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2010年03月08日

『存在と無〈1〉現象学的存在論の試み』サルトル,ジャン=ポール(筑摩書房 )

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み →bookwebで購入

「手軽に文庫で読めるようになったサルトルの主著」

 サルトルの大著『存在と無』が文庫化されたのをきっかけとして読み直してみた。小説のように楽しめる本であり、三巻の最後の用語集なども、理解を深めるために役立つ。思えばベルクソンの哲学や新カント派の哲学が、高校の教科書までを牛耳っていたフランスの哲学界に、この本のもたらしたセンセーションは強烈なものだっただろう。
 サルトルがフッサールの現象学について、テーブルの上にあるカクテルのグラスからでも哲学を展開できる哲学だと聞いて、真っ青になるほどに興奮したというのは有名な逸話だが、日常のごくありふれた生活のただなかから、思考の体系を構築してみせたことは、哲学の世界に清新な風を吹き込むことになった。ドゥルーズもフーコーも、青春の頃にサルトルの哲学に感銘をうけ、高揚したことを語っている。

 サルトルの哲学のユニークなところは、哲学を語りながら小説家の精神を発揮し、小説を書きながら哲学者の精神を発揮するところだろう。『嘔吐』のマロニエの記述など、偶然性にかんするサルトルの哲学的な精神がそのままで語られている。デリダもバタイユ、ブランショ、ポンタリスなどを読むようになったのは、サルトルのおかげであり、「汲みつくせないほどの深い感謝の気持ちを抱いています」と述べていた(デリダ『パピエ・マシン 下』七九ページ)。

 この書物はハイデガーの存在論にならって、人間とその他の存在者との存在論的な違いを確認するところから始まる。人間でない存在者は「存在」と呼ばれる。存在とは「自己を実感することのできない内在」(一巻六九ページ)であり、「自己自身とぴったり粘着している」ものである。そこに意識という裂け目が入っていないのだ。だから「存在はそれ自体においてある」即自である。

 これにたいして人間は、この内在の世界に否定性としての「無」を導入する存在である。「人間は、無を世界に到来させる存在」(一巻一二〇ページ)なのである。それは人間とは「それ自体においてあるのではないもの」(一巻一〇七ページ)という性質を本質的にそなえているからである。それは人間が自由だからである。ただし人間が人間であるのは、人間が自由だからであり、「人間はまず存在し、しかるのちに自由であるのではない。人間の存在と人間が〈自由である〉ことのあいだには、差異がない」(一巻一二二〇ページ)のである。それが、人間が対自であるということである。

 人間が世界にそのような無をもたらすというのは、人間に欲望があるからである。サルトルは欲望を何よりも欠如とみなす。欠如は埋められることを求める。人間以外の生物はそのうちに無という欠如をかかえているために、他の生物のように自足していきることができない。外部にむかってつねに超越していく存在、それが人間なのだ。「すなわち人間存在は、自分が欠いている全体へ向かって自己自身をこえ出る存在」(一巻二六九ページ)なのである。

 ここまではまったくスムーズである。この書物でサルトルはヘーゲルの弁証法を活用しているが、ヘーゲルだと即自と対自のありかたの後に、対・即自という弁証法的に止揚されたありかたが実現するが、サルトルではこの弁証法は発生しない。サルトルはハイデガーの共同存在にならって、対他という概念を提起するからである。

 この他者とは、わたしが見る存在であると同時に、わたしを見る存在である。わたしの欲望は、自分の身体的な欲望であるだけではなく、他者との関係において生じる欲望でもある。それは「他者とはわたしであらぬわたし」(二巻三九ページ)だからである。この他者とは、たんなる他人ではなく、〈わたし〉そのものを作りだす力のあるものである。わたしは他者を眺める。しかし他者もわたしを眺める。この他者のまなざしにおいて、わたしは「わたしの存在において襲われる」(二巻一一〇ページ)なのである。

 この他者のまなざしにおいて、わたしが他者の眺めるわたし自身を自覚するとき、わたしが感じるのは「羞恥」だとサルトルは断定する。わたしは他者のまなざしに写った自分の姿を他者のまなざしのもとで眺めて、そこにみすぼらしい自分の像を発見するからである。「わたしがかかる発見するのは、羞恥において」(二巻一一二ページ)だからである(反転像としては傲慢と自負がありうるのはもちろんであるが、サルトルの場合には、何よりも羞恥の感情が強いのだ)。

 わたしは他人の秘密を探ろうとして、ドアの鍵穴から部屋の中を覗いている。それは欲望につき動かされるままの〈わたし〉である。しかし他者がその覗いているわたしの姿を発見する。この他者のまなざしのもとで、主体として行動していたはずのわたしは、突然に他者のまなざしの客体となる。そしてわたしの他者のまなざしに写った覗き見をする者としての〈わたし〉を恥じるのである。

 このまなざしは弁証法的にみえるが、実は相互反復的なだけであって、弁証法的な展開は発生しない。わたしがまなざしの主体であるときには他者が対象であり、他者がまなざしの主体であるときには、わたしが対象である。役割が交替するだけであり、止揚されることはないのである。サルトルの存在論はこの〈わたし〉と他者、主体と客体の二元論的な対立を特徴とするのである。

 ただしこのまなざしの二元論的な呪縛をとく道がある。それは行動するということである。行動するということは、あるものの欠如の認識から生まれる。何かが欠けているから、行動する必要があるのである。対自の人間を作りだした欠如が、対他の人間を行動させる。人間が単数であれば行動するということはないだろう。行動があるのは人間が他者との関係において存在するからである。行動することにおいて、人間はその自由を証明する。「わたしは自由であることを運命づけられている」(三巻三五ページ)のである。あるいは自由であるように「呪われている」と訳すこともできるだろう。

 しかし行動しようとすると、わたしは完全に自由な存在ではないことが露になる。わたしは世界に投げ出されているのである。「労働者的世界、フランス的世界に、ロレーヌ地方もしくは南物地方の世界に、投げ出されている」(三巻二一六ページ)ことが明らかになる。すべての人はそれまで成育の過程において、他のすべての人と異なる固有の生活史のうちで、固有の世界のうちに投げ出されているのである。わたしは自由であるともに、他者に責任を負う存在なのである。

 この書物は世界のうちに投げだされたわたしの固有性を、実存的な精神分析によって考察する可能性を提示したところで終わる。その後のサルトルの重要な営為の一部は、ボードレールについて、マラルメについて、ジャネについて、フローベールについてこの実存的な精神分析を実行する作業で占められることになる。その意味でも、この大著は、サルトルの哲学的な営為の土台となっているのである。


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