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2007年10月23日

『一六世紀文化革命. 1 』山本義隆(みすず書房)

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「メディアとしての書物の力」

一五世紀の半ばに印刷書籍が一般に流通するようになったことが、科学の世界にどれほど大きな影響を与えたかを詳しくたどるこの著書は、書物論としても読み応えのあるものだ。それまで手書きで筆写していた場合には、書き写しの間違いがどうしても発生していたが、いまやまったく同一の版が、写本よりもはるかに安価な費用ででまわるようになったのである。それが「一六世紀文化革命」をもたらしたのだと、著者は指摘する。

まず芸術理論の分野では、ルネサンスに発見された遠近法が、言葉による説明ではなく、実際の図版をもちいて示されることで、まったく誤解の余地のない理解が可能になった。デューラーはそれまで抽象的な理論で語られてきた遠近法を、図版で詳しく説明する。それはたんに遠近法という絵画の技術にとどまるものではなく、測定術や、幾何学における作図法にまで広げられる。

「デューラーは新しい科学にとって図版のもつ意義、とりわけ木版画印刷本によって精密で性格な図版を何枚も複製しうることの重要性に気付いた最初の人間の一人」(一巻一〇四ページ)だったのであり、「自然科学書、工学書、技術マニュアル」の最初の創始者の一人(同、一〇五ページ)となったのである。

もちろんこうした図版画の効用は、芸術や工学の分野に限られるものではない。医学では人体の骨格、筋肉、血管だけを描いた図版が作成され、これが医学の前進に大きく貢献したのである。また印刷物の普及は図版だけではなく、俗語の利用も推進させることになった。医学の分野では、ラテン語を利用することが、医学者としての地位を守るために重要な秘訣だった。ある医学大学では食事中にラテン語を使わないと罰せられたという(同、一七六ページ)。

そして医薬品についての知識、治療の技術についての知識は、同業組合によって重要な情報として秘匿されていたのである。俗語で書かれた書物は、この秘密を一挙に暴露してしまう。だれもが入手できる書物に、わかりやすい図版とともに、だれもが理解できる普通の言葉でこうした情報が記載されるようになると、組合への所属ではなく、医師としての技術と知識が真に問われるようになるのである。

また印刷された図版は、植物学の分野でも威力を発揮した。プリニウスの頃には、図版といっても「植物のことを理解してもいなけれは現物を見てもいない人物の手による複製」(同、二〇六ページ)が満足しなければならず、同じ植物も地域が異なると違う名前で呼ばれ、同定するのが困難だった。言葉による説明の限界は明らかだろう。

鉱山業では、さまざまな複雑な機械が図解され、厳密な定量化が貫かれることで、「山師」としての鉱山活動から、近代的な科学的な鉱山業に発展していく。こうした書籍では中心となるのは図版であり、「テクストは従で、文字が読めなくとも理解できるようになっている」のであり、「俗語しか読めない大多数の技術者や職人を読者に想定して書かれた」(第二巻、四二八ページ)。錬金術から近代的な科学への進展も、こうした書物の普及と無縁ではないし、天文学でもチコ・ブラーエは、書物で「プトレマイオスとコペルニクスの計算結果とおのれの観察結果を比較することができた」(同、四九四ページ)ことで、本格的な天体観察の道が開かれたのである。

商業の世界でも、ラテン数字の利用と、算板に代わる新しい手計算術が書物で紹介されるとともに、大学では教えられない計算術が商人の間で普及するようになる。こうした書物は多数の版を重ねて読まれるのである。こうした「商業数学の研鑽と教育の蓄積」が、「一六世紀の代数学の発展-一六世紀の数学革命をもたらすことになった」のである(第一巻、三三〇ページ)。

書物の普及によって失われたものもたしかにあるのだが、近代的な科学の発展のために、メディアとしての書物がもたらした貢献は大きなものである。この時期においては書物はたんに知識を伝達するためのひとつの手段であるというよりも、それまでの学問のやりかたそのものに疑問を突き付け、閉ざされる知識の場に窓を開けるするという、いわば「民主主義的な」革命のための方法であり、思想でもあったのである。


【書誌情報】
■一六世紀文化革命. 1
■山本義隆[著]
■みすず書房
■2007.4
■390,29p ; 20cm
■ISBN 9784622072867
■定価  3200円


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2007年10月19日

『思索日記. 1(1950-1953) 』ハンナ・アーレント(法政大学出版局)

