊行されているという。彼は撮影するレヴィ=ストロースの姿も撮影しているのであり、レヴィ=ストロースが撮影した状況を再現できるほどある。

 ファリアはレヴィ=ストロースのことを、基本的な調査ができないし、データを収集することも知らないと厳しく評価する。いかなる技能もなく、ただ「いつも思考を中空に遊ばせ、彼自身にとって重要な主題だけを思索しつづけ、野外調査の手法を身につけることもなかった」(p.150)という。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』は「哲学的なエッセイではあり得ても、これを民族学の成果であると認めることは不可能である」(同)というのが、彼の結論である。

 たしかに現代の野外調査という観点からみると、レヴィ=ストロースのこの書物は枠に入らないものかもしれないが、文化人類学という学問の歴史において重要な役割をはたした書物であるのは間違いないだろう。そしてこのレヴィ=ストロースの調査によって書かれた書物は英訳され、インディオの子供たちもこの書物を眺めている写真が、レヴィ=ストロースの別の写真集『ブラジルへの郷愁』に載せられているのは、なんとも皮肉なことである(163ページの写真)。

【書誌情報】
■サンパウロへのサウダージ
■レヴィ=ストロース,クロード著、今福龍太著訳
■みすず書房
■2008/11/28
■203p / 21×16cm
■ISBN 9784622073512
■定価 4200円

【内容紹介】
Claude L´evi=Strauss(クロード・レヴィ=ストロース)(サンパウロへのサウダージ;写真解説(リカルド・メンデス)
ブラジルから遠く離れて(―ヴェロニク・モルテーニュとの対話)
Ryuta Imafuku(今福龍太)(時の地峡をわたって)
ブラジルでしか出版されていない写真集『サンパウロへのサウダージ』を前半に、今福龍太がレヴィ=ストロースの写真を論ずる。


→bookwebで購入

2010年04月19日

『技術への問い』M.ハイデッガー(平凡社)

技術への問い →bookwebで購入

「技術と科学の本質」

 「技術への問い」は、ハイデガーが戦後の思想的な世界に復帰するきっかけとなった重要な講演の記録である。戦争責任を問われていたハイデガーが、一九五一年にやっと教職への復帰を認められた後、一九五三年にこの論文の基礎となった講演によって大きな成功を収めたのだった。

 ハイデガーが技術の問題を選んだことは、きわめて戦略的な選択だったに違いない。広島と長崎の惨禍が露出させた現代技術の問題は、ハイデガーにとっては、哲学的な思索をアクテュアルな問題と結びつけるための重要な手掛かりになると同時に、戦勝国の戦争責任を問うという意味ももっていたはずからである。ナチスの桂冠法学者として戦争責任を問われていたカール・シュミットが同じように、広島と長崎の原爆投下を、アメリカの戦争責任として問う姿勢を示していたことが思い出される。

 ハイデガーの戦略とは別に、第二次世界大戦の終結とともに、技術の問いが哲学の問いとして突出してきたのは、たしかなことだろう。理論的な知としての自然科学と比較して、技術は科学的な知の応用であると考えられることが多い。自然科学的な知識は、真理を探求するものであり目的であるが、技術はそれを利用する手段にすぎないと考えがちである。

 しかしハイデガーは技術というものを、たんに科学的な知識に基づいて、人間が世界を自分のために作り替えていくことという意味では解釈しない。それは二つの意味においてである。一つは、人間が自然科学という「真理」を開拓してゆこうとしたのは、技術的な必要性に基づいていたからではないかと考えるからである。「自然科学が技術の基礎なのではなく、現代技術のほうが現代科学を支える根本動向なのである」(p.166)。技術が道具的な目的として科学にしたがうのではなく、科学が技術の目的の「はしため」であるかもしれないのだ。

