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2007年02月20日

『エコノミメーシス』ジャック・デリダ(未來社)

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「デリダの曲芸」

これはデリダが「ミメーシス」をテーマにした著作に寄稿した論文の翻訳だ。ほかの共著者たちとしては、サラ・コフマン、ラクー=ラバルト、ナンシーなどがいる。すでにミメーシスをめぐる著書もあるラクー=ラバルトのものなど、他の著者の論文も読んでみたかった。なぜデリダの論文一本だけで一冊の訳書にしたのかという疑問はあるとしても、デリダはこの書物で素晴らしい曲芸をみせる。

デリダがまだ写真を公表しなかった頃の挿絵に、デリダが逆立ちしているのがあったと記憶するが、この論文でデリダは空中ブランコさながらの飛び技をみせる。その飛び方の見事さにはただ感心するばかりであり、読者もぜひその芸を観賞していただきたいものだと思う。

まずデリダはカントの『判断力批判』を読解しながら、ミメーシスに関するカントの「全考察」が、「賃金に関する二つの指摘に挟まれる」形で展開されているという奇妙な状況に注目する(p.7)。それは偶然なのか。デリダはそう問うことで、読者に挑戦しながら、謎解きを始めるのである。

最初の場所では、芸術家の仕事について指摘される。報酬をうけとる芸術家の仕事と、自由な芸術家の仕事が比較される(四三節)。第二の場所では、芸術において「精神はみずからに従事」する必要があり、他のいかなる目的をも考慮してはならないし、あらゆる賃金から独立していなければならない」(五一節)ことが強調されるのである(p.8)。

まずカントは、動物と人間の対立という観点から、アートの創造力を訴える。蜜蜂や蜘蛛の巣は、たとえそれがどれほど美しいものだったとしても、アートではない。本能によって作られているからだ。そして人間が自然を模倣する(ミメーシス)ことにこそ、アートの根源がある。アリストテレスは「人間のみがミメーシスの能力をもつ」(p.12)と語ったが、アートはこのミメーシスの能力に依拠していることになる。

ところでアートはまた職人の作る作品とも異なる。職人の作品は報酬をうけとるために作られるものであり、エコノミーの秩序に属するものである。「エコノミー的な価値をもたないほうが、より多くの価値をもつ」(p.14)ことになる。職人が作るものは、蜜蜂が作る作品と同じように、有用性を重視し、理性や想像力の働きの欠如を示したものである。芸術家は戯れることができるが、職人は戯れない。

アートの作品と職人の作品の違いはまた別のところにもみられる。職人は作品に署名をすることがない。作品は創造者とは独立した形で有用性としての価値をもつ。しかしアート作品は、作者を必要とする。作者の署名が作品の外部にあり、しかもその作品の内的な価値を保証する。額縁に入った絵画が絵葉書と違ってアートの作品として認められるのは、この額縁と作者の署名があるからだ。

「美とはつねにアートであるだろう、その署名が作品=営為の境界に刻印されているようなアートであるだろう」(p.22)。このアートをアートたらしめる枠組みと境界をデリダはパレルゴンと呼ぶ(『絵画における真理』はこのパレルゴンのテーマを長々と扱った書物である)。「芸術はつねに〈枠〉および署名からなっている」(p.23)わけだ。

アートの作品に固有の第三の特徴は、それが美の快感をもたらすことによって、人々の間でコミュニケーションを引き起こすということになある。芸術作品を享受することができるのは、壺を花いれに使う人ではなく、それを美として観賞し、他者とその美について意見を交換し、共感のもとでみずからの芸術観賞能力を認め合うことのできる自由な人々である。「美しいアートを鍛練すること、また評価することにおいて、自由な主体同士のあいだでの交換」(p.31)が行なわれること、そしてそれを享受できることが必要なのである。「こうした交流は厳密な意味でのミメーシスである」(Ibid.)。そこで人々は他者の立場に立ち、他者と交流し、他者と同一化するからだ。