思索日記. 1(1950-1953)  →bookwebで購入

「アレントとともに考える」

よく無人島に一冊の本だけ持っていくとした何にするかという問いが冗談のように問われる。「あなたの心が何を食べているか、いってごらんさない、あなたがどんな人か、説明してあげましょう」というわけだ。すると人々は自分がもっとも時間をつぶせそうな一冊をいろいろと考える。そして多くの場合は、答えに窮するものだ。

ところがアレントなら、何の迷いもなかっただろう--わたしの『思索日記』です。これは1950年から1973年まで、すなわちアレントの思想の円熟期において、一年も欠けることなく、アレントが考えつづいていた事柄、その問題を提起した基本的なテクストの引用などを書き記したものなのだ。

これはたんなる備忘録のようなものではない。ストア派の人々は、重要な思想を書き記したノート(ヒュポムネーマタ)を手元においておいて、それを何度も読み直し、書かれたことを想起し、それによって自分の生活を律するようにしていた。アレントの日記も同じような意味をもっていたかもしれないが、それは何よりも、手元にテクストがないときにも、そのときのもっとも重要な関心事について、思索を続けられるようにすることを目的としたものだった。

実際にアレントは、テクストを参照することのできない旅先には、このノートを持参し、思索がとぎれることがないようにしていたし、旅先でも書き込みはつづけられた。フライブルクのハイデガーのもとにこのノートを持参して、ハイデガーに書き入れてもらったりもしている。この書き込みがあれば、アレントはハイデガーとともに考えることができるのだ。

ハイデガーが書いたのは次のところだ。「七一年四月二二日 フライブルクにて ハイデガー。断念すること(Ent-sagen)」。そのあとにおそらくアレントが上向きと下向きの矢印を書き入れ、「言うこと、存在について。断念することは、言うべきことを存在から取り去って、断念する。すなわち言うべきことを引き戻す」と書き記している(第二巻、四四七ページ)。

ついでながら、ハイデガーとの交際を復活させたアレントは、ハイデガーの思想から影響をうけるとともに、ハイデガーにも影響を及ぼしたのではないかとみられる。この二人の思想の相互的な影響関係は、考察の困難なテーマだが、やりがいのあるものだろう。

アレントがこの『思索日記』を書こうと決意し、独立した遺稿として書物の形にすることまでを考え始めたのは、『全体主義の起源』を書き終えた後のことであり、プラトン以来の西洋の哲学のうちに、ファシズムとスタリーニズムを生み出す根本的なゆがみがあったのではないかという深刻な問いをみずからに問いかけ始めた頃のことである。

これはアレントがマルクスの哲学と対峙し始めていた時期であるが、マルクスの直接的な言及は最初の数年に限られ、ノートはプラトンとカントの引用が中心になっていく。多くの場合ギリシア語で引用しながら、アレントはプラトンのテクストとじっくりと対話し、そこから引き出した結論を書き記していく。

この結論はやがてアレントの書物などで最終的な形を取り始めるが、アレントがこうした思想をどのような状況と文脈のもとで考えていたかを示すのは、この『思索日記』であり、この日記を読むことで読者はいわばアレントとともに古典を読み、アレントとともに考えることができるのである。

一つだけ実例を引用しておこう。アレントはヘーゲルの『精神現象学』にふれて、「ヘーゲルで初めて、キリスト教が要求していたことが(?)、他の人々を抑圧する者は自由ではありえないことが--主人と奴隷の弁証法において--「証明」される。これは自由概念の革命的転回である。それによって政治一般が初めて可能になる」(第一巻、三六二ページ)。実に鋭い考察ではないか。

また、一九五〇年頃、マルクスを読みつづけていたころの日記をみても、晩年の日記をみても、『アウグスティヌスの愛の概念』を書いた頃のモチーフがいかに生き生きとアレントのうちで息づいているかがよく理解できる。愛、赦し、責任、複数性などのテーマは、アレントから離れることがなかったのである。

ぼくはこの書物の刊行が発表された時点でドイツの書店に予約をいれておいた。長らく待たされた後に、箱入りで黒の布のシックな装丁の二冊本がとどいたときは、とてもうれしかったものだ。翻訳権を取得しようかと思ったが、ぶあつさと引用の多さに引いてしまった。出版から数年で、この大部な著作を翻訳刊行された訳者に敬意を表する。

