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2007年06月22日

『中世の身体』J.ル=ゴフ(藤原書店)

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「書物としての身体」

本書は、すでに流行のテーマとなった身体の歴史を、古代からルネサンスにいたる中世の時期を中心にまとめたものである。中世の身体は、「調教された身体」としての近代の身体とはことなる意味と象徴をそなえているのである。

ル=ゴフは身体には「ゆるやかな歴史」があることを指摘しながら、身体のさまざまなテーマについて考察する。総花的になっているために、掘り下げは期待できないが、それでも特定の視点に立って、どのような展開が可能かという見通しをつけるには便利だ。

序の「身体史の先駆者たち」では、モースの身体技法から、フーコーの『監獄の誕生』や『自己への配慮』にいたるまでのフランスのさまざまな先駆的な身体論の考察がまとめられている。ぼくたちにはほぼ常識となっている部分も多いが、アナール派にいたるまでの身体史の考察の歴史の簡潔な要約として読める。

第一章の「四旬節と謝肉祭の戦い」では、涙と笑いの考察がとくに興味深い。イエスは三度泣いたとされているが、一度も笑ったことは記録されていない。涙は信仰者にふさわしく、笑うことは異端的な意味をもっていたのである。キリストの涙は「身体の液体の象徴的な表現」であり、「神と人間の間の媒介物」としての身体の意味をあらわにする(p.101)

さらにシリアやエジプトの荒野の教父たちは、涙を「精神生活の中心の一つに据えた」(p.99)。泣くことの勧めは、「古代後期のキリスト教における肉欲の放棄に関わっているのだが、それは何より、涙が禁欲者の支配の対象たるべき身体の液体の体系の中に含まれているからである」(同。ただしピロスカ・ナジの書物『中世における涙の贈物』からの引用である)。

泣くことは身体の液体を排出することであり、「身体がこれを罪深い性的使用に充てることを防ぐ」(同)というわけだ。身体の液体のエコノミーにおいて、涙は重要な役割を果たすことになる。「自らの過ちに涙を長すことができないものは修道士ではない」(p.104)というところまで進むことになる。

これにたいして笑うことは、アリストテレスの主張にもかかわらず(笑いは人間に特有のものである)、キリスト教の伝統では一二世紀まで、汚名にまみれてきたのだった。笑いの場所は下腹部にあるとされ、目の涙とは対照的に「劣った」場所から発生するものとされた。「笑いは腹から、つまり身体の悪しき部分から沸いてくる」(p.107)のだ。ある修道院の戒律では、会合の間にひそかに笑うものは「六度の鞭打ち」、高笑いは「断食」で罰せられていた(p.110)のである。

第二章「生と死」では、とくに身体の医学をめぐる記述が冴えている。中世においては「身体そのものは存在しない。身体はつねに魂に貫かれている」(p.171)のであり、魂は救済すべきものである。だから「医学とはまず魂の医学であり、身体を経由するにせよ、そこにとどまることはない」(ibid.)のである。身体が科学的な考察の対象として、魂の配慮から独立するのは、近代にいたってからであり、それまでは医学は神学から独立してはいなかったのである。「魂の医学は、同時に苦しむ身体をも引き受けていた」(p.172)のである。

そして身体は同時に、一つの「書物」のようなものでもあった。医者たちはガレノスの書を参考にしながら、死体を解剖し、そこに理論の正しさの証拠を「読み取る」必要があった。ガレノスの理論の「縛り」の強さのために、ガレノスの理論の間違いの証拠が発見されても、それを正しく解釈することができなかった経緯は有名だが、当時の医学は新しい発見をもまた、「ガレノスの理論」として主張していたことも忘れてはなるまい。医学的な発見は「ガレノスの仮面の下で」(p.168)行われてきたのである。

第三章の「身体の文明化」ではまず、料理の伝統がたどられている。ヨーロッパには二つの食生活のモデルがあった。麦の文明(麦-ワイン-油)と肉の文明である。麦の文明はローマの地中海的な伝統であり、肉の文明はゲルマンの伝統である。これは最初は文明と野蛮の対立として感受された。後にはわずかに変容して、「異教的で民衆的な飲み物であるビールと、もう一方のキリスト教的で貴族的なワインの対立」(p.201)という軸に移行する。どちらにしても腐敗しやすく、除菌されていない水は好まれなかったという。

それでも貴族たちとて、肉を食べなかったわけではないし、森の重要性が中世を通じて高まるのはよく知られていることだ。後には狩猟は貴族が独占するようになる。そして料理は本職の料理人が担当するようになり、家庭の女性は母親から学んだ味を伝えるにすぎない(p.208)。本物の料理とは、料理人が作るものだったであり、「お袋の味」は庶民的な料理、「ほんものでない」料理の代表だったわけだ。

第四章「メタファーとしての身体」では心臓の地位の向上が興味深い。一二世紀にすでに心臓信仰が発生し、聖ベルナールは「イエスの柔らかな心臓」を称える(p.242)。やがて十字架のイエスの傷跡は、最初の右脇腹から、心臓の場所へと移される。一七世紀には、心臓のメタファーが進化して、イエスの聖心崇拝にまで進展する。王の心臓を祭る「心の塚」(p.244)など、まだまだ研究が必要な分野は多い。この章では肝臓、手、目、頭、足など、さまざまな身体の器官のもつメタファーが簡潔ながら一覧されるので、便利だ。

もう少しそれぞれの記述を掘り下げてほしかったとは思うが、それはこの書物の役割ではないということだろう。巻末の中世における身体論の文献リストも役立つ。とくにこの本で感心したのは、写真である。本文の記述に関連した中世の美術の写真が、訳者の一人の池田健二の選択により、それも池田氏がみずから撮影した写真を中心に掲載されている。これまで撮り溜めてきた写真なのだろうが、これは原著にはなく、日本版だけにあるもので、議論が写真によって視覚化されることで、本文の記述が深みをそなえてきた。

【書誌情報】
■中世の身体
■J.ル=ゴフ[著]
■池田健二,菅沼潤訳
■藤原書店
■2006.6
■302p ; 20cm
■ISBN  4894345218
■定価 3200円


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