 もう一つは、人間の欲望にしたがうものは、科学ではなく技術だということである。ハイデガーは人間の欲望はそもそも抑えることができない性質のものであることを指摘する。人間は不可能なものを意志するからだ。「蜜蜂の一群は彼らにとって〈可能なもの〉のうちに住んでいる」。ただ人間の意志だけが、こうした〈可能なもの〉の領域に安住していることを拒むのである。

はじめて意志が、全面的に技術のうちに整備されて、大地を力づくで疲弊させ、濫用しつくし、人工のものに変えてしまうのである。技術は大地を、それにとって〈可能なもの〉という元来の圏域を超えて、もはや〈可能なもの〉ではなく、したがって〈不可能なもの〉であるようなものへと強いる(p.145-146)。

 そしてこれはもはや押しとどめることができない。「現代技術の際限のない支配がなにものにも制止できなくなっている」(p.167)ことは、ぼくたちも認めざるをえない。というのは、人間は技術によって可能であると考え始めたことを、諦めることができないもののようだからである。だとすると、この先に待ち受けているものの恐ろしさは、ぼくたちの想像を絶するものかもしれない。

 しかしハイデガーは同時に、こうした危険が生まれるときに、そこに「救い」の可能性も生まれるのではないかと示唆する。ヘルダーリンの詩は「しかし危険のあるところ、/救うものもまた育つ」(p.46)と語るからだ。それでは人間の欲望を制御することのできるものは何か、「大地の恵みを受領し、そしてこの受領の掟にしたがって、存在の秘密を見守り、〈可能なもの〉の犯しがたさを見張るために、故郷に住み慣れる」(p.146)ことを可能にするものはなにか。ハイデガーがそこに秘めたメッセージは明らかだろう。

 本書はこの「技術への問い」を冒頭に、技術論に関連した文章「科学と省察」「形而上学の超克」「伝承された言語と技術的な言語」「芸術の由来と思索の使命」の合計五本の文章を編集して翻訳したものである。周到な訳注とともに、読みやすい翻訳でハイデガーの技術についての思考の現場に立ち会わせてくれる。


【書誌情報】
■技術への問い
■M.ハイデッガー/著
■関口浩/訳
■平凡社
■2009/9
■262p
■ISBN 9784582702286
■定価 2800円

●目次
技術への問い-一九五三年-
科学と省察-一九五三年-
形而上学の超克-一九三六-四六年-
伝承された言語と技術的な言語-一九六二年-
芸術の由来と思索の使命-一九六七年-


→bookwebで購入

2010年04月15日

『グノーシス「妬み」の政治学』大貫隆(岩波書店)

グノーシス「妬み」の政治学 →bookwebで購入

「神話の内的な構成原理としての妬み」

 旧約の神が「妬む神」であることはよく知られている。最近の新共同訳では、この訳語をふさわしくないと判断したのか、「わたしは熱情の神である」(「出エジプト記」二〇章五節)と訳しているが、著者が指摘するように、神はこの言葉を男女の愛情関係に比較しながら語っているところがあるので、たんなる「熱情の神」であるよりは、「妬む神」という旧来の訳語の方が正しいのだ(ポリティカリー・コレクトではないとしても)。

 この妬む神という言葉は、唯一神の思想がまだ成熟していないことを示すものだ。神が妬むのは、民が他の神を崇拝するからであり、まだ一神教ではなく、拝一神教の段階にあることを示すものだ。「唯一神教としてのユダヤ教はバビロン捕囚以後の現象であって、それ以前のイスラエルの神観は、それと区別して拝一神教と呼ばれる」(p.10)のである。そのことを明確に示すためにも、「妬む神」という訳語は保存すべきだろう。

 ところで「妬み」の政治学はギリシア以来の古代の重要なテーマであり、これには二種類の「妬み」がある。他人が自分よりも優れていると感じて、それに嫉妬の心を抱くものと(著者はこれをプルタルコス型と呼ぶ。彼のテクストに登場する妬みがこの種類のものが多いためだ)、「自分が享受している善を他者に分け与えない妬み」(p.26)である(著者はこれをフィロン型と呼ぶ。プラトン型と呼んでもよい)。

