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2010年03月22日

『マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統』ポーコック,ジョン・G.A(名古屋大学出版会)

マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統 →bookwebで購入

「政治思想史の必読書の待望の翻訳」

 本書は、政治思想史の分野で長らく注目されてきた書物であるが、大冊なために翻訳がなかなか刊行されていなかった。ぼくもこれまで英語で読んできたが、多くの読者とともに、日本語で読めるようになったことを祝いたい。もはや四〇年前の書物であるが、西洋の近代と現代における共和主義的なヒューマニズムの系譜をたどる書物として、政治思想史の必読の書物だからだ。

この書物は序論の方法論的な考察を別にすると、二つの部分に分かれる。最初の部分では、アリストテレスの人間の定義、すなわち「その本性からしてポリス的な動物である」いう定義をうけついで、人間の最高の活動が、公的な空間における活動にあるとみなす共和主義的な伝統が、マキアヴェッリとグイッチャルディーニのフィレンツェでどのように継承されたかを考察する(もちろんこの伝統にはギリシア的な源泉だけではなく、キケロのローマ的な源泉もあり、こちらの方が重要であるという見方もできるだろう)。

 マキアヴェッリは『ローマ史論』でローマの共和制のメカニズムに考察しながら、それがフィレンツェにどのように活用できるかを分析したのだった。彼は、ローマの市民がよき共和国の市民であったのは、市民的な宗教と武装によってであったと考える。著者は「内紛のさなかにあっても、彼らを公共の善に配慮させ、必要とあらば卜占にさからってまで未来を制御することを可能にさせたのは、彼らの軍事的な規律と市民的な宗教であった」(p.179)と指摘する。傭兵も、市民でない常備軍も嫌っていたマキアヴェッリは、市民の武装にこそ、共和国の可能性があると考える。

 マキアヴェッリは、「ローマの徳のうちに、多数者に特有の活動的な徳、民衆を武装し、彼らに市民的な権利を与える力動的な戦士の国家でのみ存在可能な、活動的な〈徳〉の新しい形態を発見した」(同)のであり、フィレンツェに大評議会の制度を導入して市民が公的な活動に参加できるようにするとともに、武装させることで、祖国を防衛させるべきだと考える。後にルソーがこのマキアヴェッリを「発見」して、ジュネーヴの市民に同じような方策を説くようになるだろう。そしてマキアヴェッリは市民の武装だけが、ローマ帝国の膨脹を可能にしたと考える。

 一方で貴族のグイッチャルディーニは、ローマ・モデルによって市民を武装させるのではなく、ヴェネツィア・モデルをフィレンツェに導入することを考える。彼は歴史的な理由から、「フィレンツェは武装できないという理由で、フィレンツェでの民主政に反対している」(p.212)のである。ヴェネツィアでは市民が武装することになく、外部の勢力に軍事を委託する。そして一種の混合政体を採用し、大評議会においてすべての市民の参加の自由を確保し、統治にあたるのは、〈徳〉の高さによって選ばれた選良たちだけである。「大評議会の役割を自由の維持にとって本質的なものに限定すること、および統治する選良集団への加入は、〈徳〉の公的な発揮によってのみ決定され、その加入者は統治以外の他のあらゆる役割を解除されるようにする」(P.217)ことが望ましいと考えたのである。この〈徳〉の発揮において、グイッチャルディーニは市民的な共和主義者としての性格を維持するのである。

 このローマとヴェネツィアのモデルと、その問題構成は、一七世紀から一八世紀のイングランドにそのまま引き継がれる。ハリントンが構想したユートピアの「オセアナ」は、輪番制によって統治の平等性を確保し、商業に携わり、海外に進出することによって、「無制限の拡張という点でローマのようなものなり、永続的安定性、自由、および徳の点でヴェネツィアのようなものになる」(p.335)はずだったのである。

 一八世紀のヨーロッパは、商業という要素が登場したことで、新しい問題に直面する。商業がもたらすのは富であり、贅沢である。伝統的にプラトン以来の西洋社会は、商業という活動に疑念を抱いたきた。プラトンの『法律』では商人は断罪されるのである。しかし資本主義の興隆ととともに、商業とそれがもたらす富が、徳とどのようにして両立できるかが重要なテーマとなる。

 ロックも『市民政府論』で、それまでの労働を軸においていた経済の理論に、貨幣の重要性をもちこむことによって、伝統的な所有の理論を爆破する可能性を示していた。やがては私的な悪徳が公的な善をもたらすという逆説が語られるようになるのであり、ここで共和主義の理論は大きく飛躍することになるのである。「価値と歴史、徳と情念、所有と信用、自愛心と利己性の諸哲学を調和させることは困難であった」(p.404)が、さまざまなイデオロギー的な配置において、それが試みられたのである。

 著者は、アメリカの独立とその後の連邦国家の形成においても、このテーマが重視されたことを強調する。これまでの政治哲学的な分析では、ロックの統治論のパラダイムが重視されてきたが、「人間の本性は市民的であるというアリストテレスの命題」と、それを受けついだマキアヴェッリの命題がアメリカ革命においても重要な役割をはたしていると考える。「徳は時間のなかでのみ発展することができるが、しかし常に時間による腐敗で脅かされる。時間と変化が商業と同一視されたときに取られた特殊な形態において」、この伝統がアメリカ革命に「力強い衝動を与えた」(p.458)のである。ロックの伝統を重視する支配的な学説の力はまだ強いために、著者の素描はそれほど線の強いものではないが、それでも共和主義的な伝統の継続をうかがわせるものではある。

 ルネサンスから現代にいたるまで、アリストテレス的でキケロ的な共和主義の伝統は続いているのであり、本書はその考察の一端にすぎないが、それでもその視野の広さと考察の持続力には学ぶべきものがある。アレントの公共性の哲学も、こうした考察の背景でふたたび新たな注目をあびてきたのである。

【書誌情報】
■ マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統
■ポーコック,ジョン・G.A著
■田中秀夫、奥田敬、森岡邦泰訳
■名古屋大学出版会
■2008/01/10
■541,163p
■ISBN 9784815805753
■定価 8400円

目次

第1部 個別性と時間―概念的背景(問題とその様式―(A)経験、慣用、慎慮

問題とその様式―(B)摂理、運命、徳 ほか)

第2部 共和国とその運命―一四九四年から一五三〇年までのフィレンツェの政治思想(ブルーニからサヴォナローラまで―運命、ヴェネツィア、黙示録;メディチ家の復辟 ―(A)グイッチャルディーニと下級の“都市貴族層”、一五一二‐一五一六年 ほか)

第3部 革命以前の大西洋圏における価値と歴史(イングランド・マキァヴェリズムの問題―内乱以前の市民的意識の様式;共和国のイングランド化―(A)混合政体、聖徒、市民 ほか)

第4部 『マキァヴェリアン・モーメント』をめぐる論争を回顧して(『マキァヴェリアン・モーメント』再訪―歴史とイデオロギーの研究;『マキァヴェリアン・モーメント』をめぐる三十年間の論争―二〇〇三年版(新版)への後書き ほか)


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