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2007年05月28日

『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』ジョージ・マイアソン(岩波書店)

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「ケータイ・モデル」

ケータイというのは奇妙な道具だとつくづくと思う。それは近さを遠さに変えてしまうものであり、遠さを近さに変えてしまうものだ。仕事の打ち合わせなどで相手がもぞもぞとケータイを取りだすと、気が殺がれていやなものだが、考えてみるとこれは近くにいるからといって、実際に「近い」わけではないことを相手に知らず知らずに知らせる手段ともなりうる。わたしはあなたと話をしていると、あなたは思っているかもしれないけど、実はあなたでない人と話し合っているのよと。

だから話している友人にケータイがかかってくると、とたんにその友人は「ここにいる人」ではなくなってしまうのだ。ケータイは人を遠い場所にさらってしまう。もちろん電話も同じ役割をはたしたのだが、受話器はでこにでもあるというものではなかったのだ。その質的な違いは大きい。

本書はハーバーマスの『コミュニケーション的行為の理論』とハイデガーの『存在と時間』を手掛かりにして、ケータイという道具でのコミュニケーションの性格を考察しようとするものだ。とくにハイデガーの『存在と時間』は遠さと近さの錯綜した関係を考察するものだけに、ケータイの哲学的な考察には最適な書物かもしれない。

最近の映画はこの近さと遠さの逆説をまざまざと教えてくれるものが多い。たとえば連続テレビドラマ『24』でも、ジャックはケータイに衛星放送から画像を送ってもらってテロリスト・グループの一人を追い詰める。現場にいては、現場の地図は認識できない。遠いところからでなければ、どの道をゆけばよいのか、そこに人がいるのかどうか、分からないのだ。遠いところが実はもっとも近いところだったりする。

『MI3』ではトム・クルーズは、現在地と目的地を本部に教えて、ケータイで指示をうけながら、中国の古都を疾走する。そこを右、そこを左と指示されながら、住民を突き飛ばしながら走り抜けるのである。現場にいること、近くにいることが実際に「近い」わけではないことは、無線を切ったために、タイタニック号の近くにいても、救助にかけつけることのできなかったカリフォルニア号が象徴的に示していることだろう。

ところでケータイは近さと遠さというハイデガー的なテーマだけでなく、ぼくたちの身体的な関係性というハーバーマス的なテーマにも、異様なひねりを加えた。話は少し古くなるが、イギリスには人身保護条例として、ハベアス・コルプスという条例がかなり昔からある。たとえば一八世紀にヴォルテールは突然当局に監禁されて釈放されず、一時は生命が危険にさらされたこともあった。フランスではこの時、ヴォルテールを救い出す手段がなかったのである。監禁する「当局」にはさまざまな部署があり、しかも釈放を要求しても、それは無視されるばかりだったからだ。

しかしイギリスであれば、友人や家族の一人が裁判所に訴えでればすむ。ハベアス・コルプス、身柄をもってこいというこの命令のもとでは、身柄を拘束としているという疑いのある当局は、裁判所にヴォルテールの身柄をもってこなければならない。そして裁判官はヴォルテールから事情を聞いて、不適切な身柄拘束であると判断すれば、ただちに釈放するのである。この条例は身体というものを通じて、官憲から個人の自由を守る大きな威力を発揮したのだった。

インターネットというのは、このハベアス・コルプスとは逆の意味で、自由をもたらすものだった。インターネットのメーリングリストなどで開かれる会議においては参加者はみずからの身体をもってくる必要はなく、匿名のままで、議論を展開することができる。そしてその地位や身分などはかかわりなく、議論の内容だけに注目して、その主張についての吟味することができる。

議論の場に身柄をもってくることを強制されると、たとえば議論の相手が上司だったりすると、もはや議論の透明性は失われるからだ。ハーバーマスのコミュニケーションの理論には、この議論における身体的で政治的な水準が無視されて、合意が強制されるという問題があった。