 最初のものは、ぼくたちの誰もが逃れることのできない心の病であるが、第二のものは卓越した存在しか示すことができないものだ。旧約の神は、アダムにたいしてフィロン型の妬みを抱いていたと言えるだろう。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった」(「創世記」三章二二節)という理由で、アダムをエデンの園から追放したということは、人間には善悪を知るという善を享受したくなかったということだからだ。

 ただし古典古代における「妬み」論は、「妬む」ことではなく、「妬まない」という度量の大きさを示すために利用されることが多かった。神学においては神は善であり、「妬む」ことなく、被造物を愛し、恵みを与えるという寛大さを特徴とすることが主張されるのである。

 これにたいして「妬む神」が神話の造型の中心を攻勢していた宗教がある。それがグノーシスである。ただし著者はグノーシスを西方のグノーシスと東方のグノーシスに分ける。西方のグノーシスはキリスト教と対抗して知られた『ナグ・ハマディ文書』のグノーシスであり、東方のグノーシスはマニ教である。この二つのグノーシスでは、「妬み」の構造が異なるために、その政治的な理論そのものが違ってくるのである。

 キリスト教の教父の文献と『ナグ・ハマディ文書』で記録されている西方のグノーシスでは、至高の神々のうちの一人の神の罪によって作られ、投げ捨てられた神であるが、自分が全世界を支配している神であると信じている。そして神はわたし一人であると主張し、自分は「妬む神」であると名乗る。そのために「サマエール(盲目の神)、サクラス/サクラ(馬鹿者)」(p.72)などと呼ばれているのである。これが旧約の神を嘲笑したものであることは明らかだろう。そしてこの西方のグノーシスの神話は、この「妬み」という原理のもとで構築されることになる。これは「神話の内的な構成原理」(p.234)となるのである。

 著者は、この構造のもとでは政治支配者はグノーシスを信じるならば、自己の統治の意味を否定されることになるために、グノーシスは西方では政治的な権力と結びつくことができなかったことを指摘する。むしろグノーシスは「わたしは神である」「わたしだけが支配者である」と自称するローマ皇帝のカリギュラを揶揄するという反政治的な姿勢を示すことになる。この西方のグノーシスでは「現実の政治権力に食い込もうとする行動を確認することができない」(p.210)のである。グノーシスは公共世界から「隠れて生きる」ことを選んだのである。

 これにたいして東方のグノーシスのマニ教は、みずからを「妬まれる」存在とみなし、みずからのうちに「妬み」という悪が存在することは認めるものの「それは肉的的な人間がヒュレーという外部原理に拘束されている限り」(p.234)のことであり、布教することで、世界にばらまかれていた「光」を集めることができるという「楽観的」(同)な信念を抱いている。

 この場合には、政治権力は布教すること、すなわち支配範囲を広げることで、グノーシスに荷担することができる。その「精緻な神話論的な体系それ自身が、積極的な政治関与を可能として、かつ動機づけけるように働いた」(p.246)とみられるのである。

 「妬み」はこのように西方のグノーシスにおいては、重要な神話構築原理として働いていたのであり、この政治性もこの原理によって規定されていたことがわかる。古典古代における「妬み」の理論全般についての目配りもあり、まるで推理小説を読んでいるかのように、はらはらしながら読める楽しい一冊で、お勧めである。

【書誌情報】
■グノーシス「妬み」の政治学
■大貫隆/著
■岩波書店
■2008/11/28
■2008.7
■ISBN 9784000226196
■定価 3200円


→bookwebで購入

2010年04月12日

『闘争と文化―マックス・ウェーバーの文化社会学と政治理論』野口雅弘(みすず書房)

闘争と文化―マックス・ウェーバーの文化社会学と政治理論 →bookwebで購入

「ニーチェの視点から読み直すウェーバー」

 ウェーバーについて伝統的に語られている八つの通説にたいして、その反論を計画したもの。一読すると個別の論文を集めたもののような印象があるが、明確な計画のもとで書かれたドイツ語の博士論文をみずから邦訳したものらしい。まとめがうまいので、そのまとめ(p.180-183)を紹介することにする。

