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2010年03月11日

『精神分析の抵抗―フロイト、ラカン、フーコー』デリダ,ジャック(青土社)

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「フロイトへの思い」

 デリダのフロイトへの思いは強いものがあり、『エクリチュールと差異』に収録されたフロイト論「フロイトとエクリチュールの舞台」以来、長い取り組みがある。この書物に収録された三つの講演の記録は、これまでのすべてのフロイト論を前提として語られるものであるために、デリダはときに早口になり、ときに説明を諦めたりする。しかしどれもそれなりに読者を納得させるところは、さすがデリダだ。

 最初の講演は「抵抗」というテーマを取り上げている。精神分析の世界では抵抗とは「精神分析治療の期間において、無意識への到達を妨げるような、被分析者自身のすべての言動」(ラプランス/ポンタリス『精神分析用語辞典』)である。フロイトの精神分析はある意味ではこの患者の抵抗と対処することで発展してきたのだった。

 そもそも暗示や催眠術をやめて精神分析に進んだのも、患者の抵抗のためであり、フロイトが患者が催眠術にかかるのに抵抗するのが正当なものと考えたからだった。精神分析のさまざまな技術は、患者の抵抗を克服して、患者に自分の無意識を意識させるために作りあげられたのだった。

 しかし抵抗が分析の別の場面で現れることもある。たとえば夢の分析であり、そこからどうしても分析を進めることができない箇所が登場する。フロイトはそれを「夢の臍」と呼んだ。「どんな夢にも、少なくとも一箇所、どうしてもわからない部分がある。それは、それによってその夢が未知なるものにつながっている臍のごときものである」(フロイト『夢判断』人文書院版全集二巻九六ページ)。

 そう、臍とは、「ある切断の記憶を、誕生時に断ち切られたある糸の記憶までも保持する結び目=傷痕である」(p.28)。未知なるものにつながる痕跡、このいかにもデリダ的な比喩を手掛かりに、デリダは精神分析において直面する抵抗の三つの意味をとりだす。一つは患者の抵抗であり、これは症状であり、克服すべきものである。第二は夢の臍であり、それは未知への扉が閉じていることを示すものである。第三は分析の臍であり、それは分析の道が途絶しているところ、絶対的な限界というべきものである。フロイトは「夢の臍」という語をもう一度語り、「われわれの観念世界の網の目のごとき迷宮」(同、四三二ページ)で、分析を断念すべきことを指摘する。そこは「どうしても解けない夢思想の結び目」だからである。

 この「夢の臍」という痕跡は、デリダに脱構築の方法そのものを想起させる。一つには、分析を要求しながら、分析を禁じるものとしての「ダブル・バインド」(p.53)の性格をもつからである。もう一つは、それが起源へとさかのぼることを誘惑しながら、それを禁じることによって、「起源的なものの再把握の可能性ばかりかその欲望をも、それがいかなるものであれいつかは単純なものに再開したいという欲望ないし幻想をも問いに付す」(p.55)からである。この「夢の臍」は、「パルマコン、代補、ハイメン、差延、その他多くの、おのれのうちに相互の間で矛盾した、あるいは両立不可能な述語」(p.61)の仲間であり、抵抗しながら誘うもの、誘いながら拒むものであるからだ。

 二番目の論文「ラカンの愛に叶わんとして」では、デリダがラカンの精神分析を批判せざるをえない八つの理由を、めずらしく明確に列挙している。

 第一は、ラカンは分析が円環状の正しい道筋をたどるべきであり、たどることができると考えていることである。これはデリダにとっては目的論を分析のうちに持ち込んでいるようにみえるのだ。

 第二は、ラカンのうちには、「円環状の回帰および固有の行程において、起源が目的へと、シニフィアンの離脱の場がその再結合の場へと適合し、再適合すること」(p.110)としての真理のモチーフがあることである。ラカンが真理という語をきわめて無造作に使うことにデリダは苛立つ。

 第三は、現前するパロールあるいは充実したパロールというモチーフがあることである。語る言葉の現前性とその優越性の批判は、デリダの最初期からの重要なモチーフである。

 第四は、記録技術を拒否し、音声・ロゴス中心主義を採用していることにある。これもデリダにとっては許しがたいところだろう。

 第五は、真実を去勢に結びつけるために、ファロスが「超越論的な位置」(p.111)を占めることである。ファロス中心主義と超越論的な立場にたいするデリダの批判もよく知られているだろう。

 第六は、これらのモチーフによって生まれるラカンの「戦闘的な音声中心主義」(同)である。

 第七は、「語りの文学的構造の否認ないし非・考慮」(p.112)、そして署名の「パレルゴン的な効果の枠組みや働きの言い落とし」である。ただしこれはラカンに要求するには少し無理があり、デリダも「性急さ」をとがめるだけである。

 第八は、「ポーの物語における分身の諸効果の隠蔽」(同)である。ポーの「盗まれた手紙」の分析のうちで分身を考慮にいれていれば、想像界と象徴界の境界線がカクンされただろうとデリダは指摘する。

 最後の論文は、フーコーのデリダ批判にたいしての遅れてからの反論である。フーコーは『狂気の歴史』のおいて、フロイトをあるときはニーチェと同じ側に立たせ、あるときは対立する立場に立たせる。フロイトを扉の蝶番のように使うフーコーのまなざしの揺れを描き出していて、あとだし批判ではあるが、なかなか読ませる。


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