ところがケータイというのは、今度はもう一度ハベアス・コルプスの命令を逆転させる。人々は会議に身体をもってくる。会議に出席することは必要であり、ある種のアリバイだからだ。しかし誰もが会議においては別のことをしている。身体はアリバイとして背後で行われている「打ち合わせ」を覆い隠す役割を果たすのだ。

対話はもはやある合意に到達するための場ではなく、対話の相手にみえない合意を隠すためのアリバイになりかねない。著者はこのような会議はもはや例外ではなく、「これこそが、われわれみんなの生活、特にわれわれみんなの職場生活の原型なのである」(p.48)と強調するのである。職場に身体をもってくることで、覆い隠されているものは多いのかもしれない。

この書物はインターネットやケータイなどの最新のツールがもたらす新しい環境についてのごく手短な考察にすぎない。まだまだメディアに関連してぼくたちが考えるべき重要な論点はたくさんである。「ケータイのモデルで市民に呼び掛ける国家は、批判や新しい合意を受け入れられるようにしておこうとする国家とは、選挙のやりかたがすっかり異なるだろう」(p.71)という指摘は正しいのであり、新しい国家や社会のありかたについて考えるための切り口の一つにはなるだろう。

【書誌情報】
■ハイデガーとハバーマスと携帯電話
■ジョージ・マイアソン著
■武田ちあき訳
■岩波書店
■2004.2
■126p ; 18cm
■ISBN  4000270710
■定価  1500円


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2007年05月19日

『古代から中世へ』ピーター・ブラウン(山川出版社)

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「貧者の正義」

ピーター・ブラウンはダブリン出身の歴史家で、現在はプリンストン大学で歴史学を教えている人物だ。邦訳は定評のある『アウグスティヌス』と『古代末期』だが、ぼくは邦訳されていない『身体と社会』(一九八八年)が圧巻だと思う。もう何度読み返したかしれない本だ。

古代末期という概念を作りだしたのはブラウンであり、この時代についての『古代末期における社会と聖性』(一九八二年)『古代末期における権力と説得』(一九九二年)、『権威と聖性』(一九九五年)など、どれも深い示唆に富む好著である。本書は著作ではなく、一九九八年に訪日した際の講演を集めたものだ。

どれも多くのことを教えられる講演だが、とくに最初の「貧困とリーダーシップ」は興味深い。この講演でブラウンは、後期ローマ社会で、キリスト教の司教が貧困者にケア、それも経済的な配慮をすることが重視された理由を主に四つの観点から考察する。

第一にローマ帝国においてキリスト教が伝播していくのを認められるにあたって、キリスト教の教会は貧困者へのケアをある種の公的な義務として要求されるようになったことがあげられる(p.37)。教会は免税特権を与えられる代償として、この義務を果たすことを求められたのである。

ローマ帝国がパンとサーカスで首都ローマを維持していたのは有名だが、帝国の末端にいたるまで、このような貧者の扶養システムを構築できたわけではない。そこでこの任務を果たすことを求められたのが教会だったのである。官吏が「教会は地域社会のために何をしているか」と尋ねると、教会は貧者を扶養していると答えて、免税特権を確保しようとしたのである。教会は「貧者への愛」と隣人愛を説くが、その背景にはこのような経済的な理由が控えていたのだ。

第二の要因として「貧者の扶養」を説きながらも、教会が扶養していたのは極貧の人々というよりも、中間層の人々であったる。すでに貧困に陥った人々というよりも、それまで教会の信者の中心となっていた中間層の人々が死後残した寡婦と孤児こそが、この扶養の対象だったのであり(p.46)、それを扶養することは教会にとってはある種の義務だったのである。

第三の要因として、ローマ帝国においてキリスト教の教会が司法面でも権威をもってきたことが指摘される。コンスタンティヌス帝は、民事訴訟においても、司教に仲裁が求められた案件は、司教だけが決定する権利をもつことを認めたのだった。それはすべての争論をローマまで持ち込ませず、現地で解決させることで、キリスト教会に司法の下部組織としての役割を果たさせることを目的としていた(p.48)。