(一)通説ではウェーバーの理論の哲学的な基礎は方法論、すなわち「科学論」にあるとされているが、著者はニーチェの遠近法がウェーバーの方法であることを指摘する。遠近法であるからには、多元性と相対性が了解されているのであり、科学的で客観的なスタンスが求められているわけではない。

(二)ウェーバーの権力政治的な理論と近代西洋合理主義は、機能分化という観点から説明できると考えるのが通説であるが、著者は西洋の合理主義を、中国の儒教やインドのカースト制度に基づく宗教と対比して考える。中国では政治と宗教は一体であり、インドではカーストに分化されて、まったく無縁である。しかし西洋ではさまざまな価値領域のあいだに緊張関係があり、機能の分化ではなく、このような対立と緊張の関係こそが、ウェーバーの政治理論を特徴づけるとみる。

(三)ウェーバーでは禁欲的なプロテスタンティズム、西洋、近代は連続的に結びついているというのが通説であるが、西洋の緊張関係のもとでは、西洋文化と禁欲的なプロテスタンティズムは対立関係にあり、西洋と近代も対立関係にあると著者は主張する。

(四)ウェーバーは、近代の政治原理の確立に寄与したプロテスタンティズムを肯定的に評価するというのが通説であるが、プロテスタンティズムは西洋の文化の特徴である緊張関係を消滅させようとするのであり、プロテスタンティズムは聖戦につながる議論を内在させている。

(五)ウェーバーの闘争論はジンメルの闘争論と類似しているというのが通説だが、存在論的な基盤が異なると著者は主張する。ジンメルの闘争論は、美的な汎神論を基盤としているが、ウェーバーは抗争的な多神論を基盤とする。ジンメルは美的な観点から闘争を論じるが、ウェーバーは価値領域の対立に注目する。

(六)ウェーバーは責任倫理を信条倫理よりも優先させるという論者が多いが、ウェーバーはこれを同格に扱っていると著者は指摘する。

(七)ウェーバーは闘争を擁護するが、それよりも権力政治という観点が優先されるというのが通説であるが、著者はウェーバーが闘争そのものを擁護すると主張する。権力政治には「悲劇の契機」が欠如しているため、闘争を権力政治よりも優先する。闘争は権力政治的なものではなく、権力政治の単一遠近法的な姿勢を開いていくものである。

(八)ウェーバーの政治理論は全体主義と親和的であるというのが通説だが、著者は反全体主義的な性格をおびていると主張する。

 どれも納得のできる形で議論が展開されている。ただ残念なのは、こうした通説の批判は、それほど魅力的な作業ではないということである。通説のウェーバーであれば、今さら読み返すこともないだろうと思う。そうでないウェーバーがいると思うから、彼の書物が魅力をそなえているのである。

 著者のこれらの批判の背景にあるのは、ニーチェ的な遠近法主義からウェーバーの議論を読みなおそうとする考え方だとおもう。そこからもっと新しいウェーバー象を展開できたのではないだろうか。批判点の第五点の正義の戦争の批判と、最後で検討されたウェーバーの政治理論と全体主義の関係はアクチュアルな問題を含むものである。また遠近法の視点と結びつけて、ウェーバーの理論の多神論的な特徴を強調するのも納得のゆくところである。それだけに、少し残念である。ただし本書が、ウェーバーをニーチェとの結びつきで読み直そうとする興味深いウェーバー論であるのはたしかであり、お勧めの一冊であることは間違いない。

【書誌情報】
■闘争と文化―マックス・ウェーバーの文化社会学と政治理論
■野口雅弘著
■みすず書房
■2006/09/20
■264,3p / 21cm / A5判
■ISBN 9784622072454
■定価 6825円


