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2007年09月19日

『民主主義の逆説』シャンタル・ムフ(以文社)

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「多元主義的な民主主義のための戦略」

ラディカル・デモクラシーの理論を構築するムフのこの書物の議論の中心は「政治」と「政治的なもの」の分離にあると言えるだろう。ムフはシュミットに依拠しながら、「政治的なもの」を、「人間関係に内包される抗争性の位相、さまざまな形態をとり、社会関係のさまざまな様式において組織化しようとする諸実践、諸言説、諸制度の総体」を意味するものと定義する(p.156)。これに対して「政治」とは、「敵意の馴致と人間関係のうちに存在する潜在的な抗争性の緊張を和らげること」(ibid.)である。

ムフにとってシュミットは、この人間関係に内在する権力としての「政治的なもの」を前提とし、「民主主義ががつねに包摂と排除の関係を内包していることを浮き彫りに」したという貢献をなしている(p.69)。シュミットに問題があるのは、こうした内在的な対立関係のために「自由民主主義が必然的に自己破壊に至る矛盾として提示する」(p.70)ことにある。ムフはこの対立関係を認識することは、民主主義を否定することではなく、新しい実践のための「原動力を生み出す緊張の場」として理解することにつながるべきだという。民主主義において、抗争を「闘争」(アゴーン)に変換することこそが重要だ考えるのである。

この人間関係に内在する権力関係を承認することは、フーコーが指摘したミクロな権力関係を前提とすることであり、「権力から完全に自由でありうるという幻想を放棄する」(p.36)ことを求めることである。ムフはここに「ラディカルで複数的な民主主義」のプロジェクトの根拠を求める。そしてこれが、ロールズやハーバーマスの道徳的で普遍主義的な理論への反論の根拠となる。民主主義には、抗争性は除去できない本質的な要素として内在しているのであり、「普遍的で合理的な合意を目標とすることこそ、民主主義への真の脅威」となるというわけである。

また普遍主義的な理論に依拠する自由主義的な理論は、「人類」という概念に依拠するために、「人民」という「政治的な構成の中心的な問題」にとりくむことができなくなる(p.69)。自由主義の普遍主義的な理論と概念構成は、民主主義にとっては一つの「危険」(ibid.)をもたらすものだとムフは考える。

それよりも権力関係を認識しながら闘争に向かい合うことが民主主義には必要だというのが、ムフの闘争モデルである。これは民主主義にとっては「存在条件そのもの」(p.159)なのであり、「対立の承認と正統性」を認識し、それを権威主義的な秩序で解決しようとしないところにあるのは、たしかだからだ。

ムフはこうした闘争モデルを提起するにあたって、ヴィトゲンシュタインを利用するが、これは少し遠過ぎるような印象をうける。ヴィトゲンシュタインの著作で、「ホッブズ以来の自由主義理論のなかにある普遍主義化と同質化の様式を断ち切る」(p.94)のは、無理なのではないか。「ざらざらとした大地」の必要性の呼び掛けを、ロールズの普遍主義に対置するのは、かなり文脈からずれてしまうからだ。

それよりもレヴィナスとデリダの他者論、ならびに友愛論や来るべき民主主義論を利用するのほうが、はるかに展望が開けるのではないだろうか。それでもハーバーマスの討議的な理性の理論と、ロールズの『政治的リベラリズム』の背後に潜む道徳主義的な言説の批判は、まっとうなものだ。ムフが指摘するように、「討議民主主義の支持者は、平等な人びとの自由な推論からは単なる暫定協定ではなく道徳的な合意が帰結すると理解するため、そこに政治決定をめぐる合理的合意の不可能性が伴うことを受け入れない」(p.138)のだ。

ムフが指摘するように、ハーバーマスと対立するロールズの「政治的構成主義を討議倫理の言語で再定式化する」ことも可能であり、これに関しては、ハーバーマスとロールズの距離はそれほど遠くないのである。ただしだからといって『正義論』におけるロールズの骨太の試みの価値が低くなるわけではない。


【書誌情報】
■民主主義の逆説
■シャンタル・ムフ著
■葛西弘隆訳
■以文社
■2006.7
■224p ; 20cm
■ISBN 4-7531-0248-3
■定価 2500円


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