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2007年09月26日

『ハンナ・アーレント -- 〈生〉は一つのナラティヴである』ジュリア・クリステヴァ(作品社)

ハンナ・アーレント -- 〈生〉は一つのナラティヴである →bookwebで購入

「やわらかに描き出されたアレントの生と思想」

クリステヴァの女性評伝三部作のうちの一冊で、ほかの二人はメラニー・クラインとコレットだ。ある種の女性は、「精神生活の生き方の天才」(p.11)でもありうるという視点から、この三人が選ばれたようだ。ほかの二冊は未見だが、アレントに関してはクリステヴァはこの天才の描写に成功していると言えるだろう。ときに難解な文章も書くクリステヴァだが、本書はきわめて平明であり、アレントの個性を鮮やかに描きだしている。

とくに大きな印象をうけたのが、アレントの『ラーエル・ファールハーゲン』という書物の、わずかに精神分析的な解釈である第一章第三節「範例の意味」である。一七世紀末から一八世紀の始めにかけてベルリンでロマン主義者たちを集めたサロンを開いていたラーエルについてのアレントの解釈は、アレントの思い込みの強さによって見通しが悪くなっている本だが、クリステヴァはアレントがラーエルの生を描写しながら、実はいかなアレント自身の気持ちをこめているかを、アレントの描写の襞に分け入りながら、描きだしている。精神分析者ならではの描きこみだろう。

何よりも、ユダヤ人だったラーエルが直面した同化とパーリアの選択肢は、アレントにとっても重要な問題だったのである。そしてアレントはラーエルの経験をつうじて、一つの解決に到達する。アレントはヤスパースに、この書物は「シオニズムの同化批判の立場から書かれている」と語っているが、「疑いもなく彼女の本の背景をなしているこの政治的選択を通して、ラーエルに同行するアーレントにとっては、一人の女性のヒステリーを通過することが重要だったのである」(p.94)というのがクリステヴァの診断だ。

それだけではなく、アレントはこの書物をドイツの教授資格のための論文として認めるように、戦後に損害賠償の訴訟を提起して、一七九一年に勝訴している。これはアレントの思いの強さを示すとともに、これがたんなる一女性の伝記であるだけではなく、ドイツの大学の教授資格の請求論文となりうるものだという位置づけがアレントのうちでなされていたことを示すものであり、クリステヴァはこの論文は「彼女の政治思想の新の歴史=物語」だとまで読み込むのである(p.77)。そして「ラーエルとともに行ったこの自己分析の後、アーレントは概念のベルマとなったのだ。〈職業的思想家〉よ、さらば!」(p.95)という指摘もまた鋭い。

アレントの『精神の生活』における考察において、ポストキリスト教的なプロジェクトの到来が語られる第三章第二節「思考する〈自己〉の対話」も秀逸である。ここにクリステヴァは「生活」というアレントの概念の「ラディカルな変化」を見届けている(p.273)。それをキリスト教と結びつけて考えるべきかどうかは、問題のあるところであるが、アウグスティヌスの愛の概念の考察からここまで、一本の糸がのびていることは間違いないところだろう。

最近は多数のアレント論が発表されていて、アレントのさまざまな概念の詳細な分析が展開されるようになった。しかし本書にこうした分析を期待するよりも、「生は一つのナラティブである」というアレントの生き方と思想の深い結びつきを、柔らかで豊かな文章で描きだしたところを楽しむべきだろう。

【書誌情報】
■ ハンナ・アーレント : 〈生〉は一つのナラティヴである
■ジュリア・クリステヴァ著
■松葉祥一,椎名亮輔,勝賀瀬恵子訳
■作品社
■2006.8
■329p ; 20cm
■ISBN 486182091X
■定価  3800円


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2007年09月22日

『呪術化するモダニティ 』阿部年晴,小田亮,近藤英俊編(風響社)

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「アフリカ呪術の「現代性」」

本書は、さまざまな視点から、アフリカの呪術と宗教的な現象を考察しようとしたものだ。とくに千年紀資本主義の議論、現代における呪術分析の三つの落とし穴、そして後背地的なものについての考察を面白く読んだ。

□千年紀資本主義
まず千年紀資本主義の議論は、アフリカの宗教的な現象から、、現代日本の問題を裏側から照らしだそうという逆説的で、興味深い試みだ。ポストコロニアル人類学など、文化人類学の最新の成果をとりいれながら、しかもそれをアフリカだけの考察にとどめないというところがおもしろい。

編者によると、それが可能であるのは、アフリカがネオリベラリズムの犠牲となった「先進国」(笑)だからだという。IMFの主導でアフリカ諸国は一九八〇年代からネオリベラリズムを強要されてきたのであり、その被害が顕著になっているのであり、「日本社会もそれに追いつき始めた」(p.1)のだという。