→bookwebで購入

2010年04月08日

『言葉と死 ― 否定性の場所にかんするゼミナ-ル』ジョルジョ・アガンベン(筑摩書房)

言葉と死 ― 否定性の場所にかんするゼミナ-ル →bookwebで購入

「アガンベンの力技」

 アガンベンが一九七九年から一九八〇年にかけた行ったセミナーの記録であるが、「そこで議論された考えと素材をわたしがだれにでも納得してもらえそうなかたちにまとめ直して提示したもの」(p.8)だそうである。しかしセミナーのかなり気軽な雰囲気と、活発な議論を背景として示されたアガンベンの思考の軌跡は、意表をつくものである。

 ハイデガーは動物と人間の違いを、人間は死ぬことのできるものであると定義していたことに基づいて、アガンベンはハイデガーの示した「死へと先駆する」存在である人間は、動物とは違ってすでに否定的なものをその内部に蔵していることを指摘する。これはハイデガーの哲学の基本であるから、それ自体は当然のことだ。

 アガンベンのすごさは、それをヘーゲルの『精神現象学』の最初の「感覚的な確信」のところにでてくる「このもの」と結びつけたことだろう。ヘーゲルは人間が知覚することの確実さ、「ほらここにあるこのもの、これほど確実なものはないだろう」というごく自然な確からしさを反駁する。「このもの」とは、違う場所においては違ったものを指すし、違った人によっても違うものを指すからだ。

 「今」は確実だろうといっても、昼のうちに「今」と書いておいて、それを夜になってみたら、今は昼ではなく、夜だろう。そこで明らかになるのは、「もっとも具体的な真理であるようにみえていたものがたんなる一般的な概念でしかない」(p.34)ということなのだ。

 もっとも自明で確実なものに思えたものが、自明でも確実でもなかったというこの経験をアガンベンは二つの方向に延ばしてみせる。一つはヘーゲルがすでに考えていた方向であり、それはアリストテレスが『形而上学』の第八巻で、実体として主語になりうるものは、具体的な個物しての「このもの」(トデ・ティ)である語ったことにさかのぼるものである。

 このものはいかなる本質の定義よりも先に、具体的な個物として実体であるはずであったが、そのものはいかなる表現も拒むものにすぎないのであり、これはギリシア語においては結局は冠詞の機能にまで縮減される。そこでアガンベンは古代から中世にいたる文法学者の冠詞の議論を跡づけることになる(これはハイデガーの博士論文でもすでに部分的に考察されたことだった)。

 もう一つの方向は、「このもの」や「今」が言語学的にはシフターと呼ばれる特殊な機能をはたすものであることに注目するものである。「今」は語り手と語る時に応じて、異なる意味をもつ。「ここ」も「わたし」もそうだ。ここには他の語では定義によって示される明確な「意味」のようなものが不在なのである。

 どちらも言語のうちに潜む否定的なものの存在を明らかにするものであるとアガンベンは考える。この否定性は、それが書き付けられたときには、もはやその本来の意味を失うというところにある。「今」は発語した瞬間には確実なものでありながら、書き付けられた文字となったときには、すでに失われたものである。この否定性を担うのは、文字ではなく、「それを発語する音声」(p.84)である。

 アガンベンはこの〈声〉が、形而上学の歴史のうちで見失われた重要な要素の一つだと考える。「音声の除去と意味の出現の間にあっての言語活動の生起は、その存在論的・意味論的次元が中世の思想の中に出現するのを見たもう一つの〈声〉である」(p.92)というのだ。記号のうちでは見失われてしまうこの〈声〉、否定性の刻印でありながら、そもそもそれなしでは意味も言語もありえなかったはずのこの〈声〉を、アガンベンが救いたいかのようである。アガンベンはこの目論見を「エティカ、あるいは声について」と名付けている(アガンベン『幼児期と歴史』、邦訳二ページ)。

