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2007年01月13日

『フロイト 2』ピーター・ゲイ(みすず書房)

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「本格的なフロイトの伝記」

この原書が刊行されたのは一九八八年のことで、ぽくも原書はずいぶんと参考にさせてもらった。日本でもやっと読みやすい鈴木晶訳で刊行されたことを祝いたい。少し古くなってきたジョーンズのフロイト伝三巻(1953-57)につぐフロイトの詳細な伝記としてお勧めだ。

原書の後半部分に相当する本書では、一九一五年の第一次世界大戦が始まってから、フロイトの理論に大きな修正が加えられる時期以降を紹介していて、読み応えがある。フロイトはこの戦争をきっかけとして、戦時中のトラウマ的な経験を何度も反復する患者がいることに注目し、やがてそれが生の欲動(エロス)と死の欲動(タナトス)という新しい欲動のペアの構想にいたるのであり、本書はとくに興味深い時期を描いたものと言えるだろう。

現実原則と快感原則というそれまでの心理学的な対立のペアと比較すると。このエロスとタナトスのペアは、文化と文明がもたらす人間の抑圧的な要因に注目したものであり、そこからフロイトの晩年の悲観的な文明論が始まることになる。とくに本書では、ユング、ランク、フェレンツェという弟子たちとの理論的な対立に苦労しながら、みずからの理論を展開していくフロイトの思想的な苦闘と、弟子たちの人間的なやりとりを中心的に描いている。

とくに今回の再読にあたっては、こうした男性の弟子たちとの葛藤よりも、ルー・アンドレアス・ザロメ、アンナ・フロイト、ボナパルト妃という三人の女性との親しい関係についていろいろと考えさせられた。ルーはフロイトがとくに親しくした女友達であり、ルー宛ての書簡でフロイトはじつに細かな心の襞までうちあけている。

ニーチェやリルケからの求愛を拒んだルーは、フロイトの弟子として友人として、精神分析の世界を選んだのだった。彼女の死の知らせを聞いたフロイトは「彼女のことはとても好きでした。不思議なことに性的な魅力はいっさい感じませんでしたが」(p.711)と語る。精神分析の世界では否定するということは、それを裏側から肯定することなのだが。

娘のアンナ・フロイトは、「父が他界するまで、最も親密な盟友であり、ほとんど同等の同志」(p.512)だったが、父親にたいする感情的な結びつきはときに病的なまでになり、「自分の特権的地位を脅かしそうな人物に対しては、相手が兄姉だろうと、患者だろうと友人だろうと、激しく嫉妬した」(Ibid.)のだった。アンナはフロイトの死後も精神分析の理論的な展開をさらにつづけていくことになる。ほとんど性的なものに近い父親への愛着から、娘を生涯解き放たれることはなかったのだった。

マリー・ボナパルトは、「正真正銘のお姫様」で、ナポレオンの弟のリュシアンの曾孫であり、ギリシア国王コンスタンチノイ一世の弟のゲオルギオス公の夫人として、「莫大な富と最高の血縁に恵まれていた」(p.626)女性だった。この「高貴な」女性はフロイトの精神分析を受けてから、精神分析の擁護に積極的に働きかけ、フロイトの個人的な支援者ともなったのだった。

「エネルギーの塊」(Ibid.)のようなこの女性の後援を受けられたことはフロイトにとっても精神分析の世界にとっても大きな恩恵となったのである。アンナ・フロイトをゲシュタポから守ったのも彼女だった。逮捕にきたゲシュタポに、アンナを逮捕するならわたしも逮捕してみよと挑戦したのであり(p.723)、彼女は「ゲシュタポですら怯む」(p.719)女性だったのである。

この書物の最後の文献解題は、実に60ページにも及ぶものであり、フロイトに関する二次文献の詳細な考察である。文献リストには訳者による邦訳の指示もあり、親切だ。この目配りの行き届いた文献解題と文献リストだけでも、この書物は購入する価値があるのではと思うほどだ。たんに文献案内だけではなく、文献のうちで提起されたフロイトの生涯についての疑問の謎解きも行なわれている。訳者も指摘するように、次のような問題が考察され、著者なりの暫定的な結論が示されているのである。

一)フロイトと義妹のミンナ・ベルナイスには肉体的な関係はあったか?
二)フロイトの弟子のマックス・アイティンゴンがソ連のスパイだったという噂は真実か?
三)『ウッドロー・ウィルソン』はほんとうにフロイトとブリットの共著なのか?
四)ユングがフロイトを救出するための使者を派遣したが、「敵の恩義は受けぬ」とフロイトかこれを断ったというのは事実か?

どれもほぼ納得のできる回答が示されているので、読者もぜひ謎解きを楽しまれたい。伝記としての性格のためにフロイトの思想的な展開についての説明が少し弱くなっているが、それはあまりに望み過ぎというものだろう。著者のゲイはほかにもフロイト関連の書物を刊行しており、『神なきユダヤ人 フロイト・無神論・精神分析の誕生』『フロイトを読む』『歴史学と精神分析 フロイトの方法的有効性』などが邦訳されている。

【書誌情報】
■フロイト 2
■ピーター・ゲイ[著]
■鈴木晶訳
■みすず書房
■2004.8
■p421-839,86,15p ; 22cm
■ISBN 4622031892
■定価 7600円


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