この書物の多くの論文は、コマロフ夫妻の注目作『千年紀資本主義とネオリベラリズム文化』を下敷きにし、批判しながら書かれたものだ。千年紀資本主義とは、ネオリベラリズムのもとで加速している新資本主義であり、次のような特徴がある。

-富の蓄積の基盤が生産ではなく、株や証券の売買などの投機的な取り引きにある。成功すれば巨万の富をえられるが失敗のリスクも大きい。
-グローバル化によって資本と労働の移動が加速したために、若い男性の雇用状況が世界的に悪化したこと。
-雇用が流動化して、資本と労働が長期的に一つの工場や地域で向き合わなくなり、階級意識が低下し、労働力が生身の人間であるという認識が稀薄になったこと。
-個人が自由に商品を選択できる消費者としてのみ規定されること(p.2)

たしかに現代の日本の社会でもこうした傾向が顕著になっている。ローカルな社会では、投機的な取り引きによる巨万の富の蓄積も、グローバルな市場経済のメカニズムもみえてこないために、こうした富の蓄積が魔術的なものとしてみえてくるというわけだ。先日もインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙の一面にもで紹介されていたが、日本で最近外国為替の信用取り引き(FX)で数億の利益を挙げて、脱税で検挙された主婦がいたはずだ。どうしてそんなことが可能か、FXのメカニズムを知らなければ、ほとんど手品か魔術のようなものだろう。企業買収など、手品のようにして利益をあげる実業家がいることは周知のことだ。

このためにアフリカでは特別な才能のある人物や、傑出した地位にある人物は、魔術でそれを手にいれてものとみなされるやすいという。「アフリカでの妖術信仰の増加、ロシアの信仰宗教や呪術の流行、そしてブラジル生まれのユニバーサル教会」(ibid.)などが流行する土台がそこに生まれわけだ。

たとえば、南アフリカではオカルトと呪術に関連した暴力が爆発的に増加しているという。若い男性が、権力や資力のある老人を殺害する例が顕著に増えているのだという。「つまり若者の見方では、老人は呪術で彼らの仲間を殺したうえにその魂をゾンビにかえ、労働者として働かせているという」(p.62)のである。人々の格差が大きくなり、想像力がきわめて豊かであり、呪術的な伝統が強いところでは、こうした思い込みが起こるのも不思議ではない。

さらに呪術はFXと同じような利点もある。FXは今ではごくわずかな資本で始められるようになった。数十万円とインターネットへの接続さえ用意できれば、一攫千金も、運さえよければ夢ではないかもしれない。同じように呪術は、「多額の資本や広い仕事場を必要とせず、一般にいわれているような長年の修行する都市では刈らずしも必要ではない」(p.90)。そして呪術は「値段のついて商品として取り引きされている」のであり、「カドゥナの成功している呪医の場合、一日で工場労働者一ケ月分の給料を稼ぐこともある」(ibid.)ほどなのである。こうして元手も訓練もいらない商売として、グローバリゼーションの闇の中で、呪術はますます繁栄するようになるらしい。これは日本の未来像なのかもしれないのだ。

□呪術分析の三つの陥穽
文化人類学の書物として、グローバリゼーションの時代における呪術の分析は興味深いものであり、浜本論文では、その分析方法の三つの陥穽を指摘している。最初は機能主義的な分析であり、呪術をそのコンテクストから理解すれば十分だと考える見方である。呪術が使われているコンテクストを分析することで、その社会において呪術がどのような役割を果たしているかを指摘するというのは、「人類学的理解にとってしばしば諸刃の刃となる」(p.115)のはたしかだろう。ほとんどトートロジーのような説明で安心してしまいかねないからだ。

第二の陥穽は解釈学的スタンスの誤謬と呼ばれているものであり、オカルト的な実践が「近代に対する不満を表現し、その異形性に対処する」新しいやりかただと解釈するのである(p.119)。「ゾンビー化や吸血の噂話は資本主義や近代化についての人々の想像的・道徳的理解」(p.120)を示していると解釈するものだ。これは文化人類学にはよく見られる解釈方法だが、人々の実践をある種のディスクールとして読みこもうとすると、「かぎりなく胡散臭い」(p.121)ものとなるのは明らかだろう。

第三の陥穽は、意図性のショートサーキットと呼ばれている。これは第一の誤謬や第二の誤謬と近いものだが、「妖術師の現実的な危険」にそなえている人の行為を、「近代化への抵抗」を意図するものと、解釈者が簡単に「短絡」させることも、ありがちな誤謬だろう。