 もちろんこの試みは、デリダの音声中心主義の批判に同調するところはありながらも、むしそれと正面から衝突する。そのためにデリダ批判の論拠はしっかりと用意されている。この書物では、ヘーゲル、ハイデガー、バタイユ、デリダへの批判の姿勢が顕著であることも、目立つところだ。

 現代のイタリアの詩人レオバルディの作品における「この」という用語の使い方の考察など、セミナーの参加者にも配慮したアガンベンのこの著書は、力技で飛び跳ねるだけでなく、しっとりと落ち着いた考察も展開される。どれだけ思考に自由な冒険を許すか、その見極めがきわめて巧みな書物だと思う。「そこまで行くか……」と思わず唸るところもあって、ぜひ一読を勧めたい。


【書誌情報】
■言葉と死 ― 否定性の場所にかんするゼミナ-ル
■ジョルジョ・アガンベン
■上村忠男訳
■筑摩書房
■2009/11
■276p / 19cm / B6判
■ISBN 9784480842893
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/large/4480842896.jpg
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/4480842896.jpg
■定価 3150円

○目次
ダーザインと死
否定性の起源の問題
“無”と“~でない”
言葉―ダー‐ザイン、すなわち、“ダー”であること
否定性はダーザインにそれ自身の“ダー”からやってくる
無の場所の保持者としての人間
ヘーゲルとハイデガー
エレウシス
ヘーゲルと言い表しようのないもの
『精神現象学』の第一章における感覚的意識の清算〔ほか〕


→bookwebで購入

2010年04月05日

『新世界秩序批判―帝国とマルチチュードをめぐる対話』アトゥツェルト,トマス/ミュラー,ヨスト編(以文社)

新世界秩序批判―帝国とマルチチュードをめぐる対話 →bookwebで購入

「『〈帝国〉』の構想への一つの補足」

 ネグリ/ハートの『〈帝国〉』が、フーコーの生政治の概念を新しい方向に展開させて、ぼくたちの想像力をかき立てたために、この構想を補足し、修正するための書物がまだつづいている。本書もその試みの一つであり、ドイツの社会科学者のジョバンニ・アリギと、政治学者のヨアヒム・ヒルシュの批判と、それにたいする応答で構成されている。

 アリギの批判は主として四つの点に絞られる。第一に、現在の趨勢が世界帝国の形成に向けて進んでいるのはたしかだとしても、それがすぐに実現されるかのように考えるべきではなく、「時間軸を付け加え、不確実な要素を付け加えるべきだろう」(p.22)。歴史的にみても、都市国家が国民国家のシステムに移行するには数百年がかかったのであり、帝国への以降も、一世紀以上の時間が必要となるだろう。歴史というものは、前進と交替を反復しながら進むものであることはたしかだ。

 第二に、世界的な金融危機によって、資本主義が「意図せざる自己破壊」(p.23)をもたらす可能性がある。アメリカ合衆国が世界に自国の覇権を押しつけるために、「資本主義の大きな不安定性と自己破壊の原因」(同)をもたらすことだろう。今回のサブプライム問題をきっかけとした世界的な金融危機は、この危険性を如実に示したし、アメリカだけでなく、ヨーロッパの資本主義体制そのものを揺るがしたのだった。

 第三に、「南北の格差が次第になくなるというハートとネグリの主張は明らかに誤りである」(p.12)。資本は「豊かな国々の間を移動する」だけで、「現実には相対的にわずかな資本しか豊かな国から貧しい国に流入しないのである」(p.13)。「気たるべき世界国家の社会志向をめぐる闘争は、南北間の闘争であると共に、資本と労働との間の闘争でもある」(p.24)。

 第四に、南北の格差の拡大はつづくとしても、生産活動と世界市場の地理的な移動は確認されるのであり「北米と西欧から東アジアに大きくシフトしている」(p.25)ことが認識されていない。『〈帝国〉』が執筆された頃には、中国がこれほど巨大に勢力として現実に登場することが実感されていなかったこともあって、マルチチュードの像がいささか古典的なものであったのはたしかである。