【書誌情報】
■思索日記. 1(1950-1953)
■ハンナ・アーレント[著]
■ウルズラ・ルッツ,インゲボルク・ノルトマン編
■青木隆嘉訳
■法政大学出版局
■2006.3
■570p ; 20cm
■ISBN 4588008412
■定価  6200円

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2007年10月16日

『シェリング哲学 : 入門と研究の手引き』H.J.ザントキューラー編(昭和堂)

シェリング哲学 →bookwebで購入

「シェリングの位置」

しばらくチェックしないでいるうちに、シェリング研究がずいぶんと盛んになっていることに気付いて驚いた。なんと邦訳のシェリング全集の刊行まで始まっているのだ。パリのポンピドゥー図書館で、フランスでのシェリング研究がかなり盛んであることに感心したのはもう五年以上も前のことになるが、本書は世界的なシェリング研究の流行を背景に、シェリングの哲学のアクチュアリティを探ろうとする。シェリングの著作や遺作は膨大なもののようだし、こうした入門的な紹介は有益だろう。

シェリングの哲学とドイツ観念論には、ロマン主義的な思考とも共通して、「知と意識を内に含みながら同時にそれを超越している領域として精神を考える」(p.82)ところがあるが、シェリングにおいてはそれがグノーシスとプラトン哲学の研究において、「神がかり」のうちに「われわれの内なる神」をみいだそうとすることをきっかけとしたという指摘(同)は納得できる。シェリングはグノーシス研究からスタートしていたのだった。

そしてフィヒテとシェリングの共通性と違いもそこにあると言えるだろう。「フィヒテが人間の意識における対立から出発して、その対立において前提されるべき絶対的自我にたどり着いた」のにたいして、シェリングは古代哲学の研究から、「神的意識ないし表象能力から出発した」のであり、「フィヒテのように経験的自我から出発しても、自分自身のように絶対的自我から出発してもまったく同じで、同一の三原則に到達する」(p.96)と言えるのである。

またシェリングは、「世界」としての自然と、科学的な自然法則が適用される自然とを分離したままに残していたのにたいして、シェリングの自然哲学はこの問題を解決する手立てを提示しているところも(p.104)、ドイツ観念論におけるカントの問題提起の大きさをうかがわせる。ヘーゲルは論理学と自然哲学を断絶させたが、シェリングは能産的な自然と所産的自然というスピノザの自然概念に依拠することで、二つの自然を通底させる道筋をみいだすのだ。

またカントは、燃焼というプロセスを、まだフロギストという実体的な原素によって説明しようとするが、シェリングの時代にはすでに酸素が発見され、原子の化合と分解という化学的な説明が可能になっており、シェリングは「化学が科として可能であること」の基礎づけを目指していたという指摘も興味深い。カントがニュートン物理学の可能性を基礎づけようとしたのに対して、シェリングは化学の可能性を基礎づけようとしていたのだ(p.133)。

シェリングの悪の概念や宗教哲学など、まだまだ興味深いところは多いが、晩年の積極哲学の議論において神話論に立ち戻るところがおもしろい。シェリングの神話論には次の三つの特徴があるという。
一)神話はオートポイエーシス的である。神話は作られるのではなく、自分自身を生み出し、自分自身の原因であり、有機的な構造をなす。
二)神話は有機的に編み出され、自分自身の原因となるから、自己と完全に一致している。これはシェリングの伝統では神話は「真理である」という結論を可能にする。
三)神話は「自意的」である。神話の真理は神話の内部にあるのだから、神話が意味するのは、神話そのものだけである(p.227)。

シェリングはこの神話のオートポイエーシス性に依拠しながら、主観哲学の枠組みを越える積極哲学の構想を進めるのだ。晩年のベルリン大学に戻った頃から、シェリングの積極哲学の時期が始まる。この時期のシェリングは評判が悪いが、初期のモチーフを失わずに掘り下げ続ける腕力と執念はさすがだ。

■シェリング哲学 : 入門と研究の手引き
■H.J.ザントキューラー編
■松山壽一監訳
■昭和堂
■2006.7
■288,59p ; 22cm
■ISBN  4812206227
■定価  3800円


■目次
F.W.J.シェリング(生成途上にある作品)-入門
シェリング研究の水準について
シェリングの哲学的始元に対する古代哲学の意義
ドイツ観念論におけるシェリング
自然の哲学
芸術哲学
歴史哲学
神話の哲学
啓示の哲学
シェリングにおける法、国家、政治