□後背地的なもの
阿部論文は、科学的な知以前の暗い場所を「後背地的なもの」と呼んで分析しようとするものだ。これは「持続的な対面関係が優勢な家族的集団や近隣集団を核とする共住集団ないし小地域」を「後背地」と呼び、「後背地的なもの」とは、後背地における人間同士および人間と自然との直接的な関係の中で形成され伝承される、文化や心的傾向や能力」を指すものである(p.351)。

この概念は呪術的なものの分析だけでなく、さまざまな暗黙知の分析にも利用できるものだろうが、科学的な知のしきいの下にある知は、どの社会にも伝統的に伝えられているものだろう。分析の困難な領域を考察する試験的な概念として、いろいろと考えさせられる。

[書誌情報]
■呪術化するモダニティ : 現代アフリカの宗教的実践から
■阿部年晴,小田亮,近藤英俊編
■風響社
■2007.5
■404p ; 22cm
■目次
 □瞬間を生きる個の謎、謎めくアフリカ現代 / 近藤英俊
 □呪術とモダニティ、その理論的検討 妖術と近代 / 浜本満
 □E=Pを読み直す / 出口顯
 □呪術・憑依・ブリコラージュ / 小田亮
 □ポストモダンの宗教的実践、そのリアリティ 妖術表象と近代国家の構図 / 菊地滋夫
 □神々をめぐる経済 / 田中正隆
 □グローバリゼーションとしてのペンテコステ主義運動 / 小泉真理
 □〈歴史〉を営む / 海野るみ
 □後背地から… / 阿部年晴
■ISBN  9784894891197
■定価  6000円


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2007年09月19日

『民主主義の逆説』シャンタル・ムフ(以文社)

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「多元主義的な民主主義のための戦略」

ラディカル・デモクラシーの理論を構築するムフのこの書物の議論の中心は「政治」と「政治的なもの」の分離にあると言えるだろう。ムフはシュミットに依拠しながら、「政治的なもの」を、「人間関係に内包される抗争性の位相、さまざまな形態をとり、社会関係のさまざまな様式において組織化しようとする諸実践、諸言説、諸制度の総体」を意味するものと定義する(p.156)。これに対して「政治」とは、「敵意の馴致と人間関係のうちに存在する潜在的な抗争性の緊張を和らげること」(ibid.)である。

ムフにとってシュミットは、この人間関係に内在する権力としての「政治的なもの」を前提とし、「民主主義ががつねに包摂と排除の関係を内包していることを浮き彫りに」したという貢献をなしている(p.69)。シュミットに問題があるのは、こうした内在的な対立関係のために「自由民主主義が必然的に自己破壊に至る矛盾として提示する」(p.70)ことにある。ムフはこの対立関係を認識することは、民主主義を否定することではなく、新しい実践のための「原動力を生み出す緊張の場」として理解することにつながるべきだという。民主主義において、抗争を「闘争」(アゴーン)に変換することこそが重要だ考えるのである。

この人間関係に内在する権力関係を承認することは、フーコーが指摘したミクロな権力関係を前提とすることであり、「権力から完全に自由でありうるという幻想を放棄する」(p.36)ことを求めることである。ムフはここに「ラディカルで複数的な民主主義」のプロジェクトの根拠を求める。そしてこれが、ロールズやハーバーマスの道徳的で普遍主義的な理論への反論の根拠となる。民主主義には、抗争性は除去できない本質的な要素として内在しているのであり、「普遍的で合理的な合意を目標とすることこそ、民主主義への真の脅威」となるというわけである。

また普遍主義的な理論に依拠する自由主義的な理論は、「人類」という概念に依拠するために、「人民」という「政治的な構成の中心的な問題」にとりくむことができなくなる(p.69)。自由主義の普遍主義的な理論と概念構成は、民主主義にとっては一つの「危険」(ibid.)をもたらすものだとムフは考える。

それよりも権力関係を認識しながら闘争に向かい合うことが民主主義には必要だというのが、ムフの闘争モデルである。これは民主主義にとっては「存在条件そのもの」(p.159)なのであり、「対立の承認と正統性」を認識し、それを権威主義的な秩序で解決しようとしないところにあるのは、たしかだからだ。

ムフはこうした闘争モデルを提起するにあたって、ヴィトゲンシュタインを利用するが、これは少し遠過ぎるような印象をうける。ヴィトゲンシュタインの著作で、「ホッブズ以来の自由主義理論のなかにある普遍主義化と同質化の様式を断ち切る」(p.94)のは、無理なのではないか。「ざらざらとした大地」の必要性の呼び掛けを、ロールズの普遍主義に対置するのは、かなり文脈からずれてしまうからだ。