 政治学者のヒルシェは、『〈帝国〉』では国家の重要性が低下すると考えていることにたいして、国家は国際的な活動との結びつきを深めて、「国家の国際化」(p.32)が進行するために、国家はこれまでとは違った意味で重要な役割をはたすことを、次の四つの側面から指摘する。

 第一に、金融・資本市場への「個々の国家装置の依存が強められる」(p.32)ことである。しかしそれは国家の重要性を弱めるものではなく、逆に世界的な金融・資本市場における国家の重要性を高めるものである。多国籍企業といえども一つの国家に依存する必要があるのであり、「個々の国家が国境の枠に従って搾取され支配される階級の分裂の基盤であり、資本の移動の増大のために、それどころか、重要性がましたまとまりとなっている」(p.35)のである。

 第二に、国家の「脱ナショナル化」(p.33)が発生する。規制する枠組みとしての国家の力が弱まることで、「ナショナルで人種主義的な傾向が結びつくというパラドックス」(同)が顕著になる。たしかに、バルカン半島でもアフガニスタンでも、宗教と結び付いたナショナルな傾向が、国家の「脱ナショナル化」の裏返しのように発生しているのである。

 第三に、政府の民営化が進行する。公的な活動が、国民によるチェックの届かない民間企業に委託される傾向が強いことは、アメリカにおける監獄の管理などにもみられることであり、これが今後の重要な問題の一つとなるのはたしかだろう。これは「個々の国家の自由民主主義的な制度か次第に空洞化していく」(p.37)ことを意味している。

 第四に、政治のルールが国際化される傾向が強まることである。NGOを含むさまざまな国際的な組織が活発に活動して、国の政策に影響を与えていることは、ぼくたちも毎日のように目撃している事実である。

 これらの批判は、『〈帝国〉』の構想を否定するよりも、補強しようとするものである。何と言ってもこの書物のもったインパクトは巨大なものであった。毎日のニュースが、ネグリ/ハートの理論を裏付け、覆し、補足を求めている。そう思って読むと、日々の新聞記事には無数の示唆が含まれているのである。


【書誌情報】
■新世界秩序批判―帝国とマルチチュードをめぐる対話
■アトゥツェルト,トマス/ミュラー,ヨスト編
■島村賢一訳
■以文社
■2005/10/30
■187p / 19cm / B6判
■ISBN 9784753102440
■定価 2310円

○目次
第1部 帝国、世界システムと資本の国際化(帝国の発展路線―世界システムの転換;新しい世界秩序―国家の国際化;帝国とマルチチュードの構成的権力―アントニオ・ネグリへのインタヴュー)
第2部 帝国における階級闘争とマルチチュード(農民世界の薄明―帝国における階級分析のために;国家に抗する社会―クラストル、ドゥルーズ、ガタリ、フーコーについての覚書;マルチチュードの存在論的規定;マルチチュードの逃亡線―ジェノバとニューヨーク以後の短い電子メモ)


→bookwebで購入

2010年04月01日

『カントの啓蒙精神-人類の啓蒙と永遠平和にむけて-』宇都宮芳明(岩波書店)

カントの啓蒙精神-人類の啓蒙と永遠平和にむけて- →bookwebで購入

「啓蒙と道徳の関係」

 この著作の中心的なテーゼは、啓蒙は究極的には道徳的な啓蒙であるということである。啓蒙は周知のように「未成年の状態から脱出すること」と定義されており、カントは啓蒙されていない状態を、「わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食餌を節制する代わりに医者に食餌療法を書法してもらう」(カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』古典新訳文庫、11ページ)と表現していた。
 
 だから啓蒙とはまず、理性を働かせること、良心を働かせること、みずから判断で健康を維持することという三つの領域で考えられているとになる。理性という知の領域、良心という道徳の領域、健康という医学の領域のそれぞれにおいて、「自分の力で考えること」が啓蒙のとりあえずの目標である。