教会に仲裁を依頼できるのは信者だけである。そのために長期的な裁判のコストを節約するために、比較的豊かな階層の人々が、「進んで改宗した」(Ibid.)という。アウグスティヌスの書簡は、彼が小作人と地主の争いを調停するなど、現地の細かな事情を知り尽くした司牧者ならではの判決を下していたことを示している。

この教会の裁判は、もちろんローマ法に基づいて実行されるが、その背後には『聖書』の正義の観念が浸透していた。「貧者を愛する者」として司教が実行する裁判は、正義が貫かれることが期待されるようになったのである。この裁判に原告は、「貧者」として登場する。「貧者」の資格で原告になるのである。ここで貧者は経済的な範疇ではなく、司法の範疇となる。「貧者」とは「原告や請願者であり、乞食では」なかったのである(p.50)。「貧者」であることは、正義を求める姿勢を示すことであり、恥ずべきものではなくなった。

第四の要因は、西アジアの地域では、社会が貧者と権力者という垂直な構造で形成されていたことにある。神と信者は非対称の垂直な関係にある(p.58)。富者の前に立つ乞食の状態と、神の前の信徒の状態はぴったりと対応していたのである。このためにローマ帝国の伝統的な権力の「共生」関係が崩壊することになる。それまでの古典的なモデルでは、権力関係に含められていたのは、都市の同胞市民だけであり、部外者は対象外だったが、そのモデルが崩壊したのである。

だれもが貧者として、扶養を要求することができるようになる。家を訪れる貧者のだれもが、あるいはキリストかもしれないのである。神はキリストとして人間の苦しみを経験したのであり、キリスト教の教会は、すべての貧者に保護を与えるべきなのである。これは新しい「結束と連帯」を生むものだったのである。ブラウンはキリスト教の教会のシステムだけでなく、最後にキリスト論にまで触れながら、貧者の地位の根本的な変動の背景にあるものを分析してみせるのである。

第二論文は、帝国が終焉し、封建制が始まるとともに、帝国の中心と周縁という構造が崩壊したことを説明するものだが、それよりも「栄光につつまれた死」という三番目の講演がおもしろい。ヨーロッパでは七世紀頃に「人間とは彼もしくは彼女の罪の総和である」という確信が広がっていく(p.119)。告解して日々の罪を清めた者でなけば、栄光に包まれて天国に入ることができないと信じられるようになったのである。

四世紀頃までの告解は、自分の罪を公的な場で告白するエクソモロゲーシスという方式をとっていた。罪の内容そのものはそれほど重要ではない。自分が罪人だと認めることが重要であり、会衆という共同体から許されるまでは排除されるのだった。それにたいしてこの頃に登場したのは司祭への個人的な罪の告白であり、どのような罪を犯したかが決定的な意味をもつようになる。そしてわずかな罪でも告白することで、司牧者から赦しをうけ、自分の身を清めることが求められたのである。それでないと天国にゆけず、長い煉獄の苦しみをうけねばならないのだった。そしてこれは地位のいかんにかかわらず、財産の多寡にもかかわらない。どんな権力者でも富豪でも、罪を清めてからでないと、死ぬに死ねないのである。

人間はだれもが罪人であり、それを告白し、赦しをうけるシステムが必要と考えられるようになったのだった。ブラウンはこれは「人間性」について、人間の自己認識についての「一つの革命」(p.124)だったと指摘する。そこで「すべての経験を、歴史を、政治を、社会秩序を、個々の魂の純度や運命と同じく、罪と改悛という二つの普遍的な説明原理に決定的に還元する」(p.128)ことであり、「これが起きたとき、宇宙そのものが蒼ざめた」という。そこにはもはや古典古代の人間像は存在しない。古代末期の終焉である。短く、読みやすいが、考えさせられる一冊としてお勧めだ。

【書誌情報】
■古代から中世へ
■ピーター・ブラウン著
■後藤篤子編
■山川出版社
■2006.4
■141p ; 19cm
■構成
「古代末期」研究とピーター・ブラウン / 後藤篤子著
貧困とリーダーシップ
「中心と周縁」再考
栄光につつまれた死
■ISBN 4634475022
■定価 1500円


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