それよりもレヴィナスとデリダの他者論、ならびに友愛論や来るべき民主主義論を利用するのほうが、はるかに展望が開けるのではないだろうか。それでもハーバーマスの討議的な理性の理論と、ロールズの『政治的リベラリズム』の背後に潜む道徳主義的な言説の批判は、まっとうなものだ。ムフが指摘するように、「討議民主主義の支持者は、平等な人びとの自由な推論からは単なる暫定協定ではなく道徳的な合意が帰結すると理解するため、そこに政治決定をめぐる合理的合意の不可能性が伴うことを受け入れない」(p.138)のだ。

ムフが指摘するように、ハーバーマスと対立するロールズの「政治的構成主義を討議倫理の言語で再定式化する」ことも可能であり、これに関しては、ハーバーマスとロールズの距離はそれほど遠くないのである。ただしだからといって『正義論』におけるロールズの骨太の試みの価値が低くなるわけではない。


【書誌情報】
■民主主義の逆説
■シャンタル・ムフ著
■葛西弘隆訳
■以文社
■2006.7
■224p ; 20cm
■ISBN 4-7531-0248-3
■定価 2500円


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2007年09月14日

『マルチチュードの文法--現代的な生活形式を分析するために』パオロ・ヴィルノ(月曜社)

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「現代における労働の意味」

ネグリ/ハートの『帝国』以来、流行になってきたマルチチュードの概念は、政治や文化などのさまざまな次元で考察すべきものだと思うが、本書が語るように、現代における労働の概念とも切り離すことができない。著者はマルチチュード、すなわち「多数的なもの」を、「ポストフォーディズム的労働者」(p.12)のことと考える。そして自覚するかどうかは別として、それは現代の社会で生きるぼくたちのことでもあるのだ。

アダム・スミスの『国富論』の冒頭で分業の生産性の高さが称揚され、マルクスが分業における疎外を指摘していらい、ずいぶんと長い時間が経過したものだと思わざるをえない。現代でも労働が疎外されたものであることは変わらないとしても、もはや労働者の労働は剰余価値を作り出すものとしては、それほど大きな地位は占めていないのである。

現代の工場労働は、オートメーションのもとで機械の監視をするものとなっているが、この機械というものはそもそも、労働者が暗黙のうちに身に付けた技能を盗み取ることによってしか、作業を自動化することができないものだった。これは労働者の身体的な知を、科学的な知によって代替することによってしか、実現できないものだったのである。

だから現代のオートメーションの基盤となっているのは、労働者が身体的なものとしてみにつけていた暗黙知であり、労働者はたんに分業に勤しむのではなく、この暗黙知を語りだすことを求められるのだ。これはいくつかの重要な問題を提起する。一つは労働の意味が変わってきたということだ。著者が言うように「三〇年前であれば、多くの工場に次のように命令する紙が貼られていました。〈静かに、仕事中です〉」(p.172)のはたしかである。しかし今では「ここは仕事場です。話しなさい!」という張り紙があっても不思議ではないのである。

暗黙知はオートメ化だけではない。実際に作業する労働者にしか考えることのできない作業プロセスの効率化のヒントというものがある。多くの工場では、末端の労働者にいたるまで、作業の「改善」の提案をすることが推奨され、ときには強制された(そしてわずかな報償金が出された)。課長たるもの、自分の課のうちに。提案できない従業員がいるときは、みずからの発案で、または他の従業員の提案をかすめる形で、その従業員に何か提案させなければ、勤務評定に響いたものだった。

第二に、この労働者の身体的な暗黙知は、まだ顕在化されないものとして、「力能、すなわちデュナミス」(p.153)を意味するものであり、労働力とは、「実在的に存在するのではなく、可能的な形でのみ、存在するもの」なのである。これは生きた人格と不可分であり、労働者の「生」はその意味で重要なものとなる。「資本家が、労働者の生、労働者の身体に興味をもつのは、ひたすら間接的な理由からです。要するに、この身体、この生が、能力、力能、デュミナスを含んでいるからです」(p.153)。著者は「生政治」を語ることができるのは、この意味においてだけだと強調する。これは生政治を労働から分離して、「存在論的範疇に変容させてしまう」(p.239) アガンベンへの批判につながる論点である。

第三に労働者の身体がこのような暗黙知の容器として機能することから、労働者が労働時間のうちに何をしているかだけではなく、労働時間でない時間をどう過ごしているかが重要な意味をもつようになる。コミュニケーション能力を高め、表現する言葉を学び、新たな知識を獲得することが労働者の大切なつとめとまでみなされるようになる。それはたんに生涯学習だけの問題ではなく、コンピュータ・ゲームなどのエンターテインメントなど、労働者が労働時間外に何をしているかが、労働力の生産性に大きく影響してくるということである。「メディア的な好奇心とは、技術的に〈複製=再生産〉の可能な人工物についての感覚的な学習のことであり、知的生産物について直接的な知覚のことであり、様々な科学的パラダイムについての身体的な配視のことなのです」(p.180)。