 著者は、この啓蒙の営みの三つの格律をカントの著作から取り出してくる。それは「自分で考えること」「自ら他人の立場に立って考えること」「つねに自分自身と一致して考えること」であり、第一の格律は「啓蒙された考え方」の格律であり、第二の格律は「拡張された考え方であり」、第三の格律は「一貫した考え方」である(p.35)。

 このことにはまったく異議はない。ただ少しだけ気になるのは、「〈自分で考えるひと〉が必要とされるのは、それが最終的には道徳的善悪をわきまえる智恵にいたる道」(p.33)とされてしまうことである。道徳という領域で、良心をみずから働かせることが啓蒙の重要な課題の一つであることは間違いない。しかし自立した理性でみずから考えること、自分の身体の健康をみずから配慮することは、道徳的な善悪を弁えることとは同列に考えることのできない問題ではないだろうか。思考の自立性を道徳的な良心だけに限定するのは、あまりに啓蒙を狭く考えることにならないだろうか。

 たしかにカントは、「理性の真の使命は……、それ自体において良い意志を生むこと」(p.81)であると語っているし、「人類が全体として道徳化されていない段階では、開化や文明化といった理性使用の従属的な目的があたかも理性使用の究極目的であるかのように絶対視され」(p.82)、そのために文明に悪徳が「接ぎ木される」(同)ようなことがあることを憂いて、啓蒙の必要性を強調したのだった。

 『判断力批判』でも、神は創造の究極目的としてすべての生物の中から人間を選びだし、「幸福に値する」存在となるべき「道徳的な存在者として人間」を創造した(p.89)とも語られている。宗教論においても、「制限的な立法の順序と、神への真に宗教的な道徳的奉仕を区別し、……正しく順序づけることが、宗教における〈真の啓蒙〉である」(p.196)ことが語られている。

 カントのテクストを読み込んでゆくならば、カントが「啓蒙の目標は、人類の全面的な道徳化にある」(同)と考えざるをえなくなるのはたしかである。だから著者のテーゼは間違ってはいないのである。しかし、とそこで考える。最初に示した啓蒙の三つの格律は、人々が世界のうちで交流してゆくために必要な格律であり、これはいわば政治的な格律なのである。

 もちろんすべての人類がカント的な意味で道徳化されたならば、それはカントにとってはきわめて好ましいことであろうが、人類がそのような境地にいたることは望みがたいことである。それでもこの三つの格律は、人類のあいだで平和を築くために重要な格律なのだ。たとえカントの道徳的な定言命題をまったく順守しない人々との間でも、カントの用語でいえば、「悪魔の民族」との間でも、この格律が行使されれば、平和を確立することができるはずなのだ。

 カントの議論の背景には、「人間が神に愛されるに値する存在となること」という人間の完全な道徳化の夢が息づいているのはたしかである。しかしカントは啓蒙の三つの領域をあげたときにも、そのことを前面にだすことはなかった。カントの願いと、啓蒙の確立のあいだに、ある距離を置いていたのである。大切なのは、その距離をなくしてしまわないことではないだろうか。究極的には正しいことも、すべての場合において正しいとは限らないのである。


【書誌情報】
■カントの啓蒙精神-人類の啓蒙と永遠平和にむけて-
■宇都宮芳明著
■岩波書店
■2006/10/25
■273,11p / 19cm / B6
■ISBN 9784000224710
■定価 2940円

○目次
1 啓蒙の世紀とカント―ヘーゲルの啓蒙批判はカントに当てはまるか
2 カントにとって「啓蒙」とはなにか―啓蒙に必要な三つの格率
3 カントの啓蒙の哲学―「人間理性の目的論」をめぐって
4 啓蒙の要となる道徳―人間の尊厳と人間愛の条件
5 感情は道徳とどうかかわるか―道徳的感情と美と崇高の感情
6 人類の啓蒙に宗教は必要か―カントの宗教理性批判
7 歴史と文化―永遠平和と啓蒙の完成


→bookwebで購入