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2007年10月12日

『アザンデ人の世界―妖術・託宣・呪術』エヴァンズ=プリチャード(みすず書房)

アザンデ人の世界―妖術・託宣・呪術 →bookwebで購入

「妖術の論理学」

出版年は少し古くなるが、アザンデ人の世界における呪術の意味を詳細に考察したエヴァンス・プリチャードの古典的な著作で、いまなお読み応えがある。ヨーロッパの世界の住人であれば、偶然としか考えないところで、アザンデの人々は呪術の作用を読みとる。それはオカルト的な世界観というよりは、出来事の読み方における次元の違いといったものらしい。

さまざまな出来事を自然の因果関係または偶然として解釈するのではなく、呪術で説明する理由について尋ねられたら、アザンデ人はきっと「自分たちは自然の因果関係を信じるが、それが偶然の一致を十分に説明してくれるとは考えない。自分たちには妖術の理論がそれらをうまく説明しているように思える」(p.83)と答えるだろとエヴァンス・プリチャードは説明している。

穀物小屋が倒壊して、何人かの人が下敷きになったとしよう。アザンデの人々も、支柱が白蟻に食われること、固い木でもやがては腐ることは知っている。しかしある人が小屋の中にいるときに、その小屋が倒壊する理由は、こうした因果関係では到底説明できない。なぜこの時に、なぜこの人がいる瞬間に、小屋が倒壊しなければならなかったのかは、こうした因果関係ではどうしても説明できないのである。

その欠落を埋めるのが妖術という説明方法であり、西洋の世界の人々はそうした説明方法を信じていないために、それに対処できないとアザンデ人はいうだろう。偶然や運命という「神」に代わるのが、アザンデでは妖術なのであり、これは託宣と呪術によって避けることができるはずのものだというのが、アザンデの人々の思考方法である。

そして奇妙なことに、アザンデの人々はこうした託宣をおこなっているときこそが、至福のときなのだという。「アザンデ人は託宣を操作しているときが最高に幸せなのだ」(p.105)。占いの託宣をするためには、鶏に毒を飲ませる必要があり、占いは何度も問う必要があるために、毒を飲ませる鶏の数も多くなる。だから「カゴいっぱいのニワトリと、たっぷりの毒を用意して自分の健康や家族の幸せ、仕事の順調さについて念入りに伺いをたてながらブッシュで過ごす朝の時間ほど彼らの心を喜びで充たすものはない」(ibid.)のだという。

そしてエヴァンス・プリチャードもみずから占いをするようになったが、ほとんどつねに妥当で納得のできる結果が得られたというからおもしろい。それでも託宣があたらないか、矛盾したことを語ることがある。そんなときにもアザンデ人はさまざまな理由をみいだしてくる。(1)間違った毒草を採取してきた、(2)タブーを犯した、(3)妖術が働いている、(4)蔓草の生えていた森の所有者が怒っている、(5)毒が古くなっていた、(6)死霊が怒っている、(7)邪術がかけられている、(8)毒が使用済みだった(p.380)。主体の責任、敵対者の責任、第三者の責任と、これだけ言い訳があったら、どんな矛盾した結果でも説明できるのはたしかだ。

そしてアザンデの人々は、法で解決できるときに呪術を使うことはない。「もし自分の妻と不倫を犯した男が誰だかわかっていたら、あるいは槍を盗んだのが誰だかわかっていたら、あるいは親族の人間を殺したのが誰だかわかっていたら、法廷に持ち出せばよい。呪術を使う必要はない。犯罪を犯したのが誰だかわからないときにのみ、そのわからない相手に向かって用いるのが呪術なのである」(p.451)。

呪術をかけている人物が判明したら、その人物に呪術を解いてもらう簡単な儀式がある。そう頼まれたら、自分に覚えがなくても、その儀式で呪術を解くのが礼儀だという。誰もが呪術をかけるような嫉妬心を抱く可能性があり、潜在的には誰もが呪術師になりうる。だから儀式を拒むべきではないのだという。エヴァンス・プリチャードはアザンデ人は呪術について西洋の正義に近い語彙で語ると指摘しているが、人間関係をコントロールする巧みな手段として使われているらしい。

ただしこうした呪術は昔から流行していたわけではないようだ。ヨーロッパの支配が始まってから、「呪術は消えるどころか、どの局面て見ても大きく膨らんでいる」(p.513)という。実際に「ヨーロッパの植民地政府自体が呪術の目的や代理となっている」のだとすると、新しい社会的な変動に対処するために、呪術が利用されているという面もあることになる。