だから「就労と失業のあいだに、いかなる実体的な差異」(p.196)も見出だすことができなくなる。「失業とは不払い労働のことであり、労働のほうは有給の失業である」と、著者とともに言うことができるだろう。流行のSOHOも、派遣も、アウトソーシングも、資本にとっては就労を保証することなく、潜在的な失業状態におきながら、仕事を発注するときだけにいくらかましな賃金を支払う巧みな制度にほかならない。そしてそれは実は社内での労働の意味の変動を裏返したものにほかならないのである。

労働の意味がこのように拡散し、ついには労働が国外に輸出されるようになると、労働者はつい、「国民国家を防御と見なす」ノスタルジーに駆られがちである。著者はこうした傾向に警鐘を鳴らす。グローバリゼーションとともに、「国民諸国家は、言わば、空の甲殻のように、すなわち空き箱のようになっています。そのために、人々は国民国家に感情的備給をしているわけですが、これは非常に危険なことなのです」(p.244)。これは外国人嫌いをもたらし、「嫌悪的であると同時にサバルタン的でもあるような態度」へと変容していくリスクを抱えているからだ。現代においては労働よりも消費が重要な意味をもっていると語られることもあるが、労働の現代的な意味を再確認させてくれる一冊である。

【書誌情報】
■マルチチュードの文法--現代的な生活形式を分析するために
■パオロ・ヴィルノ著
■廣瀬純訳
■月曜社
■2004.2
■259p ; 19cm
■ISBN 4-901477-09-9
■定価 2400円


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2007年09月11日

『網野善彦著作集〈第10巻〉海民の社会』網野善彦(岩波書店)

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「知られざる海の民の顔」

網野善彦の著作集の刊行が始まっている。この第一〇巻は、「海民の社会」に関連した論文を集めたものだ。網野の史論のおもしろさは何よりも。日本の古代から近世までの社会が農民を中心とした社会であるという「常識」を鋭く批判しながら、これまで無視されてきた海の民、山の民、賤民とされてきた民衆などの地位を回復しようとするところにあるだろう。

本書の冒頭の「海からみた日本社会」の論文では、高校の日本史の教科書などに、日本の封建社会は「農業が生産の中心で、農民は自給自足の生活をたてまえとしていた」(p.5)などと書かれていることが多いことを指摘し、その論拠として「百姓」が76.4%を占めていたという統計があげられることに注目する。そして百姓が農民であるという思い込みが日本の歴史界をこれまで支配してきたことを糾弾するのである。

網野は、さまざまな資料を手掛かりに、農民と田畑を中心とする歴史像がいかに歪んだものだったかを明らかにしていく。たとえば「村」というと、都市との対比で農村を意味するものと思いがちだが、実は「都市」という分類は、城下町など、町人によって構成されているものを示し、それ以外のすべての単位は、都市を含めて「村」と呼ばれ、「検地を実施して石高を定め、〈百姓〉〈水呑〉をおもな成員とする」(p.21)ものとして定められていたにすぎないという。輪島など、「多様な非農業的生業を営む人々が集住する都市的な集落、さらにはまぎれもない都市といってよい集落」(p.20)も、これも「村」と呼ばれたのである。

だから能登の時国家の北前船の船頭友之助は、一〇〇〇両以上の取引に携わっていた重要人物であるが、記録では、「わずかな田畠を耕す同家の下人友之助」(p.29)と分類されるようなことになるのである。実際の生業における役割と、公的な記録における地位の乖離は、想像以上に大きいかもしれないのである。海で生活する人々も、「百姓」として登記される必要がある場合には、ごくわずかな田畑をもらって、暮らしているように装っていた例もあることは十分に理解できる。

また「村」とは別に「保」という分類もあった。「保」は「元来、京・鎌倉などの都市の行政単位だった」ことから、「非農業的・都市的性格をもつ」ものが多かったという(p.23)。さらに「大寺社の神人・寄人をはじめ、国に属する工人などの給与=給田が保となる場合も」(ibid.)あったらしい。本書を通じて注目されるのは、寺社に所属することで、自由な行動の権利と特権を確保できた場合が多かったことである。「神人が官位をもち、世俗の侍身分に準ずる地位にあったことを示す事例は多いが、広田社の場合も同様で、迴船人は神人、あるいはそれ以上の特権を与えられて、広く遠国にまでその足をのばしていた」(p.110)らしい。

