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2007年08月24日

『古典期アテナイ民衆の宗教』ジョン・D.マイケルソン(法政大学出版局)

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「民衆の宗教心の解読方法」

古典期のアテナイの民間宗教をとりだすというのは、想像以上に困難な仕事である。今から二千五百年も昔、紀元前五世紀から四世紀にかけての大衆の宗教心を解明しようとするのに、当時の文学的な仕事や哲学の著作を利用することはできないからだ。

それでもどうにかなる(笑)というところが、アテナイの文化とその記録の充実度を示すものだろう。著者がそのために頼りにする典拠は三種類である。法廷弁論、碑文、歴史家のクセノフォンの著作である(p.6)。

法廷弁論が役立つのは、裁判をするのが陪審員であり、五〇〇人のアテナイの大衆たちだからだ、陪審員がごく当然と考えているところを論拠とする必要があったからだ。「弁論者は自然に、あるいは計算ずくで、陪審員団の最大多数が容認しそうな道徳観とか宗教観を表明しようとした」(p.7)のである。

碑文は歴史的な記録であり、とくに役立つのが墓碑だ。アテナイの人々は埋葬する際に、さまざまな呪詛を書き残したり、死者が冥府の支配者に伝えるべき言葉を記しているからである。墓碑はアテナイの人々の彼岸について、死後の魂の行方についての考え方を知る手掛かりとなる。

歴史家のクセノフォンは意外な選択にも思える。喜劇作家のアリストファネスが利用されことが多いからだ。たとえばガスリーは『アカルナイ人』のディカイオポリスを、この時代の民衆宗教の記述のために活用している。しかし著者は喜劇ではあまりにデフォルメがすぎ、「滑稽で、道化であり、そうして粗野なまま」(p.11)だと考える。そしてクセノフォン「ただ一人」(p.12)が「この時代の民衆の宗教観のための最善の資料の一つ」(p.13)と指摘する。

それにたいしてソフィストや哲学者たちは、アテナイの人々に強い影響をあたえたものの、「一般民衆の宗教的態度や信仰に加えられた合理的批判の直接的なインパクトを過大評価してはならない」(p.143)というのはたしかだろう。ソクラテスは民衆とともに暮らし、議論としていたが、その批判的な精神はアテナイの民衆にとっては「新しい宗教」を導入するもののようにみえたのだから。

アテナイの民衆にとっては、もっと素朴な神信仰が重要だった。たとえばくしゃみ(笑)。「犠牲によって、生け贄の卦によって、また嚔[くしゃみ]のような前兆によって、指揮者たちも兵士たちもこれから臨む戦闘が成功するか失敗するかの明瞭なしるしを受け取ったのである」(p.24)。スパルタ軍は戦闘を開始する前に、かならず犠牲の羊で前兆を占った。だから軍隊の後を多数の羊がぞろぞろとついてきたのであり、想像してみると異様な軍隊であることがわかる。

あるいは夢。「神々は万事を知り、犠牲、前兆、予言、夢において神々が望む人にしるしを与える」(p.48)のであり、アテナイでは夢占いは儲かる商売だった。プラトンは夢占いや占卜者には批判的だが、民衆は夢や神託を信じ続けたのだった。アスクレピオスに嘆願した盲目の女性は、夢で治癒されることなどあるかと嘲笑していたが、ある夜に夢枕には神が立って、癒してやるから、「神域に銀の豚を汝の愚行の記念碑として建立すべきなり」と告げたのだった。そして碑文によると、本当にこの女性は目が開いたのだという。

かつてギリシアのポリスを結ぶ街道をドライブしていたときのこと、多数の碑文や小さな家のような碑が目にとまった。地元の人によると、その場所で事故にあって、生き延びると、神への感謝のしるしに、こうした碑を建立するのだという。古典期から変わっていないね、と笑ったことだった。

それに民衆は迷信深かった。とくに凝る人だと、正常な日常生活を送るのが困難になるほどだった。「三叉路でニンニクの花輪をつけたヘカテー像の一つでも目に止まれば、立ち去って、頭から沐浴し、女司祭を呼び寄せ、海葱と子犬とによって、自分をすっかり清めてもらう」(p.57)必要があった。そしてこうした迷信は無数にあったのである。

プラトンはプシュケーという概念によって、魂は不死であることを人々に語ろうとした。しかし墓碑からみるかぎり、人々は魂が不死であるとは考えていなかったようである。そして『国家』の最後を飾るエルの思想とはうらはらに、「死後における罰を予想する陳述は見出だされない」(p.103)。「罰は犯人の子供らにふりかかる」のであり、本人は罰をうけないのである。

古典期のアテナイはぼくたちから遠い世界のようにみえるが、その民衆の宗教心はキリスト教の世界とは異なる古代の人々の心性を教えてくれるのである。本書はさらに、古典期の哲学や文学などではなく、どのような資料から民衆の宗教心を探りだすかという手続きという観点からも参考になるだろう。

最近、宮本常一の生誕百周年ということで、民俗学にふたたび注目が集まりつつあるようだ(「未来」2007年8月号の宮本特集は面白かった)。宮本の取り残した写真なども、ぼくたちの郷愁をそそる。しかし民俗学の貴重な財産である聞き書きの利用には注意が必要だ。『遠野物語』や『聴耳草紙』に始まり、宮本常一の著作にいたるまでの聞き書きは、書き残す価値があるものと書き残す価値がないものとの峻別の上に成立している。聞き書きのいわば潜在的な政治性というものにも、ぼくたちは注意すべきなのだ。聞き書きによらずに民衆的な宗教心を描き出そうとすればどうすべきか。この本はそんなことも考えさせる。


【書誌情報】

■古典期アテナイ民衆の宗教
■ジョン・D.マイケルソン[著]
■箕浦恵了訳
■法政大学出版局
■2004.4
■154,56p ; 20cm
■ISBN 4588007920
■定価 2600円


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