これは新しい現象である秘密結社についてもあてはまる。以前は存在していなかった秘密結社には、女性も参加することができる。伝統的な呪術からは女性は排除されていたが、「女が男と対等に参加し、ときには男の保証人となり、役職にもつき、ときには支部長にさえなる」ことは、結社が「既存の行動規範に抵触する社会集団である」(p.595)ことを示している。

それだけではない。結社には老人は参加しないことになっており、ときに参加しても、口にしないことになっている。アザンデ人の社会は老人支配の社会であるだけに、ここにも反社会的な要素が確認できる。また結社には貴族は参加しないことになっていて、参加しても支配することはできない。結社は「貴族の特権を否定する」(p.596)意味をもっているのである。

六〇〇ページと、長くて厚い本であるが、じっくりと読んでいると、アザンデ人のメンタリティがじわってわかってきて、つい微笑みたくなったりする。他なる社会の人々と、他なる論理を理解するためには時間も必要だが、報われることも多いものだ。

【書誌情報】
■アザンデ人の世界―妖術・託宣・呪術
■630,29p 21cm(A5
■みすず書房 (2001-01-05出版)
■エヴァンズ=プリチャード,E.E.【著】向井 元子【訳】
■[A5 判] NDC分類:389.44 販売価:\12,600(税込) (本体価:\12,000)
■ISBN:9784622038412 (4622038412)
■目次
第1部 妖術(妖術は身体的、遺伝的な現象;妖物は開腹によって見つけられる;妖術と結びつけられる他の邪悪な存在;妖術の概念は不運な出来事を説明する;妖術に対抗する行為は社会的に規制されている;不運に見舞われた人は敵対者のなかに妖術師を探す;人は憎しみを抱いたとき他者に妖術をかける;妖術師は意識的に行動するのか;妖術と夢)
第2部 妖術医(妖術医はいかにして妖術を解くか;妖術医に対するアザンデ人の信頼;新しく妖術医にしたてるための訓練;アザンデ社会における妖術医の地位)
第3部 託宣(日常生活における毒託宣;毒の採取;毒託宣に伺いをたてる;毒託宣に伺いをたてることから生じる問題;他の託宣の方法)
第4部 呪術(善い呪術と邪術;呪術と呪術師;治療術;呪術を行うための結社;死の状況下における妖術、託宣、呪術)


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2007年10月09日

『公と私の系譜学』レイモンド・ゴイス(岩波書店)

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「公とは何か」

公的なものと私的なものの境界が時代とともに変動していることは、アレントの『人間の条件』などでも指摘されてきたが、この書物はギリシア、ローマ、中世、現代における公的なものと私的なものの領域を、具体例で考えようとするところがユニークだ。

古代のギリシアではアゴラで食事をすることも下品なこととされていた。物を食べるのは、家という私的な空間でおこなうべきだとされていたのだ。ところがキュニコス派のディオゲネスは、アゴラでオナニーをしてみせる。クラテス夫妻はアゴラでセックスをしてみせる。もちろんコートで覆っていただろうが、身体の動きだけでそれは分かるものであり、これが挑発的で、公的な領域を侵犯する行為と理解されたのは間違いのないところである。

オリゲネスはオナニーを哲学的な営みとして実行したのであり、他者にたいする配慮の欠如こそ、自立した人間の印だと考えたのである。「完全なる無恥」、それこそが「善き人間の生を顕著に特徴づける」(p.25)ものだと考えたわけだ。ここでこの行為が公共的な空間を侵犯した理由は二つ考えられると著者は指摘する。誰でも入ることのできる公共的な空間では、「関心を逸らせる可能性」の原理が適用される(p.29)。

まず公衆とは、互いに邪魔することになく、その人々に自分自身の営みを続けることを許容する人々であり、ディオゲネスは親密な友人でない人々の注意を引くという意味で、公的な空間にふさわしくない振る舞いをしたことになる。もう一つは公衆とは、個人的に知っていても、汚染された感じを与えかねない行為によって不快にしないように、気にかけるべき人々だという(p.30)。その意味ではたとえ知人であっても目を背けざるをえない行為をしたオリゲネスはやはり公的な領域を侵犯したわけである。