網野は中世の海民を平民的海民、「職人」的海民、下人的海民に分類している(漂海民もいる)。平民的海民は「百姓、平民百姓と呼ばれ、荘園公領制の下で浦・浜・嶋などに根拠をもち、内陸部の百姓と同じく年貢・公事を負担している海民」(p.235)である。製塩、漁労、海上輸送などを生業とするが、わずかな田畑も耕していて、年貢が塩である場合もあったらしい。

「職人」的海民は、「古代において贄を貢進していた海民集団の流れをくみ、その専業的な性格はより顕著」であり、漁労、輸送、製塩などを本職とする人々である(p.236)。これらの人々は「いかなる海、湖川においても他に妨げられることなく自由に漁労し、また関・渡・津・泊などにおいて交通税を賦課されることなく、自由に通行する特権を保証されていた」(p.237)人々である。これらの人々は「武装した海の武士に通ずる一面」(p.239)をもち、「水軍」に変身する可能性を秘めていたのである。

本書に収められているさまざまな論文を読んでいると、その背後に生き生きとした多様な暮らしをしている人々の姿が浮かんでくるようで、つい時代小説を書きたくなる(笑)。網野も「湖の民と惣の自治」では、琵琶湖の菅浦の藤次郎という「供御人」を登場させて、菅浦と近隣の大浦との構想を長いスパンで描いてみせる。ほとんど小説仕立てといってもよいものであり、もしも網野の小説の才能があったならと、ないものねだりをしたくなる。

なお、この菅浦の地を訪れた網野が、風景の歴史的な価値について語っている言葉に、強い印象をうけた。「中世以来の家号をとどめている家もまだ多く、東西の門によって仕切られた菅浦の〈所〉は、いまも化石化した中世の港町の相貌を大よそそのままに伝えているといっても、決して過言ではあるまい。その意味で現在の菅浦は、町並、家の配置、樹木のあり方、小地名等々、そのまますべてが貴重な文化財である」(p.358)。

これは菅浦だけのことではないことを銘記しよう。鎌倉の八幡宮の大銀杏は有名だが、どの村にも記念碑的な意味をもつ樹木たちがいるし、樹木の植え方、植わっている樹木の種類そのものも、大切な歴史的な意味を含んでいることが多いのである。宅地造成などの名を借りて、あるいはごく些細な理由で、多くの樹木が切られてきた。ぼくたちは風景の読み方を忘れて久しいのではあるまいか。

【書誌情報】
■網野善彦著作集〈第10巻〉海民の社会
■ISBN:9784000926508 (4000926500)
■539p 21cm(A5)
■岩波書店 (2007-07-10出版)
■販売価:4,725(税込) (本体価:4,500)

■目次
1 海の視点から(海からみた日本社会)
2 水上交通と地域(北国の社会と日本海;瀬戸内海交通の担い手;太平洋の海上交通と紀伊半島;中世前期の水上交通―常陸・北下総を中心に;海上交通の拠点―金沢氏・称名寺の場合)
3 海民・湖民の社会(古代・中世の海民;西海の海民社会;湖の民と惣の自治―近江国菅浦;菅浦の成立と変遷;霞ヶ浦・北浦―海民の社会と歴史;残された課題)
4 時国家調査(奥能登時国家文書をめぐって―調査の経緯と新史料の紹介;時国家と奥能登地域の調査―一九九〇年度の調査と史料の紹介;北陸の“あぜち”について―日本社会における隠居慣行の一事例)


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2007年09月07日

『古代ギリシア--地中海への展開』周藤芳幸(京都大学学術出版会)

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「ギリシアをめぐるメタナラティブ」

本書は京都大学学術出版会のシリーズ「諸文明の起源」の第七冊目にあたる。このシリーズは廉価な価格設定で、考古学的な発見を中心に、新しい知見が確認できるので、お勧めである。本書は、古代のギリシアを地中海の全体の中に位置づけようとするもの。古代のギリシアについてはその特異性に注目するあまり、そして西洋の文明の重要な起源として、さまざまな概念の源泉になってきたために、かえって分析が困難になってきたために、「ヨーロッパ文明は古代ギリシア文明の直系の末裔である」(p.31)というような素朴な思い込みが支配的だった。

著者はこれを古代ギリシアについての「メタナラティヴ」と呼ぶが、ルネサンス以来、とくにドイツでのギリシア崇拝が、古典学を大きく規定してきたのはたしかだろう(ぼくもその弊害から免れていない)。著者は時代的にミケーネ文明との連続性(p.77)、地中海世界の他の地域との共通性を示しながら、この物語の打破を試みる。これは現代の古典学の新しい傾向の一つとして注目される。