このミメーシスが芸術作品の経済(エコノミー)を確立するのであり、そこにエコノミメーシスが成立する。エコノミメーシスはミメーシスの秩序を形成する。この秩序の一番下の階梯にあるのは、言語をもたない動物の本能的な巣作りの労働である。次の段階は機械的なアート、その次が報酬をうけとるアート、その上がリベラルなアート、そして感性的で美的なアート、芸術のアート、ついに最後は全自然を創造する業を行った神にいたるのである(p.31-32)。

ここでアートは一つの循環を示している。動物の自然から神の自然へ。その意味ではアートは自然を目指すものである。「アートが美しいのは、それが産出する自然のように、産出的である限り」のことなのだ(p.34)。そしてそれが実現されるのは、自然の賜物としての才能をもった天才においてである。「天才自身は自然によって産み出され、与えられる」のである(p.35)。「天才は精神の生来の素質である」(四六節)のである。

そしてこの議論に、賃金についての第二の指摘が接続される。アートは「報酬を支払われる労働であってはならない」という五一節の指摘である。天才である詩人は、報酬をうけとらない。詩人の口から語るのは神であり、「神こそが彼を養う」(p.42)のである。詩人も生活しなければならないが、太陽=王からの贈物によって生活するのである。神も太陽も(フリードリヒ)大王も、詩人も天才も、「計算することなしに自らを与える」(p.44)という共通した特徴をそなえているのだ。ミメーシスはこの賃金をめぐる二つの考察のうちで、エコノミメーシスとしての存在論神学的な地位を確定されるのである。

こうして賃金をめぐる二つの指摘のあいだにミメーシスの議論が展開される空間が築かれたのは、決して偶然ではなかったことが明らかにされた。これでいわばデリダのこの論文の「宿題」は終わったのである。しかしここでデリダは別のブランコに跳躍する。それが四六ページ以降の「範例的口唇性」という概念の問題系である。カントは『判断力批判』において、人間の五感を比較しながら、見ること、聞くこと、触ること、味わうこと、嗅ぐことの比較を行なっているが、デリダは口唇においては、二つの機能が行使されることに注目する。語ることと味わうことである。

味わいは、他者に伝達することのできない私的な感覚であるが、語ることは他者への最高度の伝達の機能である。「味覚の場である口」と「同時にロゴスを発信し産出する口」(p.62)。詩人が語るときに使う器官は口であり、人間が嘔吐するに使う器官も口である(p.63)。味覚のようにもっとも主観的で感性的な機能と、語りという自由で客観的な機能を果たすのはどちらも口である。同じ器官であるこの口こそ、「アナロジー的空間を指揮するのだが、口そのものはそのアナロジー空間には含まれてしまうことにない」(p.81)のである。

その意味では口もまた一つのパレルゴンである。そして芸術作品として描かれることが決してないもの、それが口から吐き出される嘔吐物である。これは「特殊なパレルゴン的横溢」(p.83)を示すものなのだ。「吐き気を催させるもの」それはイデア化しえないものなのである(p.87)。それは人が決して「喪を行なうことのできないもの」(p.91)なのである。これはロゴス的な空間からも美的な空間からもつねに排除されるものなのだ。

しかしロゴスの体系はあるトリックによってこれを防ごうとする。「吐きだされるもの」という語が、言葉によって鎮痛し、慰めるのだ(p.97)。肛門的なものの代わりに、口唇的なものを置くのでこれを宥めるのである。さてぼくたちはいったいデリダのブランコにつきあって、いったいどこまで来てしまったのだろうか。デリダの最後の言葉は、「哲学の悪趣味(デグー)そのものにおいて」(p.98)である。


【書誌情報】
■エコノミメーシス
■ジャック・デリダ著
■湯浅博雄,小森謙一郎訳
■未來社
■2006.2
■156p ; 20cm
■ポイエーシス叢書 ; 54
■ISBN 4624932544
■定価 1800円


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2007年02月07日

『ウィニコット用語辞典』ジャン・エイブラム(誠信書房)