第二の実例はルビコンを渡ったカサエルである。元老院は軍隊の指揮者としてではなく、私人としてローマに戻るようにカエサルに命じた。しかしカエサルをこれを拒んで、軍隊を指揮してローマに戻り、共和制を実質的に崩壊させたのだった。ローマという公的な空間を侵犯したこの行為は、それでは私的な行為かというと、必ずしもそうではない。将軍としてのカエサルのそれまでの功績を無視することは、公人としてのカサエルの存在を否定するものだと、カエサルは判断したからだ。

カエサルにとって公的なものとは、アゴラのように「誰もがアクセスできる」ところというよりは、(a)すべての人に関連する、もしくは影響を与えるものの領域であり、(b)すべての人に関連すると考えられる領域、すなわち共通善に関連する領域に対する権力を(そして責任を)もつ主体の集団を意味すると考えられたのである(p.48)。

第三の実例は、『告白』におけるアウグスティヌスである。アウグスティヌスは記憶と反省において、「われわれ自身における最も重要な側面」として、身体の状態ではなく、「内なる状態、つまり神と関連するわれわれの魂の状態」(p.56)を取り出したことが指摘される。いわば人間の「内面性」というものが初めて自覚されたのであり、それは他者の立ち入ることのできない領域である。アウグスティヌスにおいては公共的なものと異なるる私的なものの領域が確立されたわけである。

ディオゲネス、カエサル、アウグスティヌスにおいて、「私的なもの」というものがどのような意味をもっていたかという考察は、それによって公的なものがどのようなものとして意識されていたかを示すために役立つものであり、公共性についての歴史的な系譜学として、そして自己がどのようなものとして意識されていたかを示すものとして興味深い。

次の章では急に現代のリベラリズムに進むが、この章の考察は、プライバシーの概念を中心に行われている。ルターと宗教改革で、私的な信仰の領域と公的な崇拝の領域が明確に区別されるようになったことなど、古代末期のアウグスティヌスから現代にいたるまで、ここで考察されていない多くの公的な領域と私的な領域の差異のテーマが存在する。公共的なものという概念はときに言葉の遊びになる傾向があるだけに、こうした系譜学的な考察は、まだまだ続けられるべきだろう。


【書誌情報】
■公と私の系譜学
■ISBN:9784000228411 (4000228412)
■147,7p 19cm(B6)
■岩波書店 (2004-02-26出版)
■ゴイス,レイモンド【著】山岡 龍一【訳】
■[B6 判] NDC分類:311.1 販売価:\2,520(税込) (本体価:\2,400)
■目次

第1章 序論
第2章 恥知らずと公共世界―アゴラで自慰するディオゲネス
第3章 レス・プブリカ―ルビコン川で決断するカエサル
第4章 霊的なものと私的なもの―アウグスティヌスの内なる隠れ家
第5章 リベラリズム―リベラルな公共善と近代の境涯
第6章 結論


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2007年10月05日

『二十世紀の法思想』中山竜一(岩波書店)

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「法と哲学の結びつき」

二〇世紀の基本的な法学の流れを追った書物だが、法哲学というよりも、法的な思考の枠組みが、哲学に大きな影響をうけていることが実感できる。著者とともに「どんな法解釈も何らかの哲学と結びつくものであらねばならないこと、あるいは逆に、法哲学的省察という次元をまったく欠いた法解釈など空虚以外の何ものでもない」(p.217)と感じざるをえない。

第一章で紹介されるケルゼンの純粋法学は、新カント派のヘルマン・コーエンの認識哲学に着想をえて、「である」という事実と「べきである」という当為の厳格な区別に依拠したもの(p.6)だし、ファンヒンガーの「かのように」哲学の影響も明確なものである。この規範と事実の峻別こそが純粋法学の根幹であり、そこにこの法学の限界もあることになる。この区別にこだわりすぎると、「法的実践に対する無力」(p.22)がもたらされるからだ。

第二章で紹介されるハートの「一次的ルール」と「二次的ルール」の概念は、ウィトゲンシュタインのゲームの理論から着想をえたものだし、オースティンなどの分析哲学からの影響も大きい。ハートの「社会的ルールとしての法」と「内的視点・外的視点」は、ウィトゲンシュタインの『青色本』で提示した「基準」の観念を「ハートが独自のやり方で法理論へと移しかえた」(p.43)ものだという。ハートはこの方法で法学の分野においても、「言語論的転回」をもたらしたことになるが、二次的ルールを専門家だけに開かれたものと定義することになった。「その司法裁量論は裁判官の政策的な考量や準=立法的な機能を認めることによって、法的実践の自立性や自己完結性に綻びを招いてしまう」(pp.51-52)ことになったのである。

