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2007年10月09日

『公と私の系譜学』レイモンド・ゴイス(岩波書店)

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「公とは何か」

公的なものと私的なものの境界が時代とともに変動していることは、アレントの『人間の条件』などでも指摘されてきたが、この書物はギリシア、ローマ、中世、現代における公的なものと私的なものの領域を、具体例で考えようとするところがユニークだ。

古代のギリシアではアゴラで食事をすることも下品なこととされていた。物を食べるのは、家という私的な空間でおこなうべきだとされていたのだ。ところがキュニコス派のディオゲネスは、アゴラでオナニーをしてみせる。クラテス夫妻はアゴラでセックスをしてみせる。もちろんコートで覆っていただろうが、身体の動きだけでそれは分かるものであり、これが挑発的で、公的な領域を侵犯する行為と理解されたのは間違いのないところである。

オリゲネスはオナニーを哲学的な営みとして実行したのであり、他者にたいする配慮の欠如こそ、自立した人間の印だと考えたのである。「完全なる無恥」、それこそが「善き人間の生を顕著に特徴づける」(p.25)ものだと考えたわけだ。ここでこの行為が公共的な空間を侵犯した理由は二つ考えられると著者は指摘する。誰でも入ることのできる公共的な空間では、「関心を逸らせる可能性」の原理が適用される(p.29)。

まず公衆とは、互いに邪魔することになく、その人々に自分自身の営みを続けることを許容する人々であり、ディオゲネスは親密な友人でない人々の注意を引くという意味で、公的な空間にふさわしくない振る舞いをしたことになる。もう一つは公衆とは、個人的に知っていても、汚染された感じを与えかねない行為によって不快にしないように、気にかけるべき人々だという(p.30)。その意味ではたとえ知人であっても目を背けざるをえない行為をしたオリゲネスはやはり公的な領域を侵犯したわけである。

第二の実例はルビコンを渡ったカサエルである。元老院は軍隊の指揮者としてではなく、私人としてローマに戻るようにカエサルに命じた。しかしカエサルをこれを拒んで、軍隊を指揮してローマに戻り、共和制を実質的に崩壊させたのだった。ローマという公的な空間を侵犯したこの行為は、それでは私的な行為かというと、必ずしもそうではない。将軍としてのカエサルのそれまでの功績を無視することは、公人としてのカサエルの存在を否定するものだと、カエサルは判断したからだ。

カエサルにとって公的なものとは、アゴラのように「誰もがアクセスできる」ところというよりは、(a)すべての人に関連する、もしくは影響を与えるものの領域であり、(b)すべての人に関連すると考えられる領域、すなわち共通善に関連する領域に対する権力を(そして責任を)もつ主体の集団を意味すると考えられたのである(p.48)。

第三の実例は、『告白』におけるアウグスティヌスである。アウグスティヌスは記憶と反省において、「われわれ自身における最も重要な側面」として、身体の状態ではなく、「内なる状態、つまり神と関連するわれわれの魂の状態」(p.56)を取り出したことが指摘される。いわば人間の「内面性」というものが初めて自覚されたのであり、それは他者の立ち入ることのできない領域である。アウグスティヌスにおいては公共的なものと異なるる私的なものの領域が確立されたわけである。

ディオゲネス、カエサル、アウグスティヌスにおいて、「私的なもの」というものがどのような意味をもっていたかという考察は、それによって公的なものがどのようなものとして意識されていたかを示すために役立つものであり、公共性についての歴史的な系譜学として、そして自己がどのようなものとして意識されていたかを示すものとして興味深い。

次の章では急に現代のリベラリズムに進むが、この章の考察は、プライバシーの概念を中心に行われている。ルターと宗教改革で、私的な信仰の領域と公的な崇拝の領域が明確に区別されるようになったことなど、古代末期のアウグスティヌスから現代にいたるまで、ここで考察されていない多くの公的な領域と私的な領域の差異のテーマが存在する。公共的なものという概念はときに言葉の遊びになる傾向があるだけに、こうした系譜学的な考察は、まだまだ続けられるべきだろう。


【書誌情報】
■公と私の系譜学
■ISBN:9784000228411 (4000228412)
■147,7p 19cm(B6)
■岩波書店 (2004-02-26出版)
■ゴイス,レイモンド【著】山岡 龍一【訳】
■[B6 判] NDC分類:311.1 販売価:\2,520(税込) (本体価:\2,400)
■目次

第1章 序論
第2章 恥知らずと公共世界―アゴラで自慰するディオゲネス
第3章 レス・プブリカ―ルビコン川で決断するカエサル
第4章 霊的なものと私的なもの―アウグスティヌスの内なる隠れ家
第5章 リベラリズム―リベラルな公共善と近代の境涯
第6章 結論


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