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2007年06月08日

『旅するニーチェ -- リゾートの哲学』岡村民夫(白水社)

旅するニーチェ -- リゾートの哲学 →bookwebで購入

「リゾートの旅人」

これはいかにもあって不思議でなかったし、なかったのが不思議なような本だ。ニーチェの著作にはさまざまな滞在地とさまざまな旅が記載されている。ニーチェの思想はヨーロッパのリゾート地を歩くことで「熟れた」のであり、その風土学的な背景は当然ながら考察されるべきだった。永遠回帰の思想が訪れたシルス・マリアの地がどのような環境にあり、どのような場所なのか、それはニーチェ研究にとっては重要な問題だろう。

それなのにぼくの知る限り、ニーチェの滞在地を実際に足で歩いて、ニーチェの思想的な「熟れ」を追跡するという本はなかったように思う。この本は、ヨーロッパにおけるリゾート地の誕生とニーチェの思想的な関係を考察しながら、実際に足で歩いて書かれた書物として貴重である。

著者はまずニーチェがリゾート地を放浪したきっかけとして、ドイツからの離脱という側面があったことを指摘する。国家主義的な教育が盛んな地で、国民国家として誕生しつつあった当時のドイツの「ドイツ臭さ」を全身に浴びて生まれ、育ったニーチェにとっては、そこから離脱することが重要な課題となったのだった。「西洋近代という大きな病ゆえに、私はここまで深く〈ドイツ〉という小さな病に冒されてしまった--これが彼の根本的な自己省察である」(p.26)というのはたしかだろう。

それに時代的な背景もあった。ドイツでは1835年に初の鉄道が開通している。ニーチェは「鉄道の子供」(p.40)であった。それまでのヨーロッパの文人は馬車で旅行していたのだが、鉄道は時間を短縮するだけでなく、風景をパノラマ化してしまう。そして「鉄道の辺境への発展を追うかのように、ニーチェの旅は企てられている」(p.42)。「ニーチェの旅行時代は、アルプスから地中海にかけての地域のリゾート開発・観光開発の一大発展期のなかにすっぽりと収まる。大半の著書の故郷はリゾートなのだ」(p.45)。

しかし数年つとめた大学教授の年金は、給与の2/3の額だったというが、年金でリゾート地をめぐっていたニーチェが少しうらやましくもある。スイスやイタリアの高地やフランスのビーチを歩き回って思索をつづけるというのは、なんともぜいたくではないか。観光地として登場したばかり土地だけに、食事も安く、おいしかったという。いまのニースやトリノの感覚とは違うだろうし。

本書の中心となるのは、ニーチェが長期にわたって滞在したリゾートを実際に歩きまわってニーチェの思想的な発見を追跡する第四章だろう。この章では五つのリゾート地が選ばれている。まずニーチェはジェノヴァに八回、そのうちの二回は半年近く滞在している。『ツァラトゥストラ』はここで「基本構想が結晶」した(p.132)。ヴェネツィアには五回、ほぼ毎回、二~三ケ月の滞在だ。ここでは『曙光』をガストに口述筆記してもらっている(p.137)。

アルプス高地のオーバー・エンガディンは「文字どおり高山と湖のみの地帯」(p.151)であり、ニーチェはここに八回、毎回数か月滞在している。ニーチェがすっかり気にいったシルス・マリアは七回も訪れている。サン・モリッツでは『人間的な、あまりに人間的な』IIの第二部の草稿が書かれている。有名な霊感が宿った湖の写真などをみていると、つい思いにふけったりしてしまう。

ニースには五回、多くは半年以上の滞在だ。筆者はニーチェがインスピレーションをえる場所の地形的な特徴の共通性を指摘していて興味深い。一)湖であれ海であれ、豊かな水の広がりを焦点としていること、二)山中を曲折し上下する野趣に富んだ道であること、三)その結果、歩みにしたがっパースペクティヴが次々と変化し、途上は全景がわからない--ときおり水面が垣間見られる--が、到達点からは、振り返る形で歩いてきた行程の全体が見渡せること(p.167)。

最後に歩かれているのはトリノで、ニーチェはここがすっかり気にいって、ニースからひっ越してきた。二回目は一八八八年九月から一八八九年一月九日まで。ここでニーチェは狂気に陥ったのだった。本書の最後の章では、ニーチェの「病気」論が考察されるが、何よりも楽しめたのは、ニーチェとともに旅をする四章だった。ここを書き込むと、もっとニーチェ論としては突っ込んだものとなったのではないかと思う。それは別として、写真も豊富で、楽しみながら読めるニーチェ論としてお勧めだ。

【書誌情報】
■旅するニーチェ リゾートの哲学
■岡村民夫著
■白水社
■2004.8
■231p ; 20cm
■ISBN 4560024448
■定価 2400円


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