第三章で紹介されるドゥオーキンは、ハートのこうした限界を指摘しながら、法には確定された法的な基準だけでなく、法的な原理というものが存在しており、字義的な解釈だけではなく、裁判官が原理にさかのぼることで、正しき裁きを模索することができることを指摘する。そのために援用されるのが、ガダマーやハイデガーなどの解釈学の理論であり、「参加者の視点からの解釈的アプローチ」(p.89)を活用しようとするのである。

第四章では、ポストモダン法学としていくつかの哲学者の理論との結びつきが示される。アメリカで特に流行した批判法学では、「ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論、トマス・クーンのパラダイム論、リチャード・ローティのネオ・プラグマティズム、ホルクハイマー-アドルノからハーバーマスにいたるフランクフルト学派の批判理論」(p.152)だけでなく、デリダの脱構築の理論が援用されたのは有名だろう。「デリダの脱構築は法学研究や正義論に無視しえない影響を及ぼし、やがて脱構築学派は批判法学内部での一台勢力を形成するようになった」(p.156)のだった。

さらにルーマンのシステム理論は、「法システムはその外部に対して、認識論的には開放されているが操作的には閉じられている」(p.165)根拠を示すものとして利用され、「法の相対的な自立性」を擁護するためにも援用されるようになる。

本書では多数のコラムを活用することで、マルクス主義法学からフェミニズム法学にいたるまでの多様な流れを紹介しているし、巻末の読書案内も親切だ。「岩波テキストブック」の一冊としては、とくにうまくできている本ではないか。

【書誌情報】
■二十世紀の法思想
■中山竜一著
■岩波書店
■2000.3
■226p ; 21cm
■岩波テキストブックス
■ISBN 400026026X
■定価 2100円
■目次
第1章 20世紀法理論の出発点―ケルゼンの純粋法学
第2章 法理論における言語論的転回―ハートの『法の概念』
補論 ハート理論における「法と道徳」
第3章 解釈的実践としての法―ドゥオーキンの解釈的アプローチ
第4章 ポストモダン法学―批判法学とシステム理論
補論 脱構築と正義―デリダ「法の力」
第5章 むすび


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2007年10月01日

『中世都市論』網野善彦著作集(岩波書店)

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「中世都市の自律性」

やがて『無縁・公界・楽』の考察につながる網野の中世都市論の集成だが、日本の戦後の歴史学の全体を展望するにも役立つ一冊である。網野は中世都市論について、戦後の歴史学界に主として二つの潮流があったことを指摘している。

一つは西欧の中世都市との比較において、日本の中世都市を考察しようとするものであり、マルクス主義的な歴史学を含めて、日本の発展の「遅れ」や「歪み」を指摘するという傾向が顕著なものである。もちろんこうした比較論は、単に日本の特殊性を指摘するだけではなく、日本の社会にたいする批判のまなざしを含むという「功績」をそなえていたのはたしかである。

都市論においてはとくに、鎌倉期を中心する中世前記の都市は、「自給自足的な農村を基礎とする農工商未分化な社会であり、京・鎌倉などの都市は、当時の社会経済構造のなかでは補足的・従属的な意味しかもたない。それらは天皇・将軍の居所として、基本的には政治都市にほかならず、その意味で、依然として古代的な性格をもつ」(p.11)ことになる。
中世後期になって自由都市が成立するようになるが、やがては封建領主によって自由都市が制圧され、自由な都市はごく短期間で消滅し、「そこに日本の社会の〈アジア的〉な、また根強い専制的な特質が、あくまでも負の側面から強調される」(p.12)ことになるのである。網野はこうした歴史家として、福田徳三、羽仁五郎、遠藤元男、石母田正、永原慶二などの(ぼくたちにも馴染みの)名前をあげている。

この潮流の問題点は、京・鎌倉などの都市が中世都市としてもっていた意味を考察することができず、「平安末期から活発な活動が確認される供御人、神人」(p.12)などを把握することができないことにある。天皇と中世「賤民」が日本の「アジア的」な負の財産として評価されるばかりで、中世社会における独自の地位が確認されなのである。

