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2007年08月29日

『開かれ--人間と動物』ジョルジョ・アガンベン(平凡社)

開かれ--人間と動物 →bookwebで購入

「人類学的機械の産物」

うーん、うまいなぁ。出だしの三つの章で、一三世紀のヘブライ聖書の挿絵に描かれた天国で食事する聖人たち(動物の顔が描かれている)、動物の頭部をもつアルコンたちを描いたグノーシス派に衝撃をうけたバタイユとアセファル、人間がやがて動物になると「予言」したコジェーブと、コジェーブへのバタイユの反論という三つの補助線をサッと素描して、人間と動物の錯綜した関係を描き出す手際はみごととしか言いようがない。

そしてそこからアリストテレスの『デ・アニマ』に溯り、アリストテレスの生命の定義に注目する。アリストテレスは生命とは何かを定義せずに、「栄養の機能だけを分離」(p.28)するだけで、栄養の摂取(植物)、感覚作用(動物)、思考能力(人間)を再分節するだけなのだ。そして人間が植物人間となることがあることからも明らかなように、人間のうちにもこの三つの能力はそのまま存在していて、その一つあるいは二つに還元されてしまうこともあるのだ。

この栄養的な視点からみると、人間は「内部に存在する動物」と「外部に存在する動物」に分類できることになる(ビシャの分類)。外部に存在する動物は、真の意味の動物的な生であり、外部世界との関係を介して規定される(p.29)。これに対して「内部に存在する動物とは、意識を欠いた植物的な生であり、これは動物的な生に先だって存在し(胎児)、その後も存在するものである(老化や臨終)。この乖離が、近代医学の歴史において「戦略的な重要性」(Ibid.)をもつものであることは、臓器移植一つをみてもすぐに理解できるものである。そしてこのとき、政治権力は生の権力に転換するのである。

ということは、人間と動物を分かつ分割線が、人間の内部に移行するということであり、これはアガンベンが『残りの時 パウロ講義』で指摘した「アペレスの切断」に他ならない。この移行のもたらしたものは、人間と動物の区別、人間と非人間的なものの区別が動物学的なものでも、レヴィ=ストロースのような文化と自然の対比でもなく、人間の内部において切りわけられるということである。リンネにとっても人間を他の動物と区別できる基準は何一つなかった。ただ人間は「おのれを認識できる」(p.44)動物だということにあり、これは分類の基準としてはいかにもおそまつだ。わたしは人間だと主張する動物は、人間であるということになるからだ。

このように人間を定義し、分類する基準がなく、その内的な生命と外的な生命が分離できるものだとすると、人間は動物と対比して人間であるのではなく、人間はあるときは動物になり、あるときは植物になり、あるときは人間になることになる。ユダヤ人があるときは人間であり、あるとき人間でなくなるようにである。アウシュヴィッツの絶滅収容所は恣意的な分割線によって「人間か非人間かを決定しようとする途轍もない企て」(p.39)だったのである。

こうして人間には「固有の本性」というものが欠けていることが明らかになる。人間はロゴスをもつ動物だというアリストテレスの定義も役にはたたない。言語は人間に内的なものではなく、習得する必要があるものだ。だから障害で、あるいはまだ習得していないために言葉を話せない人々は人間ではないということになってしまうからだ。

それでも人間とは……という定義はあとを絶たない。そこで作動しているのは「人類学機械」だとアガンベンは考える。これは「人間であるものを(いまだ)人間ならざるものとして自己から排除することによって作動」するマシンである(p.59)。このマシンが作動するとき、そしてあるものを人間として、あるものを非人間として区別する分割線を引くとき、「ただ自己自身から分断され排除された--剥き出しの生」(p.60)が露出してくるのである。

この剥き出しの生を前にして、生の権力がみずからの任務とするのは、「生物学的な生、すなわち人間の動物性そのものを管理し、〈統括〉することなのである。ゲノム、グローバル経済、人道主義というイデオロギー」(p.118)が、コジェーブの語った歴史の終焉後の現代の人類が、「自分たち自身の生理学を最後の非政治的な委託として受け入れていくプロセスの、三つのたがいに連動する局面なのである」(ibid.)。

そう、ここまではいかにも巧みである。巧みすぎるというべきだろうか。ここからアガンベンはリルケとハイデガーへと補助線を伸ばしていく。「開かれ」のタイトルの由来はここからくる。リルケは『ドゥイノの悲歌』で、人間と動物を対比するが、「すべての眼で」開かれをみるのは生き物であり、人間の眼は「罠として」この開かれを取り囲んでいると歌うのである(p.87)。

これにたいしてイデガーの開かれ(Lichtung)は、「哲学が真理(アレーテイア)として、すなわち存在の非隠匿-隠匿性として思考してきたもの」(p.88)であり、人間だけが開かれのうちで真理をみるのであり、「動物はこの開かれをけっして見ることがない」のである。ハイデガーにおける動物の位置、世界に貧しい生き物の位置はデリダの批判以来というもの有名だけが、アガンベンはリルケとハイデガーを対比させながら、「動物は開かれているのでもなく、開かれていないのでもない」(p.91)ことの意味を考えようとする。

ただ読者は、この二つの対立する方向を向いた補助線が錯綜し、最後に結ばれないままにほうり出されてしまうような印象をうける。ハイデガーの倦怠の考察と、バタイユとブランショの無為の理論の分析も、どうも食い合わせ(笑)が悪いような後味をうける。補助線が多すぎで絡まったかのような印象なのだ。巧みすぎて、上手の手から水が……というところだろうか。

【書誌情報】
■ 開かれ--人間と動物
■ジョルジョ・アガンベン著
■岡田温司,多賀健太郎訳
■平凡社
■2004.7
■208p ; 20cm
■ISBN 978-4582702491
■定価 2400円


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