この書物ではとくに著者が実地に訪問した各地の考古学的および地理的な調査と写真が啓発的である。とくに興味深い指摘をあげておこう。まずポリスと植民市の建設について、「政体としてのポリスは前七〇〇年頃に現れるが、都市センターとしてのポリスが出現するのは、前六世紀になってからのことである」ことを確認した上で、「早い段階で都市化を遂げたポリスが、通商や傭兵の定住を含む広義の植民活動に積極的に緩和したポリス、もしくは植民しそのものであった」(p.154)ことである。

これが意味するのは、ポリスに内在する問題を解決するために二つの道があったということである。前古典期のポリスでは、社会の発展の内部が共同体の内部で意見が分裂した場合には、「これを植民団として外に送り出すことによって問題を解決していた」(p.163)。だから前六世紀になってポリスの政体が安定すると、植民活動は終息するのである。

しかしもう一つの方法として、キュレネのように「市民を出身地に基づいて三部族に分けるとともに、王権を制限して市民の権力を増大させる」という方法も可能だった。国制改革によって市民の不満を緩和することで分裂を避けることもできたのである。アテナイやスパルタが植民しなかったのは、ソロンの改革やリュクルゴスの改革で「独自の国制を確立していった」(ibid.)からであることは興味深い。「植民ではなく国制改革で共同体内部の問題を解決したポリスこそが、古典期に強国としてさらに発展していく」(p.164)結果となったからである。

またアルファベットの採用についての考察もおもしろい。線文字Bはひらかなのような音節文字だったが、ある時期に、おそらく一人の人物によって、フェニキア文字が採用された。それは子音がつづくことの多いギリシアの言葉をさらに正確に再現するために必要であり、著者はそれが『イリアス』と『オデュッセイア』を文字で記録するためだったというパウエルの説を紹介している(p.184)。音節文字でも不可能ではなかったろうが、音節文字を採用している日本人がどんな子音にもつい母音をつけて発音しがちであることを考えると、アルファベットの採用と、母音の表記の改革が重要な意味をもったのは納得できることだ。

ディオニュシア祭についての詳細な説明もわかりやすい。アテナイ中心市での祭りと、「在地ディオニュシア祭」の関係について、アリストファネスの『アカルナイの人々』を中心にした分析も楽しめる。デーモスで行われたディオニュシア祭は、中心市にたいする地方のデーモスの自律性のよりどころとなったのであり、「ペロポネソス戦争という非常時に顕在化した中心市と在地デーモスの緊張関係」が、この戯曲で表明されたことになる。
ロドス島のアンフォラのスタンプと、エジプト小麦の産地のアコリスの分析もおもしろい。。ロドス島のワインは質が高くないのに、アコリスで多量に発見された理由について、それはエジプト小麦の「帰り荷」(p.372)だったという指摘には、目を開かされた。たしかにそうだろう。あの裸の島でそんなにいいワインがとれるわけもない。しばらく滞在していて、すっかり気に入った島ではあるが。

本書はいろいろなテーマをとりあげているので、ときに説明が簡略になりすぎることもある。たとえばパルテノンは建築学的には神殿であるが、「その機能においては、むしろ今日の中央銀行に近い存在だったのである」(p.202)という指摘は、フォローがないのでわかりにくい。今日の古典学の重要なテーマであるジェンダー論とセクシュアリティ論についても、掘り下げが足りないという印象をうけるが、著者の専門を考えれば、注文しすぎというものだろう。

ただ、ギリシアの住居の間取り図をしみじみ眺めていると、家の中は女性が仕切っていて、家の一室に閉じ込められていたのは男性であることは、実感できる。男性はポリスの政治的に空間を活動分野としたのであり、「ジェンダーによる空間の区別は家の内部においてではなく、家の内と外との間で成立していたと考えるべきである」(p.319)という指摘はもっともだろう。

各章ごとの参考文献の説明もていねいで、親切だ。ただし後書きで「必読文献」としてあげられているサイドボトムの訳書と、併記されているハンセンの訳書については、なぜか文献リストに記載がないので、ここで補足しておきたい。ハリー・サイドボトム 『ギリシャ・ローマの戦争』(吉村忠典, 澤田典子訳、 岩波書店 2006)とヴィクター・デイヴィス・ハンセン『図説古代ギリシアの戦い』(遠藤利国訳、東洋書林 2003)だろう。

【書誌情報】
■古代ギリシア地中海への展開
■周藤芳幸著
■京都大学学術出版会
■2006.10
■15,435p 図版4p ; 19cm
■学術選書 ; 16 . 諸文明の起源 ; 7
■4876988161
■定価 1800円