こうした問題点を是正するために生まれた潮流が、これらの二つの要素に独自の位置づけを与えようとするものだった。中世の社会を自給自足的な社会とするのではなく、「当初から非自給的な部門がかなりの比重をもち、商工業のある程度の発展を前提としていた」(p.13)とみなすのである。この流れは、原田伴彦、黒田俊雄、横井清、脇田晴子などの歴史家に代表される流れであり、網野もまたここに連なると言える。

ただし網野はこの新しい潮流にもいくつかの問題点があると考えていた。それは都市の性格について考察が、現代の常識的な意味での都市を中心とするものであり、一見して「村」のように見える場所が中世においては「都市」の機能を果たしていたことが見逃されていること、そしてこうした隠れた都市においては、農民以外の人々の活動が非常に重要な地位をしめていたとみられることにある。

その具体的な例を示すのが、「近江国堅田」と「近江の船木北浜」の論文である。すでに著作集の『一〇巻』では琵琶湖の菅浦が自由な都市として自治を敷いていたことが指摘されていたが、同じく琵琶湖の「堅田」もまた「自治の町」であり、「市民的道徳」を堅持していた都市であったことが明らかになっていた(p.138)。網野はこの論文では、ごく初期の頃から一五世紀末に自治を失うまで、この町の自治の歴史をたどっていく。ついに一五九六年の検地によって、「堅田は〈村〉としての位置づけを確定された。堺と肩をならべた中世の自治都市堅田は、ここにその栄光ある歴史を終え、湖辺の一村落に転落したのである」(p.156)。

また琵琶湖の湖畔の小さな町「北船木」の考察では、最初にのべられた二つの潮流について批判が明確に示され、どちらの潮流でも自由という問題が十分に考察されていなかったことが批判される。自由にする「都市」という西洋のイメージがつよいあまりに、「自由・自治の問題そのものが、深く論議されることなく抜け落ち」る傾向があり、「日本中世において、都市の自由を問題にすること自体を、頭から否定しようとする傾向」も否定できないことが批判されるのである(p.170)。

この北船木の町は、「堺と肩をならべる」ような自治を確立することはできなかったもの、賀茂社を通じて天皇に服属することで、「諸国における自由な漁労、自由通行の特権」(p.174)を獲得していたのであり、公家を通じて、「公武権力の保証」をえることで、「中世の琵琶湖の秩序の中に、強固な地歩を確立」することができたのだった(p.175)。堅田は特権を天皇や鴨社に求めることになく、自治都市の特権を維持しようとしたが、北船木は天皇につながることで特権の保証を求めたのだった。

どの権威にもよらずに自律した都市としての地位を確保しようとする道と、天皇という権威によりかかることで、幕府の支配からのある程度の自律を維持しようとする二つの都市のありかたを比較しながら、網野はそこに「都市としての成熟度」(p.184)をみようとする。しかし幕府の権力と対立する天皇の権力に足場を求めることの両義的な意味は日本の歴史を貫いているのである。「人民生活そのものの中から否応なしに生まれてくる自治、平等、平和、無所有への本源的な希求・志向」が、ときにとして「天皇の支配権を含む統治権的支配原理」(p.126)と対立するものでありながら、それに依拠してしまう矛盾を含んでいることは否定できない。

また網野は中世の後期にはすでに資本主義が源流が誕生していたと考えていることも、この都市の自律と無関係ではない。封建社会に安住するのではなく、「活発な商業、金融などの流通、安定した信用経済を支える〈市場原理〉がある程度まで貫徹していたこと明らかであり、〈資本主義〉の源流はどのとように遅く見ても、ここまではさかのぼって考える必要がある」(p.213)とみられるのであり、それでなければ「自律」という言葉もむなしいものとなるだろう。


【書誌情報】
■網野善彦著作集〈第13巻〉中世都市論
■ISBN:9784000926539 (4000926535)
■464p 21cm(A5)
■岩波書店 (2007-05-10出版)
■網野 善彦【著】

■目次
1 日本中世都市の世界(中世都市研究の現状と課題;中世都市論;鎌倉の「地」と地奉行;中世都市研究の問題点と展望)
2 京都の支配と周縁的世界(古代・中世の悲田院をめぐって;検非違使の所領;造酒司酒麹役の成立―室町幕府酒屋役の前提;元亨の神人公事停止令について;建武の所出二十分一進済令)
3 都市の生活と起源(中世民衆生活の様相;都市の起源―今、なぜ一の谷か;事典項目 河原)


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