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「ウィニコット入門に最適」

「子供は一人ではいない」という有名な(ほとんど自明な)言葉から、幼児の二者関係を重視した精神分析を展開したウィニコットの重要な概念を、著書や論文から詳しく説明した「辞典」。辞典というよりも読むべき書物である。幼児教育の書物はいろいろと邦訳されているが、訳されていない論文も多く、彼の逆説的な思想を理解するのに、とても役立つ。

この書物を読んでいて感じるのは、人がまともに成長するのに、どれほど大きな障害が待ち構えているかということだ。自分がちゃんと育ってきたのが、不思議になる(笑)。たとえば母親が「良すぎる」と、幼児は母親から離れて成長することができなくなるのであり、その母親は「悪い母親」になってしまう。母親が幼児から離れることができないと、幼児も母親から離れることができない。「このようにして母親は、見かけ上は良い母親であることによって、幼児を去勢するよりも悪いことをしている」(p.47)。

これはクライン派の母親像に対する一つのアンチテーゼでもある。「良い母親」と「悪い母親」は、母親だけの問題ではなく、幼児と母親との相互的な関係において考える必要があるからだ。

母親にとっては幼児は「無慈悲」な存在である。幼児は母親を攻撃しながら、そのことを意識もしていない。幼児は母親に自分のすべてをささげるように求めながら、母親を軽蔑した素振りをすることもある。母親はそのような扱いをされながら、幼児を受け入れ、ときには幼児を拒む必要がある。この状態が繰り返されることで、幼児は自己の統合をみいだすことができる。「母親は良いものも悪いものも受け取れるが、何が良いものとして、そして何が悪いものとして差し出されたか分かっていることが求められる。これが最初の贈物である」(p.62)。うーん。

そして幼児は、自己の統合を確立すること、そして自分なり生き方をすることを、最初の道徳的な目標とするのである。「幼児にとっての不道徳性とは自分なりの生き方を犠牲にしてへつらうことである」(p.69)。幼児は母親に迎合することもあり、大人はそれを「成長と見誤る」(ibid.)のである。それは「偽りの、見せかけの自己であり、おそらく誰かの複写である。本当のあるいは本質的な自己と呼べるものは隠され、生き生きとした経験は奪われる」(p.181)。

それにもかかわらず、幼児は迎合することも学ばねばならない。「健康な生活では、本当の自己に迎合的な側面がある。それは幼児が迎合する能力であって、さらされる能力ではない。妥協する能力は一つの達成である」(Ibid.)からである。本当の自己と迎合的な自己の対立と抗争の複雑な関係は、青年期にまでつづくものだ。

こうして成長してきた人間は、自己の存在について確信することができる。幼児は母親との「一体である」と感じることができなければ、存在することの意味を納得できないという。自己という感覚が生じるためには、この一体の経験が実現されていなければならないという。「存在することという意味合いでこのように関係する基盤なくして、いかなる自己の感覚も生じない」(p.243)。どうです、ちゃんと自分が成長してきたのが、不思議に思えてくるでしょう(笑)。


あとラカンの鏡像関係論に相当する「まなざし」論もおもしろい。幼児は母親の顔を鏡のようにして自分をみることを学び、自分が身体をもつ一体的な存在であることを知るという。そして母親の顔の表情から、自分の要求を制御することを知るのである。母親は顔をしかめなければならない。そしてにっこりとほほ笑まなければならない。「もしも母親の顔が無反応ならば、鏡はまなざしを向けるもの(look at)となり、のぞきこむ(look into)ものではなくなってしまう」(p.323)。「ほどよい」母親であることもまた、難しいものだ。

舌圧子ゲームやスクイッグル・ゲームのような言葉がまったく説明なしに出てくるので、最初は戸惑うが、いずれも説明はついているし、フロイト以降の精神分析の重要な思想家の入門書として、お勧めだ。


■ウィニコット用語辞典
■ジャン・エイブラム著
■館直彦監訳
■誠信書房
■2006.10
■421p ; 22cm
■原タイトル: The language of Winnicott.
■ISBN 4414414229
■定価 5200円


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