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2007年09月03日

『人類学的思考の歴史』竹沢尚一郎(世界思想社)

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「文化人類学のわかりやすい展望」

最近どうも文化人類学の分野で目立った本がないと考えていた。もちろんレヴィ=ストロースの『神話論理』はやっと翻訳が出始めたが、神話学の詳細な分析は、文化人類学の本来の分野とは少しずれている。ポストコロニアルやカルチュラル・スタディーズに負けているという感じなのだ。

本書は誕生以来の文化人類学の代表的な潮流と理論家を歴史的に考察する書物で、文化人類学(社会人類学)の歴史を一望できるところはありがたい。しかも同時に、なぜ文化人類学に元気がないのかを考えさせてくれる一冊でもある。

著者によると文化人類学の歴史では、三つの伝説的なセミナーがある。それぞれが新しい流派を始めた重要なセミナーだ。それは1923年に始まるマリノウスキーのLSEでのセミナー、1898年からのコロンビア大学でのフランツ・ボアズによるセミナー、1925年に「パリ大学付属民族学研究所」でのモースのセミナーである。

最初のマリノウスキーのセミナーは、機能主義的な民族学を始めたマリノウスキーによるものだ。彼は個々の「制度が文化の機構全体のなかで果たしている役割」としての「機能」を考察する必要があることを主張した(p.52)。たとえば危険の少ない珊瑚礁での漁には呪術が付随しないが、外洋での漁では呪術が不可欠になっていることについて、「不安を除去し、未来に対する確信を付与する」という機能を呪術が果たしていることを指摘するのである(p.54)。

このセミナーに集まったのは、レイモンド・ファース(『われらティコピア人』)、エヴァンス=プリチャード(『アザンデ妖術・託宣・呪術』)、グレゴリー・ベイトソン(『精神と自然』)などであり、なぜかイギリス社会ではマイナーな人々が集まり、「戦間期および第二次世界大戦後に活躍することになるイギリス人類学者のほとんどを擁していた」(p.55)というものだ。

ボスの「パパ」マリノウスキーは弟子に料理をさせたりすることもあったらしいが、ポストをみつけてやり、研究資金を見つけてくるなど、さまざまな世話もしたのだった。ただ「法、親族、妖術といった特定のテーマについての綿密な記述はあっても、分析のための鋭利な概念や方法」(p.55)に欠けているというのは大きな欠陥だった。

一方では、アメリカでヨーロッパ系の社会人類学ではなく、文化人類学を創設する上で力のあったボアズのセミナーは、文化相対主義を主張するボアズの大きな影響のもとで、自文化と異なる文化をみる眼を養うことに力をいれていた。「われわれの観念や概念が真実であるのは、われわれの文化の枠のなかでしかないという事実」(p.213)を重視させたのだ。

このセミナーからは、言語人類学で有名なサピア、『菊と刀』で日本社会を分析したベネディクト、『サモアの思春期』で、サモアの人々の性生活の「奔放さ」とアメリカ社会の「きゅうくつさ」を比較したミードなどの人々が出ることになる。

第三のモースのセミナーは、レヴィ・ブリュル(『未開社会の思惟 上下』)など、デュルケーム学派の人々とともにモースが始めたものであり、モースはここから刊行する『社会学年報』に、膨大な論文を発表することになる。「贈与論」「供犠論」「身体技法」「人格の概念」など、今なお古びていない論文が多い。

このセミナーからは、ドゴン族の研究『水の神』で有名なマルセル・グリオール、『言葉とみぶり』で有名な先史学者のアンドレ・ルロワ=グーラン、作物学の権威のアンドレ・オードリクール(『文明を支えた植物』)、地理学者のジャック・スーステル(『アステカ文明』)、神話学のジョルジュ・デュメジル、ジャン・ピェール・ヴェルナン、ミシェル・レリス、そしてレヴィ=ストロースと、綺羅星のような人材が育っていく。人間の才能を見抜く能力にすぐれていたモースのセミナーだけあって、人類学よりも他の分野で才能を開花させた人々が多いことにも注目される。

こうして一時期は盛んだった人類学が、最近ではすっかり勢いを失っていることについて、著者は、最後の二つの章で、サイードのオリエンタリズム批判や、ウォーラーステインの世界システムなどに触れながら、考察している。本書は宗教研究を中心とするものの、レヴィ=ストロースやモースの理論の要約や、詳細な(ただし包括的ではない)文献表もあって、文化人類学の歴史書としては定番となる一冊かもしれない。

【書誌情報】
■人類学的思考の歴史
■竹沢尚一郎著
■世界思想社
■2007.6
■379p ; 22cm
■ISBN  9784790712695
■定価 3800円


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