« 『イエナの悲劇 : カント、ゲーテ、シラーとフィヒテをめぐるドイツ哲学の旅』石崎宏平(丸善) | メイン | 『『嵐が丘』を読む : ポストコロニアル批評から「鬼丸物語」まで』川口喬一(みすず書房) »

2007年08月07日

『エロイーズとアベラール : ものではなく言葉を』マリアテレーザ・フマガッリ=ベオニオ=ブロッキエーリ(法政大学出版局)

エロイーズとアベラール : ものではなく言葉を →bookwebで購入

「伝説のカップル」

アベラールとエロイーズ。ルソーの『新エロイーズ』にいたるまで、西洋の人々の心をかき立てた伝説のカップルの物語は、二人の書簡を収録した一冊の書物『アベラールとエロイーズ』として残されている。ただしこの物語は、「あまりにも美しすぎる」(p.240)ために、「真実であるはずがない」(ibid.)として、さまざまな「かんぐり」の対象となってきた。

しかし最初のアベラールの自伝的な第一書簡から、「彼女の主いなむしろ父、彼女の夫いなむしろ兄弟であるアベラールへ、彼の婢いなむしろ娘、彼の妻いなむしろ姉妹であるエロイーズより」(『アベラールとエロイーズ』畠中尚志訳、岩波文庫、七三ページ)で始まる二人の書簡を読んでみれば、偽作や仮構などという議論は、ほとんど力を失ってしまう。

著者が指摘するように、このような手紙を書ける人物をほかに探すとすれば、若いときからフランスじゅうに文学と学問の教養の高さで鳴り響いていたエロイーズよりも優れた女性と、アベラルドゥス以上に優れた才能のある「われわれがその名前すら知らない恐るべき文学の天才」(p.253)を想定しなければならなくなるのである。

ただ本書で興味深いのは、二人の物語について書こうとする多くの書物が小説仕立てになってしまうことを避けて、アベラールの学問的な立場をしっかりと追跡しながら、その対立者との違いも明確に語っていることだろう。たしかにエロイーズ、修道院長としてのつとめを忠実に果たしながらも、神を恨んでいた女性、神に愛され裁かれるよりもアベラールに愛され裁かれることを望んでいたエロイーズは、魅力的な人物だ。しかし愛の物語の背後にある知の物語も大切なのだ。

アベラールの最大の敵だったのは、偉大な修道院長だったベルナール(ベルナルドゥス)だった。二人はきわめて対照的な人物だったのだ。アベラールは論理学と修辞学を重視し、議論では弁証法を駆使する。これにたいして「論理学を神学に適用することは、ベルナールに言わせれば、口では言い表せない真実を語るための、さらにひどいことに〈広場で話す〉ための気休めと言訳にすぎなかった」とベルナルドゥスは主張する(p.206)。

アベラールが愛したのは議論を展開する大学であり、都市であった。ベルナールが愛した場所は「修道院の静かな空間」だった。アベラールは身辺に配慮した。人間の自然な欲求は罪となるものではなかった。食欲や性欲を含めて、「人間の自然本性的快楽は何であれ、罪に帰せられるべきでは」ないものだった(アベラルドゥス『倫理学』。『前期スコラ学』平凡社、五四〇ページ)。これに対してベルナールは「自らの肉体を軽視するまでに本能をおさえつける。規律を重んずるあまり病にいたるほどであった。ほかの僧侶たちと同様、肉欲はたちきり、髪は伸び放題、体は洗わず、衣服はしみだらけで悪臭を発していた」(p.207)。

アベラールは聖書の「言葉を分析して詳細に検討した」が、ベルナールにとっては聖書とは「祈りを促す書物」(ibid.)だった。アベラールにとっては学問は「神から授けられた道具」だったが、ベルナールにとっては「慈善」(p.208)にすぎないものだった。

この二人が対決し、ベルナールはアベラールの書物から糾弾すべき点を列挙して、公会議を開催する。キリスト教のカトリックの伝統からは、ベルナールのありかたや思想が正統なものであり、アベラールの欲望の理論、人間の自由意思論、聖霊を軽視する三位一体論神学よりも哲学を重視する姿勢などは、最初から旗色が悪い。そしてアベラールを弁護する人物はいない。ローマ教皇は一一四〇年七月一六日、「邪悪な信仰を作り上げたキリスト教の敵ピエール・アベラール」に有罪を宣告し、修道院への幽閉が命じられるのである(p.219)。

しかし幸いなことに、アベラールはクリュニュー修道院に理解者ペトルス・ヴェネラビリスをえて、この地で息を引き取るまで余生を過ごすことができる。アベラールが死ぬと、この修道院長は遺体をエロイーズの修道院まで運んで、悼みの言葉を述べるのである。そしてエロイーズを、「あなたはその賞賛すべき学問研究によって、すべての女性に優り、ほとんどすべての男性を完全に乗り越えたのでした」(ペトルス・ヴェネラビリス「書簡集」。前掲の『前期スコラ学』六五四ページ)と称えただった。

アウグスティヌス以来、そしてヒエロニュムス以来、夫婦の愛と性愛を否定的に捉える西洋のキリスト教道徳の流れの中で、アベラールの思想は異端的な要素を含むが、それだけにこの稀有な記録が輝いてみえる。アベラールは自分の思想を根拠づけるために「二重の学問」、論理学と神学の二つの道という弁明をしていた(p.105-6)。

そしてそのためには、「対話の有効性を明確に認識しようとする」唯名論が役立つったのもたしかだろう。言葉は厳密で信頼できる道具となるが、「それは人間が認識しえた自然界の事物、個々の事物を指示するにとどまる」(p.104)のであり、普遍的な実在という概念は形而上学のものであり、論理学のものではないと主張することができ、自分の領域を明確に確定することができたからである。

本書は、二人の純愛をたどりながらも、その背後にある中世という時代の特異さを示そうとすることにおいて、エロイーズを重視する類書とは違うところをみせている。訳者の指摘するように、中世において「神のために」と思ってしたことは何ひとつないとエロイーズが断言していたことは、「挑発的」(p.256)ではあるが、だからといって「本書の主人公は、アベラールよりも、ひたすらエロイーズなのだ」(p.255)とは思えない。もちろんタイトルは『アベラールとエロイーズ』ではなく、『エロイーズとアベラール』ではあるが(笑)


【書誌情報】
■エロイーズとアベラール : ものではなく言葉を
■マリアテレーザ・フマガッリ=ベオニオ=ブロッキエーリ[著]
■白崎容子,石岡ひろみ,伊藤博明訳
■法政大学出版局
■2004.6
■258,41p ; 20cm
■叢書・ウニベルシタス ; 630
■ISBN  4588006304
■定価  3800円


→bookwebで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/2126